伊豆殿

 寛永二年(1625)、信綱は右衛門作の報告を「手の者より聞いたこと」として、家光に上申した。

 松倉家が納める島原は、前領主の有馬家が納めていた時代、村々に有力な家臣が知行地を持ち、そこに住みつくかたちで、その有力家臣が代官として村を管理してきたという特殊性があった。もちろんその有力家臣もキリシタンであり、村がそのまま教区として強い関係性が築かれていた。松倉重政は村を単位とすることは継承しながら、その独立性を弱め、通常の治政方法に移行させようとしてきたのだ。キリシタン対策もこの流れの中にあり、各村の独自性を廃し、村役人、庄屋などを村の代表とし、責めたてることにした。だが、未だにキリシタンたちはその強い団結力で棄教に抵抗しているのである。一度棄教したいわゆる転びキリシタンも宣教師との関わりの中で復帰する者も多かった。

 家光は重政が江戸に来た際に謁見の場を設け、キリシタンへの対応が手ぬるいと叱責した。信綱からすれば手ぬるいのではない。下手なのだ。だが、叱責された重政からすれば一大事だったのである。重政は徳川に取り入ることで小身から四万三千石を誇る大名にまで這い上ってきた男だ。ここで家光から見捨てられれば末路は知れている。何としても家光の期待に応えなければならなかった。この謁見からほどなく、藩領全域にわたる転宗策を強行し、拒む者には容赦のない迫害を加えるように方針を変えた。この時、棄教にどうしても応じない者に対して行った責めは、海に沈めた者七名、雲仙岳の温泉地獄に沈めた者十名であった。この雲仙地獄での責めは重政のお気に入りとなったようだ。その後も度々行われている。

 重政は、その初めから残虐な人物ではなかった。関ヶ原の戦での功績を認められ大和の五条二見城主になったころは、諸役を免除して商業の振興を図るなど善政を敷き、領民からも慕われている。それが悪魔とさえ言われるようになったのは、家光の機嫌を取るため止むに止まれず行ったその行為であったのだろう。己の心を保つために理由づけされた行為が重なるに従い麻痺していき、一種の中毒性を帯びていく。重政の不運は、この地に転封されたことであったのかもしれない。

 

 

 寛永三年(1626)七月十二日、家光は上洛のために江戸を発った。先導は水戸藩主の松平(後に徳川)頼房。家光にとっては歳の近い叔父にあたる人物である。他に、会津藩主、蒲生忠郷。老中、酒井雅樂頭忠世。舘林藩主、榊原忠次。他大名二十名。警備の役を賜ったのは、酒井讃岐守忠勝。高崎藩主、安藤重長。他譜代大名および諸役人七十名であった。この列の中に信綱の姿もある。小姓組番頭として、警護の一員としての実務にあたるため徒歩(かち)である。

 今回の上洛は徳川の力を世に知らしめる一大行事として、後水尾天皇と秀忠の娘で天皇の中宮である和子が、徳川の城である二条城に行幸するというものである。大御所秀忠が心血を注ぎ、やっと実現にこぎつけたもので、秀忠自身は早く五月二八日に発っている。これに信綱の養父、松平正綱も同行していた。

 家光一行は、八月一日、近江の膳所城(ぜぜじょう)に到着。衣装を整え、翌日淀城に入っている。

 行幸は九月六日。御所から二条城まではわずか半里ほどであり、その行程を千人を優に超える人数が、ゆっくりと練り歩く。朝廷側の意地を見せた、実に絢爛豪華な行列である。沿道は幕府側が万全な警備体制をとり、その外側から京雀らが見守っていた。

 天皇の滞在は五日に及んでいる。その間、舞楽、能楽の鑑賞、乗馬、蹴鞠、和歌の会などが催された。

 直後、九月十五日に家光の母、お江の方が亡くなった。危篤の報が京に伝えられたのが十一日である。ともに上洛していた忠長はその日のうちに江戸に向かい、家光も稲葉正勝を江戸に向かわせるとともに、急ぎ江戸に発てるよう準備を進めた。出立は十九日と定められたが、その前に訃報が伝えられ、出立は延期、残務を済ませてから戻ることとなる。

