寛永二〇(一六四三)年一〇月二日、天海大僧正が入寂した。一〇八歳という異例の長寿であった。遺体は家康が眠る日光山に葬られることになり、道中警護の総指揮を正綱が任された。御三家や諸家からも護送のための家士が動員され、僧俗合わせて一〇〇〇人余りが葬送に供奉することとなった。
同月六日に寛永寺を出た棺は、川越喜多院を経て一〇日に日光山へ到着した。そこで連日連夜の法要が営まれ、一七日に廟所へと移された。
信綱は天海が死去した時には後光明天皇即位の式典参列のため上京しており、葬儀に立ち会うことはできなかった。信綱にとって、七月に天海を見舞ったのが最後の別れとなった。その日のことを信綱は忘れることができない。すでに寝たきりとなっていた天海であったが、信綱の姿を認めると起き上がって震える手を差し伸べたのであった。
「おお、これは伊豆殿。忙しいところをわざわざ見舞いに来てもらってかたじけない。これまでも伊豆殿には本当に世話になった。
わしは果報者じゃ。これほどまでに多くの人がこの老いぼれのことを気にかけてくれる、実にありがたいことじゃ。
先の川越大火で焼失した喜多院も、家光殿のおかげですっかり元どおりとなった。再建された客殿や書院は、江戸城にあった別殿を移したものと聞いている。その中には家光殿が生まれた間や、春日殿が使われた間もあるそうじゃ。そういった心遣いもまたありがたい。
加賀殿(正盛)も私財をなげうって仙波東照社を建て直してくれた。わしがここまで生きてこられたのも、そういった周りの人々の助けがあったからにほかならない。もうわしには思い残すことはない。ただ感謝の気持ちでいっぱいじゃ」
最期まで天海は謙虚であった。信綱はうるむ目でしっかりと天海の手を握りしめた。
一つの時代が終わりを告げようとしていた。九月には春日局が逝去し、翌年七月には利勝も死去、一二月には年号が正保へと変わった。戦国の世は遠い過去のこととなり、人々は新しい時代の幕開けを予感していた。
信綱自身も、まるで視界がぱっと開けたような心境にあった。切支丹の動きは沈静化し、対外問題は一応の決着を見せていた。飢饉もようやく一息つき、家光も心の病から立ち直っていた。とりわけ寛永一八年に家光の世継ぎとなる男子が生まれたことは朗報であり、江戸城全体がその喜びに包まれていた。
後ろ向きな問題から解放された信綱は、これまでにない自由を感じていた。今まで体験したことのないようなやる気がみなぎってくるのをはっきりと自覚した。それとともに、忘れかけていた仕置に対する情熱が身体の中によみがえってきた。自らの手で新しい時代を切り開いていきたいという思いがふつふつと沸いてきた。智恵伊豆の智恵伊豆たる活躍は、まさにこの時からはじまるのである。
正保二(一六四五)年正月、川越の筆頭家老和田理兵衛が報告のため信綱の屋敷を訪れた。六〇歳を過ぎてなおかくしゃくとした理兵衛は、信綱とは忍領時代から主従の間柄であり、原城への従軍も果たしていた。生来の真面目な性格が彼の持ち味といえたが、それが時として若干ずれた言動となって現れるところに愛嬌があった。信綱はそういう理兵衛がおかしくてたまらない。吹き出しそうになるのをこらえながら報告を受けることもたびたびあった。とはいえ、理兵衛のそのひたむきさが周りの者を巻き込み、多くの人々を動かしているのも事実であった。加増とともに膨らむ一方の信綱の家臣団を一つにまとめているのは理兵衛の力であった。信綱の理兵衛に対する信頼は絶大であった。
「理兵衛よ、川越の町の復興状況はどうであろうか?」
信綱はまず、最も懸案となっていることを理兵衛に尋ねた。
「はっ、目下順調に進んでおります。ただ完成にはあと何年かかかると思われます」
「それはそうであろう。なにしろ先の大火は、城下町はおろか城内や仙波東照社まで焼き尽くす猛火であったからな。大火の直後には領主も変わり、それを引き継いだ私も領内にいないのだからなおさらだ。
東照社の方は加賀殿が造営奉行となって再建してくれたからよかったものの、城と城下はそうはいかない。我々自身の手で復興させることになる。しかも飢饉により余力のなくなっている領民たちを夫役に駆り出すのであるから、彼らの負担をできる限り軽くするためにも長い期間をかけて普請に取り組まざるを得ない。
