其の四 切支丹禁制

 寛永九(一六三二)年一月、大御所秀忠が逝去した。控えめで温厚な人柄に芯の強さを併せ持ち、家康亡き後の難しい政局を巧みに乗り切ったその手腕は高く評価されてしかるべきものであった。徳川幕府の基礎を磐石なものに仕上げたことは、秀忠の力量を如実に表している。

 もっとも、両親の愛情を実感できなかった家光にとって、父秀忠はむしろ煙たい存在であり続けた。自分を将軍に仕立てながら、政治の実権は秀忠自身が握り続けたことも家光の気に入らなかった。それが常識的な措置とは言っても、家光からすれば秀忠のやることなすこと何もかもが中途半端に感じられ、自分ならもっとうまくやれるはずという不満が蓄積していたのである。

 その秀忠ももうこの世にはいない。誰をはばかる必要もない、家光は真の最高権力者となった。それは同時に、家光にとって絶え間ない権力闘争のはじまりを意味していた。以来およそ二〇年間、小心にして頭脳明晰な人間による政治、すなわち「権力維持のための法と組織の構築」が行われることになる。

 家光はまず、自らの親衛隊で「両番」と呼ばれる小姓組番と書院番の再編に着手した。それまで両番は将軍家光と大御所秀忠が別々に保持していたが、家光はそれぞれ一つにまとめ、改めて自分の直属の家臣を番頭に任命したのであった。両番の中では小姓組番の方が将軍に近く、小姓組番頭の信綱や忠秋は城内で年寄に次ぐ地位となった。

 さらに一一月、信綱は家光に年寄待遇で寄合に参加することを命じられた。信綱のみの抜擢であることに、信綱自身少し驚いた。

「私を年寄に、ということですか」

伝達を受けた後、信綱は忠勝に問いかけた。

「そうだ。正確には『年寄並』ということになる。いきなり年寄に据える訳にはいかんだろうという上様のお考えだ。奉書への加判など、責任を伴う任務は時機を見計らって行ってもらう。それまでは年寄と同列の待遇で寄合に参加し、しばらく国政に関する経験を積んでもらうということだ」

忠勝はにこりともせず説明した。

 信綱にとって、この昇進は願ってもないことであった。国政を舵取りする寄合は、忠勝のほかにも酒井雅楽頭忠世や土井大炊頭利勝など名だたる重臣が議論を交わす場である。彼ら最高の実力者と気心の知れた家光の間で、信綱は最初から自分の持っている力を最大限に発揮できることを密かに期待した。

 その期待に応えるかのように、伝達があったその日のうちに利勝が信綱に話しかけてきた。寄合についてあらかじめ一通りの心構えを教えておこうというつもりらしかった。

(さすがは大炊頭様、格下の者への配慮が行き届いておられるな)

信綱は改めて感心した。篤実ながら優れた行政手腕を持つ利勝は、年寄の中でも抜きん出た存在であり信綱が最も尊敬する人物であった。その利勝に話しかけられて、信綱は自分が年寄の一員となることを実感した。

 利勝はいかにも実力者らしく、落ち着いた口調で信綱に語りかけた。

「今日から伊豆殿は我々と同輩ということになる。私のことも『様』づけで呼ぶ必要はない。自分が思ったことを、遠慮なく意見してもらいたい。

 とりあえず、伊豆殿が携わる業務の内容を説明しておく。伊豆殿もおおよそのところは知っていると思うが、寄合は公儀に関するほとんどすべてのことを議論する場と考えてもらいたい。法度の制定、対外折衝、訴訟の処理、賞罰の裁定、何でもこなす。さらには上様の諮問に対し、寄合で議論したことを上申するというのも重要な役目だ。

 とはいえ、業務自体は追々慣れてもらえばよい。ましてや名にし負う智恵伊豆殿のこと、こつをつかむのは我々以上にたやすかろう。

 むしろ気を遣わなければならないのは上様との接し方だ。伊豆殿にも思い当たるふしがあると思うが、上様はなかなか気難しいところがあってな」

そう言って利勝は苦笑いをした。

「智恵伊豆殿に望むことは、年寄の業務にいち早く慣れること、そして上様とうまく折り合いをつけること、この二点だ。特に後者には、最大限の注意と努力を払ってもらいたい」

利勝は淡々とした表情に戻って言った。信綱は利勝の言い方にかすかな違和感を覚えた。利勝ほどの経験者にしては、家光のことを意識しすぎているように思えたからである。

 信綱がはじめて参加した寄合では、将軍の上洛について話し合いが持たれた。筆頭年寄の酒井忠世が病気療養中のため、代役として利勝が議長役となり会議がはじめられた。

「ご存知のとおり、上様のご上洛についてはここ一、二年内に実施するという予定だけが立っている。上様の御代始めに当たり公儀の実力を朝廷に印象づけるため、この上洛は必ず成功させなければならない。