 九月十八日、お江の方の遺体は麻布我善坊にて荼毘(だび)にふせられた。増上寺より我善坊に設けられた荼毘所までの道に筵が敷かれ、上に白布を置く。それを挟むように警備の者たちが並び、その間を葬列が進んでいった。香に満たされた荼毘所では僧侶たちが読経し、お江の遺骸を包むように積まれた香木に火が放たれた。

 家光が江戸に着いたのは十月九日である。葬儀は十月十八日と決まった。

 支えであった母を失った忠長は、ますます酒におぼれていった。生来は人の好い利発な性質であったが、良かれと思って行うことも、裏目に出ることばかりである。領民からの猿害の訴えに自ら乗り出し、浅間神社のある賎機山(しずはたやま)に入ると千二百頭余りの猿を殺した。ここは浅間神社の聖域として殺傷禁制であり、浅間神社では猿は神獣とされていたにも拘らずである。このころから巷間でも「忠長卿狂気」と噂されるようになっていった。

 

 

 翌寛永四年(1627)一月五日、信綱は八千石を加増され合わせて一万石、晴れて大名に列されることとなった。三三歳のことである。小姓時代からの仲間である阿部忠秋と比べると大名となったのはほぼ同期と言える。

 阿部忠秋は元を正秋といったが、前年秀忠から一字を頂き忠秋を名乗るようになっている。この忠秋は次男であったため継嗣ではなかったが、兄が夭折したために家督を相続することになった。父の遺領を継いだのは寛永元年(1615)二三歳の時、六千石であった。この時点で信綱は二九歳、扶持は二千石である。そして昨年、忠秋は加増されて一万石の大名となり、それを追うように信綱も大名となった。遺領などを継いだわけではないこと、初めて知行地五百石を頂くようになったのが二五歳のことであることを考えれば、信綱の出世の速さが分かる。特に家光が将軍になって以降、急激に加増されていった。

 この時も家臣が多く登用された。松平八右衛門忠勝、篠田九郎左衛門、遊佐将監重成、長谷川源右衛門、安松金右衛門吉実、小畠助左衛門正盛、田中与右衛門、奥村権之丞などである。松平忠勝は長沢松平に列なる人物であり、養父正綱から祝いとして譲られた。また、奥村権之丞は右衛門作が選んだ甲賀忍びだ。小者として使っていたものを今回士分として取り立てたのである。権之丞には後々、専属の甲賀者たちをつけ、探索などを任せるつもりだった。

 今回の加増に合わせ、信綱は一橋御門内の邸を拝領した。ことあれば即座に登城できる場所である。信綱はこの邸に、土壁や板壁の実験サンプルを役宅から運び入れさせている。すぐに役に立つものではない。しかし、この実験によって長持ちするものが確認できれば、長い目で見れば幕府の財務に大きな益をもたらす。作事を担当する小細工方に依頼すれば済むのだが、自ら納得のいくまで工夫を凝らしたいという頑固さが信綱にはある。

 さらに、信綱は水を湛えた大小の甕をいくつも据えさせた。火除け水ではない。地震の際に水のこぼれ方で、その強弱を計り、対応の緊急性を判断するためのものである。これなどを見ても、信綱は何事も自分で請け負い、抱えてしまう性質だということが分かる。阿部忠秋などはそのことを気にかけ、何度か意見もしている。

 家光が目指す政(まつりごと)は、特別な権力者を持たない合議制だ。皆で方針を決めていくことで、将軍に変わる権力者を作らない狙いがある。信綱も近い将来にはその一翼に与る身となるはずだ。その時、何でも抱え込んでしまうようでは合議の妨げとなる。忠秋の言葉に信綱は深く頷いたものだが、生来の癖というものはなかなか治まるものではなかった。

 

 

 寛永六年(1629)、将軍家光が疱瘡に罹った。成人してからの罹患は重症化しやすく、家光も安静を余儀なくされている。家光の乳母、お福は家光の疱瘡治癒を祈願するために、伊勢参りを特別に許可されており、幕府全体が落ち着きを失った状態が続いていた。