また復興するからには、将来を見据えてよりすぐれたものを作り上げるという姿勢も大切になってくる。そのことがますます普請を遅らせることにつながるのも承知している。
理兵衛よ、六年前に私が川越を訪れた時のことを覚えているか?」
「はっ、殿は川越に転封となったばかりで、上様からお暇をいただいて大火後の川越の城と城下を五日間ほどかけてご覧になられたのでしたな。そのとき殿は私に、城地の拡張と城下の整備とをお命じになられました」
「そうだ。当時の川越といえば、それは悲惨な状況にあった。大火から一年ほどしかたっていない城下は焼け跡に掘立て小屋がまばらに建つのみで、城内の方はさらにひどく、もともと土塁や門が古く傷んでいたところへ三の丸に大火が及び、加賀殿が転封となった後は一時期城主も置かれず荒れ放題となっていた。
とはいえ、私はそのことを悲観していた訳ではない。むしろそれだからこそ、城の縄張りや城下の町割りを一から見直すことができるのではないかと考えたのだ」
「なるほど、さすがは殿」
「復興に当たり、私は川越が担っている役割を再検討してみた。その結果第一に頭に浮かんだのは、当然のことながら川越が江戸の北を守る軍事拠点であるということであった。北から襲来する敵に対し、その動きを監視し障壁となることを川越は期待されているのである。私は川越の町を、全域にわたり軍事的に強化することを再建の柱に据えることにした。
もっとも、こうした川越の役割は、実は川越城が築造された時から少しも変わっていない。時代によって、江戸の守りが鎌倉や小田原の守りであったというだけの違いなのだ。
知ってのとおり、この城は二〇〇年ほど前、江戸城と並び太田道灌によって設計された。道灌という男はよほどすぐれた築城家と見えて、川越城を最も理にかなった場所に築造している。台地の先端部に位置し、北や東の低地から攻め入ることは難しい。さらに城の北には赤間川が外堀のごとく巡り、東は伊佐沼が行く手をさえぎっている。南面は湿地帯で、大軍で押し寄せることは困難である。
城地についても、私が見た六年前にはいまだに道灌築城時の面影を残しており、攻城戦を意識した堅固な造りをしていた。その構造は『道灌がかり』と呼ばれるもので、本丸・二の丸・三の丸が堀や土塁によって独立した曲輪(区画)を形成し、城が攻撃を受けた場合まず三の丸で食い止め、三の丸が攻め込まれたら二の丸、さらに本丸と移動しながら戦えるようになっていた。築城から二〇〇年たった現在でも、この部分は手直しせずに通用すると思われた。
ただしこの城にも弱点はあった。理兵衛よ、それがどこかわかるか」
「そうですな。北、東、南と来ておりますので、残るは西ということになりましょうか」
「うーん、半分当たっていて、半分はずれている。たしかに城の西側には城下町があり、敵の侵略を受けやすい。だが讃岐殿をはじめ歴代の城主もそのことに気づいており、対策として城下の西の外縁に寺院を連ね、敵を迎え撃てる空間を確保した。平時においてそれは城下への武力侵攻を思いとどまらせる心理的効果をもたらし、結果として城の西側から攻め込まれる恐れはほとんどなくなったといってよい。
理兵衛よ、この城の弱点は、実は南面にあったのだ。川越は南からの攻撃に弱い」
「しかし殿、先ほどの殿の話からしますと、城の南は攻めにくい湿地とのことではありませぬか。しかもその先は江戸城のある方角ですから、南から攻撃を受ける可能性は低いと思われますが」
「そう思うであろう。道灌も同じように考えた。当時道灌は鎌倉方に属する関東管領の執事で、川越は南に位置する鎌倉を背に、北にいる古河公方と対峙する構図となっていた。勢い城の備えは北側に重きが置かれ、南側の防備は二の次にされていた。南からの攻撃に対し、この城は意外なもろさを抱えていたのだ。その証拠が、今から一〇〇年前の「河越(川越)夜戦」だ。その当時川越城を守っていた小田原北条家は、謀略により城の南側を敵に取り囲まれ、危うく壊滅しそうになった。
