長四郎

 天井裏から覗くと、板敷の控えの間で見事な正座姿の長四郎が見えた。今宵(こよい)は宿直(とのい)である。季節は冬。もう夜中を過ぎているため、灯りもつけてはいない。光といえば、庭に面した障子越しに射す、わずかな月明かりのみだ。その中を十一歳の子供が一人きりなのである。さぞ心細かろう。寒かろう。足も痛かろう。だが、長四郎は背筋を伸ばし、拳を腿の付け根に置いたままじっとしている。眠ってはいないようだ。時折り聞こえる微かな音に首を巡らすことがあるので、それと分かる。今夜は寝ずの番と決め、自分を戒めているのだろう。

 長四郎は、まだ徳川秀忠の小姓だったころに、居眠りをして失敗を犯したことがある。大したことではない。秀忠が大奥へ渡る際に太刀を持ち廊下で控えていたのだが、居眠りをしてしまったのだ。そこに戻ってきた秀忠も、不憫に思い、そっと太刀を取って中奥に戻ろうとした。その時、長四郎が目を覚まし、太刀を奪われたと思って、去ろうとする人影を追った。

 「曲者(くせもの)、刀を返せ」と組みついた相手が秀忠と知り、震えながら畏(かしこ)まる長四郎に、

「太刀を取り返そうと、恐れることなく挑むとは、なんとも奇特な子である。その心一生忘れるでないぞ」と秀忠は声をかけた。長四郎はこのことを深く胸に刻み、それ以降寝ない工夫、仮眠を取ったとしても御用の際にはすぐに起きだせる工夫をつけてきたのだ。それが八歳の時である。

 その翌年、秀忠に男子、竹千代が生まれると、長四郎は竹千代の小姓に任じられた。この竹千代は病弱な性質(たち)で、食も細く、皆を心配させた。特に今夜は寝つきが悪かった。このような時は、いつ起きだすか、苦しみだすか分かったものではない。だからこそ、寝ずの番と決めたのだろう。

 今年六月、三歳違いの国松が誕生し、母の寵愛(ちょうあい)が弟に傾いたころから、竹千代は気難しさが目立つようになってきていた。これは、自らの存在を周囲が忘れてしまうのではないかとの恐れから来るものかもしれない。そのような面でいえば、幼くして生家から離れた長四郎にも感じるところがあるのだろう。周囲の大人や小姓仲間たちが困惑する中、長四郎は根気強く対応し続けた。今では、事あるごとに竹千代は目で長四郎を探すようになっている。

 「聡明な子だ」天井から長四郎を見守る男は、これまで何度感嘆の息を漏らしただろう。この男の名は、右衛門作(えもさく)。甲賀(こうか)の生まれ。忍びである。もともと長四郎の祖父、大河内金兵衛秀綱に小者として仕えていたが、長四郎の誕生を機に、世話役として長四郎につくようになっていた。長四郎が小姓になってからは、たびたび江戸城に忍び込み、長四郎の様子を見守っている。

 

 

 右衛門作と秀綱の出会いは、二四年前に遡る。この年、織田信長が本能寺において家臣の明智光秀に討たれた。世にいう本能寺の変である。この時の様子を右衛門作は直接見聞きしたわけではないが、陽忍(ようにん)たちから聞き、あらましは把握している。

 陽忍とは、情報収集のために家臣や御用商人などとなって長期間任務についている者のことで、親子二代に亘ることもまれではない。このような陽忍が、信長や光秀、豊臣秀吉などにもついていたのである。

 ことを起こすにあたり、光秀はひどく緊張し、奇異な行動が目立っていたという。愛宕(あたご)神社で戦勝を祈り、吉が出るまで神籤(みくじ)を引き続けるといった戦への執着を見せたかと思うと、翌日には西之坊威徳院(にしのぼういとくいん)で連歌会を開いている。この会では、寺僧が出した粽(ちまき)を笹ごと食べた、突然隣の者に「本能寺の堀の深さはいかほどか」と尋ねたため周囲の者が訝(いぶか)しんだ、といった状態だったようだ。

 表向き、光秀行軍の目的は西国攻めの援軍であり、これは信長からの命である。当然、秀吉にも行程は知らされていた。通常であれば、何も光秀は焦る必要などない。本能寺での計画を知らされていない者からすれば、光秀の行動は、さぞ奇妙に感じられただろう。

