正永

 年が改まり、慶長十二年(1607)正月、十二歳となった長四郎は長沢松平本家邸を訪れていた。養父、松平正綱の名代として新年の挨拶をするためだ。

 長沢松平本家の当主は、大御所である徳川家康の六男松平忠輝だ。もともとは忠輝の弟、松千代が生まれて間もなくに継いでいたのだが、松千代が六歳で亡くなったため、当時八歳の忠輝が継いでいた。長四郎よりも三歳上と年齢も近い。長四郎が長沢松平分家に入ったことを報告に来て以来、急激に親しくなり、訪問時には邪魔者を排して二人きりで語らうのを常としていた。この時も、さっそく人払いをさせている。

「新年おめでとうございます。併せて、ご結婚おめでとうございます。結婚披露の儀には出席叶わず、誠に残念でございましたが、奥方様とのお暮しもさぞ麗しきものと、お祝い申し上げます」

「なぁに、ままごとのような暮らしぶりよ」

 忠輝は、前年の十一月二四日に附家老の大久保長安の仲介により、伊達政宗の長女である五郎八(いろは)姫と結婚したばかりであった。忠輝が十五歳、五郎八姫が十三歳。結婚の儀には正綱が出席し、長四郎は留守居だった。

「長四郎、お前もどうだ」

「いまだ若君には体調を崩されるときもあり、お務めで精いっぱいでございます」

 忠輝の冗談にも長四郎は生真面目に応える。それもまた、忠輝にとっては楽しかった。

 長四郎の務めは、竹千代の身に集中すればよいというものでもなくなってきている。昨年、竹千代の弟、国松が誕生すると母であるお江の方はこちらを溺愛し、次期将軍には国松をつけたいとまで言いだしてきている。さすがに、差し出口として退けられたが、国松の周辺では俄かに次期将軍は国松と息まく者であふれるようになっていた。そのような者たちから竹千代を守ることも長四郎の務めのうちに入ってきているのだ。竹千代には安心して日々を過ごしてもらわなければならない。そのため、いらぬ風聞を竹千代の耳に入れないことも大切なのだった。

 実はそのような国松付の者の中に、長四郎の祖父、大河内金兵衛秀綱の弟、つまり長四郎にとっては大叔父である大河内金七郎冨綱(とみつな)とその子、栄綱(しげつな)がいた。冨綱が国松の傅役(もりやく)、栄綱が小姓となったのである。この者たちが自分の功績を誇るのではなく、担いだ神輿の威光を我がもののように誇る質であった。また、秀綱がカラリとした性格であるのに対し、冨綱は根に持つ質である。このため、秀綱が冨綱を怒鳴りつけたこともあるが、当の秀綱はそのようなことがあったことすらすっかり忘れていても、冨綱は未だ恨みに思っているようだった。

 ある時、長四郎が冨綱に気付かず通り過ぎようとしたのをわざわざ呼び止めたことがある。

「これはこれは長四郎ではないか。何やら噂は聞いておるぞ。道理もわからず、周囲の者を困らせてばかりいるそうではないか。さぞ苦労であろうのう」

 他の話題であれば、聞き流しもしただろう。特に相手は大叔父である。ここで諍いを起こしても益はない。だが、竹千代のことを悪し様に話されたとあっては別だ。竹千代を守るのは自分だという自負が、口を閉ざしておくことを許さなかった。

「苦労かどうかは臣の才によるところ。才薄ければ些細なことでも苦労致しましょう。困るかどうかも同じ。また、道理は臣がわきまえるべきところ。将たる者、臣と同じものを見、同じことを考えるのであれば、その器にないことは明確。臣に見えぬものが見え、臣には考えられぬことを考えるこそが将にござります。なれば、我が若殿様こそが大将の器といえましょう。

 聞けば、弟君様は道理をわきまえておるとのこと。これぞ臣の鑑。今後とも徳川の御代の末永く栄えますよう、よろしくお願い申し上げます」

 一気にまくしたてると、一礼して立ち去った。背中に鋭い視線が突き刺さってくるような感触がある。だが、長四郎は冨綱の存在さえ無視することに決めたのであった。

 近況を話し合っているうちに漏らされた話題であったが、これに忠輝は腹を抱え、涙を流して大笑した。このままでは息が続かずに倒れるのではないか、長四郎が不安を覚えるほどの笑いである。

