松平輝綱は、父である信綱の名代としての仕事や川越藩の藩政に携わるかたわら、各地の温泉を巡ることが多くなっていた。表向きの理由としては、できものなど体調不良に対する療養である。だが、真の目的は、将軍不調の際に活用できるよう、各地の温泉の効能を確認、情報を整備することであった。当然、信綱の発案である。信綱は自らの怪我療養の経験から温浴の効果を実感し、これを思いついたのだ。だが、表沙汰となれば、将軍を害そうと悪事に使われる可能性が生じる。そのため、信頼できる息子に託したのである。
このように父との関わりが密になってきたことから、輝綱は居宅を上屋敷に戻していた。
そんな輝綱を訪ねる者があった。今は亡き正室の父、板倉重宗である。正室の八江が亡くなって、もう九年が経つ。重宗が京都所司代であり、遠く隔たっていることもあって、こうして顔を合わせることもほとんどなかった。この年、承応三年(1654)に三五年務めてきた所司代を辞したが、後任を補佐するためにまだ京を離れていない。それでも、身軽となったことで江戸に来られたのだという。
無沙汰を詫び、互いの近況などを話す中、しばらくは気づかなかったが、重宗の後ろに隠れるようにして一人の娘が控えている。輝綱はその娘を見ると、息が止まった。八江が輝綱のもとに嫁いできた時の姿と瓜二つだったのだ。輝綱の耳に、八江の声が蘇った。自分の後は妹に任せる、確かそう言っていた。
それとなく確認したところ、重宗はそのための顔合わせだということを認めた。
輝綱にしてみれば寝耳に水である。父からは何も聞いていなかった。もっとも、あらかじめ聞いていれば、即断っていたことだろう。それが分かっているから、信綱は黙っていたのである。
それにしても、よくこの縁談を認めたものだ。輝綱は、信綱が了解したことを不思議に思った。姉の死後、実の妹が継室となること自体は多くはないものの、ないことではない。だが、年齢が離れすぎている。目の前にいる娘は多く見ても十五ほど。輝綱は三五だ。そもそもこの縁談が八江の死後九年も経って出てきたのも、娘の歳が若すぎたからだろう。
板倉重宗にしてみても、そうだ。この話自体は生前の八江から懇願されたものだろうが、よく承知したものだと思う。重宗は五九歳。歳をとってからの子ならばなおさら可愛いだろう。年齢の釣り合った相手など、いくらでも探せるはずだ。それに、確か、重宗自身が似たような訴訟を担当したのではなかったか。このような話である。
十五歳の娘の婿を探していた者がのが、とある男を紹介された。家柄も申し分ない。縁談はまとまり、正式に婚約されたが、その後になって相手の男の年齢が三五歳だということが分かった。娘の母がこれに激怒し、婚約を解消すると言い出したが、すでに媒酌人を立てての正式な婚約をした後であるから男の方でも後には引けない。
結局訴え出ることとなり、これを担当したのが重宗だった。
母は年齢を偽った詐欺だといい、男の方は自分は年齢のことは一切話しておらず自分こそが被害者だという。
重宗は男に対し、このようにもめても娘を嫁に迎えたいという気持ちに変わりがないかを確かめた後、娘の母にどのぐらいの差であれば許せるかを問うた。母は、「娘の倍であればまだ納得も行くが、二十も違うのは話しが別」と答えたので、婚礼は5年後にせよと采配したという。五年後には男は四十、娘は二十となり倍になるからである。
役目であるから結婚を認めさせたが、重宗としてもこの母の気持ちはよく分かるはずだ。にも拘らず、今回の婚姻を許したということは、娘の気持ちがそれだけ固いということだろう。
輝綱の心は重くなった。娘がそれほどに思い詰めているのは、自分への想いによるものでなく、姉の遺志を継ぐことにあることは明らかだ。
「名は何と」
「伊都と申します。これよりは私を姉と思って、何なりとお申し付けください」
輝綱は内心嘆息した。やはり、自分を捨てて、八江の代わりに徹するつもりだ。これで、輝綱が断れば、自害しかねない。信綱もそれを察したから、なおさらに黙っていたのだろう。輝綱にしてみれば「お前の問題だからお前が何とかしろ」と突き放された気持ちすらする。
取り立てて話すことも見つけられない輝綱に業を煮やしたのか、伊都が口を開いた。
「お願いがございます。姉にご挨拶をさせていただきとうございます」
姉とは当然八江のことだろう。ということは位牌と対面したいということか。輝綱は、重宗と伊都を仏間に案内した。
位牌と対面した伊都は、目を閉じ、静かに手を合わせた。そのままじっと動かない。その姿が八江と重なる。八江も、よく輝綱の母の位牌に手を合わせ祈りを捧げていた。
「毎月の命日には読経を欠かさないとのこと、お聞きいたしました。ありがとうございます」