 その準備として我々がなすべきことはといえば、朝廷との調整、上洛に供奉する大名・旗本の動員計画、旗本の窮乏化対策など、課題が山積みとなっている。特に旗本の窮乏については、早々に手を打たなければ上洛供奉に支障が出るばかりか有事の際の出陣すら危うい」

 利勝が言うとおり、旗本の窮乏はこの時期急速に表面化していた。太平の世となり、何の備えもない旗本の生活を消費経済が直撃したのである。

 利勝の発言を受けて、忠勝が議論の口火を切った。

「旗本の窮乏については、早急に対策を講じるべきものと考える。何となれば旗本は上様直属の軍隊であり、ご上洛にあたり彼らがぶざまな格好で供奉するようなことがあれば外様大名に示しがつかなくなるからである。

 旗本は戦や上洛の際に自らの従者を従えて供奉する使命を帯びている。ところが昨今の窮乏のため、小姓組番などの番士格でさえ満足に従者を召し抱えられなくなっていると聞く。そこで、たとえば上洛供奉のため当面最も物入りとなる知行一〇〇〇石以下の番士に対し、二〇〇石程度の知行加増を行ってはどうか。それによって彼らは十分な数の従者を雇い入れ、供奉の体裁を保てるようになる。中長期的にも旗本の生活の安定に寄与するであろう」

 忠勝はいつものように表情ひとつ変えず、単刀直入に発言した。譜代の名門酒井家の出身である忠勝は、我こそが公儀を支えているという自負も強い。

「讃岐殿は一口に二〇〇石と言うが、二〇〇石もの知行増は馬丁や鑓持ちなど供回りの従者の増員となって跳ね返る。軍事上の動員、すなわち『軍役』で、石高ごとの従者数が規定されているからだ。上洛供奉そのものも軍役の一つだが、加増をすることによって平時に常備しておく従者の数まで増えることになり、旗本にとって負担は減らない公算が高い」

 顧問役の井伊掃部頭直孝が即座に問題点を指摘した。歴戦の勇者で「夜叉掃部」とあだ名される直孝は、秀忠から直接後事を託されたほどの実力者である。その直孝に的を射た指摘をされ、返答に窮する忠勝を横目に利勝が話を継いだ。

「旗本の生活が苦しいのは、彼ら自身の生活態度にも問題がある。加増をしたとしても彼らが今まで以上の奢侈に流れるようであれば、窮乏に拍車をかけることになりかねない。今後は法度の制定など、彼らの生活態度を改める環境づくりをすることが求められよう。

 とはいえ、讃岐殿の言を待たなくとも、旗本に対する加増は行うべきと考える。先に実施した番士の再編によって、新たに上様の配下に加わった者がいる。彼らに何がしかの恩典を与えることが主従関係を強化する上で役立つと思われるからである。

 加増による負担の問題については、実質的な負担増とならない方向で検討すればよいのではないか」

無言でうなずく年寄りたちに向かって、利勝はさらに話を続けた。

「そこで提案だが、この際軍役令を改め、従者の人数を今までより少なくしてはいかがであろう。本来軍役令は戦陣への動員を規定するものだが、今回の上洛のように戦を伴わない動員であれば人数を軽減しても問題あるまい。心配ならば、有事の際には動員数を割り増しするという規定をあらかじめ軍役令に盛り込んでおいてもよい」

 政策を知りつくした、利勝らしい大胆な提案であった。公式・非公式を問わず各方面と太いつながりを持つ利勝は、幕府内外のあらゆる事情に通じていることが強みである。

「だが、それによって上洛の動員数を損なうことがあっては本末転倒であろう。上洛は朝廷への示威とともに、諸大名に対する軍事指揮権の掌握をも重要な目的としているのだから」

 忠勝が反論した。利勝は「ふむ」とうつむいて少し考えていたが、やがて顔を上げた。

「それでは思い切って、武器の数量を今より軽減した軍役令を制定してみてはいかがか。つまり従者の総数は現行の水準に据え置いたままで、武器を携える従者の数のみを減らしてみては?

 結局旗本にとって負担となるのは、武器の扱いに慣れた従者の確保である。同じ従者でも荷物運びや草履取りなど武器を持たない者は百姓から徴発すれば済むことで、そちらは扶持米さえ支給してやればいくらでも手配がつく。戦国の世が過去のものとなっていく中で、軍役にのみ熟練者を要求することは難しいし現実的でもない。武器の数量を減らせば、上洛の動員数を考慮しつつ旗本の負担を減らすことも可能となるのではないか」

「それでは、同じく上洛に供奉する外様大名についてはどうするつもりか?」

「有事の際に支障を来さない最低限の武器の数量とはどれくらいか?」

「旗本へ割り当て可能な知行地の総石高は…?」

「公儀による扶持米の供給能力は…?」

 年寄たちの議論はさらに続いた。当初の期待に反して、信綱の出番はまるでなかった。国政の最高決定の場にふさわしく、年寄たちはあらゆる判断材料を駆使してぎりぎりの解決策を探っていた。生身の人間に直接関わる問題なだけに、現状を的確に把握し実現可能性を見極める能力が高い次元で求められたのである。それは今の信綱にとって手の届かない高みであった。信綱はその手強さに改めて身が引き締まる思いがした。