 しばらく笑い続けた忠輝がすうっと笑いを収め、長四郎を見つめた。

「痛快な仕打ちだな。だがな、己が相手よりも上に立っていなければ気が済まない奴ってぇのはどこにでもいやがる。そういうやつは、こっちの考えを自分と同じに違いないと決めつけやがるから厄介だ」

 忠輝は武士には似合わぬ伝法な口利きをする。これも「自分には武士としての栄達など望む心はない」とのアピールなのだろう。

「なかでも一番怖いのが一族の者よ。他の者相手ならばとうに諦めてしまうようなことも諦められず、流せることも流せない。離れるにも、まったくの無縁になるのは難しいしな」

 忠輝自身、身内の者、特に父親の家康には翻弄されている。忠輝は生まれて間もなく捨てられた。藩翰譜(はんかんふ)という書には次のように書かれている。

 世に伝ふるは介殿(忠輝)生まれ給ひし時、徳川殿(家康)御覧じけるに色きわめて黒く、まなじりさかさまに裂けて恐ろしげなれば憎ませ給ひて捨てよと仰せあり

 また、「三郎(家康の長男信康)の幼かりし時に違ふところなかりけり」と家康が語ったとの記載もあり、忠輝を見ることで信長の要求を呑んで自ら切腹を申しつけた信康を思い出してしまうために避けたとも考えられる。

 いずれにせよ、皆川広輝に養われた忠輝は、七歳まで父の家康に会うことはなかった。

 長沢松平を継いだのも、本来継いでいた弟の松千代が夭逝したためであり、人がなかったために仕方なくといったようなものだ。慶長八年(1603)の二月には十二万石に加増されたとはいえ、わずか四十日のうちに二度の転封という扱いであった。このような中で、一族に対しての厳しく、冷めた視線が養われていったとしても致し方ないだろう。

「特に危ないのは、そいつからして相手が自分よりも上に立つことが濃厚になった時だ。いいか、その時には気を付けろ。絶えず何があるかもしれないと考え、周りを見るんだ」

 

 

 忠輝の言葉を思い出させるような出来事が起きたのは、その年の初夏である。

 非番の小姓たちで日本橋葺屋町(ふきやちょう)の東に広がる葦原へ、ヨシキリを追いに行こうということになった。ヨシキリとは春になると繁殖のために日本に渡ってくる鳥で、この時期は葦の先に止まって「ギョッ、ギョッ」とさえずるため行々子(ぎょうぎょうし)とも呼ばれる。

 普段であれば、長四郎はこのような誘いに乗ることはない。非番であっても、急なお召しがあるかもしれないため、次の間で控えているのが常だった。しかし、今回はヨシキリを追うのだという。長四郎は幼いころから鳥が好きだった。時折、鷹匠のところに顔を出すほどである。そのためもあって、参加を決めたのだった。

 一緒に行く、千熊、後の稲葉正勝や、熊之助、後の永井直定は非常に喜んだ。長四郎は小姓仲間のうちでは年長の部類に入り、兄的な存在であったのだ。

 葦原の縁に着くと、すでに国松の小姓が三人ほど待っていた。長四郎は聞いていなかったが、竹千代の小姓と、国松の小姓の合同の催しであるようだ。兄弟が力を合わせて徳川幕府を切り盛りするのもそう遠い先ということではない。今のうちから双方の小姓が合力していけるようにというのが、その趣旨であるらしかった。

 一同はさっそく葦原の中に分け入った。時折「ギョッ、ギョッ」とヨシキリの鳴き声が、遠く、近くから聞こえてくる。葦の丈は子供の背をはるかに超え、見通しは悪いが、ヨシキリは葦の先に止まるため、鳴き声を頼りに上を見ながら進んでいった。