南から敵が攻めてきたとする。彼らは大した抵抗を受けることなく、容易に城の近くまで侵入してくるであろう。敵はそこから湿地のある城の真南を避け、西の城下町へと回り込むはずである。彼らはそこで火を放ち、商家を楯に銃撃戦を繰り広げる。城内の兵士たちは城の中に釘付けとなり、そのうちに城下の火が燃え移って大混乱を来す。そこから落城までは時間の問題だ。城側は手も足も出ず、みじめな敗退を強いられることになる。そうならないようにするには、城下を含めた城の備えを徹底的に見直すしかないのだ」
「改めて指摘されますと、今まで平気でいられたことがうそのように思えてきますな。我々はまるで、城門を開いて敵を歓迎しているようなものだった訳ですな」
「まあそうは言っても、明日になって突然南から見知らぬ敵がやって来るというものでもない。あくまでこれは有事の話であり、その最大の懸案が南側の防備であるということだ。だが、実はそこに一番の難しさがある。漠然と南と言ったところで、すぐには完璧な対応がとれるものではないからだ。
守りというのは、広範囲にわたり何重にも防衛網を巡らせてはじめて意味を持つ。完成までは試行錯誤の繰り返しであり、その隙に敵の侵入を許したりすれば肝心の城の方がすぐにやられてしまう。
そこで私は考えた。真っ先に手を着けるべきは城の内側の充実である、と。城の外側をいくら固めたとしても、城自体の守りが貧弱では意味をなさない。従来のごとく三の丸と城下が近接したままでは、再び城下の火事が城に燃え移る恐れもある。大砲が存在する今日、本丸でさえ確実にその命中圏内にあるという厳然たる事実もあった。城の防備を十二分に厚くすることが、軍事拠点としての必須条件となっていたのだ。そのためには城下が焼け野原であるうちに、城を西に向かって拡張しておくことが最善の方策であると私には思えた。理兵衛に何よりも先に城地の拡幅を命じたのはそういう背景があったからだ。幸い城の縄張りは順調に進み、城地としていつでも使えるようになったのは結構なことだ。
本格的な城普請は、領民が大火と飢饉から立ち直るのを待ってからでも遅くはない。今は息子の輝綱に城と城地の設計をさせている。輝綱の観察眼は私よりはるかに鋭い。原城鎮圧の際にも、城の構えや兵士の動きなどをじっくりと観察していた。『父上、川越城のような平城に石垣は向いておりません。むしろすべりやすい土塁こそがこの城には適しております』などと一人前のことをぬかしておる。
輝綱の発案により、三の丸の西側は二重三重に曲輪が構築され、大手門には丸馬出しが設けられる。外見上も難攻不落の印象を与えることになろう。城が完成したあかつきには一体どのような勇姿を見せてくれるのか、私は今から楽しみにしている」
「若殿様は川越にお見えになるたびに、精力的に普請の現場を見廻られております。また殿のご子息なれば、周りの者に常に的確な指示を下されております。おかげでこの私は若殿様の指図に従っているだけで用が足りている次第でござります」
「いやいや理兵衛よ、勘違いするな。城を輝綱に任せたからといって、理兵衛の存在がいらなくなったということではないのだ。理兵衛には理兵衛の役目がある。中でも重要なのが城下の整備だ。
私は川越には、軍事拠点のほかにも生産拠点と流通拠点という重要な役割が課せられていると思っている。この三つとも江戸にとってなくてはならない役割だ。
生産拠点という認識は、先の飢饉の苦い経験から来ている。飢饉は百姓たちの生活の奥深くまで蝕んだ。そこには仕置について反省すべき点が多く含まれている。だが、作物の出来不出来という不確実な現象に農村の生活がかくも翻弄されるのは、そもそもの百姓の生産基盤が脆弱であるからにほかならない。今の農村はあまりにも余裕がなさ過ぎるのだ。そしてそれは農村だけの問題ではない。百姓の疲弊は必ず都市を巻き添えにする。当たり前の話だが、都市に米を供給しているのはもっぱら農村だからだ。とりわけ江戸は大権現様ご入府以来日本の中心となり、人口も五〇万人を超え今なおものすごい勢いで増え続けている。江戸周辺の農村は、絶えず江戸に向けて十分な食糧を供給することを求められているのだ。