伊都が振り向いたことで、輝綱は現(うつつ)に戻された。ここにいるのは八江ではない。自分自身ではなく、姉の代わりとして生きていこうとしているこの娘を、己は幸せにできるのか。輝綱は自問したが、答えは一向に見えてこない。ただ、すでに離れがたい存在と感じ始めていることは自覚できた。たが、それに対して、それは伊都としてかと問われれば、自信をもってそうだと答えることはできない輝綱であった。
明暦二年(1656)三月十九日、酒井讃岐守忠勝が大老を辞した。その二年前には、家綱付きの老中から正規の老中に取り立てられていた松平乗寿が五五歳で亡くなっている。家光に殉ずる形で阿部重次らが去ったことで幕閣の人員不足が深刻となっていた中、期待されていた人物であった。
承応二年(1653)閏(うるう)六月五日に家康、秀忠、家光に仕えた重鎮酒井忠世の孫にあたる酒井雅樂頭忠清が老中に就任したとはいえ、未だ一人で任せられるには至っておらず、信綱の肩にかかる重荷はますます増えていった。
そのような過労が祟ったのか、明暦三年(1657)正月三日、信綱は病を得、登城できなくなった。しばらく療養し、やっと登城できたのは十二日。とは言え、万全の体調ではない。そのような中、正月十八日が来る。
前年十月の末から一滴の雨もなく、八十日ほどの間、異常な乾燥が続いていた。このような状況の中、元日夜には四谷竹町、二日朝には半蔵門外、五日夜には中間町、九日夜中には麹町で火事が相次いだ。
正月十七日北西の風が吹き始め、十八日未明からは激しさが増していった。砂塵は空を覆い、夜が明けても夜のように暗い。家々は戸を閉ざしたまま、人々も家に籠っていたが、風は家々を揺さぶり続けた。
未の上刻(午後二時ごろ)、老中阿部豊後守忠秋の屋敷から火の手が上がった。戸を閉めたてていたため薄暗く、手燭を持って移動していた女中が転倒し、障子に燃え移ったのである。
火は強い風に乗り、隣接する本妙寺が燃えた。出火からほとんど一瞬のことである。この時、本妙寺では法要が執り行われており、火事に気付いた時には避難誘導するだけで手いっぱいの状態だった。
本妙寺の塔頭十二院を焼き尽くした火は火の粉を盛んに上げ、本郷一丁目(現本郷二丁目)付近に火の手が上がる。火は湯島から駿河台、本郷六丁目方面へと広がっていく。
湯島方面の火は湯島天神、神田明神、東本願寺などを焼き、南に転じて駿河台の大名家屋敷を次々に焼き払っていく。さらに鎌倉岸(現千代田区内神田南部)へと火の手が伸びていった。
火の粉はさらに周辺を襲い、松村町(現中央区東日本橋)、材木町(現千代田区神田岩本町)付近へと広がり、柳原(現万世橋から浅草橋までの神田川南岸)から泉橋までを焼き尽くしていった。
駿河台の火は二手に分かれ、一方は誓願寺から迂回し、もう一方は須田町から鍛冶町(現千代田区神田鍛冶町)、白銀町(現中央区日本橋)と南下していった。
夕刻、俄かに風が西へと変わった。鎌倉河岸の火は神田橋には移らず鞘町(現中央区日本橋本石町)へと飛び火し、東に火の手を伸ばす。伊勢町(現中央区日本橋本町)から川を越え、茅場町(現中央区日本橋茅場町)、さらには八丁堀へと延焼していった。
霊巌寺には多くの人々が逃げ込んでいたが、火が襲い、一万人近くが犠牲となっている。
霊巌寺を襲った火は、強風を避けて停泊していた舟をも焼き、さらに佃島(現中央区佃一丁目)や石川島(現中央区佃島二丁目)にまで達している。
隅田川を越え向島八幡宮を焼いた火は吉原(現中央区日本橋人形町)、境町(現中央区日本橋人形町)、堀江町(現中央区日本橋小舟町)へと広がっている。
小伝馬町にも火が迫っていた。牢獄を担当する奉行の石出帯刀吉深は、囚人たちを呼んだ。
「火はこの牢にも向かっている。ここにおっても焼け死ぬだけだ。よってこれより一時的に解き放つ。火事から逃れ、命あれば必ず戻って来よ」
囚人たちは、帯刀に何度も頭を下げながら去っていった。
囚人解き放ちと同じころ、火に追われた群衆が浅草に向けて殺到していた。大きな荷物を持って逃げる者、これを追い越そうと無理やり押しのける者、荷物を諦め道に置き去りにする者など混乱する中、小伝馬町の解き放ちの情報がうまく伝わらず、脱獄との噂が飛び交った。この噂を聞いた役人が浅草橋を封鎖したために、多くの者が逃げ場を失った。ここだけで約二万三千人が命を失った。
火の粉は川を越え、牛島新田(現墨田区)の農家も飲み込み、日を越して丑の上刻(午前二時ごろ)、風の勢いも弱まってきたことで鎮火した。江戸城をかすめ、実に江戸の町の東部、北から南にかけてのことごとくが灰燼に帰したのである。