「おおむね議論は出つくしたようだが、大炊殿の提案による新しい軍役令は効果が期待できそうだ。旗本の知行増を軸に、今後は軍役令の内容を吟味していったらよかろう」

 寄合のまとめ役を任じている直孝が皆の意見をしめくくった。

「さて、上洛の件はこの線で詰めていくとして、問題は外様大名の統制策だな」

 利勝が改まった口調でつぶやいた。その瞬間年寄たちの間に緊張が走ったのを、信綱は見逃さなかった。

 しばしの沈黙の後、忠勝が口を開いた。

「上様はしきりに統制策と言われるが、あまりあからさまな統制は外様大名に対し逆効果であろう。

 我々は数か月前に肥後熊本の加藤家を改易したばかりだ。熊本の加藤家といえば、加藤清正殿嫡流の外様大名の雄だ。その加藤家の改易は他の大名たちへの強烈な牽制となったはずである。我々はそのことに満足すべきであろう。それ以上の統制は外様大名をいたずらに刺激するだけだ」

忠勝はきっぱりと言い放った。

「讃岐殿の言うことも一理ある。加藤家の改易については我々年寄も実行する前からその効果を確信していた。そのために周到な準備をもって臨み、神経をすり減らして実行した。謀反のうわさをたてたり茶番を演じたりもしたが、それだけの値打ちはあったということだ。事実大きな成果をあげたと思う。だがこのような賭けに近い策略はやはり何度も行うべきことではないであろう。回を重ねるごとに反発ばかり目立つ恐れがある」

 慎重に言葉を選びながらも、利勝は忠勝の意見に同調した。利勝はなおも話を続けた。

「我々は今後とも機会をとらえて、上様にそのことを主張していくべきであろう。とはいえ、上様と真っ向から対立しては、たとえ正論であっても受け入れてはもらえまい。上様の健康上の心配もある。このところ気分がすぐれない上様を、あまり刺激しない方がよいということだ。

 そこで、とりあえず統制策について検討はしているという姿勢を見せるため、上様が提唱している国廻り上使の派遣について、その具体策だけでも作成しておこうではないか。公儀の上使を諸国に派遣するという上様の狙いは、もちろん諸国の内部監察の強化にある。そこまで露骨に干渉すれば、たしかに統制という目的は達成されよう。それをできるだけ事を荒立てずに実施する方法を、我々は考えておかねばならない」

 利勝の説明にある程度納得した形で、年寄たちはしぶしぶ国廻り上使について検討をはじめた。

 信綱は不思議であった。海千山千の年寄たちがなぜ家光を腫れ物に触るかのように扱うのかわからなかった。

 だがその理由は、はじめて家光の前に並んだ瞬間にはっきりした。年寄の一員として顔を合わせた家光は、普段とはまるで別人であった。鷹狩りを好む開放的な面影は消え、そこには威圧的で神経質な家光がいた。高座から甲高い声を響かせ、扇子で脇息をたたきながら、家光は年寄たちに矢継ぎ早に質問をし、命令を下した。

 この日の上申役も、忠世に代わって利勝が務めた。忠世欠席の表向きの理由は病気療養であったが、実のところ忠世は家光に疎まれ、しばらく家光から遠ざけられていたのである。忠世に限らず、ささいなことで家光は家臣を叱りつけ、目の前から退けた。

 利勝はまず軍役令の話から切り出した。

「恐れながら、新しい軍役令について説明させていただきます。これはご上洛の際の旗本・譜代大名の動員の基準となるもので…」

 利勝が言い終わらないうちに、家光が口をはさんだ。

「外様大名の統制策はどうなっておるのだ。旗本や譜代大名のための軍役では、外様の統制策にならないではないか」

「外様大名は自国の軍役令を制定する際に、公儀の軍役令を参考にしております。したがいまして、軍役令も外様大名を統制する有力な手段の一つになります」

 利勝は苦しい言い訳をした。

「軍役による動員では、戦や上洛など特別な場合を除けば意味をなさないではないか。私が望んでいるのは、太平の世が続いても外様大名の力を抑えられるようなしかけなのだ。ほかにもっとよい案はないのか」

「恐れながら、ご上洛の計画をまとめる方が先決かと…」

「外様の統制が最優先だと前々から言っておるだろう。何度も同じことを言わせるな」

「はっ。それでは先日お話がありました国廻り上使の件につきまして、その実施計画を説明させていただきます」

「そんな決定済みのことに時間をかけてどうするつもりだ。お前たちは自分の考えというものがないのか。もっと真剣になって、恒久的に外様の力を抑制する方法を考えろ」

「ははっ」

 年寄たちは青白い顔をしてうつむいた。信綱は家光と年寄たちのやりとりを黙って見守っていた。家光が頭ごなしに叱り飛ばすため、とても口出しできるような雰囲気ではなかったからである。事実、年寄たちはみな萎縮していた。今回の信綱の抜擢も、秀忠亡き後あまりにも停滞する政務に家光が剛を煮やしたことが発端とのうわさであった。が、信綱が参加したくらいで雰囲気が変わるような生易しいものではなかった。