その中でも川越は、江戸から第一級の穀倉地帯であるとの評価を得ている。生産拠点としての期待はきわめて高い。私はこれから領内を隅々まで調べ上げ、いかにして穀物の増産を図るかを検討するつもりでいる。穀物だけでなく、あらゆる消費物資について生産の可能性を探ろうと考えているのだ。
もっとも、川越の生産物だけでは江戸の町の物資不足を解消することはできない。江戸の膨張はそれほどまでに速い。そのため川越の周辺の村々からも商品物資を集められるようにすることが、これからは大切になってくる。川越の町にいかにして流通拠点としての優位性を持たせられるかが今後の課題となるのだ。
そこで理兵衛の登場となる。先ほど話した川越の南側の軍事的強化と、城下町本来の流通機能を両立させた城下の町割りを、理兵衛にやってもらいたい。もちろん一人で簡単に思いつくものではあるまい。他の家老をはじめ家臣たちの意見も参考にしたうえで、さまざまな要求に応じたすばらしい城下を建設してもらいたいのだ」
理兵衛は意気に感じたといった様子で、胸を張って答えた。
「承知いたしました。衆知を結集し、殿にもご納得いただけるような城下町を作り上げるよう努力いたします」
「うむ、期待している。
とはいえ、商品物資を川越に集積できたとしてもまだ十分とはいえない。それらを江戸まで運ぶ手段を持たなければ、所詮は絵に描いた餅になってしまう。そこで私にもう一つ考えがある」
「どのようなお考えでござりましょうか」
「舟運だ。河川を利用した舟による運送を積極的に行うのだ」
「ほお、舟運でござりますか」
「理兵衛よ、考えてもみよ。たとえば米を陸路運んだとしよう。馬の背に振り分けたとしてせいぜい二俵、荷車を利用したとしても数俵運ぶのが精一杯だ。しかもそれを江戸の蔵屋敷に納めるとなると、運び込むまでにおそらく数日はかかる。
ところが舟を利用すれば、一隻で数十俵は運ぶことができる。二、三日もあれば確実に江戸まで到着する。陸送に比べ、舟運は圧倒的に有利なのだ」
「なるほど、殿の眼の着けどころはさすがでござりますな。それに荒川であれば浅草に直結しておりますので、米をそのまま蔵屋敷に納められるという利点もあります。誠にすばらしい殿のお考えと存じます。しからば早速、荒川の河岸場を本格的に整備させることにいたしましょう」
「待て待て理兵衛よ、違うのだ。荒川ではない。あの川は今も舟運に使われてはいるが、乾燥した天候が続く春先などは水の量が著しく減り、舟行が非常に困難になる。通年の利用には適さないのだ」
「それではどうするおつもりで?」
「内川を利用する」
「内川を?」
「そうだ。理兵衛も知っているであろう、加賀殿がいかにして仙波東照社の建築資材を川越に運び込んだかを?東照社を急ぎ再建するため、加賀殿は内川を使って江戸から資材を搬入するという名案を編み出したのだ。それまでも内川は舟運に供されてはいたが、加賀殿は内川にかかる橋を改修し、河岸場を従来より上流に移すことで使い勝手を飛躍的に高めることに成功したのだ。内川も下流では荒川に合流するので、江戸での利便性は荒川本流と変わらない。加賀殿はありがたい財産を我々に残してくれたものだと思う。
もちろん、今のまま何の手も加えずに内川を利用できるものではない。実際に舟で運ぶとなれば、蔵米だけで一度に一〇〇俵や二〇〇俵は積み込むことになる。そのため全線にわたり一定以上の水深を確保しなければならないし、上りと下りがすれ違えるだけの川幅も必要になってくる」
「仰せのとおりでござりますな。まずは内川を本格的な舟運に供するために何が必要か、そこのところを調査させましょう」
「そこで提案なのだが、内川の調査から河川の普請、河岸場の整備に至るまで、安松金右衛門にやらせてみようと思う」
「安松金右衛門でござりますか?」
「そうだ」
「申し訳ござりませぬが、私は金右衛門という男をよく存じませぬ。その者にこのような大役が勤まるのか、私には判断がつきかねます」
「それは私とて同じだ。金右衛門は先月、四郎右衛門殿からもらい受けたばかりだからな。測量の専門家というのが四郎右衛門殿の触れ込みなのだが、その実力のほどはまったくの未知数だ。そこで私は何かの機会に、この男を試してみたいと思っていたのだ」