火元である阿部忠秋は、出火により本妙寺が類焼したことを知ると、急いで信綱邸に向かった。
「本妙寺のあたりで火事が起こったのだな。分かった。登城するからついて来てくれ」
信綱は出火を知ると、詳しく説明しようとする忠秋を制し、登城の準備を始めた。この時、信綱には火元を隠す気はさらさらなかった。そんなことよりも事態への対応の方にすべての意識が向いていたのだ。だが、登城し、家綱に「本妙寺あたりで出火」と説明したことで、本妙寺が火元であるという噂が広まる結果となった。
後年、この大火は振袖火事として知られるようになる。そこで語られる乙女の念が籠った振袖の話しは、当日本妙寺で法要が執り行われていたことから作られたものである。ただ、尋常でない被害に、怪異が原因であるとした方が皆に納得されたのだろう。
登城した信綱は、さっそく大名火消しだけではなく他の大名にも消火に当たらせるため、家綱に奉書を要望し、これをもって対応を命じた。さらに町奉行に対し、町人らが構成する町火消しへの支援を命じている。
そして、家綱を伴って櫓から火事の様子を確認した。これは家綱の希望であった。未だ童形のとれない家綱であったが、火そのものが風となり、次々に町が火に包まれていく様子を呑まれるがごとく見つめ続けた。かすかに身体が震えている。
「伊豆。これは戦か」
「左様、火との戦にございます。公方様が将として勝ちにお導き下されませ。微力ながら、この伊豆、身命に変えましてお仕えいたしまする」
家綱は、信綱の声が耳に入っているのか、目はいつまでも燃える町に注がれていた。
辰の上刻(午前八時ごろ)、再び北の風が強まる。この風に眠っていた火種が勢いづき、巳の上刻(午前十時ごろ)に小石川伝通院下新鷹匠町(現文京区小石川五丁目付近)の大番衆与力宿舎から火の手が上がった。風にあおられ、近くの水戸藩屋敷を焼いた火は、飯田町(現千代田区)、市谷(現新宿区)、番町(現千代田区)へと広がっていった。
前日から城に残っていた信綱は、臨時の対策本部にあたる会議を開いた。場所は城外である。すぐに動き出せるようにとの配慮だった。招集は幕閣のみならず、在府の大名も含まれている。非常時に誰もが急いでやって来たが、会場が狭いために席次は設けず、到着した順に奥へと詰めることとした。
これに反応したのが、やや遅れてやってきた酒井忠勝である。忠勝は大老を辞していたが、信綱が出席を乞うたのだ。
「なんじゃ、大老を辞すともう下座に置くのか」
今にも帰らんといった様子に声をかけたのは信綱だった。
「これはこれは讃岐守殿。わざわざのお越しありがとうございまする。何分手狭にて席次を設けられず、ご不快とは存じますが、我らに讃岐守殿を蔑ろにする気持ちなど毛頭ござりませぬ。讃岐守殿が居りますところが上座と心得ておりますれば、どうぞお座りくだされ」
忠勝にしても火急の時と承知している。いつまでも時をつぶしてなどいられないが、つい嫌味を口にせずにはいられなかった。
「さすがは知恵伊豆じゃな。このような場合でも、落ち着いてうまいことを言いよる。まさに泉のように知恵が湧いてくるといった様よ。どうじゃ、この際伊豆守ではなく和泉守に変えてみては。その方が似合いじゃろう」
全く子供じみた言いがかりだ。無視したところで問題もない。ただ、このままでは皆が委縮して会議が滞る。
「この伊豆は、名の通り伊豆石として皆様が柱として支える幕府の沓石(くついし)になりたいと、常々願っておりますれば、このまま伊豆守でいさせていただきたく、お願い申し上げまする」
信綱は、忠勝に平然と頭を下げた。
「もうよい。早う話を進めよ」
これで一同の雰囲気は和んだ。
まず問題となったのは、家綱の居場所である。火はこうしている今も、城へと迫っている。忠勝は以前にも将軍を自邸に避難させたこともあることから、今回も自邸で守ると主張した。これに反応し、我が邸こそと主張したのが井伊直孝だった。将軍を火事のみならず混乱に乗じて害そうとする者から守ることで忠義の示し時と考えるのは、従来の忠臣である者たちにとっては当然の反応だろう。
一方、信綱は上野の山に陣取り、家綱に采配を振るってほしいと考えていた。これを戦ととらえ、家綱が将軍として相応しいことを世に喧伝する好機と考えたのだ。
これら家綱を城外に移すという案に反対したのが、阿部忠秋だった。当初混乱していた忠秋だったが、非常時への対応に追われる中で冷静さを取り戻していた。
「東照宮が統御なされて以来、すでに国統は四代に及びます。まさしく天下の主。されば軽々しく城外へ御動座あるべきに非ずと存じます。たとえ御所がすべて焼けたとしても、西の丸の庭は広大。何の不安がありましょうか。
