其の十二 武蔵野

 慶安元(一六四八)年の秋が深まると、さすがの信綱も気持ちが上向いてきた。これからは自分が周りの者を引っ張っていかねばならないという自覚も、改めて抱くようになった。そもそも江戸の現状は、智恵伊豆たる信綱が何の対策も講じずにいられるほど安閑としたものではない。殊に食糧の増産は待ったなしの状況で、信綱は長い眠りから覚めたように再び忙しく動きはじめた。

 信綱はまず理兵衛に命じ、領内川島の河川に大囲堤を築かせた。川島は幕府による荒川の流路変更のあおりを受けてたびたび洪水に見舞われるようになっており、信綱はこの改修によって水害の防止と可耕地の増加を一気に図ったのであった。その効果は絶大で、川島は現在に見られる見事な水田地帯へと変貌を遂げ、米の増産に大きく寄与することになった。

 だが、智恵伊豆はこれくらいのことでは満足しない。それは単に状況に対応しただけのことだからである。河川を改修して荒れた土地を肥沃な水田に変えるというのは開発の常道で、やって当たり前のことだからであった。

 信綱はより革新的なことを目指していた。誰もが思いつかないことの中にこそ大増産の可能性が潜んでいると考えていた。そのための準備にも既に取りかかっていた。

 春先から着手していた検地がまさにそれであった。生産高の把握と小百姓の自立を狙ったこの検地は、いわば領内の「棚卸し」とでも呼ぶべきものであったが、そこには今後の開発の方向性を探る意図が込められていた。

 そして信綱は一つの結論に達した。すなわち広大な「武蔵野」の開発である。

「武蔵野は 月の入るべき 山もなし 草よりいでて 草にこそ入れ」

と古歌にも唄われたこの土地は、見渡す限りの茅原に所々灌木が生い茂るだけの何もない荒野であった。信綱はそこに目を着けた。「何もない」ということは開発の障害もないということである。そこを利用しない手はない。早速信綱は理兵衛を自らの屋敷に呼び寄せた。

「これから領内の生産力強化に着手する。場所は武蔵野だ」

 理兵衛は気のなさそうな顔つきで信綱に尋ねた。

「なるほど…たしかに武蔵野は開発の余地を残す魅力的な土地でござりますな。しかしそのような土地が手付かずで残っていること自体、それ相応の理由があってのこととは申せませぬか。

 たとえば土地の権利の問題がござります。未開発の土地というのは本来公儀のものでありましょう。百姓が持添え的に広げる程度の耕地ならともかく、その地の領主が我が物顔で開墾に乗り出すというのは聞こえが悪くはござりませぬか。

 また一見すると人馬の通わぬ武蔵野ではありますが、そこに生えている草木は周辺の百姓にとってなくてはならぬ肥料や飼料となっております。野草は食糧ともなり、灌木は燃料や建築材料として利用されております。しかも百姓たちはそれらを無償で採取しているのではなく、対価としてそれ相応の野銭を支払っております。武蔵野を開発するとなると百姓たちはそのことを楯に抗議するでしょうし、それを無視して開発を進めれば、今度は彼らの生活そのものをおびやかすことになりかねませぬ」

信綱はよどみなく答えた。

「それらはいずれも解決済みの問題であろう。まず土地の帰属についてだが、私は武蔵野の中に場所を定めない二〇〇石の『野高』を保有している。現在公儀で編纂中の郷帳でもそのことは確認された。武蔵野において、私は二〇〇石相当の土地を開発できる権利を有しているのだ。加えて私は百姓から野銭を徴収する権利を得ている。よって公儀や他の領主の権益を損ねることもない。

 肥料に関して言えば、私は開発区域の線引きを野守の立ち会いのもとに行うつもりでいる。理兵衛もよく知っているとおり、野守というのは武蔵野の主のような存在だ。公儀や領主から野銭の徴収を請け負い、百姓たちが草木を採取するのを管理している。先の検地では武蔵野の案内人となり、領地の境界確定に大いなる力を発揮した。野守に任せれば、百姓の肥料給源を確保しつつ開発地を選定することも可能であろう」