「さようでござりましたか。そういうことでしたら金右衛門を家中の小畠助左衛門に付けさせ、その仕事ぶりを助左衛門に監督させることにいたしましょう」
「うむ、頼む。金右衛門がどれほどの器量を持つのか、よく見極めて報告するよう助左衛門に伝えてくれ」
「はっ、かしこまりました」
四郎右衛門とは、原城の一揆鎮圧の際信綱に同行した勘定組頭の能勢四郎右衛門頼安のことである。頼安は当時、家光の密命で信綱を監視する役についていたのであるが、信綱のことを間近で見ているうちにむしろ信綱に共感を覚えるようになっていった。「惚れた」と言った方がよいかもしれない。その決断力、自制心、そして人間性、頼安は心底信綱に惚れ込んでしまったのである。
一揆鎮圧から戻った頼安はしばらくの間代官を勤めていたが、前年の末退任するに当たり金右衛門を信綱に託すことにしたのであった。
「この男はなかなかすぐれた能力を秘めております。それは確かなのですが、私には十分に使いこなすことができませんでした。伊豆守様であれば金右衛門の能力を存分に引き出せるに違いないと思い、是非ともお側に置いていただきたく連れて参りました」
頼安の陰で口を真一文字に閉じている金右衛門を見た時、信綱は何かしら心を動かされるものを感じた。それが何かはわからなかったが、この先大きなことを成し遂げてくれるのではないかという期待感をこの男は漂わせていた。
正保四(一六四七)年正月、理兵衛が信綱のもとにやって来た。信綱の屋敷へ来るたびに理兵衛の表情が晴れやかになっていくのを、信綱は感じ取っていた。おそらく城下の町割りが順調に進んでいるのであろう。理兵衛を見るたびに、信綱もうれしくなった。
この二年間で信綱が川越を訪れたのは、前年の四月に他界した久綱の葬儀の時だけであった。信綱は完成した川越の姿を久綱に見てもらいたいと望んでいたが、それは果たせずに終わった。今にして思えば、久綱は江戸に詰めている信綱の代わりに川越を守ってくれていたのであろう。そんな久綱に何ら恩返しらしいことができなかったことを、信綱は心底悔やんだ。
そうしている間にも城下の町割りは着々と進み、普請は今や大詰めを迎えようとしていた。理兵衛は誇らしげに図面を広げ、自ら手がけている町割りの進捗状況を話した。
「まずは城下の入口である南面から説明させていただきます。殿のご指摘のとおり、城の南側は備えが手薄でありますが、ここに大規模な障害物を設置してしまいますとかえって江戸との往来に支障を来すことになります。城下町が今後発展し、拡張していこうとする時にも自由がきかなくなります。そこで障害物に頼らない防衛手段を考案いたしました。具体的には進入路の左右に足軽屋敷を連ねることにしたのでござります。それによって、外敵に対する機動的な防衛態勢がとれるものと考えております。
そこから城下町を北上します。城下へ進入する道路には要所要所で鍵状や丁字状の屈曲を設け、敵の目から城の守備隊の動きが見通せないようにします。さらには今後すべての進入路に木戸を設け、外敵を遮断できるようにもいたします。
そのまま直進しますと、城の表口である西大手門に差しかかります。ここが川越の交通の基点となります。ここには伝馬の継立場を設けます。
大手門の前を左に折れますと、町の中心である高札場に至ります。ここから東西南北に延びる大通りは、幅員に余裕を持たせるとともにあえて屈曲を設けず、流通拠点としての機能を優先させております。この高札場の四方の区画と大手門前の区画、合わせて五つの区画で町立てを行い、交替で定期市を開催させる予定でござります」
「うむ、よくやった。軍事と流通をうまく両立させたすばらしい設計だ。
数年内には内川の舟運も開通するであろう。そうなれば近隣の村々の商品物資も川越へと集中する。定期市は一般的な月六回の六斎市ではなく、月九回の九斎市とするのがよいであろう。そうすることによってますます川越の優位性を高めることができよう。
何にしても理兵衛よ、いろいろとご苦労であったな」
理兵衛は心からうれしそうな表情を見せた。
「ところで理兵衛よ、町ができ上がるとなれば、景気づけのために祭の一つも立ち上げてみたらどうだ。江戸の天下祭というのを聞いたことがあろう。すこぶるにぎやかなものだぞ」