万一、非常の変に臨み、身分不相応の望みにて挙動する者ありといえども、大名、御家人に仰せられれば、誅戮(ちゅうりく)するも難しいことではございません」
「豊後守の申しようもっともと存じます。城は広い。西の丸にも火が回れば、その頃には本丸の火は落ち着いておりましょう。空き地に陣屋を設ければよいだけのこと。由比らの残党らを心配する声も聞こえてきますが、府内はどこも混乱しておりまする。そのようなところに出向くは、賊徒の望むところ。山は動いてはなりませぬ」
保科正之が忠秋に同意した。
ここで長々と話し合っている時間はない。提案を家綱に上申し、家綱の意向も踏まえて決めることとなり、酒井忠清を家綱のもとに急がせた。
次に、火への対応を確認し、閉会とした。
「不安の数々、未だ晴れぬこととは承知なれど、こうしている間(ま)にも町を飲み込み、城に向かっております。今は各々決められたことに尽力いただき、些事についてはこの伊豆が片付けますればご安心くだされ」
信綱はこう会を締めくくった。この時の幕府は合議制によって事を進めていた。これは信綱が最も大切にし、推進してきたものである。だが、この非常時においては合議制を維持していたのでは時間がかかりすぎる。そこで信綱は一切の責任を自分が背負い、独断での采配を決意したのだった。
酒井忠清からの上申を受けた家綱は、忠秋、正之の意見をとって西の丸に移ることとなった。これに伴い城中の者たちにも、西の丸への避難が命じられた。
信綱は、対策会議の後、急いで城中に戻った。すでに火が城に迫っていたからだ。信綱は西の丸への避難を直接指揮している。
昼時、火はいよいよ本丸に移った。
「まだ逃げられておらぬ者はおるか」
城中のことをよく知るお城坊主を七名伴って見回っていた信綱が確認する。
「大奥の方々がまだかもしれませぬ。西の丸への道も知らぬはずかと」
「では参る」
江戸城本丸は廊下もすべて畳敷きである。道筋にあたる畳を同伴したお城坊主たちに裏返させながら、大奥へと急ぐ。
「方々早く参るべし。道具は捨て置くこと。後日、相渡す。道案内として畳を裏返しておるゆえ、これを印にいでよ。さあ」
西の丸に移った家綱は、誰が本丸に残って避難誘導をしているのかと共の者に確認した。伊豆守であるとの答えに「ならば焼け死ぬ者もおるまい。安心した」と家綱は安どしたが、事実信綱の機転によって大奥に詰めていた者たちは全員が助かっている。
大奥から全員が避難したことを確認した信綱は、富士見櫓へと向かった。家綱はかねてより、富士見櫓に蔵してある諸道具は日本の宝であるため、有事の際は救い出す算段をしておいてくれと言っていた。
諸道具を運ぶ際のこと。
「これらのお道具類を西の丸に運ぶにあたって、宰領を決め、誰が何を運んだのかを帳簿として明らかにしたほうがよろしゅうございましょう」
こう提言する者がいた。大切な品である。万が一持ち出したものがそのまま着服しないよう用心するのは当然であった。
「その儀には及ぶまい。何者なりとも運ばせよ。時間をおいては火にまかれる者も出る。日本の宝なれば、日本にありさえすればよい」
信綱に促され、運び出された道具類は、後に調べたところ、一つの紛失も認められなかった。
本丸を焼いた火は天守にも移り、現在の尺度で高さ60mの高層建築は火の柱となった。さらに、二の丸、三の丸も延焼していった。
火は、八重洲河岸(現千代田区丸の内)から中橋(現中央区八重洲通り)方面に進み、橋を焼き落とした。
人々は火に追われ、どちらに進んでいるのかさえ分からぬままに逃げ惑った。目の前に突然吹き上がった火に包まれる者、熱風に気道を焼かれ窒息する者など多くの者たちの命が失われていく。逃げ場を失った者や熱さにたまりかねた者たちは、川や堀に飛び込んだが、正月の水は冷たく、心臓マヒを起こす者が多発している。さらに、火が川面を滑るように伸びてくるために、それを避け、水に潜るが息が続かず、顔を出したところを火にあぶられた者、水の冷たさに体が動かなくなり、おぼれ死ぬ者も多かった。
火はさらに獲物を求め、新橋(現千代田区と港区の境)、木挽町(現中央区銀座)、水谷町(現中央区昭和通り)から海岸に達している。
申の上刻(午後四時ころ)、風が北から西へと方向を変えた。このころ、麹町五丁目(現千代田区麹町三、四丁目)の町屋から出火。火は瞬く間に燃え広まり、多くの大名屋敷を焼き、西の丸下(現千代田区皇居外苑)の屋敷群を焼いた。
火は夜になって海岸へと抜け、増上寺に延焼したのは日をまたぎ丑の上刻(午前二時ころ)だった。この時、やっと風の勢いがおさまり、本堂などは焼失を逃れている。
江戸の町を飲み込んだ大火が静まったのは一月二十日、辰の上刻(午前八時ごろ)であった。