「不安材料はほかにもござります。武蔵野は台地上にありますので、灌漑用水を引き込むことができませぬ。したがって水田を作ることができず、必然的に畑を作ることになります。百姓が米を作るかたわら自家消費用に畑を耕すくらいなら問題はありませぬが、水田から遠く離れた武蔵野に居を構えて畑のみを耕作し、その収穫物でもって年貢の支払いに当てるとなると、一旦作物を換金して貨幣で年貢を納めなければならなくなります。小百姓たちにそのようなことができるものかどうか、私は疑問に感じます」

信綱はにこりと笑みを浮かべて答えた。

「理兵衛よ、そのための九斎市であろう。収穫した作物を市場へ持ち込み、その代価でもって年貢を納める。反対に肥料や農具、塩などの必需品も市場で調達する。これからの小百姓はそれらのことを自分たちで行うようになるのだ」

「いやはや、そういうことでござりましたか。これでようやく計画の全体像がわかり安心いたしました。念のため申し添えますと、私も以前から武蔵野の開発には興味を持っておりました。これからは殿の方針に従って、大いに開発を推進してまいりたいと存じます。

 ところで、肝心の開発人は誰にいたしましょうか」

「そこなのだが、なにしろ広い武蔵野のことだ。素人である我々の手に負えないことはもちろんである。野守にすべてを任せるという選択肢もあるが、今回の開発は彼らの手にも余る規模となる。はじめから開発人を限定すれば、周囲から不満の声も挙がろう。そこで領内で意欲のある者を公募し、それらの者の責任と負担で開発に従事させようと思っているのだ」

「それはよいお考えでござりますな。それでは直ちに領内に高札を掲げ、開発人を募集することにいたしましょう」

 理兵衛はこれ以上主君と意見が対立しないうちにと、早々に話を切り上げた。理兵衛が心配するのはもっともなことであった。信綱の着想はそれほどまでに進歩的なものだったのである。新河岸川や九斎市といった流通経路はでき上がったものの、それらはまだ十全に機能しているとは言い難い。ましてやほとんど前例のない、畑のみの開発である。それは入植者が「個人事業主」となることを意味していた。作物を日常的に売買している大百姓ならばともかく、米の現物納税しか経験したことのない小百姓がいきなり貨幣経済に足を踏み入れるとなると、破綻する者が続出してもおかしくはないと思われたのである。

 とはいえ、ほかならぬ信綱が立てた計画である。何もしないうちから悪い結末だけを予想することはできない。理兵衛はできる限り明るい側面を見ながら開発に取り組むことにした。かくして一枚の水田もない「新田」開発がここにはじまるのである。

 すべり出しは順調であった。むしろ上出来すぎるといえた。高札を掲げると間もなく、領内から数名の農民が開発人の名乗りを挙げた。この者たちは一村を開発できるだけの実力を持った大百姓であり、ゆくゆくは開発した村の名主に収まる願望を抱いていた。逆に言えば、彼らは彼らなりにこの開発が成功するものと思っていたのである。彼らにとって、今回の計画は決して絵空事ではなかった。

 理兵衛から開発人の報告を受けた信綱は、自分の考えが支持されていることに気を良くした。

「理兵衛よ、案ずるより生むが易しとはこのことだな。この先まだまだ開発人は増えるであろう。この者たちに、開発の専門家である野守を加え、両者が力を合わせて開発を行えばこの計画は成功したも同然だ」

「まことに殿の慧眼には恐れ入ります。同時に呼びかけに応じた農民たちもほめるべきでありましょう。私は自らの不明を恥じねばなりませぬ」

「まあまあ理兵衛よ、そうまで申すことはない。新しいことをなすには慎重に慎重を重ねる理兵衛のような態度は大事なのだ。ただ決断に際しては思い切った行動をとるというのも必要だがな。

 とりあえず、募集してきた開発人の中から割元を一人選び、その者に開発区域の線引きをさせ、開発人の間で区画割りをして造成に当たらせるようにせよ」

「はっ、了解いたしました。

 ところで話は変わりますが、野守からの情報によりますと、先の検地で確定した境界を越えて、領外の百姓が草木を採取しているようなのでござります。極端な例では勝手に開墾までしているとのことです」

「それはまたずいぶんといい加減な話だな。野守による管理がいかにずさんであるかの証のようなものではないか。まあ、確定してまだ間もない境界線だ。百姓たちがそれになじんでいないのも仕方がないのかもしれぬが。境界といっても、所々に杭が立っているだけであるしな」