「なるほど、祭でござりますか。私は天下祭のことはうわさでしか知りませぬが、何でもたいそうな盛り上がりだそうですな」
天下祭を見たことがない理兵衛は、あやつり人形や獅子舞あたりを思い浮かべる。
「そうだ。老若男女、貧富を問わず驚くほど多くの町人が祭に参加している。彼らが江戸の城内に繰り出して自分たちの町の標を掲げることがこの祭一番の見所となっているのだが、そのため天下祭は町同士がその華麗さを競う熱狂的な行事と化しているのだ。
見逃せないのは、そのことが江戸の町の評価を一段と高めることにつながり、町人たちに住人としての誇りを持たせ、町内や町同士が結束を固めるのに大いに役立っていることだ。つまり巧まずして自治の役割を果たしているのだ。祭にはそういった効果があるのだ」
「わかりました。そういうことであれば、喜多院にある日吉山王社に祭の話を持ちかけてみましょう。天下祭を執り行っている江戸山王権現は、もとはといえば川越の日吉山王社から勧請したものと聞いておりますからな」
「いや理兵衛よ、祭は日吉山王社では行わない」
信綱はにこにこしながら答えた。
「それでは三芳野天神でござりましょうか。かの天神はかつての江戸山王権現のごとく城の内にありますので、そこで祭を行おうというお考えなのでござりましょう」
「いやいや、三芳野天神でもない」
「それではどこでありましょう。ひょっとして仙波東照宮でござりますか、ちょうど朝廷から宮号の宣下もいただいたということで…?」
「いや、そうとも違う。祭は川越氷川明神で行うのがよいと思っている」
「はあ、氷川明神でござりますか」
はぐらかされたような顔をのぞかせる理兵衛に、信綱が付け加えた。
「理兵衛よ、祭の主役はあくまで町人たちだ。町人の手による町人のための祭、それが祭本来の姿であると私は思う。氷川明神は川越にとって総鎮守、氏神を祭る社だ。その氏神を氏子である町人が盛り立てる、私は川越の祭をそのようにしたいのだ」
「なるほど、そういうことでござりましたか。それでは早速、氏子からなる祭の開催を氷川明神に打診してみましょう」
理兵衛は自分を納得させるかのように何度もうなずいた。信綱はほほえみを浮かべながら理兵衛をながめていた。その笑顔の裏にあるものを、理兵衛は知らない。信綱の発言には、実は天下祭に対する批判が込められていたのであった。
信綱は以前から、天下祭にある種の違和感を抱いていた。たしかに天下祭は町人たちが受け入れやすいようにうまく作られている。が、そこには幕府のあからさまな意図も見え隠れしている。天下祭を今のような大祭に仕立てたのはほかならぬ家光だが、その家光ははじめから祭を幕府の威光を高めるための道具と見なしていた。そのため官製のお仕着せがましさがどうしてもつきまとうのである。祭の先頭を飾っていた猿の作り物を(猿は山王権現の使いであるにもかかわらず)、太平の象徴であるという理由で二番手の諌鼓鶏と入れ替えさせたり、神官たちが担ぐ獅子頭を家光の手習いの反古で作らせ、町人たちにそれに向かって土下座させたりした。そもそも江戸山王権現自体が、江戸城にあった小さな祠を将軍の産土神として祭り上げたものであった。家光は得意になってそのことを自慢していたが、庶民にとってそういうことはむしろ祭の楽しみを損なうものにしか映らないであろうと信綱には思えたのであった。
四年前、家光が息子の竹千代(後の家綱)を伴って祭を見物したことは、家光の近習の者でさえ顔色を曇らせた。三歳になった我が子に天下祭を見せてやりたいと思う家光の気持ちもわからないではなかったが、同じ頃、城の外では飢饉のためすべてを失った飢人たちが行く当てもなくさまよっていたのである。そのことは祭のあり方そのものを考えさせられる出来事として、人々に記憶された。
せっかくの祝祭である。信綱は祭を誰もが楽しめるものにしたいと願っていた。そのためにはまず、町人たち自身がやりたいと思うような祭にしようと、信綱は本気で考えていた。氷川明神での祭開催はそのための第一歩であった。天下祭のようでいて天下祭とは違う、庶民のための祭を信綱は目指していたのである。