 この時、「駿河大納言様が将軍を継がれるそうだ」との噂が巷間に広まった。事実、忠長もそれを期待していたようだ。この時点で家光には嫡男がいない。男子に限らず子は一人もいなかった。万一のことがあれば自分が将軍となってもおかしくはない。鬱々と酒に逃げていた忠長だが、このころから宴を開くことが多くなっていった。踊りなどを見物しながら、贅沢な肴が用意される。忠長にしてみれば久しぶりの憂さ晴らしであるが、宴と言っても、周りは家臣だけである。すでに忠長を盛り立てる者はいなくなっていた。父の秀忠でさえ、ほぼ関りを断っている。そのような状況にあることは忠長自身分かっているのだろう。だからこそ、次の将軍になれるかもしれないという夢にすがったのだ。そして、時に夢から覚めると、すべてが恐ろしくなり、手近な家臣、女中などに刀を向けた。奇行、蛮行は一度ではない。度々続いている。精神状態はすでに限界へと近づいていたのだった。

 このころ信綱の邸を訪れる者があった。大河内栄綱(しげつな)である。栄綱の父金七郎冨綱は信綱の祖父秀綱の年の離れた弟にあたり、忠長が生まれた際に傅役(もりやく)に任じられた人物だが、今はもう亡い。栄綱自身も小姓上がりの側近だが、厚遇はされていないようだ。この日の来訪も忠長の名代とはしているが、伝手を頼りにした個人的なものだろう。信綱の帰宅を確認させたうえで、先触れを出しての来訪である。同族と言っても行き来もない状態が続いていたため、親しさはない。通された部屋も仕事上の会見に使用される場所だった。「我君が甚く心配なされておってな」と前置きし、恐る恐る家光の様態を確認しようとする栄綱に信綱は冷たかった。

「公方様にあられてはお変わりなく、心配はご無用とお伝えあれ」

 これだけで会見は終わった。将軍の病状などみだりに他言できるわけがない。それも弁えられぬ者に話すことは何もなかった。

 

 

 謹んで申し上げる

 松倉家において、当主重政逝去のため、長子勝家が継ぐ。

 勝家、すべての領民に対し、棄教の約束をさせ、転び証文を代官に納めさせる。これを嫌い、宣教師マテウス・デ・コウロス逃げる。

 この棄教のこと、家中にも同じ。私も証文を出す。

 この後不思議あり。キリシタン家臣のうち数名が、城中より姿を消す。出奔とも思われるが、親しき者も知らず。城主により討たれたとの噂、これあり。

 信綱は詰所である黒書院西湖の間で、一人右衛門作からの報せを読んでいた。この時、文を長く広げず、頁をめくるようにして読んでいたのは、右手のみを使っているからである。左手は文机の上に置かれている。怪我の後、左手の状態は回復していない。ただ、それを悟られないよう、信綱は動きを工夫しており、今ではその動き方がすっかり自然になってしまっていた。

 報せには右衛門作が仕える松倉家の近況が記されていた。

 寛永七年(1630)、松倉重政が急逝。このために長男の勝家が急遽後を継いだ。右衛門作の報告によれば、代わった勝家のキリシタン取り締まりは、父の頃よりも厳しいらしい。松倉家は、大和五条一万石から、一挙に四万石まで加増されての転封であった。このため、急ぎ家臣を増やさなければならなかった。この時に登用されたのが、松倉家の前にこの地を治めていた有馬直純天保の際に、去っていった浪人たちである。この地を離れることを拒否した者たちであり、多くがキリシタンであった。右衛門作もその中の一人だ。

 このような者たちは、領民のことも知悉しており、転封当時は実に重要な存在であった。しかし、キリシタンへの取り締まりが強化されるにしたがって、目障りになっていったのだ。ただ、家臣の姿が消え、城主に討たれたのではないかとの噂が流れているというのは、藩内の関係がかなり悪化しているものと思われる。しかし、実際には何の騒ぎも起きていない中で口を出すことは出来ない。今回の転び証文取り立てによって、沈静化してくれればよいのだが。