「あっ、あそこ。飛んだぞ」

「近くに巣があるかもしれない。静かに行こう」

 夢中でヨシキリを追い回し、気づくと空の色が変わってしまっていた。日が暮れてきたのである。

「道はどっちだ」

「日が沈んでしまうぞ。どうしよう」

 みなが狼狽している中、長四郎は一人、意外なことを口にした。

「日が傾いてきたのは幸いだ」

 嘲笑されたのかと詰め寄られながらも、長四郎は微笑み、

「この葦原は城からすればどちらの方角にある」

「大まかにいえば東か」

 稲葉千熊が応えると、長四郎は大きく首肯した。

「つまり、ここからすれば城は西にある。日の入る方角も西。ならば、日に向かって進めばよい」

 離れたところで様子をうかがっていた右衛門作は、思わず頬を緩めた。方角の確認方法のあれこれを教えたのは右衛門作自身だったからだ。

 右衛門作は、事あれば助けに入るためにつかず離れず見守っていた。高い葦に阻まれ目視することはできないが、遠耳の技を持つ右衛門作にしてみれば何ら支障はない。実は、半時ほど前からおかしいとは思っていたのだ。はじめのころ、先導していた国松の小姓たちが、一人、二人と姿を消していったのである。この時点で知らせるべきかとも思われたが、あまりに早く姿を現しても、なぜ右衛門作がここにいるのかと不審がられてしまうだろう。長四郎には隠れてついて来ているのだから。今も、助けに出るべきかを迷っていたが、これならば手を貸す必要もなかろう。

 無事、葦原を抜け出すと、みなの足が早まる中、長四郎は歩速を落とし、やがて立ち止まった。

「右衛門作、いるのだろう。姿は見せずともよい」

 右衛門作は耳を疑った。これでも忍術を収めた者である。その自分がついていることに気づいていたというのか。

「一つ頼まれてほしいのだが。今葦原から出た者を確認したところ、若君付きの者たちは全員が認められた。だが、御弟君付きの者たちが一人も認められぬ。みな無事に帰っているかどうか、だけを調べてくれるか」

 これだけ言うと、返事も待たずに歩を進めた。

 いつの間に成長したのだろうか。右衛門作は長四郎に使われることが嬉しかった。

 さっそく確認したところ、誰もが邸に帰っていることが分かった。中には、何かに怯えるようなそぶりを見せている者もおり、少し脅せば何らかの事情を聴くことも容易いと思われた。だが、長四郎があえて「無事に帰っているかどうかのみ」を確認するよう命じていたために、そのままに報告することとしたのだった。

 

 

 翌慶長十三年(1608)十一月、海を隔てたマカオで一つの事件が勃発した。

 独自に海外貿易を行っていた有馬晴信の朱印船が、日本への帰途マカオに寄港した。当時のマカオはポルトガルの貿易拠点であり、ポルトガル人と中国人が暮らしていた。彼らからすると日本人が自由に海外で貿易することは既得権益を犯されることになる。必然、日本人船員たちに対する態度は冷たかった。これに対し、長い間の外洋暮らしでの鬱憤と、目的が無事遂げられ後は帰るだけとの安堵からか、日本人たちも好戦的に対応してしまったのだ。町の者からの通報により、マカオ当局は鎮圧に向かう。マカオ側も権力を背景にすればすぐに収まるとの慢心があり、それがいっそう日本人たちを刺激してしまった。日本人たちは、詰め寄ったポルトガル人数名を殺傷。一軒の民家に押し入り、立てこもった。

 日本側も船長らが必死に事態終息に働いたが、マカオにおける艦隊総司令官、カピタン・モールのアンドレ・ペアッソは強攻姿勢を崩さなかった。これを機会に、マカオへの日本人入港禁止を勝ち取ろうとの計算が、彼の中には既に組み立てられていたのだ。互いに銃撃が交わされ、性能に勝るポルトガル側の圧倒的な勝利となる。この銃撃戦による日本側の死者数は四十名を数えた。日本船は留守居の船員たちによって辛くも出航し、日本へと向かった。

 カピタン・モールのペアッソは調書をしたため、意気揚々と日本に向かった。彼には、日本との交易においてさらなる功績をあげたことを称賛されている将来像が浮かんでいた。この時期、ポルトガルはオランダ、スペインの進出、日本の朱印船の台頭などによって、アジアにおける独占的支配が崩れ始めていたのだ。ここで、日本に対し、さらなる優位を占めることができれば、英雄と呼ばれることも夢ではない。

 しかし、事態は彼の思惑通りにはいかなかった。幕府が貿易に対する管理体制を整えようとしていたのだ。

 ペアッソが乗るノッサ・セニョーラ・ダ・グラサ号が長崎に入港したのは慶長十四年(1609)六月である。いつものように入港すると、長崎奉行の長谷川左兵衛藤広から異例の通達があった。船内に監督者を派遣し、荷揚げや乗員の上陸には、その監督者による登録と許可が必要であるとされたのだ。これまで、何らの管理、制約も受けていなかったペアッソは当然これに抵抗した。「これまでの慣例に反する」事を根拠に抵抗するペアッソに対し、あくまでも「制度として定められたもの」との主張を押し通そうとする藤広との舌戦は平行線をたどったが、最終的にはペアッソが折れる形となった。荷揚げも上陸も認められないでは始まらないのだ。