「伊豆殿、見てのとおりでな」

 家光の前から下がった後で、利勝は信綱に力なく笑った。

「上様のお気持ちもわからないではない。外様大名にはまだ戦国の生き残りがいて、公儀に対し反旗を翻す機会を虎視耽々と狙っているからな。何らかの統制策が必要なことは我々も認めよう。

 だがそのためには、ありとあらゆる状況を想定した綿密な具体策を講じる必要がある。場当たり的な判断は禁物であり、ましてや早期の実現を目指すのであればはじめから完成品を作るつもりで集中的な議論を重ねなければならない。

 ところが我々はほかにも多くの課題を抱えており、統制策にしても日常業務や他の特命事項の合間を縫って策定しなければならない。讃岐殿と私と、療養中の雅楽殿の実質三人で運営しているような寄合で、統制策までまとめること自体に無理があるというものだ」

 利勝らしからぬ不満の声に、信綱はどう返答したらよいかわからなかった。たしかに信綱から見ても年寄たちの多忙さは尋常ではなく、時間がいくらあっても足りないくらいであった。かといって、今の自分の能力では年寄たちの力になれるどころではなかった。あれこれと解決策を思い巡らせながらも、信綱は自分の力が及ばないことに歯がみした。

 次に家光の前へ参上した利勝は、外様大名の統制策として大名証人制度を上申した。外様大名の妻子を証人(人質)として江戸に常駐させ、外様の抵抗を未然に防ぐというのがこの制度の趣旨であった。が、証人の江戸常駐は事実上これまでも行われており、利勝の提案はそれを制度として追認するだけと言えなくもなかった。案の定、家光はいい顔をしなかった。

「引き続き、軍役令の草案をご覧いただきます」

 利勝は再び軍役令の話を持ち出した。上洛までに供奉の体制を整えられるよう、利勝たちが夜も寝ずに作成したものであった。それは動員すべき人馬や武器の数量を石高ごとに規定した完成度の高いもので、しかも加増される旗本のために一〇〇〇石以下の軍役令を別に作成するという念の入れようであった。これらを短期間でまとめ上げた年寄たちの集中力には驚異的なものがあった。が、家光はうんざりした顔で答えた。

「お前たちは統制策を後回しにして、まだそんなことにこだわっていたのか。証人制度などというその場しのぎの案を持ち出したのもそのためだな。大炊頭よ、お前の顔など見たくもない。下がれ」

 利勝は表情をこわばらせて下を向いた。さすがの利勝も、家光のものの言い方に怒りを抑え切れなくなったのである。またもその場に緊迫した空気が漂いはじめた。

「恐れながら上様、この軍役令こそが大名統制策の切り札であり、今後のさらなる政策の基本になるものと我々は確信しております」

突然信綱が末席から声を挙げた。年寄たちは身構えるように一斉に振り向いた。忠勝は露骨に「よせ」という表情をした。家光の脇息をたたく音が止まった。

「伊豆守よ、それはどういう意味だ」

 頭を下げていても、家光が興味を抱いているのがわかった。信綱は賭けに出た。もし自分の意見が家光に受け入れられなければ、軍役令はおろか上洛の計画自体も振り出しに戻されかねない。当然年寄たちの評価は地に落ち、年寄に何の相談もなく発言した信綱は軽率な人間として相手にされなくなるおそれもあった。

 だが信綱は、この時自分の脳裏にひらめいた考えが現状を打開するきっかけとなるのではないかと思い、とっさにその可能性に賭けたのであった。これ以上の譲歩はますます事態を悪化させるだけだという危機感がそうさせたのであった。失敗は許されないことを肝に銘じつつ、信綱は言葉を選んでゆっくりと話しはじめた。

「上様ご上洛を控えたこの時期における新しい軍役令の導入、大名たちは違和感を持ちますまい。ここで重要なのは、軍役は『夫役』すなわち城普請や治水など平時の動員にも適用されるということです。

 平時において諸国の大名は、自分たちの制定した軍役令をもとに家臣に対し夫役の動員をかけます。家臣たちは自らの配下の者を夫役の労働力として提供しますが、その大半は知行地から徴発した百姓によってまかなっているのが実状です。つまり夫役の負担は、最終的に百姓に転嫁されるしくみとなっております。

 今回の軍役令は、下級家臣ほど石高当たりの動員数が厚くなるようになっております。そのうえで武器の数量を軽減し、旗本が多くの熟練者を抱え込まなくてもよいようにしてあります。その結果、上洛供奉の人数を確保しつつ今まで以上に百姓を徴発しやすい状況を作り出しております。