翌年二月、年号は正保から慶安へと変わった。この年の四月には日光で家康三三年神忌の法要が執り行われることになっており、正綱がその式典を司るよう仰せつけられた。家康の近習出頭人であった正綱にとって、これが家康への最後の奉公といえた。七〇歳を過ぎた正綱には相当きつい役目であったが、寝不足で目を腫らしながら正綱は式典の準備に奔走した。
四月一七日、信綱は家光とともに日光へ向かい、三三年神忌の法要に参列した。正綱の体調が気がかりな信綱はその姿を目で追い続けていたが、正綱はつつがなく式典を取り仕切り、家光を家康の墓前に案内して三三年神忌を無事に務め上げた。正綱は感無量といった趣きで、晴々とした表情を見せていた。信綱はほっと胸をなで下ろした。
江戸へ戻った信綱のもとへ、すぐさま理兵衛が訪ねてきた。
「五か町の町立てがようやく完了いたしました。まもなく九斎市も開催の運びとなります」
「それはよかった。これで内川が使えるようになれば、川越は西武蔵の物流を一手に引き受ける存在となる。一日も早く航路が開通するのを心待ちにしている」
「そのことですが、実は昨年のうちに河岸場が完成いたしまして、内川を本格的な舟運に供する準備が整いましてござります」
「なんと」
「小畠助左衛門の報告によりますと、安松金右衛門は測量に関し並外れた才能を発揮したとのことです。見たこともないような器具を操作して距離や角度を測定し、難解な数式を駆使して川泥の浚渫量を計算し、さらには普請に要する作業量や総費用まで割り出したとのことです。しかもそれがことごとく当たっていたので、周りの誰もが驚いたという話です」
「それにしてもあり得ない早さだ。金右衛門を監督者に指名したのは四年前、川越から浅草までの総延長は、川の蛇行のため三〇里はあろう。荒川の合流点から先は改修の必要がないにしても、一通り調査を済ませ必要な改修を終え、河岸場を開設し舟の試験運行までこなしてわずか三年で仕上げたことになる。どう考えてもそれは早すぎる」
金右衛門の処理能力の高さに半ばあきれながら、信綱は金右衛門にはじめて会った時の印象の確かさを実感していた。そして頭の中には既に新しい計画が浮かび上がっていた。
(安松金右衛門は本物だ。彼の能力をもってすれば、今後はさらに大胆な施策を講じることも可能であろう)
さまざまな構想に思いを馳せる楽しさに、信綱は子供のように胸を躍らせた。
すべてのことが想像以上にうまくいっていた。家光の信綱に対する信頼は、飢饉の時の働きもあって今や揺るぎないものとなっていた。前年には一万五〇〇〇石の加増を受け、総石高は七万五〇〇〇石に達していた。それだけ領国政策の打つ手が増えたということでもあった。そこへ安松金右衛門の登場である。可能性はさらに広がり、まさに良いことずくめであった。自分が追い風を受けていることを感じつつ、信綱は高揚する気持ちを抑えながら理兵衛に向かって言った。
「舟運の開始は、川越と江戸の結びつきを一層強めることを意味する。新設された河岸場は『新河岸』と名づけ、内川も呼び名を『新河岸川』に改めよう。
城下の町立てはこれからも順次行い、どんどん町域を拡張してもらいたい。町の象徴として、讃岐殿が建設し大火で焼失したままとなっている時鳴鐘(時の鐘)も再建しよう。
そして今年は川越の町の門出を祝し、はじめての祭を盛大に祝おうではないか。理兵衛よ、氷川明神との交渉はどうなっておるか」
「きわめて順調です。もともと毎年九月一五日は氷川明神の秋祭があり、殿のお声がけによりそれを大祭とすることで神社側も意欲的に取り組んでおります」
「よし、わかった。私からも神輿や獅子頭などを奉納し、祭の正式な後援者であることを内外に知らしめよう」
「了解いたしました。氷川明神の方でもたいそう喜ぶことでしょう」
輝かしい未来は約束されたものであるかに見えた。だが、大きな期待はたった一つの不幸によって帳消しとなる。慶安元(一六四八)年六月二二日、養父正綱死す。
自宅でめまいを覚えた正綱はその直後に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。脳卒中であろう、信綱は臨終に立ち会うこともできなかった。
突然の訃報に、信綱は呆然となった。
「いったいどうして…」