 上陸したペアッソは、マカオでの顛末を駿府の家康のもとに直接報告に行くことを求めた。これに対し藤広はのらりくらりとかわしながら、許可を出さなかった。実はこの時、オランダ船が長崎に向かっているとの報告が入っていたのだ。

 ほぼ同時期にポルトガルとオランダが来航したのは偶然ではない。オランダはマラッカ包囲を目的とし、十三隻の艦隊を派遣していた。マラッカ包囲自体はジョホールからの援軍が得られず断念したが、このうちの二隻がポルトガル船捕獲、あるいは日本との交易開始の命を帯び台湾中国間の海域で待機した。だが、濃霧のためポルトガル船発見には至らず、日本に向かったのである。

 オランダも入港後に使者を仕立てるだろう。駿府まで早駆けし家康の判断を仰ぐのでは、時間がかかりすぎる。家康がどのように考えるかは分からないが、両国の使者の到着を近づけていなければならない。そのための時間稼ぎであった。

 ペアッソへの対応のかたわら、藤広は有馬晴信にも働きかけていた。マカオの一件を家康に報告し、報復のためダ・グラサ号攻撃の許可をもらおうというものだ。このままでは、今まで通り朱印船貿易を続けることは難しくなる。さらには日本自体が軽んじられることになるというのが理由である。

 晴信は相手が同じキリシタンであることから、はじめ躊躇を見せた。これに対し藤広は、「キリシタンの国同士では戦をしないのか」と詰め寄り、大義のもとには相手がキリシタンであっても戦うべきだと説いた。結局、晴信は藤広の進言を受け入れることにした。

 晴信がキリシタンとなった入り口は、その教義ではなく、自藩の力を高めるためにはキリシタンになった方がよいと判断したためであった。事実、初めはキリシタンに対し抵抗感が強かったほどだ。その後、教義に心打たれ、熱心な信徒となったとはいえ、根底には藩を大事にする気持ちは強い。藤広もそのことを承知しており、利用したのである。藤広にしてみれば晴信の朱印貿易がどうなろうと、実のところ構わない。なぜ、晴信にけしかけたかといえば、ペアッソの尊大な態度に腹を立てたからというだけであった。つまり、攻撃の対象はペアッソだけでもいいのだ。そのために、藤広はペアッソが直接駿府に行くという申し出を許可せず、使者をたてるように指示した。

 ポルトガル、オランダ、有馬家の使者は時をそれほど隔てることなく出発した。

 はじめに到着したのはポルトガルであったが家康はそれを待たせ、まずオランダの使者と接見した。そこで、通商と平戸商館の開設を許可している。次いで接見したポルトガルは、マカオへの日本船の寄港を禁止すること、オランダ船を捕獲することを要求。これに対し、マカオへの日本船入港禁止については認めたが、オランダとはすでに通商の許可を与えていることを理由にオランダ船捕獲については拒否している。

 家康は海外貿易を幕府が直接管理することに方針を決定したのだ。だから、私的な朱印船貿易を排し、貿易相手も複数とすることでポルトガルの優位性も取り除こうとしたのである。この流れの中で、有馬家の要求は許可された。ポルトガルだけを優遇することはない、日本と貿易するためには日本に従ってもらうということを示すためには、有馬家の要望はうってつけだったのである。ただし、指示したのは報復攻撃の許可だけである。朱印船貿易については何も触れていない。これは早晩廃止する腹積もりだったからだ。

 十二月十二日、およそ三十隻でダ・グラサ号を包囲、砲撃戦が始まった。三日後、ダ・グラサ号は爆発し、ペアッソもろとも海へと沈んだ。事故とも、ペアッソ自ら火を放ったとも言われている。

 

 

 慶長十五年(1610)二月三日、長四郎は袖を塞いだ。子供用の衣から大人用の小袖に変わったのだ。元服に繋がる儀式である。この祝いの三月後、長四郎は体調を崩し、起き上がることもできなくなった。翌朝には起きだすことは出来るようになったが、ひどく体が重い。長四郎は出仕を望んだが、養父の松平正綱が休むよう諭した。