 

 

 寛永八年(1631)、忠長の行状が幕府の知るところとなった。鷹狩りの場で焚火を用意するのを手こずったとして、忠長が家臣を切り殺したのだ。これが幕府に伝わったのである。

 忠長の父で大御所の秀忠は即刻勘当としたが、家光は調べを進めながらも酒井忠世、土居利勝を遣わし改心を迫った。先年疱瘡に罹った時に忠長が次の将軍になるのではないかとの噂が流れたことがある。これは単なる噂とかたずけられる話ではなかった。その可能性も高いことを家光自身承知していたのだ。だからこそ、忠長にはそのような立場にいることに覚悟を持ってほしかった。だが、忠長は「何の恥ずるところなし」と繰り返すのみだった。

 忠長の行状を調べる中で最も問題視されたのが、先の浅間神社聖域における猿殺しであった。この浅間神社は徳川家康に所縁(ゆかり)が深く、浅間神社を貶めることは、家康を貶めることに繋がってしまうのだ。結果的に、忠長は所領没収の上、甲府へ蟄居となることとなった。蟄居とは行動制限を伴う流罪である。それでも死罪にならなかったことで、忠長には甘えが残ったようだ。

 翌寛永九年(1632)、秀忠が死去する。忠長は蟄居の身でありながら葬儀への参列を希望し、当然これは認められなかった。

 

 

 寛永十年(1633)九月、松倉家の家臣三五名から松倉家に申し分ありと幕府への訴えが起こされた、つまり、松倉家には重要な問題があり、家内だけでは修繕することができないというのだ。この件については、信綱のもとにも右衛門作から報せが届いていた。通常であれば、重大な問題をはらんでいることが認識できたであろうが、この時の信綱は多忙を極め、つい見落としてしまったのである。

 まず二月、谷中に下屋敷を構えることとなった。翌三月には後に若年寄と呼ばれる六人衆が定められ、阿部忠秋、堀田正盛らとともに信綱も任命されている。これに伴い、老中との役割分担がなされ、大事つまり国政や大名に関わることは老中、小事つまり旗本などへの対応は六人衆が受け持つこととなった。

 五月には一万五千石加増、寛永七年(1630)にも加増があったことから都合三万石で忍藩を任され、晴れて城持ち大名となる。

 同月、世にいう柳川一件解明のため、阿部忠秋と信綱、大目付の柳生宗矩に調査の命が下った。対馬藩主宗義成(そうよしなり)が、家臣の柳川調興(やながわしげおき)の暴走に自ら対処しきれなくなり、老中の土井利勝に訴え出たことが発端である。さっそく利勝が調興に確認したところ、驚くべきことを話し始めたのだ。つまり、対馬藩が慶長十二年(1607)の朝鮮との国交回復において国書を偽造し、その返書を改ざんしたというのだ。しかも、この偽造と改ざんはその後も続き、元和二年(1617)、寛永元年(1624)にも行われたという。幕府は土井利勝、酒井忠勝に両名の尋問を命じるとともに、調査を開始したのだ。調べられた事件のあらましは次のようなものだった。

 豊臣秀吉による朝鮮出兵によって朝鮮との外交が断絶、家康は政権奪取の後、この関係の修復を熱望した。これを担ったのが対馬藩の宗家であった。講和に向けての交渉が進む中、朝鮮側から二つの条件が示された。

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  1. 朝鮮国王の墓を荒した犯人の引き渡し
  2. 家康から朝鮮国王に宛てた国書の送付

 朝鮮からすれば当然の条件であるが、幕府としては易々と受け入れられるものではない。1.に関しては今更調べられるものでもない。2.についてはさらに難問だった。先に国書を送ることは相手への恭順を示すからだ。宗家は速やかな国交正常化を求めるあまり、すべてを偽りで対応することとした。まず、対馬藩内の罪人二名を国王墓荒らしの犯人に仕立て上げた。そして、家康からの国書を自ら偽造したのである。朝鮮停戦の交渉に明の使者が来日した際、秀吉に与えられた「日本国王印」を宗家が所持していたのも、この大それた行いに踏み切った要因であろう。この印は秀吉が受け取りを拒否し、その際処分するために与っていたものが残っていたのだ。