死者数は川や海に飛び込み流された者も多く、正確なところは分からない。事実、後に漂着した死体もあったという。資料にみられる死者数は、万治四年(1661)に刊行された仮名草子のむさしあぶみや本所回向院記、山鹿素行年譜などには十万余、元延実録などには六万八千余、上杉年譜や天享吾妻鑑、明暦三丁酉日記などには三万七千余と記されている。
鎮火した後、老中と保科正之が集まり、手分けして状況確認にあたることにした。その際、酒井忠清から次のような進言があった。
「此度の大火事はただ事に非ず。普通の火事とばかり思し召すは各々方(おのおのがた)の油断と申せましょう。急ぎ箱根、碓氷、小仏の峠へ人数を差し向けるべきでござる」
由比正雪らの残党による放火との噂はますます広まり、不安が募っていたのは確かだった。
「これまでも火事は何度も起こり申した。それ故、火の用心は第一と心得ねばならぬ。されど、火事の都度、今の仰せとは異なり、他に別条はござらぬ」
忠清は信綱の返答に噛みついた。
「なればこそ、此度の火事については、これまでとは違うと申したではございませんか」
「不貞の輩による火付けであるとしたならば、すでに府内におるはず。助人が来るにしても、今の府内で潜むところもなし。それよりも、焼け出された者に食と住を与えることの方が大事。食と住がなく、生きるが難しくなれば、善良なる者も逆徒となる。救済のために府内に人数がおれば、仮令(たとい)不逞の輩がおろうとも何ら心配はなし」
これに保科正之、阿部忠秋が同意したことで大勢が決した。
「ただし、雅樂頭の申し出、全国の者ども同様に思っておるところであろう。全国に触れを出し、火事場泥棒に関しても監視させよう」
幕府は次のような触れを全国に出した。
府内に二日の間大火あり、城焼けたりといえども、御上にはいよいよ安らかにわたらせ給う。
かようなことは幾度もおこるものなれば、いささかも気遣い致さず、当作油断なく仕り候よう。
当作とは、今年の農作業といった意味であり、通常通りに働くことを求めているのである。
触れを届けるだけではなく、飛脚に道中各所で同様の内容を告げさせたのは信綱の知恵だった。由比正雪の残党の件でもそうだが、こうした場合デマが広まりやすく、影響力も強い。早急に公式情報を流すことで状況を安定化させようと考えたのだった。
急ぎ確認した状況をもとに炊き出しや家を失った者のお救い小屋などの数と場所が決められ、実施されていった。復興策の責任者は保科正之。粥の炊き出しは増上寺など府内六か所とし、日本橋から南は内藤忠興と石川憲之、日本橋から北は六郷政晴と松浦鎮信に担当させることとなった。炊き出しに使用される米は一日につき千俵。これには焼けた米蔵に収められていた焼米も含まれている。
炊き出しは、まず正月二九日までの九日間実施されることとなったが、二九日になっても飢えに苦しむ者が多くいたため、二月二日まで延長し、その後は隔日として二月十二日まで続いた。
大火の翌日、二一日には米の高騰を抑えるため、金一両につき米七斗と米価を定めている。すでに金一両で二斗と高騰が始まっていたからだ。
この日には、小伝馬町の牢獄から解き放たれた罪人たちが、一人の欠けもなく戻っている。奉行の石出帯刀は涙を流して喜び、幕府に罰の軽減を申し出ている。
このように復興、救済が忙しく始められた中、幕閣を訪ねた者がいた。水戸藩世子である徳川光圀だった。光圀と対面したのは信綱であるが、これは予め幕閣に用のある者はすべて信綱に取り次ぐと申し渡していたためだった。
「御三家は幕府の守り。しかし、尾張名古屋、紀伊和歌山は遠方。火急の際であろうと幕府を助けることはできぬ。幸い当藩は近国なり。密かに国元から人数を召し寄せるゆえ、不測のことあらばこの者どもをお使いいただきたい」
光圀の申し出は、まったくの善意であり、それを口にする姿は、いいことを思いついた子供のような様子だった。しかし、信綱はこれを一蹴した。
「一向に合点がいきませぬな。此度の火事は天災。このようなことはこれからも度々起こりましょう。されど、天下に気遣わしいことは一つもなし。しかも、市場はすべて品薄。物の値も高値となっておりまする。それ故、今は江戸の人を減らすことこそ肝要。もし、水戸藩が密かに人数を呼び寄せれば、近隣の宇都宮、古河、岩槻、忍、笠間、土浦、小田原などの諸藩もこれに気づき、さていかなる子細かと怪しみながらも人数を差し向けましょう。これにより困るは江戸の民。今は江戸に人数を呼ぶに非ず、国許に返すべき時と心得られよ」
光圀は帰ったが、同様に江戸に人手をよこそうと考える者も多い。信綱は、幕府命として規制することとした。