 この軍役令を参考に制定される諸国の軍役令も、間違いなく同じような体系で作られるでしょう。しかも諸国の大名は公儀に配慮してさらに軍役を厚くするのが通例となっております。この体系に基づいて大名が夫役の動員をかければどうなるか?国力の源泉である百姓は多くの働き手を割かれ、田畑は十分に耕作できなくなりその国の国力は抑えられることになるでしょう。

 そして我々は、諸大名に対し意図的に夫役を課す手段を持ちあわせております。公儀による『天下普請』、これを最大限に利用します。それによって外様大名を意のままに統制できることは必定です。すなわち…」

 「ぴしり」と脇息をたたく音がして、信綱ははっと顔を上げた。目の前に大きく目を見開き、直立した家光がいた。顔を紅潮させ、扇子を小刻みに震わせながら、家光は興奮気味に言った。

「それ以上の説明は必要ない。軍役の量と質を変えることで天下普請を強力な統制策として利用できるということだな。見事だ。これぞまさに平時における外様大名の統制策だ」

 信綱自身があっけにとられるほど、家光の変わりようは激しかった。これほどの変貌は信綱さえ予想していなかった。

 天下普請とは幕府による普請のことで、それを諸大名に手伝わせることによって大名家の勢力を削ぐという発想は昔からあり、家康の時代にも盛んに利用されていた。信綱はその天下普請を、新しい軍役令と結びつけたまでのことであった。それが期せずして、家光から想像を超える評価を受けたのであるから、信綱が驚くのも無理はなかった。ただその効果は絶大であった。この瞬間から、年寄たちを取り巻く空気が一変したのである。

 ほとんど原案のまま、利勝の軍役令は採用されることになった。軍役令だけでなく、旗本の加増も、上洛計画も、大名証人制度さえもすべて原案とおり採用されることとなった。家光が年寄たちのことを、それまでとはうって変わって肯定的に見るようになったからである。おかげで家光に対して格段に意見を述べやすい環境になった。

 年寄たちもこれには兜を脱がざるを得なかった。結果もさることながら、軍役令の改定と天下普請を結びつけるという発想自体が智恵伊豆ならではのものだったからである。しかも天下普請であれば大名が自発的に動くため、自分たちは何ら危険や労力を負わないで済むという利点もあった。

「さすがは伊豆殿。代官の家に生まれただけあって、百姓のことは我々以上に詳しい」

忠勝がきつい冗談を言うのが関の山であった。新参者の信綱は大いに面目を施した格好となった。

「恐れながら、一つ提案させていただきたいことがございます」

上洛準備の進捗状況について利勝が家光に報告した席上、信綱は家光に向かって話を切り出した。

「よいぞ、話せ」

準備が順調に進んでいることに気を良くしていた家光は、信綱の申し出をすぐさま許可した。

「それでは提案させていただきます。寄合では大小さまざまな問題が取り扱われております。中にはここにご列席の皆様の手を煩わせるに足らない問題も多く含まれており、そのためほかの重大な案件を十分に討議する時間が削られているように見受けられます。

 振り返って私個人は、寄合に参加させてはいただいているものの、国政の経験が浅いため建設的な意見を述べることができず、心苦しく感じております。

 そこで、私のような者が実務経験を積むためにも、小事を専門に扱う別の組織を設けてはいがでしょうか」

「なるほど、伊豆守の言うことはもっともだ。直ちにそうするがよい」

組織づくりを好む家光は、この提案を手放しで受け入れた。実際これは画期的なことであった。事前に相談を受けていた年寄たちも、自分たちが雑務から解放されるこの提案に異論のあるはずがなかった。一方若い人材にとっては昇進の敷居が低くなり、比較的取り組みやすい案件から経験を積めるという利点があった。こうした発言により、わずかの間に信綱は周りの者から確かな存在感をもって迎えられることになった。

 寛永一〇(一六三三)年三月、小姓組番頭の松平信綱、阿部忠秋、堀田正盛、阿部重次、太田資宗、三浦正次による新しい組織ができ上がった。六人ともいずれ劣らぬ優秀な人材であった。殊に信綱よりひと回り若い堀田加賀守正盛は、春日局の外戚ながらその卓越した才能によって家光から目をかけられていた。また庭の大石の一件で信綱の世話になった阿部対馬守重次(山城守から改名)も、生来の真面目な性格が家光から評価されるようになっていた。

 この六人はすぐさま頭角を現わし、「六人衆」と呼ばれるようになった。とりわけ信綱、忠秋、正盛の三人は傑出していた。五月に入ると忠秋と正盛の二人が信綱と同じ「年寄並」に抜擢された。信綱が付けた道筋に乗り、異例に早い昇進となったのである。一方信綱は奉書への加判を命ぜられ、領地も武州忍を与えられて三万石になった。三人は年寄並ながら周囲から年寄と変わらぬ実力があると見なされ、年寄と総称して「老中」と呼ばれるようになっていった。