 秀吉はこの援軍到来に対し、行路の要所毎に伝令役を配し、光秀軍が到着したら存分にもてなすよう指示していた。秀吉にしてみれば、光秀の援軍なしに軍功を上げた方が良いのであって、その自信もある。援軍など邪魔なだけだったが、信長の命であれば逆らうことは出来ない。せいぜい、足止めをして到着を遅らせるのが精いっぱいのところだったのだ。だが、このような配備をしておいたおかげで、本能寺での変事をいち早く知り、誰よりも早く京へ戻ることができたのである。秀吉の強運ととらえる者もいるが、忍びである右衛門作にしてみれば、準備と対応を怠らなかった者とそうでない者が当然の報いを受けただけのことでだった。

 この本能寺の変が勃発した時、徳川家康は境にいた。五月十五日から安土城で信長の接待を受けていた家康は、二一日に安土から離れ、二九日に境に入っている。翌六月一日は境見物で過ごし、二日未明に本能寺の変が起こったのである。

 この時、家康は落ち着いていたという。三河への帰路を吟味し、この機会に甲賀、伊賀、伊勢、旧武田の勢力を味方につけるべく精力的に動いたのだ。この時、活躍したのが伊奈忠次であり、忠次に仕えていた秀綱である。

 忠次はもともと家康の嫡男、信康についていた。しかし、信康が信長から自害に追い込まれると、三河を離れ境に逃れていた。そのため地の利、人脈を得ていたのだ。家康が窮地にあると知ると、すぐさま呉服(くれは)神社の服部貞信に連絡を取り、社人を集めて家康の警護体制を整えている。さらに、秀綱を伊賀に急行させた。

 秀綱は伊賀に着くと、家康の置かれている状況を説明、警護と甲賀への口添えを依頼した。伊賀は、前年の信長による掃討戦、いわゆる天正伊賀の乱において家康に大恩があった。この恩を返す時と説得したのだ。

 天正伊賀の乱における信長の攻撃は熾烈を極め、多くの伊賀者が三河、遠江に逃げ込んでいる。信長の盟友である家康を頼むのは大きな賭けであったが、家康はこの伊賀者たちを受け入れ、保護したのだった。伊賀者たちはこの時の恩を忘れておらず、秀綱の要請を快諾した。

 甲賀での会合は甲賀総社油日神社の大坊の一つである善応寺の講堂で行われた。聖徳太子が建立したともいわれる古刹で、本尊の十一面千手観音菩薩の前に、上忍といわれる各集団の頭格が居並んでいた。甲賀はこの上忍たちの連合体といった形態を持ち、甲賀全体に関することは合議によって決定された。

 講堂の周りでは、様子を見に来た下忍たちで立錐の余地もないほどである。中には、境内の立木に登る者や罰当たりにも講堂の屋根に上る者さえ見られた。

 この群衆の中に右衛門作もいたが、当然中の様子は見られない。

 一刻ほども経ったろうか。講堂から秀綱と伊賀の仲介者が出てきた。数え切れぬほどの興味に輝く視線の中から、秀綱は右衛門作を見つけた。何が気に入ったのかは知れない。お互いの視線が合うと、

「おぅ、この年でいっぱしの忍び面(づら)をしているじゃないか。何かあったら頼むぞ」

 秀綱は右衛門作の肩に手を置いた。しかも屈託のない笑顔でである。それまで、生真面目な印象しかなかったが、自分にだけ見せた一瞬の表情で、右衛門作は魅了された。この時、右衛門作七歳であった。

 伊賀越えにおける功績によって伊奈忠次は徳川家への帰参が許され、父の旧領である小嶋を与えられた。秀綱もこれに従っている。

 本能寺の変から三年。世は秀吉のものとなっていた。体制固めを急ぐ秀吉にとって例外はあり得ない。甲賀もまた同様であった。これまでのように上忍が小領主のような役割を持ちながら、合議制によってことを進めるという自由独立の国など許されるはずもなかった。上忍たちは所領を没収され、誰かのもとに侍として仕官するか、農民として暮らしていくかの選択を強要された。これを甲賀ゆれと呼ぶ。この影響は、当然下忍たちにも避けられないものであった。小作として国に残るか、職を探して慣れ親しんだ地を離れるかといった道を選ばなければならなくなったのだ。右衛門作の親も困窮したあげく、子を他所(よそ)に出すことに決めた。右衛門作にも迷いはなかった。素早く荷をまとめると、三河を目指した。

 「秀綱殿を頼ろう」右衛門作の脳裏には、あの時の秀綱の笑顔が浮かんでいた。

 

 

 長四郎が生まれたのは慶長元年(1596)、右衛門作二二歳の時であった。このころには家康もすでに江戸に移封し、秀綱も伊奈忠次について現在の埼玉県伊奈町に移っていた。

 長四郎は生まれた頃から聡明さが窺えたという。話しかけられると嬉しそうに聞き入り、話し手の感情を映し鏡のように自らの表情に表した。これに気づいた右衛門作は、秀綱に対して長四郎に話を聞かせるよう仕向けた。