 その後、容態は回復と悪化を繰り返し、なかなか出仕することができない状態が続いた。長四郎は、長く務めを果たせない身であることを恥じ、「拝領の切米を返上致し、養生つかまつり、病が癒え次第、ふたたび御奉公申し上げたく存じます」との文をしたためた。これに対し、竹千代の傅役である青山忠俊の名による返書で将軍の言葉が伝えられた。「ゆるゆる養生つかまつれ、切米はそのまま拝領せよ」というものである。返書には書かれていないが、長四郎の文を受け取った秀忠は苦笑を浮かべ、

「相も変わらず、年に似合わぬ気の使いようよ。まったく稀有な者よの」

と、漏らしていたという。

 一月を過ぎても体調は一向に回復しないばかりか、身体の重さは募るばかりである。右衛門作は早期から、何者かが毒を盛っているのではないかと疑い、調査を進言していたが、長四郎は頑なにそれを拒んだ。毒を盛る者がいるとしても、命までは奪うつもりはないようだ。その気であればすでに殺されている。だから、その点は心配ないが、竹千代のことが気にかかる。目標が自分だけであればいいが、竹千代まで狙うようであれば、何としても阻まなければならない。このように説明し、右衛門作に竹千代の近辺を見守らせた。右衛門作はなおも心配したが、長四郎は実家に帰って療養することとし、一応の納得を得た。

「父上におかれましては、大御所様の信任厚く、誠に多忙にあり、お邸を空けることが多いのみならず、在宅の際もお邸にて談合されることも多々ありまする。このようなところに、長患いの者が居れば、ご迷惑となりましょう。本来なればこの松平の家のみが我が家。大河内とは縁も断たねばならぬところではございますが、父上のお邪魔にならぬよう大河内にて療養いたしたく、曲げてお願い申し上げまする」

 毒を盛られている疑いがあるなどとは言えない。長四郎は自分の存在が正綱の邪魔になりうることを強調することで許してもらおうとしたが、正綱の方では実家とのつながりを断てなどという確執があるわけもない。実家の方が心休まるだろうと、何ら抵抗もなく戻ることを許された。

 実家に戻ってからも長四郎は用心を怠らなかった。鷹匠が体調を崩した鷹を治すときの食事のやり方を参考に、自分の食事の摂り方を考えてみたとして、自ら食事の用意をするようにしたのだ。その方法は、初めは食事を摂りすぎないようにし、体力の回復とともに量を少しずつ増やしていくというもので、一回ずつ米の量を計った。もちろんこれは自分で食事の用意をするための口実である。

 徐々に体調は良くなってきたが、思いのほか長引き、復帰出来たのは、年明けの慶長十六年(1611)正月中半であった。

 復帰の日、竹千代は角場で鉄砲の稽古をした。長四郎もその場に同席することとなった。病弱であった竹千代も、乳母のお福が工夫した食事や、兵法鍛錬のおかげでこのころにはかなり丈夫さを増していたのである。

 ズドーン

 腹の底に響く銃声が角場に轟く。瞬間、的である角が弾けた。

 竹千代は、次の準備に入る。銃口から胴薬と呼ばれる火薬を注ぎ、弾をつめ、突き固める。火皿に口薬と呼ばれる火薬を入れ、火蓋を閉じ、火縄を火挟(ひばさみ)に挟む。ゆっくりと銃を頬につけて構え、狙いを定める。息を整えると引き金を引いた。

 ズドーン

 見事に角が弾ける。強い反動を体で受け止めるために、かなりの体力が必要だ。何度も続ける竹千代の額にはうっすらと汗が光り、淡い湯気が立ち上っていた。

 再び準備がなされ、狙いが定められる。竹千代が引き金を引いた時、今までとは違う音がした。

 カチッ

 不発である。竹千代はその銃を傍らの銃架に置き、他の銃を取りに行こうと歩き出した。竹千代の身体が不発のままの銃口の前に重なる。その瞬間、長四郎は駆け出し、銃を蹴り飛ばすとともに竹千代を抱えるようにして倒れこんだ。

 ズドーン

 同時に銃声が響く。不発だった銃が暴発し、あわや竹千代が負傷するところだったのだ。鉄砲の稽古は中止され、竹千代は供の者に付き添われて引き下がっていった。

「ただいまの振舞い、形容する言葉もないほどの忠節である。御家人は数万人ありといえど、とても其方に及ぶ者はない。いよいよ体調に気を付け、長く忠功を尽くしなされ。まことに類なき人物だ」