正月二二日、在国の諸大名に対し二八日まで江戸への出府を禁じ、すでに江戸のいる十四の大名に対しては近日中に帰国するよう命じたのがそれである。
これに反応したのが、由比小雪の一件以来帰国を許されていない和歌山藩主徳川頼宜だった。
「さて、いかなる所存にて在府の諸大名残らずお暇を賜りしか。大名なれば本来、たとえ在所におられても、このような節こそ江戸に急ぎ召し寄せなければならぬところ。合点のいかぬばかりか、何の相談もないとは。如何なものであるか、聞かせえてもらおう」
頼宜は初めから掴みかからんばかりの喧嘩腰である。これに対し信綱はあくまで冷静であった。
「何ら相談も致しませなんだこと、誠に申し訳ござりませぬ。このようなことを方々と協議いたしますれば、何かと長談義に日を費やし、無益でございますゆえ、この伊豆の一存にて計らった次第。後日お咎めあればいかようにも、この伊豆を罰してくだされ」
「覚悟のほどは分かった。仔細を申せ」
では、と信綱は崩れてもいない居住まいを正した。
「人を府内から下げたことについてでございますが、此度の大火災にて大名の屋敷も焼け、居所とてない有様。されど、品川、板橋より先は家々に被害なし。なれば、府内より出で、居場所を確保することこそが大事にござります。
また、府内の米蔵は焼け、府内に大人数がおれば食物にも事欠くこととなりましょう。飢えにて死ぬ者も多くなりまする。江戸の人を減らすことは民を救うこと。
万が一、この機に乗じて逆意の徒ありといえども、江戸から遠ざけておれば、国許で立つよりほかなし。今、江戸にて騒動が起きるは困りまするが、他所であれば対処のしようもありましょう。その際には、場所によりては、和歌山藩にもご活躍お願いいたすかもしれませぬ。国許へご連絡いただき、よろしくご準備くだされ」
頼宜は思い込みと自己顕示が激しいきらいはあるが、もともと忠義の人であり、呑み込みも早い。城から下がると幕府に提供する米を用意させた。信綱は受け取った千俵の米を正月二四日に金一両につき八斗の安値で売り出した。幕府が設定した米価よりも一斗も多く買えるとあって町民たちは殺到した。
これに対し、困窮している者から金をとるのかと非難する者もあったが、米価を安定化させるためには売ることが必要だったのだ。無料で支給すれば、その時は喜ばれるだろう。しかし、提供が終われば、もう米が尽きたのだという印象が強くなる。こうなれば無理してでも手元に置きたいと、高値であっても買うようになる。一方、安値で売った場合、その時の値段が一つの基準として定着する。商人としてもあまり高額にしにくくなり、町民たちも落ち着いて買うか買わないかを決められるようになるのだ。
また、これと同じ二四日、旗本、御家人に対して時価の倍額分の給米を支給した。給米とは、給与としての米だが、この時は金銭で支給されている。これにより、旗本、御家人たちが多くの米を購入し、商人たちはそれをあてにしてさらに大量の米を江戸に流した。こうして米については、安定した供給が確保されていったのだった。
この日幕府は、材木相場に対しても手を打っている。信綱は自らの手の者を使い、「江戸城再建は三年延期する」「江戸復興のための材木は天領から賄う」「大名屋敷再建の優先順位を下げる」などといった噂をさを流させた。材木商の出鼻をくじいたのである。
これに信憑性を持たせるため、保科正之が旗本、御家人らを指揮して、保存材のみで町民たちの住居づくりを急がせる。
さらに、将軍家綱が「此度本城が焼失したからには、日ならずして再建せねばならない。しかし、府民の家もほぼ全焼した。そのため本年の内の再建は延期とする」との宣明を出している。
これにより材木の値が急落し、復興のための資材が手に入りやすくなった。
日暮れ後、町民たちの住居づくりを指揮するために、府内を回っていた保科正之が江戸城に戻った。正之によると府内いたるところに焼死体が山積みにされており、堀も多数の死骸で埋まっているという。そのため、明日から死体回収を行い、合同で埋葬することに決め、場所の選定に入ることとなった。
正月二六日、大寒波が襲い、江戸に大雪が降った。未だ住居がなく、野宿する者も多かったため、凍死者が相次いでいる。お救い小屋への収容や仮小屋の建築を急ぐ傍ら、効率的で、長期展望に立った都市開発を短期に済ませる必要が高まり、二七日から大目付の北条正房、新番頭の渡辺綱貞に正確な江戸府内及びその周辺の実測と地図作りが命じられた。ここで使われた技術はオランダから学んだもので、これまでの絵画的なものとは違い、非常に正確な尺度で作られている。
正月二九日、集められた死体のうち、引き取り手のないものを本所牛島新田に埋葬。合同の法事が執り行われた。この法事のために設けられた御堂がもととなり、後に回向院となる。