 忍の領主にはなったものの、信綱は自分の領地に入ることすらできなかった。幕府の重臣は江戸に常駐するのがきまりとなっていたし、実際の業務も多忙を極めていた。六人衆は小事とはいえ幕府全体に関わる業務に携わっており、関係各所との調整に四六時中飛び回ることになったからである。さらに信綱は依然として小姓組番頭を兼務し、そこに老中の業務が加わっていた。現代の中央官庁でいえば局長から課長補佐までこなすようなもので(会社であれば課長兼務の取締役部長といったところか)、国政の重要案件から番士の世話まで一手に引き受ける立場となった。将軍上洛まで一年を切り、その準備も大詰めを迎えていた。今回の上洛はかつてない規模で行う予定であり、その調整だけでも膨大な作業であった。この激務に信綱はよく耐えた。

「ところで大炊頭よ、最近奴等の活動はどうなっておるか」

「はっ、相変わらず衰えていないようです。南蛮国(ポルトガル)の伴天連(パードレ=宣教師)が布教を止めないことが、その背景にあると思われます」

「そうか、やはり問題は南蛮人だな。南蛮人を奴等から切り離さなければ、禁制は有名無実のままだ。どうやら例の計画を実行に移さねばならぬようだな」

 利勝の報告を聞いた家光はいまいましそうに歯ぎしりした。

 二人の会話から、話題が切支丹についてであることは信綱にもすぐわかった。このところ信綱は切支丹の話をしきりに耳にするようになっていた。家光への報告や長崎奉行宛の奉書作成のため、重臣たちが城内を忙しく動き回る姿もしばしば目にしていた。

 「切支丹」とはキリスト教徒のことで、家康の時代から日本人が切支丹となることは禁制とされ、秀忠の時代には切支丹の粛正まで行われていた。とはいえ、南蛮人がもたらす輸入品の禁輸にまでは踏み切れない幕府にとって、禁制は中途半端に終わるのが常であった。

 家光の言う計画とは、南蛮人を切支丹から引き離し、一区画に隔離することであった。

 信綱自身は切支丹の件に関わってはいなかったが、家光の判断は妥当なものに思えた。伴天連の教えに関心をもつ暇がなかったこともあるが、一般常識からしても切支丹には問題が多すぎると感じていたからである。切支丹の背後にある南蛮の領土的野心を、幕府は著しく警戒していた。南蛮国からすれば来日の最大の目的はあくまで切支丹宗門の布教であり、宗門をあまねく浸透させるためにも切支丹が自由に暮らせる土地を確保しようと考えるのは自然なことであった。が、そのことによって切支丹は、南蛮国による領土侵略の先兵と疑われるようになっていた。実際、権力者からすれば国内に自らの影響力の及ばない領域ができることは容認しがたいことであった。

 さらに切支丹自身の行動にも問題があった。古い宗教の否定の上に存在していた彼らは、神社仏閣を破壊し、僧侶や神官を殺害し、仏像を燃やすなど既成の秩序の破壊者となっていた。その意味では南蛮人の隔離は避けられないことであろうと、信綱も考えていた。

 だが、家光の考えがさらに進んで切支丹の根絶にあることを知り、信綱は「まさか?」と驚いた。信綱としては南蛮人との接点さえなくなれば切支丹の問題は自ずと片付くと思われたからである。家光の考えは違った。まるで切支丹であること自体がけがらわしいものであるかのように切支丹を扱った。

「切支丹を草の根分けても探し出すよう長崎奉行に伝えよ。切支丹の通報者には公儀から褒美を出すことも必ず付け加えるのだ。見つけ出した切支丹には徹底的に棄教を迫れ。そのためならいくら拷問にかけても構わない。たとえ拷問によって死んでしまっても、それは伴天連のせいで仕方のないことだ。むしろ拷問に耐えて棄教しない切支丹は危険だから殺してしまった方がよい」

 それを聞いた信綱は、さすがにやり過ぎではないかと感じた。人の心を変えることは至難の業である。それを強制的に行おうとすれば弾圧になると、信綱自身は考えていた。頭の柔軟な信綱にとって、思想弾圧は本能的に嫌悪感を催すものであった。ましてや切支丹になった者たちは、大名たちが自領に南蛮船を誘致するため半ば強制的に改宗させたという歴史的背景もあり、ある意味では被害者ですらあった。

「仏教でさえ、もとはと言えば伝来の宗教ではないか」

それが信綱の考え方であった。現在切支丹宗門を受け入れている者も拒絶している者も、どちらもその新奇さに惑わされているように思う。時がたてば良いものは自然と受け入れられ、悪いものは排除される。切支丹の処遇について早急に結論を出す必要性は、信綱には感じられなかった。