 青山忠俊が長四郎に声をかける。

「恐れながら伯耆守(ほうきのかみ)様に内々にご相談したき儀がございます」

 伯耆守とは忠俊のことである。長四郎のただならぬ様子に、忠俊はさっそく二人だけになった。

「此度のこと、実は銃の暴発ではございません」

 長四郎の語った真相に、忠俊はしばしうなり声をあげた。

 暴発に見せかけたが、実は竹千代を銃で狙っていた者がいたのだ。これを右衛門作が防いだ。とっさのことであるため、生かして捉えることは出来なかったのが残念だが、何者かが今回のために雇ったものだろう。長四郎は、右衛門作からの報告に合わせ、竹千代をかばったのだった。

 実は病床にいる間、長四郎は右衛門作から忍び言葉を学んでいたのである。忍び言葉とは他の者には鳥の囀りか何かにしか聞かれない音で意思を伝達するものだ。訓練した者であれば、遠方からでも伝えられる。今後、陰に回っての働きを右衛門作にしてもらう上で、姿を見せないままに用件を伝えてもらう必要性が生じると考え、長四郎から願ったのであった。

「其の方の口ぶりでは、何者が襲わせたかも検討がついていような」

 確証はないと前置きし、長四郎は国松のそばにいる者ではないかと告げた。このところ、「大御所様が次の将軍を竹千代君に決めたらしい」との風聞が広まっており、焦りを募らせたのではないか。このままでは、ますます焦慮を募らせ、取り返しのつかないことになりかねない。忠俊は、竹千代の傅役のなかで、唯一諫言(かんげん)に躊躇しない人物であり、長四郎の信は厚かった。

「分かった。対処しておく。また何かあったら知らせてくれ」

 数日後、次期将軍については未定であることが正式に発表された。

 

 

 この年の十一月十五日、長四郎は元服し、名を正永に改めた。正の字は養父の正綱からもらったものだ。これに前後し、正綱には井上正就との間に行き来が見られている。正永と正就の娘との婚姻についての相談のためである。

 明けて慶長十七年(1612)正月、正永は新年の挨拶に長沢松平本家邸を訪ねた。いつものように人払いをさせた忠輝は、正永の元服を祝い、談笑を楽しんだ。やがて、

「そういえば、面白い者をそばに置いているようだな」

 右衛門作のことである。忍びの出の者をそばに置いているということを聞き及んだらしい。

「実は、頼まれてほしいことがあってな。有馬晴信と岡本大八の一件だが、聞いているか」

 忠輝が説明したところは次のようなものだった。

 自分の貿易船の乗員をマカオで殺された報復として有馬晴信がノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号を攻撃した際、目付け役として付いたのが本田正純の与力である岡本大八であった。大八もキリシタンであることから、言葉巧みに同じくキリシタンである晴信に取り入った。その中で、有馬家には昔、龍造寺家に奪われた土地があり、今は龍造寺家から実権を奪った鍋島領になっているということを大八は知ったのだ。四歳で家督を継いで以来、自領を守ることのみに人生を費やしてきた晴信にとって、この旧領を取り戻すのは宿願とさえいえるものである。

 そこに目をつけた大八は、晴信にダ・グラサ号撃沈の功績について「この結果には大御所様もお喜び間違いなしでござります。うまくすれば、鍋島が掠め取った藤津、杵島、彼杵を恩賞として与えられることも夢ではありますまい。目付けとして、よろしくお伝えいたしましょう」と囁き、活動資金として金品を引き出すことに成功した。資金提供は数回に及び、合計六千両にも及んだという。そこまでしながら、なかなか話がはかどらないことに業を煮やした晴信は、大八ではなく、その主である本田正純に面会し、早く話を進めてくれるよう求めた。正純としては、寝耳に水である。直ちに大八を呼びつけ糺(ただ)したが、埒が明かず、正純は家康に報告した。家康は、これを受け駿府町奉行の彦坂光正に調査を命じた。これが年末のことである。

「まだ調査中だが、どちらにせよ、この一件は後を引くぜ。晴信も大八もキリシタンだし、事の始まりもキリシタン同士の諍いだ。徳川の世を永続させるためには、次の一手は諸家の力を削ぐことさ。それにキリシタン対策が使われることになる」

 鎌倉幕府や室町幕府の衰亡の理由を考えれば、幕府を支えるべき者が幕府以上に力を得たことに起因することが分かる。大御所である父はもちろん、公方である兄もそのことは十分に承知のはずだと忠輝は語った。キリシタンへの対応が厳しく求められるようになり、それができないとあれば改易などの処分を科すようになっていくだろう。