北条正房、渡辺綱貞によって作成された地図を基に都市計画が検討されていった。大きな方針としては次の通りである。
- 江戸城内にあった御三家の屋敷、龍ノ口内、竹橋内、常盤橋内、代官町及び雉子橋内にあった大名屋敷は城外に移転し、跡地は火避け地ともなるよう建物を設けないで使用する
- 寺社を江戸の周辺地である三田、芝、赤坂、牛込、四谷、浅草、谷中、下谷中などに転出する
- 寺社の転出に伴い門前町も新造地に移転する
- 吉原は浅草田んぼに移転する
- 重要な橋は避難が容易となるよう幅を広くするとともに橋の両たもとその付近は建築を禁止する
- 道幅を拡大するとともに、表店の長大な庇(ひさし)を禁止する
- 火避け地となる空き地や火避け土手などを設ける
- 住民増に合わせ、江戸の範囲を拡大する
この移転では寺社と門前町は離されたところが多く、水道橋にあった吉祥寺は駒込へと移転したが、門前町の住民は五日市街道沿いに移住され吉祥寺村となったのはその代表例である。
この方針の中で吉原移転だけは以前から話があったものだが、その他は新しく計画されたものである。当然不安は募る。少しでも不安を軽減させるべく、移転先を明確にする、同一地域の者をまとめて移転させるなど工夫し、信綱自身も説明のために出回った。
江戸城の再建も進めなければならない。
まず、石垣から始め、本丸、大奥にかかることとした。本丸石垣工事が始まったのは五月九日。年末には終了し。二年後、万治二年(1658)正月十一日、久世大和守広之を惣奉行として本丸工事が着工された。本丸が完成し、家綱が移ったのはその年の九月五日であった。この時、表と大奥を繋ぐ橋が二本に増えたのは、万が一の場合に避難が容易になるようにとの意図からである。
この本丸普請に関連して問題となったのは、天守の再建であった。当初天守も再建されるのが当然として、土台となる天守台は着工されている。しかし、保科正之が天守再建に反対したのである。
「天守というもの、始まりは織田信長の代(よ)と申しますが、これ城を堅牢とするに役立つものに非ず。ただ遠くを見るの用のみ。しかも目下は武家、町家の普請を急がさねばならぬ時にございます。これ以上公儀の作事が長引いては下々の障りとなりましょう」
「天守は公方様の御威光の象徴。また、公方様をお守りするに必要なのではありませぬか」
酒井忠清の意見は当時のほとんどの幕臣、いや侍たちに共通する認識だったろう。
「万が一にも江戸の城が攻められた場合、天守のあることが公方様をお守りすることにはならぬ。むしろ、公方様を危うくしかねない。そうであろう、伊豆守」
「左様。もし、雅樂頭が江戸城を攻めるとして、充分な射力の大砲があったならばどこを狙う」
「・・・・・・」
忠清が言いよどむ。信綱の問いで、それがどういう意味かを察したのだ。
「大阪攻めを見れば天守を狙うのが最も有効であるは明らか。それはなぜかと申せば、天守にはその城の主が居り、その場所がどこかを城外からも認められるからである。そのため、川越の城は天守を有していない。確かそうだったな」
正之の声掛けに信綱が深く頷く。これを受け、天守の再建は当分の間延期することとなった。ただし、これ以降江戸城に天守が再建されることは終(つい)になかった。
大火は府内の大名、小名、旗本、御家人を問わず、ほとんどの屋敷を焼き尽くした。信綱の屋敷も同様である。信綱自身は被災者救済と治安の維持、米や材木などの物価の安定など多忙を極めていたため城に詰めることが多く、城から下がると、罹災を免れた外桜田門内の下野鹿沼藩邸の一角を借り、屋敷が復旧するまでの仮屋としていた。
仮屋であれば、多くの者をそばに置いておくわけにはいかない。輝綱などの家族を含む多くの者は、川越に移っていた。信綱が、漸(ようや)くのこと川越にやって来られたのは三月の半ばを過ぎたころである。皆の無事を確認した後、信綱は輝綱に仏間へと誘われた。真新しい仏壇には煤(すす)け、一部に焦げ跡が認められる位牌が収められていた。
「これは」
「火事の中、我が室(しつ)が救い出しました」
信綱が、輝綱の後ろに控えている伊都に目を向けた。
「申し訳ございません。お母様と姉だけを救うのがやっとのこと。他の方々は救い出すことができませんでした」
平服する伊都に信綱は頷き、仏壇に向き直ると手を合わせた。軽く目を閉じ、静かに般若心経を口にする。その声に輝綱と伊都も手を合わせた。
経が終わると、信綱は再び伊都に向き直った。
「救い出してくれ、誠にありがたく感謝いたす」
信綱は深く頭を下げ、言葉を続けた。
「少し聞いてほしい話があるのだが、よろしいかな」