 南蛮人さえ隔離してしまえば、切支丹を無害化する方策はいくらでもあるはずである。無益な弾圧は慎まねばならない。信綱はいつかそのことを家光に進言するつもりでいた。が、なかなかよい機会に恵まれず、日々の業務にかまけているうちに別の大きな問題が幕府を急襲することになった。家光が危篤に陥ってしまったのである。

「上様のご容体はいかがであろうか」

「良くありません。我々三人の医師が付き切りになって看病しておりますが、ここ数日は粥しか食べておりません。予断は許されない状況です」

「酒の飲みすぎであろう。毎日あれほど飲んでいては、よほど頑強な者でも身体を壊してしまうと、常々上様には申し上げていたのだが・・・」

 忠勝はいつも以上に難しい顔をしてつぶやいた。

 一〇月半ば、家光は風邪をこじらせ思わぬ重体に陥った。将軍であることの重圧から家光は常に極度の緊張状態に置かれており、その不安をまぎらわすため毎日多量の酒を飲んでいた。そのため内臓に過度の負担がかかり、少しの不調でも重篤な病気を引き起こす体質になっていたのである。

 発病から何日かたっても、家光は一向に回復するきざしが見られなかった。諸大名は見舞いのため一日に二度三度登城し、城内は日増しに緊迫の度合いを増していった。

 老中たちにとって、家光の病気は頭の痛い問題であった。家光にはまだ世継ぎがいない。万一の場合、将軍の座は弟の忠長に引き継ぐのが順当であった。だが、忠長は幼い頃家光と将軍の跡目争いをした国松その人であった。そうした因縁から家光は忠長に憎しみを抱きつづけ、秀忠の死をきっかけに忠長の領地を没収し、上州高崎へ幽閉してしまっていた。そんな家光と忠長との間で、穏便に譲位が行われるとは考えにくかったのである。

「上様も最近はめっきり弱気になられ、自ら譲位のことを口にしているとの話だ」

「すると上様は、忠長様との和解をお考えか?」

「どうやらそうではないようだ。上様は忠長様にだけは譲位をしたくないと考えておられるらしい。忠長様以外に譲位をする相手を探しておられる模様だ」

「忠長様もそのことを察知されているご様子で、上様のご病気に乗じて実力で将軍の座を手に入れようとする動きがあるらしい。忠長様を次の将軍に担ぎ出そうという勢力もいるとのことだ」

「…本当か?それは謀反ではないか」

 城内にはさまざまな流言や憶測が飛び交っていたが、中でも忠長謀反のうわさはかなりの信憑性をもって伝えられた。なかなか良くならない家光の容体から、忠長がいつ実力行使に出てもおかしくないと思われたからである。

 老中たちが懸念する中、発病から一〇日ほどしてようやく家光に回復のきざしがうかがえるようになり、一〇月も終わり頃になると症状もかなり落ち着きを見せるようになった。これによって最悪の事態は回避されたかに見えた。

 忠長謀反のうわさも立ち消えになった。だが、このうわさを耳にした家光は強い危機感を抱いた。

 一二月、忠長は幽閉先の高崎で自害し果てた。表向きは自殺であったが、そこまで追い込んだのは家光であった。忠長の起居する離れを家光の手の者が取り囲み、自殺を促したのである。指揮に当たったのは重次であった。忠長が抵抗した場合、重次自身手を下すつもりでいた。

 家光が療養している間、幕府の政務は完全に停滞してしまっていた。ある程度組織づくりが行われていたとはいえ、家光の裁可なしには何一つ物事が進まなかったからである。家光は病が癒えると老中たちに速やかな政務の処理を命じ、老中たちは昼も夜もなく働き詰めとなった。

 病後の家光は極度に疑り深い人間となっていた。老中たちに何事につけ合議を強要し、特定の人間に権限が集中しないようにした。利勝は家光を恐れて自分の意見を述べなくなり、直孝は引退すらほのめかした。それがさらなる政務の停滞を招き、その結果家光の不信感がさらに増すという悪循環に陥っていった。信綱はこの状況を何とか変えようとしたが、所詮はまだ駆け出しの身であり、家光を翻意させるほどの智恵はすぐには思い浮かばなかった。もちろん切支丹の話は棚上げとなった。

 寛永一一(一六三四)年五月、家光は南蛮人と切支丹の取り締まりをさらに強化することを表明した。

「近々長崎の港に築島(出島)が建設される。私が長崎の町人たちに命じたものだ。南蛮人との貿易を独占したい彼らは、私の命令に一も二もなく従った。この島が完成したあかつきには、すべての南蛮人をそこへ収容せよ。それによって南蛮人と切支丹の切り離しを図るのだ。

 だが、それだけではまだ十分とは言えない。長崎で実績を上げている踏み絵や通報者への褒賞制度を九州全域に広げよ。切支丹に関しては天領も私領もない。日本から切支丹を抹殺するのだ」

 老中たちは家光が話すのを黙って聞いていた。みな家光に意見することによって家光がまた不安定になるのを警戒していた。ただ信綱一人、これが家光を説得する最後の機会になると直感し、思わず声を挙げた。