とつぶやくのが精一杯であった。日光での疲れによる体調不良からは回復していたはずである。安心し切っていた矢先の知らせに、衝撃は倍加した。
実父と養父の相次ぐ死に、信綱は改めて深い孤独感に襲われた。殊に正綱は信綱にとって父親である以上に「師」と仰ぎ見る存在であった。叱られた経験は生涯一度しかなく、その時もおかげで信綱は道を誤らずに済んだ。
家康から家光まで三代にわたる将軍の信任を得た正綱は人間的な魅力にあふれており、幕府の重要な行事でしばしば全権を委ねられていた。信綱は常々、そういう正綱に自らのあるべき姿を重ね合わせてきた。
正綱はその行跡も立派であった。二三年間続けられた日光の杉の植樹は、一〇里余りに及ぶ五万本の杉並木として完成していた。長男の利綱(左門から改名)が早世した後は次男の隆綱と力を合わせ、家康の命日に当たる四月一七日に予定どおりそのすべてを寄進した。人の価値は何を成したかで決まるということを、正綱は身をもって教えたのであった。
心の支えを失った信綱は気持ちが一気に沈み込んだ。何をする気にもなれなくなった。ついこの間まで、何事に対しても前向きでいられたことがうそのようであった。
七月に家光から正綱の遺領を継ぐよう仰せつけられた時も、信綱はその場で辞退した。
「養父の遺領を継げる人物は、実子の隆綱殿を措いてほかにおりません。利綱殿亡き後、隆綱殿は父親を助け杉並木を見事に完成させました。隆綱殿こそが養父の後継者としてふさわしい人物と存じます。
私はといえば、すでに養家を離れ別家をたてております。養父亡き今、むしろ私の方こそ姓を大河内に復し、長沢松平家から身を引くべきではないかと考えております」
さすがに復姓の話は家光に退けられた。が、信綱の気持ちは落ち込んだままであった。
季節が移り秋の気配が感じられる頃になっても、信綱はもぬけの殻のような状態が続いていた。理兵衛が恐る恐る信綱のそばに近寄り、
「殿、予定していた祭の日が近づいてまいりました。そろそろ準備に取りかかりたいと存じますがいかがいたしましょうか。もっとも、右衛門大夫様の喪はまだ明けきってはおりませぬが…」
とささやくと、信綱はのっそりと理兵衛の方を向いて答えた。
「理兵衛よ、喪明けがいつかなどということは、私にとってどうでもよいことなのだ。今の私はとてもお祭気分にはなれない。すまないが、祭は延期にしてくれ」
理兵衛は黙ってうなずき、そのまま引き下がった。
川越祭は中止となった。以後三年間、実施されることがなかった。時の鐘に至っては五年間、日の目を見ることがなかった。だが、この延期によって信綱の功績が損なわれることはいささかもない。この時期に信綱が手がけたことのすべてが、その後の川越を繁栄へと導いているからである。そのことが、一〇〇万都市となる江戸を陰から支える力となったことは言うまでもない。
信綱が行った数々の功績の中でも、とりわけ新河岸川の舟運は川越の地位を不動のものとした。九斎市の利便性と相俟って、周辺の村から商品や物資が殺到するようになったからである。新河岸川は二〇〇俵を超える米を積んだ舟が盛んに下り、江戸や上方の商品が遡上する物流の大動脈となった。
新河岸川の商圏はその後も広がり、河岸場の数も増えて「川越五河岸」と総称されるようになった。近在の町や村はもとより、遠く甲州や信州からも荷物が到来するようになり、川越は人・物・情報が行き交う一大流通拠点へと成長していった。
それにつられて町の規模も拡大し、五つの商人町の外側にさらに五つの職人町と四つの門前町ができ、「十か町四門前」と呼ばれる都市を形成するに至った。その発展は幕末・明治を通じて衰えることがなく、川越はおよそ二五〇年に及ぶ繁栄を謳歌することになった。
一方、正綱が寄進した日光杉並木は今日に至るまでその偉容を保ち、国の「特別史跡」と「特別天然記念物」の二重指定を受けるに至っている。「世界一の杉並木」としてギネスブックにも公認され、文字どおり世界に誇れる文化遺産となっている。偉大な人物は後世になるほどその輝きを増す。歳月に埋もれることのない遠大な視野こそが、正綱とその教えを受け継いだ信綱に共通するかけがえのない資質であったといえよう。