「そこでだ。お前に有馬領の様子を調べてもらいたいんだ。今回の一件で有馬家に対しては厳しい監視と課題が課せられるだろう。場合によっちゃ、住民たちが蜂起するかもしれないからな」

 この調査に、右衛門作を使おうというのだ。

「それと、これからはこの本家との付き合いも最小限に控えろ。こちらへの風当たりも相当厳しくなりそうだ。何せ、お前以外、親密な関係にあるやつらはみんな、幕府にとっての邪魔者ばかりだからな」

 忠輝はキリシタンに対し寛容的だ。だから、キリシタンたちは忠輝に親近感と信頼感をもって接してくる。そして、妻である五郎八姫もキリシタンであった。その五郎八姫の父、伊達政宗はうまく取り繕ってはいるが野心を隠し持っている。

 さらに豊臣秀頼との親交もある。実際に会って語ったのは一回だけだが、互いに心を許した相手だった。慶長十年(1605)、秀忠が征夷大将軍になった同年、秀頼も右大臣となった。家康や秀忠が祝いに赴いたのでは、徳川が豊臣の下になってしまう。そこで白羽の矢が立てられたのが忠輝だった。一応、家康の子であり礼を尽くしているようではあるが、目に見えて冷遇されている人物である。徳川は豊臣のはるか上にいるのだと示すにはいい人選だと言えた。

 忠輝との接見に、秀頼の母である淀の方も同席すると言ったが、秀頼はこれを退けた。母の言葉を退けたのはこれが初めてである。

「右大臣就任の祝いの使者と会うに、母上同席では笑われましょう」

「母親が子のそばにいることがおかしなことかえ。誰が笑いましょうか」

「秀頼が笑われるのではありませぬ。右大臣が笑われるのでございます。それでは朝廷にも失礼となりましょう」

 そこまで言われれば、淀の方としてもそれ以上我を張ることは出来なかった。

 秀頼は接見すると、忠輝を天守の最上階に誘った。近臣からは城の内部をさらすなどとんでもないことだと諌められたが、「其方らは徳川と戦をしようというのか。そうでないならば見せたとして何の支障があるか」と一蹴し、忠輝を連れて行ったのだ。

「親に捨てられたそうな。羨ましいな。どうせ吾(われ)の考えなど認めずに、傀儡(くぐつ)のように扱いたいのなら、いっそ捨ててくれればよいのに」

 大阪の街を一望にしながら、忠輝に振り向くでもなく、独り言のような話し方だった。

「捨てられたままならな。だが今では違うさ。一度捨てたんだから放っておけばいいものを、口を出したくなるものなんだろうよ」

「そうなのか」

 秀頼は、さも不思議そうな表情を見せて、忠輝に振り向いた。

「そうなのさ。それを望む者もいるが、こっちはそうじゃない。お互い窮屈な身だよな」

 忠輝のいかにも苦り切った表情に、秀頼は思わず吹き出してしまった。気の置けぬ話し相手などいなかった秀頼は、垂れ流すように話し始めた。父のこと、母のこと、秀忠の娘である妻の千姫のこと、家臣らのこと・・・・・・。忠輝はそれらに対し、時に微笑み、時に大声で笑い、怒り、あるいは泣いた。

「今日は楽しかった。もう会えぬであろうな」

 別れに際しての秀頼のつぶやきである。

「会う必要なんてないさ。こんなやつがいるんだ、こんなに楽しく語り合えたんだってことは、いつでも胸にあるからな」

 実に楽しいひと時を過ごしましたとの報告に、秀忠は苦虫を噛み潰したような表情を作り、家康は「似合いの二人であるな」と言っただけで席を立ったという。

「本家様ほどのお方が若殿様のおそばにあれば、これほど心強いことはございません。お願いでございます」

 長四郎はどうにか幕府内に忠輝を適応させ、力を発揮してほしいと願ったが、それは無理な願いであった。

「無理だろうな。こればかりは道理でどうなる話ではない。よいか、長四郎。強くなれ。偉くなれ。誰もがお前を蔑ろにできなくなるほどに出世しろ。竹千代を守るのなら誰にも手を出させないほどに大きくなれ」

 長四郎に後ろ盾もなく、独り立ちしなければいけない時が迫っていた。

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