「上様、切支丹の件、なにとぞこの私にお任せいただけませんでしょうか」

 家光が信綱の方を向いた。けげんな表情がありありと浮かんでいた。周りの者は一様に下を向いた。

「任せることは何もない。切支丹は抹殺する。これは大権現様以来の方針だ」

 信綱が口出ししてきたこと自体が面白くないといった態度で、家光は信綱を冷ややかにあしらった。信綱はさらに食い下がった。

「南蛮人の隔離は私も大いに賛同いたします。しかし切支丹の処遇については別の方策もあるのではないかと考えます。たとえば九州の一部に切支丹の居住区を設けるなど、彼らに信仰の余地を残すやり方もあるのではないでしょうか」

 たたみかけるような信綱の言い方に、家光はさらに表情をこわばらせた。

「お前は本気でそんなことを言っておるのか。お前とて大権現様が三河の一向一揆にどれほど苦しめられたか、聞いたことがあろう。大権現様の生涯における最大の敵は豊臣でも武田でもない、三河の一向宗門徒たちであった。奴等は一介の百姓に至るまで一つの信仰で固く結ばれ、宗門に敵対する者の権威を認めず、徳川家に対しても平然と立ち向かってきた。それが一向一揆の恐ろしさだ。切支丹とてそれは同じだ」

「切支丹は三河の門徒たちとは違います。門徒らは経を唱えながら、その実純然たる戦闘集団を擁し、本願寺を頂点とする独立した秩序を作り上げようとしていました。彼らははっきりと我々の敵でした。

 それに対し切支丹は、公儀と戦う意思を持ってはおりません。南蛮人さえいなくなれば寄って立つ基盤も失います。彼らはもし切支丹の信仰さえ認められればそれに満足し、公儀への協力すら惜しまないでしょう。逆に切支丹を追いつめることは、公儀自ら紛争の種をまくことになりかねません。そのようなことは絶対に避けるべきです」

「…伊豆守よ、お前はいつからそんなに偉くなった?お前ごときがこの私に逆らうのか」

 信綱がはっと気づいた時にはもう手遅れであった。家光は顔を真っ赤にして目を吊り上げていた。

「逆らうなど滅相もないことでございます。ただ私は…」

「お前は何度か自分の提案が採用されて、のぼせ上がっているのであろう」

「そんなことはありません。ただ切支丹のことは、もっと冷静にお考えになられた方がよろしいのではと…」

「切支丹禁制は大権現様のご遺志だぞ。お前は大権現様が間違っていたとでも言いたいのか」

「恐れながら、今の将軍は上様です。大権現様の頃とは時代が違います。上様自らのご判断で、正しいと思ったことを実行すべきではないでしょうか」

「ええい、もうよい。下がれ、伊豆守。今すぐ私の前から消え失せろ」

信綱は目の前が真っ暗になった。これ以上の説得は無理であった。

 明らかに自分は気持ちが先行して浮き足立っていた、と信綱は後悔した。かつて利勝から受けた忠告を、信綱は今さらながら思い出した。信綱は事態を思惑とは正反対の方向に導いてしまったと、認めざるを得なかった。

 信綱は静かに立ち上がり、よろよろと部屋の外に歩み出た。止める者は誰もいなかった。信綱がふすまに手をかけると、後ろから家光の冷ややかな声が聞こえた。

「伊豆守よ。今度の上洛の時お前は、徒歩で供奉をしろ。よいな」

 家に帰った信綱は一言もしゃべらず、無表情で食事についた。妻のお静はいつもと違う信綱の様子にすぐ気づいたが、自分から話しかけることはしなかった。二人きりの長い沈黙の間、香の物を噛む音だけが聞こえた。

 食事が終わりかけた頃、信綱がぼそっと口を開いた。

「お静よ」

「はい」

「私は今日、上様からお叱りを受けた。今度の上洛は歩いて供奉するよう、上様に申し付けられたのだ」

「……」

「切支丹を抹殺しようとする上様に向かって、私が口答えしたことが原因だ。上様の性格はわかっていたはずなのに、私は上様を怒らせてしまった」

「……」

「長い戦乱の時代が終わり、民衆は何物にもおびえることなく毎日を暮らせる時代になったはずであった。私自身、これから人々の喜ぶ仕置をすることに生きがいを感じていたのだ。それなのに、私は自らその夢を台なしにしてしまった。

 すべては私の責任だ。だから私は自分がどうなろうと構わない。だが、私が上様を説得できなかったばかりに、これから何千、何万という切支丹が血を流すことになる。民を助けるはずの、老中であるこの私が、切支丹であるというだけで何の罪も犯していない人々を、苦しめることに加担するのだ。そして、それもこれもすべて私自身のせいなのだ」

 信綱の目から一粒の涙がこぼれ、手に落ちた。さらに一粒、もう一粒と、あふれる涙が箸を持つ信綱の右手を濡らした。お静は黙って、その手の上に自分の手を重ねた。

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