 朝鮮は家康からの国書が届けられたことで、四百六十名あまりの使節団を派遣し、家康、秀忠に謁見することとなった。この時も朝鮮からの国書を改ざんしている。日本国王からの国書への返事という体裁であったために、すり替えざるを得なかったのだ。これらを中心となって行ってきたのが、当時の藩主宗義智(そうよしとし)と家老の柳川調信(やながわしげのぶ)だった。義智はこの功績によって三千石を加増され、そのうちの一千石を調信に分与するよう命じられた。現在は宗家、柳川家ともに代替わりをしているが、今回柳川調興が、父が幕府から頂戴した一千石以外をすべて宗家に返還し、幕臣となったうえで朝鮮貿易を幕府の直接管理のもと統轄していこうと企んだのだ。このため、義成は調興の独断独走を非難し、調興は宗家の罪状を言上することで宗家から離れようとした。これが今回の一件である。

 

 この間、信綱は柳川一件に集中できていたわけではない。新領地の経営に加え、柳川一件調査の命が下ったのとさほど日を置かず、甲賀水口への出張が命じられている。これは、明くる寛永十一年(1634)に計画されている家光上洛に関わる案件であった。水口は今回の行程で家光が宿泊する予定になっており、新たに宿所である水口城を建築していた。この見分を命じられたのだ。出発は五月二十日、水口の他、大阪、奈良、堺なども巡検し、六月二六日に帰府している。この時、奥村権之丞も同行しており、甲賀において元上忍らと談合し、信綱の私設甲賀組開設について打ち合わせている。

 帰府後、信綱はこの私設甲賀組のことを数名に話しているが、興味を抱いたのは家光の御側衆である中根正盛のみだった。この時正盛は信綱を通じて甲賀との連絡口を確保している。これは甲賀の忍びたちにとってもありがたいことだった。甲賀ゆれの後も甲賀に残る事を望んだ者たちは士分を許されず農民にならざるを得なかった。さらに、戦国の世が去ったことで忍び働きの機会もなくなり、技能のみならず、忍びとしての自意識すら維持していくのが難しい状況となっていたのだ。幕府にも甲賀組、伊賀組があるが、実質上門番の扱いである。甲賀の者たちは、喜んで正盛と連絡を取り合うようになっていった。

 また、このころ家光がうつ状態となっており、信綱はこの対応にも追われている。

 十二月五日、家光の養女大姫が前田光高に輿入れ。信綱も供奉している。その翌日には忠長が自刃。これらの事柄は、家光のうつ状態の引鉄ともなっていたのであろう。こうして目まぐるしい年が過ぎていった。

 

 寛永十一年(1634)四月五日、上洛の準備のため諸大名らに暇(いとま)が出された。信綱も上使として数家を回っている。ここからは上洛のための準備で目の回るような多忙さである。特にこの年の正月に幕府の中心人物として将来を嘱望されていた稲葉正勝が亡くなったのが大きかった。ようやく江戸を発したのが六月二十日。三十万の大軍を率いての上洛であった。信綱はもとより、長子の輝綱、養父の正綱、正綱の実の次男正信も供奉している。

 この上洛は幕府の力を誇示する目的も大きい。そのため行程はことさらゆっくりとしたものだった。

 小田原城に宿をとった時である。家光は急に信綱を呼びつけた。

「其の方には騎馬を禁ずる。これよりは徒歩にて供をいたせ」

 突然のことである。誰にも理由は分からなかったが、信綱自身はこの計らいに感謝した。怪我以来左手が利かず、平地であれば騎馬に問題はなかったが、山道ではきつい。特にこの先にある箱根は天下の険と言われるだけに片手では心もとなかった。騎馬を許されたのは駿府に至ってからだ。この駿府では家康がいた頃からの由緒ある馬場で、騎馬の術を披露する催しが開催された。それを指導したのが信綱であり、家光はその出来を褒め、騎乗を許した。