 秀綱が試しに話しかけてみると、確かに反応があって面白い。右衛門作の件でもそうだが、秀綱は元来子供好きであったらしい。そのこともあって、長四郎に話を聞かせるのがすっかり日課となっていった。とはいえ、子供用の話しを持ち合わせているわけではない。話すことといえば、三河での一向一揆のことや代官仕事で体験したようなことばかりであった。それでも話しかけられることが多かったのが影響したのか、長四郎は言葉を覚えるのが早かった。

 歳とともに秀綱の話の内容そのものにも興味を示すようになったが、覚えれば試してみたくなるのが子供というものだ。

 長四郎は四歳の頃から庭で鶏を育て、朝に卵を集めることを楽しみとしていた。ただ、草深い地方であり、蛇なども多い。卵を盗られないよう交代で見張るよう小者に命じていた。

 長四郎が五歳の時のこと。ある時から卵の量が明らかに減ってきた。不審に思った長四郎が自ら様子をうかがっていると、見張り番をしていた小者が卵を盗み出していることが分かった。直ちに、その小者を捕らえさせ、縄で縛らせた。

「番人として務める者が盗み取るとは、不届きもひとしお。二度とそのようなことを仕出かさぬよう懲らしめねばならぬ。卵を欲したのはその喉か。では、その喉を括(くく)れ」

 他の小者に命じて、捉えた小者の首に縄を巻かせた。

「あまり強く締めては、息が絶えてしまおう。卵を盗んだ程度で、人の命までを奪うべきではない。死なない程度にせよ」

 長四郎はこの小者を一日そのままの姿にしておいたが、仲間が縄を緩めないよう、結び目に封印をつけておいた。

 翌日、「もう、このような悪さを考えてはならぬぞ」と語りかけながら縄を解いてやった、その長四郎を秀綱が呼びつけた。

「卵を盗んだ小者を懲らしめたようだな」

 長四郎が自信にあふれた顔で頷くと、

「よいかな。其方の下した罰は妥当なものであったろう。しかしながら、同じことでも誰が命じたものかで、受ける者の心は変わる。長四郎とすれば、その小者に罰を与えることが目的ではあるまい。その小者に罪を改めてほしい、つまりはその者の心根を変えるという事こそが大事と考えたのではあるまいか。ならば、相手が素直にそう思える者から命じられなければ効は無かろう。なぜこのような者から、こんな仕打ちを受ねばならないのだと、その者が受け取れば、恨みこそ覚え、改心などにはつながるまい。此度(こたび)のこと、如何かな。其方と相手との歳の差。其方の人の上に立つという能力と実績。其方と相手との間柄。それらを踏まえ、適切であったといえるか。何者かに、何事かを命じるには、己がそれに相応しい者でなければならぬ。そのこと、ゆめゆめ忘れるでないぞ」

 口調は非常に柔らかい。それはそうだ、内心では孫の機転を喜んでいるのだから。だが、慢心し、人心から離れてしまうようでは困る。これ以降、秀綱は長四郎に、様々な問題解決についての話を、より具体的に話すようになった。長四郎が自分の話を身につけ、活かそうとしていることが分かったからだ。この習慣は、長四郎が家を出るまで続いた。

 

 

 長四郎が歩けるようになってからは、右衛門作は長四郎を外に連れ出し、様々なことを教えるようになった。もちろん、忍術などは教えないが、方角の見方、時刻の測り方、天気の予報、鳥獣の行動の意味などは長四郎の好奇心を掻き立てるものだった。また、長四郎も体を動かすことが好きで、野や木々の間を右衛門作と走り回ることを楽しんでいた。

 事語継志録(じごけいしろく)には次のような文章が記されている。

 野辺へ出で給ひて、鳥などを追廻させ給ふ勢にて、垣などの竹の中を走らせ給ひ、振袖の袂へ竹の先の入りたるをも御覚えなく走らせ給ふ故、御宿へ帰らせ給ひても、御袖のなきといふことを知召さざりき、下部の者野辺へ出でて是を見るに、二間計りの竹の先に御袖の懸りあるを拾いて帰りぬ。

 斯様の事もあれば必ず過もあるべしとして、母君の仕置きとして亀千代(長四郎と名乗る前の初名)君を捕へ押伏せ給ひて、小灸にてはきくまじとて、灸を大きくし給ひ、しやうもんに数々すゑさせ給ふ

 ついて回った下部の者とは、当然右衛門作のことである。これ以降も長四郎は度々野辺に出て遊ぶことを所望した。袖が取れるようなことはなかったが、枝に引っかかっては裂き傷を作ることは絶えなかったため、そのたび右衛門作が繕っていた。