伊都が居住まいを正したことを認め、信綱は微笑んだ。
「死んだ者は、生きている者が思い出すことで満たされる。であるから、生きている者は死んだ者たちを懸命に思い出してやらなければならぬ。そして、やがて残していく者たちに自らを思い出してもらえるよう、懸命に生きねばならぬ。そう、生きねばならぬのです。それ故、よいか、くれぐれも無理はしてくれるな。この老父が逝った後に、たっぷり思い出してもらわなければいけぬでな。よろしくお願いいたしますぞ」
伊都のことを労わった信綱であるが、その後も多忙の日々が続き、六月十二日、評定所に顔を出したものの、座していることもできずに城を下がった。思えば正月の病が癒えきれぬまま、走り続けてきたのだ。無理が限界を超えたのだろう。その後、登城できぬ日々が続き、その間、伊都は信綱の面倒を見るために江戸に来ていた。
「お義父様は、私に無理はするなとお諭しになったのですから、ちゃんとご自愛くださいな」
わざと憎まれ口をたたきながらもかいがいしく世話をする伊都を、信綱はかわいらしいと感じた。まるで幼子が精いっぱい背伸びしているようだ。
信綱の再登城が叶ったのは八月八日であった。
幕府は老中の増員を決め、九月二八日に稲葉美濃守正則が老中に任じられた。正則は、春日局の子である稲葉正勝の子である。父母が早くに死んだため、祖母にあたる春日局に養育され、従兄にあたる堀田正盛が後見役にあたっていた。信綱にしてみれば、正則の父正勝は家光小姓仲間として親しくしており、正則自身のことも幼少の頃から知っている。開明的な父を受け継ぎ、新しき世を築く者として期待していた。
万治二年(1659)正月十一日、家綱が童形(どうぎょう)を改めた。早くに元服を済ませてはいたが、子供のままに将軍となった家綱もようやく大人となったのだ。
家綱を支えてきた信綱にしてみれば、一つの区切りである。とは言え、まだ肩の荷が下りたわけではない。家綱の代が固まるのはこれからなのだ。改めて気を引き締めなおした。
そんな中で一つの報告を聞く。秀忠に乞われ、家光を補佐するために幕閣相談役のような役割を担ってきた井伊直孝が危篤だというのだ。六月二八日の朝のことである。老中ら主だった者たちが急ぎ見舞いに伺う。それほど危ない状態だというのだ。事実、直孝はその日のうちに亡くなった。七十歳。信綱よりも六歳年長である。古くからの武士らしさを骨の髄まで染みこませた人物であり、信綱が進めた改革に関してぶつかったこともしばしばであったが、信綱の能力を最も買っていたのも直孝だった。
酒井忠勝が大老職を辞し、井伊直孝もいなくなった今、信綱は最年長となってしまっていた。以前と比較し無理の効かなくなってきた身体を想えば、歳のことを感じずにはいられない。
さらに自らの歳のことを考えるきっかけは翌年、万治三年に続いた。正月十八日、亡き長女千万の夫である庄内藩主酒井摂津守忠当が病に倒れ、二月九日に亡くなった。これに伴い外孫にあたる酒井忠義が庄内藩を継いだ。
次いで、四月八日に輝綱と伊都との子、亀千代が誕生した。八江との子たちはみな早世してしまったため、この亀千代が輝綱の跡を継ぐことになる。
孫の成長や誕生は素直にうれしい。ただ、盟友稲葉正勝の子が老中に就任したこともあり、時代の動きを実感せざるを得ない。世代交代自体は拒むつもりはないし、望ましいことだ。それを拒むような存在になってはいけないとの自戒もある。だが同時に、まだまだやりたいこともある。それを想うと焦りも感じてしまうのだった。
伊都に自愛するよう言われ、重々承知はしているが、自分に鞭打ち、働き続けた信綱が倒れたのは寛文二年(1662)正月十八日だった。信綱自身も今度ばかりはいけないかもしれないと感じていたのだろう。輝綱に対し、自分が死んだら、書簡、文、書付の類はすべて焼き捨てるように申し伝えている。このような類は、偏った考えを持つ者にとっては、いかようにも解釈できる。信綱はそれを嫌ったのだ。
幕府からは二月一日、三月二日に「伊豆守御快気」との発表があったが、実際には回復することはなく、危篤となったのは三月十五日。翌日の夕刻に息を引き取った。享年六七歳である。
信綱が身罷(みまか)った翌日、元の大老酒井讃岐守忠勝が登城。家綱と対面している。信綱亡き後の幕政について話し合うためだったが、話はどうしても信綱の思い出になってしまった。信綱の死にあたり、二人はそれぞれの理由ではあったが、置き去られたという感覚を共有していたのだった。
信綱の葬儀は三月十八日、岩槻にある菩提寺の平林寺で執り行われた。この平林寺は翌年、信綱の遺言に従い、輝綱の尽力で川越藩領野火止に移転している。現在、埼玉県新座市にあるのがそれである。