 なお、この駿府では忠長が穢した浅間神社の大改修を約束している。家光は前年のうつから一転して軽躁状態に入っていたようで、立ち寄った先々で大盤振る舞いを繰り返している。

 江戸に戻ったのは八月二十日であるが、九月十三日には日光社参に向かっている。信綱はこれにも供奉している。日光は家光の祖父家康の霊廟がある。この東照宮は父秀忠が造営したものだが、これを大改修し、自分好みのものに作り直したいというのが家光の希望である。その準備と、上洛の報告のための社参であった。

 

 様々な行事の間にも、柳川一件の調査は続いていた。柳川一件は調べるほどに、事の重大さが際立つようになり、対馬にも捜索人を遣わすこととなった。この時赴いたのが、土居利勝の家臣横田角左衛門と信綱の家臣篠田九郎左衛門である。対馬に着いたのは十二月十九日。二人は公正さを崩すことなく捜査を進め、藩が提供しようとした邸ではなく、西山寺を宿としたばかりか、島民からの饗応も一切受けなかった。必要なものも自ら買うようにするなど徹底したものだ。この行動からも、利勝、信綱両家の家臣への教育の良さが分かる。

 この捜索は慎重に時間をかけて行われたが、その中で明らかになってきたのは、宗家の主導ではなく、柳川家の主導として改ざんが行われていたというものである。

 この審議の間、朝鮮との国交は一時的に中断されていた。幕府としては、朝鮮通信使が来日し、国書を交わすことで将軍が外交を掌握しているのだということを内外に示すことができる。これは、重要なことであった。だからこそ、慎重な対応が必要だったのだ。

 角左衛門、九郎左衛門の両名が宗義成のもとで改ざんに関与した老臣島川内匠、柳川調興の腹心松尾七右衛門らを連れて対馬を発ったのは、年が明けた寛永十二年(1635)二月の半ばである。

 寛永十二年に入ると、諸老臣が集まっての会議が各家の邸にて頻繁に開かれるようになっている。一月二三日には信綱邸で、一月二五日には酒井忠勝邸で、さらにその翌日一月二六日には正綱邸で開催されている。柳川一件は諸大名からも強い関心を示され、それぞれの味方にわかれ、様々な申し出を幕府にするようにさえなってきている。対応が急がれた。

 三月三日、家光は松平信綱、阿部忠秋、阿部重次を呼んだ。みな六人衆に列なる者たちであり、家光子飼いの重臣たちであった。みなが揃うと家光は人払いをした。

「柳川調興の件だが、だいぶ難航しておるようだな。余が自ら尋問を行うこととする。皆の者には早く老中として余を補佐してほしいと願っておる。よいか、これより七日のうちに準備いたせ。尋問は十一日、千石以上の旗本、大名うち揃って聴聞の上で行うよう取り計らえ」

 家光自らが尋問すること、大名や旗本を集めて行うための準備をすることということは分かる。だが、自分たちに早く老中になって補佐してくれと、家光がわざわざ口にしたのはなぜなのか。誰もが首をひねる中、信綱には思い至ったことがあった。家光は代替わりを狙っているのではないか。今の老中は秀忠の時からの重臣である。これを自らに親しい者と変えていこうとしているのではないか。そのような狙いがあるのだから、心して準備しておけと。

 昨年、家光上洛の際、江戸留守居を命じられたのは酒井忠世であった。だが、西ノ丸から出火、焼失させてしまった。忠世はその責任を取り老中を辞している。この機に代替わりを進めようとしてもおかしくはない。ただ、現老中に何ら落ち度はなく、次代を狙うものに何ら功績がなければ、話は進まないのだ。

「ならば、もうどのような断を下すかも決められているか」

 信綱は心の中でつぶやいた。もちろん、これらはみな信綱一人が考察したに過ぎず、みなには知らせることは出来ない。ただ、信綱自身は、この考えのもとに準備を進めていくことにしたのだった。