「仰せのとおりでござります。百姓たちはまだ境界の意味をわかっていないようなのでござります。そこで野守を使って境界線上に明確な標をつけ、百姓たちが領内に立ち入ることのないようにしようと考えております」

「そうするがよい。まあ、あまり百姓たちを刺激しないことだな。譲れるところは譲って、百姓たちに不満がたまらない方向で解決を図るがよいぞ」

「はっ、かしこまりました」

まさかこのことが、その後の開発に大きな影響を与えることになろうとは、誰も予想していなかった。

 理兵衛が川越に戻ってからしばらくすると、開発を申し出る者がぱたりと途絶えた。はじめは成り行きを静観していた信綱も、あまりの反応のなさに「少し変だな」と思うようになった。

「理兵衛よ、これはどうしたことか?」

江戸の屋敷を訪れた理兵衛に信綱が尋ねた。

「妙なことでござりますな。領地の境界に不満を持つ者がいるとは聞いておりましたが、武蔵野の開発とは無縁のことでありましょうし…」

「開発できる有力者がいなくなったとも思えない。野守を通じてよくよく事情を確かめてみてくれ」

「承知いたしました」

 実はこの頃、武蔵野は大変なことになっていたのである。近隣の百姓を中心に、現地で開発への猛反対運動が起きていたのであった。

 理兵衛から管理のずさんさを指摘された野守は、百姓に対し必要以上に厳格な行動に出た。信綱が穏当な措置を望んでも、末端の野守にまでは伝わらない。近隣の百姓を相手に訴訟を起こした野守は、幕府の裁許を得て杭に代わる頑丈な塚を築き、その内側への部外者の立ち入りを禁止した。また領内に少しでも食い込んでいる畑があれば、容赦なく破壊した。

 収まらないのは百姓たちである。武蔵野が誰のものか考えもしなかったところへ突然杭が立ち並んだと思っていたら、それがいきなり境界とみなされ、そこから締め出されたのである。もともと野守が管理していたのは草刈りの解禁日といった類いのことで、草木を採取する範囲についてはごく大雑把なものしか決められていなかった。武蔵野は彼らにとって、どこまでも自由に草木を刈り取れる場所だったのである。それが境界の設定により採草地が半減してしまい、百姓たちは自らの生活が危機に瀕していると感じるようになった。しかも採草地であった土地は、開発されて川越領の畑になるという。これでは川越の領主による横暴ととられても仕方がなかった。

 百姓たちの横のつながりは強い。信綱に協力的であった農民でさえ一斉に反対派に回ることになった。開発人になろうとしていた大百姓も、とてもそれを口にできるような雰囲気ではなくなった。境界が堅固な塚に改められ、耕作していた畑から立ち退きを命じられるようになると、反発はついに決定的となった。百姓たちはこぞって武蔵野の開発を潰しにかかった。彼らは境界を越えて開発人の詰め所を襲撃したり、詰め所に水を運ぶ人足を妨害したり、開発地の草木に火を着けたりした。彼らは彼らなりに必死であった。

 開発は完全な暗礁に乗り上げた。造成は中止に追いやられ、入植者の現れる見込みは立たなくなった。それどころか、へたをすれば自分の命さえ危うい。開発人たちは浮き足立った。

「理兵衛よ、その後の武蔵野の様子はどうだ。新しい開発人は現われたか?」

真っ青な顔をして信綱のもとへやってきた理兵衛は、信綱に促されてようやく重い口を開いた。

「申し訳ござりませぬ。開発人となっていた者のうち二人が現地から逃走いたしました」

「はあ?」

さすがの智恵伊豆も二の句が継げなかった。

 区画割りは手付かずのままである。開発人は半分も集まらない。むしろ櫛の歯が欠けたように減っていく。

「何ともお詫びの申しようがござりませぬ」

理兵衛は肩を落としてむせび泣いた。信綱ははっと我に帰り、めまぐるしく頭を回転させた。

「理兵衛のせいではあるまい。新しいことに失敗はつきものだ。気にすることはない。

 それよりこれからどうするかだ。領内で開発人を見つけるのはもはや不可能ということであろう。高札を掲げる範囲を広げて、開発人を再募集するしか方法はなさそうだ」

「開発自体はこのまま続行ということで?」

「もちろんだ。察するところ、今の状況は何らかの誤解に基づいているものと思われる。おそらく百姓たちは、自分たちの採草地がすべて取られるのではないかと疑っているのであろう。だが、武蔵野の一部がなくなったくらいで彼らの肥料給源が枯渇することはない。草木を採取する余地はいくらでも残っている。先の検地はそれを確認するためのものでもあったのだ」