 ある日、長四郎が母親から呼び出された。右衛門作は同席することができないため、母親の部屋に面した庭で控えることとなった。

「我が家にはいつから獣が住み着いたのですか」

 右衛門作にもその声が聞こえた。声量は決して大きいものではない。ただ、他のものを寄せ付けないような強い意志が込められ、まさにじわりと染み入るような語り方だ。右衛門作の背中にさえ冷たい汗が流れる。

 「今日は語りできたか」右衛門作は舌打ちをしたいような気分になった。大きな灸をすえようと、縄で縛りつけようと、そのようなことはまだ優しい。実はこの語りが一番堪(こた)えるのだ。

「我が家に獣が出入りしている証拠は、これ、この獣の毛じゃ。屋敷を囲う竹の枝にこれがついておったそうな」

 後から確認したところ、この獣の毛として示されたのは、長四郎の着物からほつれた一本の糸であったという。これには右衛門作も愕然とした。いや、完全なる失策である。傷んだ着物を繕っているため、布自体がちぎれたものであれば、どんなに小さなものでも見逃すことはない。しかし、糸一本とは気づかなかった。それにしても、見つけた方が大したものだ。

 この時、一人の顔が浮かんだ。長四郎の母に仕えている葵という年若い下女である。この頃、長四郎や右衛門作の行動を探っていたようだが、これがためだったのか。正直に言えば、顔を合わせた時に小言の一つでも口にしたいという気持ちはないではないが、それよりも驚嘆と称賛の気持ちの方が強い。だが、この時の右衛門作は事態が分からず、不安のままに耳を傾けるだけだった。

「人が衣を身につけるのはなぜだと思いますか。それは恥があるからです。恥とは己を知り、他を知らなければ感じられるものではありません。己ばかりでも、他に合わせるだけでも恥は生じぬ。これらは獣にでもできること」

 右衛門作の脳裏には、全身に硬く力を入れ、心の揺れを必死に制御しながら、姿勢を保って一言も聞き漏らすまいとしている長四郎の姿がありありと浮かんだ。

「衣を作る者も、それを身に着ける者が立派な人になれるよう思いを込めている。それが分かるから、人は衣を大切にする。獣はその思いも、人語も解さない。ですから、この屋敷から追い出さねばなりませぬ。其方に対処を任せます。よろしいですね」

 鋭い刃のような言葉の連なりである。通常であれば、落ち込み、外で遊ぶことにも恐怖を覚えてしまうだろう。しかし、長四郎は違った。問題を解決するというよりも、どうすれば問題を突破できるかを考えるのが長四郎の思考法であった。この時も、屋敷に籠るのではなく、どうどうと門から出、遊び場である森などに着いたら、やおら服を脱ぎ、きれいにたたんだ。下帯一つの姿で木々の間を走り、野鳥を追ったのだ。そして、遊び終わったら、手ぬぐいで身を拭い、服を着て再びどうどうと門から帰るのである。

「これならば衣を大切にすることになる。下帯のみで走り回るのはまさしく獣のごとき見栄えであるが、獣はあくまで屋敷の外におるのだから問題なかろう」

 これが、長四郎の言い分であった。

 この後、長四郎は実父である大河内久綱の弟、つまり叔父の松平正綱に養子入りした。正綱が当主を務める長沢松平分家は十八松平といわれる、三河時代までに分かれた由緒ある家柄の分家である。これにより、右衛門作も長四郎とともに江戸の長沢松平分家邸へ入ったのだが、この時いっしょに移ったのが葵である。

 葵は、家事万端をこなしながら、長四郎の世話もしている。特に、今日のような宿直番の場合は、夜食用の弁当を持たせるのが習いとなっていた。ただし、この弁当を長四郎は一度で食べきることはなかった。量が多いのではない。食事の途中であろうと、呼ばれれば何物も擲(なげう)って駆け付けるためだ。寒い日であれば、用が済んだ時には飯が凍り付いていることもしばしばである。時間が早ければ湯をもらい、凍った飯にかけて食べる。葵もそれが分かっているために、やや濃いめの味にしてあった。今日もやはり凍ってしまった。しかも、寝つきの悪い竹千代に付き合って夜中となってしまったため、湯をもらうのも憚られ、結局食べられずにいた。

 右衛門作は思い出の国からようやく現実に戻った。下には、変わらずに姿勢正しい長四郎が見える。

 まったくもって子供らしくない忠臣ぶりであるが、一方では子供ならではの執心ぶりとも思われる。興味のすべてが竹千代への務めに関することなのだろう。

 この長四郎が、後に信綱と名乗り、知恵伊豆の異名で呼ばれるようになる、松平伊豆守信綱その人である。

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