 翌四日の朝、信綱は自邸に宗義成を呼び出し、尋問している。その後、諸老臣が信綱邸に集まり会議を開いている。

 さらに、七日にも信綱は自邸で尋問しているが、この時には義成と調興の両名を呼んでいる。この日の尋問は深夜にまで及び、翌日には調書を家光に提出している。

 十一日、江戸城大広間はこの時点において日本を動かせる者たちが勢ぞろいした。

 上座に家光が座り、その側に土井利勝、左に阿部忠秋と太田資宗、右に堀田正盛と阿部重次が控えている。大広間の左手には、奥から井伊直孝、松平忠明、板倉重宗ら譜代家臣。その背後に小姓衆、お側集らの近習が控える。右手には、奥から尾張徳川義直、紀伊徳川頼宜、水戸徳川頼房の御三家。続いて伊達政宗、前田利常、島津忠恒、毛利秀就、細川忠興、鍋島勝茂と諸大名が並ぶ。その背後は側近衆、儒者、旗本らが居並んだ。家光を正面に宗義成。その隣には取次として酒井忠勝。その後ろに柳川調興。横に取次として松平信綱が控えた。

 家光は国書改ざんの事実、義成の監督責任などについての質問を傍らの利勝に伝え、利勝からそれぞれの取次役に伝えるという形で尋問が進められた。

 話は偽造の事実だけではなく、国際情勢にも及んでいった。この頃、後に清と呼ばれる後金が明、朝鮮に圧力をかけていた。朝鮮に味方するか、後金を支援するかでも日本の置かれる状況は大きく変わっていく。調興はこのことを指摘し、義成の無能を強調した。

「朝鮮に対しての対応は絶妙の加減が必要であり、宗家に任せておくことは百害あり。私にお任せなくば、再び戦となりましたときに国を損なうことになりましょう」

「朝鮮は友国にございます。されど秀吉は故なくして兵を動かし、間もなく滅んだは天のむくい。権現様はその過ちを正されたお人にござりますぞ。今、この調興が申す如く、再び兵を動かすことあれば、殿下はいかなる顔をもって権現様と相見(あいまみ)えるつもりでござるか」

 伊達政宗の大声が大広間に響き渡った。戦国を生き抜いた武人である。七一歳にして未だ衰えを見せていない。側では徳川頼宜も大きく頷いていた。両名ともに義成の側につくことを表明している。

「仙台中納言殿、御前であるぞ。勝手なる発言は控えられよ」

 政宗に負けぬ声で恫喝したのは土井利勝であった。利勝や堀田正盛、板倉重宗、儒者の林羅山らは調興と親しくしている。この一件は、両陣営の戦いでもあったのだ。

 家光は翌日には沙汰を下している。

 宗義成は御咎めなし。引き続き朝鮮との外交を担当することとなった。一方の柳川調興は財産没収の上、津軽への流罪となっている。また、宗家の老臣島川内匠と調興の腹心である松尾七右衛門は死罪。義成を補佐していた外交僧の玄方が南部へ流罪となっている。ただし、津軽藩で調興は扶持米と邸を頂戴し、流人には禁止されていた妻帯まで許されている。これは、朝鮮外交において不足があれば、いつでも調興を戻すという義成への圧力であった。

 いずれにせよ、柳川一件が終息を迎えたことで、滞っていた事案の審議が再開された。松倉家の家臣らによる訴えもその一つである。裁定が下されないまま、訴人たちは、それぞれの在所に籠って幕府の答えを待ち続けていた。幕府よりの返事が来たのは寛永十二年(1635)も末である。幕府の裁定は訴えの棄却、つまり松倉勝家に対しては何ら御咎めなしというものだった。訴人たちは勝家の報復を恐れ、何も告げずに消えたとの報告が幕府に届いている。さらに右衛門作は松倉家を抜けた者が四八人まで膨れ上がったと報告している。訴えを起こした者の近親者もいっしょに消えたのだ。それぞれの家族まで入れれば相当の人数が消えたことになる。藩の機能にも影響するだろう。右衛門作によれば、今回消えた者たちは、島々に潜んでいるのだろうということだった。何かが、確実に動き始めていた。

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