「了解いたしました。それでは高札を領外にまで広げ、改めて開発人を募集することにいたします。また城内の者にも声をかけ、家中から開発人となる意欲のある者を探してみたいと存じます」

「そうだな、この際百姓でなくともよしとするか。やってみてくれ」

 かくして理兵衛を中心に、川越城内で全面的な開発支援運動が展開されることになった。

 理兵衛は考えた。領外の農民をあてにするより、城内で開発人を募った方がよほど確実であろうと。主君に恥をかかせないためにも、自分たちにできることは何でもしようと。その活動は真剣そのものであり、それがまたおかしくもあった。

 後年武蔵野の新田奉行となる羽生又左衛門は、配下の足軽鈴木安兵衛に声をかけた。

「お前は軽輩のため、武士として大成することは難しい。むしろ村の開発に携わり、百姓として出世した方が身のためと思う」

あわれ安兵衛は、言われるがまま上司の命令に従った。

 中間頭の黒田三右衛門にも白羽の矢が立った。三右衛門を筆頭に、六人の中間がひとまとめに百姓に取り立てられた。会社の一部門がまるごと畑違いの別会社に身売りされたようなものであった。それもこれも、家臣たちによる涙ぐましい努力のたまものであった。

 こうした献身的な働きのおかげで、何とか開発人を補充することができた理兵衛は、大急ぎで信綱のもとに出向いた。

「殿、お喜びくだされ。家中から開発を希望する者が現われましてござります」

「それは好都合だ。実は武蔵野で少々試してみたいことがあるのだ」

「は?」

「この前の理兵衛の話を聞いて、私も少し考えてみた。家中の者が開発に携わるのなら、多少は実験的なことも取り入れられるのではないかとな」

「はぁ…」

「よいか理兵衛、新田村落の建設は、それこそ何もないところからはじまるのだ。まずは村人となる入植者集めをしなければならない。もともと武蔵野は町場から遠く離れていて入植者を集めにくい。昨今のような逆風下ではなおさらだ。そこで村そのものに魅力を与えるための仕掛けが、どうしても必要となってくるのだ。

 たとえば新田の耕地をどうするかだ。農家一戸当たりの耕地面積は一般的な水田より大きくして、一年を通じ何らかの収穫を上げられるようにした方がよいであろう。効率的な土地利用という観点から、その形状にも工夫の余地はある。私は短冊型に並べるのが最も理にかなっていると思う。長方形の土地を道路に対して垂直に並べ、畑、家屋、防風林の順に配置する。居宅と耕地を近接させることで作業効率が上がり、天候の変化にも応じやすくなる。防風林を隣家同士で帯状に配すれば、風除けの効果はさらに増すであろう。

 村内に共有林を設けることも、利便性の向上に大いに役立つはずである。九斎市ができたからといって、何でも購入すればよいというものではない。広い土地を有効に使い、村内で調達可能なものは調達できるようにする。くぬぎやこならは枝を薪に利用することができ、幹は建築材料となる。そのような利用価値の高い樹木を、余った土地に積極的に植えるようにする。この共有林もまた、風除けの効果が期待できよう。

 ほかにもまだある。たとえば…」

 いつまでも止まらない信綱の話に、理兵衛は笑顔で小さくため息をついた。

 散々な船出となった武蔵野開発であったが、その後も厳しい状況は続いた。開発当初の二〇年間は、百姓たちにとって苦難の連続であった。ここでは実際に武蔵野で行われた施策を通じて、その奮闘の歴史をひも解いてみたい。

 開発人探しはその後もしばらく続き、遠く下野や三河の出身者によってようやくまかなうことができた。開発地は最終的に九か村に分割され、申し出があった開発人と野守、それに信綱の元家臣といった面々で造成が進められた。

 一口に造成といっても、解決すべき課題は山積みであった。たとえば水の問題である。飲料水は各村に井戸を掘ってしのいだものの、やっかいなのは雨水の処理である。火山灰主体の武蔵野の土壌は保水力が弱く、水はけが良すぎて低いところに水がたまりやすい。水びたしの土地は耕地に適さず、周りの作物も根腐れを起こしやすくなる。信綱は新河岸川まで排水路を掘らせ、雨季における浸水に備えることにした。現在の不老川である。

 風除けの対策も怠りなく行われた。関東平野特有の冬の北西風は、畑の表土はおろか作物の種まで吹き飛ばす。風は土煙をあげて高く舞い上がり、空一面を暗く覆い尽くす。家屋の裏手に配した防風林だけではとても防げない。風除けは開発地全体の問題であった。信綱は街道沿いに杉や松の並木を植え、川に沿っては柳を植えた。そのほか開発地の至るところにくぬぎやこならの植樹を励行し、敷地内の防風林を補完させた。これが今日まで武蔵野に残る雑木林である。

 肥料の投入も欠かせない。この場合、肥料といえば灰である。灌漑用水を引けない武蔵野台地には、養分の意識的な補給が不可欠となる。酸性の土壌を中和するためにも灰は必要で、信綱は新河岸川を利用して江戸から大量に取り寄せ、九斎市で御用商人に商わせることにした。

 こうして基盤整備ができ上がると、いよいよ作物の選定となる。信綱は新田村の自立を促すため、さまざまな新種の作物を導入した。染料のもととなる紅花・藍・むらさき(これらは医薬品にもなる)、木製品の塗料に使われる漆、和紙の原料である楮、絹の生産に必要な桑といった具合である。食用の作物はむしろ少ない。あってもまくわ瓜や茶といった高級食材が主である。信綱は武蔵野をあらゆる物品の生産拠点とみなすとともに、多額の利益を生み出す宝の山と考えた。

 これらの作物を武蔵野に根付かせるため、農業指導も積極的に行われた。内容は実に具体的で、たとえば漆であれば、その実を彼岸まで水に漬けておき、予め施肥しておいた畑にまんべんなくふりかけ、その上から土をかぶせ、むしろをかける、といった調子である。

 相当な意気込みで臨んだこれらの試みは、結局はものの見事な失敗に終わった。信綱がいくら新種の作物を奨励しても、現実に百姓たちが作る作物は麦や粟や稗であり、菜や大根であった。たいていの農民は冒険を好まず、確実に収穫をあげることを第一としたからである。新種に手を出した百姓は、なじみの薄い作物の育成や市場の敏感な値動きに翻弄され、ほとんどの場合失敗に終わった。信綱は時代に先行し過ぎていたのである。

 武蔵野で最も成功したのは「川越いも」で有名な甘藷であるが、所詮それは凶作時の救荒作物、あるいは庶民の安価なおやつであり、安定的な収入とはなっても莫大な利益を生んだとは言えない。しかも武蔵野の開発から一〇〇年も後の話で、予見可能な未来とも言い難い。

 開発地への入植そのものは思っていたより順調であったが、開発区域の中で最大規模の今福村でさえ二〇年間で三五人というゆったりとしたものであった。入植を奨励するため、新田奉行の羽生又左衛門は収穫した大根を馬の背に載せて宣伝に廻ったほどであった。

 こうした失敗を差し引いても、信綱の行った武蔵野開発は燦然と輝く業績として後世に残る。畑作の新田において信綱が先鞭を付けたものは数多い。その代表的なものが短冊型の耕地である。極限まで機能性を追求した武蔵野の畑地は、元禄時代の川越城主柳沢吉保により改めてその価値を見出され、その後に行われる武蔵野の大開発への道筋を開いた。

 もう一つの成果は雑木林である。生活品の供給地および風除地として設けられたくぬぎやこならの林は、ほどなくその落葉が良質な肥料(堆肥)として認められるようになり、循環型経営の模範として奨励されるようになった。雑木林の普及は広大な採草地をますます不用なものとし、武蔵野の開発を一段と推し進めるのに一役買った。新田村落は新しい社会生活の母体となったのである。武蔵野の開発は、智恵伊豆ならではの成功例として数えあげることができよう。

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