其の七 籠城

 一一月二三日に天草を撤退した一揆勢は、舟で対岸に向かい島原半島の南岸にある原城への籠城を決意した。島原と天草のちょうど中間に位置するこの城は、三方を沼田に囲まれ後背を海に面する天然の要害であった。形式上は幕府の「一国一城令」に従うため松倉家によって破却されたことになっていたが、実際には目に見える部分だけを破壊して城としての基本的な機能は温存されていた。築城から三〇年以上たってはいるものの、本丸の高い石垣や何重にも屈曲させた巨大な虎口は健在であり、当時最新鋭を誇ったこれらの防衛設備によって籠城にうってつけの条件が備わっていた。

 原城に到着した一揆勢は乗り着けた舟を解体して城の塀を修復し、ほかは簡単な修繕を施して原城を実用に堪える状態にまで復元させた。さらには口之津にあった松倉家の備蓄庫を襲撃し、米や武器をことごとく奪い取った。知らせを聞いた近隣の村からも食料が次々と城内に運び込まれ、その数合わせて三万七〇〇〇人にものぼる大群衆が一二月九日までに長期戦の準備を完了させた。

 対する幕軍は上使板倉内膳正重昌を総大将に据え、諸大名をひとまとめに編成して六日に島原城を出陣した。巨大な軍勢を率いた重昌は、籠城のため無人と化した村々を焼き払いながら一〇日に原城を取り囲んだ。その時までには一揆勢は、幕軍を迎え撃つ態勢を整えていた。

 着陣するが早いか、重昌は敵味方の実力を見極めないうちに全軍に城の攻撃を命じた。拙速としか言い様のないこの命令に対し、先陣争いにいきり立つ武将たちはそれすら歯がゆいとばかりに城へ向かって飛び出していった。

 相手が百姓とたかをくくり、進軍の合図も待たずに城門へと攻め寄せた軍勢は、そこで予想をはるかに超えた反撃に出会うことになった。

 一揆方は口之津の備蓄庫から奪った五〇〇丁の鉄砲を城の随所に配備し、射撃の腕の確かな者を選抜して塀ぎわを固めていた。一揆勢の中にはかつて有馬家に仕えていた者も多く、戦況を自分たちの有利に導くすべを熟知していた。彼らは幕府方の軍勢を城の近くまで十分に引き付けたうえで、猛烈な集中砲火を見舞ったのであった。幕軍はあわてて鉄砲や大砲で応戦したが、強力な武器を手に入れた一揆勢の攻撃はすさまじく、確たる戦術もまとまりもない幕府の軍勢は城に近づくこともできずいたずらに死者の山を築いていった。

 結局幕軍はこの日の一番攻めを、死傷者合わせて一〇〇人にのぼる完全な敗北で終えた。一揆勢が一人の死者も出さなかったのとは対照的であった。手も足も出せずに後退を余儀なくされた重昌は、緒戦から統率力のなさをさらけ出してしまった。

 天草を目指していた信綱は一五日に大坂へ到着し、そこではじめて一揆勢が原城に籠城したことを知った。

 信綱の気持ちは複雑であった。一つの城を攻めるのに二人の上使はいらない。立場上、上使にとどまるのは間違いなく老中である自分の方である。自分が原城に近づけば近づくほど、重昌は居場所を失うことになるのであった。

 参戦している諸大名はそのことを敏感に察知するであろう。信綱の到着する前から、重昌の求心力は急落するはずである。重昌に残された道は、逆境のなか信綱の到着までに一揆を片づけることしかない。それがいかに困難なことか、信綱は重昌の置かれた厳しい身の上を案じた。

 自分にできることは、せいぜい原城への到着を遅らせることくらいである。そのうちにまた状況が好転しないとも限らない。信綱は一縷の望みをそこにかけることにした。とりあえず、城攻めに備えて大坂城にある大砲を船に積み込む必要がある。その手配にできるだけ時間をかけて、しばらくここで一揆の情勢をうかがおうと信綱は心に決めた。

 緒戦の敗退に懲りた重昌は長期戦に備えるとともに、組織的な城攻めの戦術を立てることにした。諸家との協議の結果、鍋島勢が敵を搦手に引き付け、その隙に立花、松倉両勢が大手を攻略するという二面作戦がとられることになった。

 二〇日、重昌は満を持して二番攻めを敢行した。細い山道をたどって搦手の近くまで潜行した鍋島家の軍勢は、夜が明け切らないうちに城の前へ飛び出し、派手に搦手を脅かした。陽動作戦らしく鐘を打ち鳴らし、ときの声を挙げて城に迫る鍋島勢の真横に、あらかじめ攻撃を察知していた一揆勢がいきなり現われて鉄砲の口火を切った。長く横に隊列が伸びていた鍋島勢は、本丸の塀ぎわに居並ぶ一揆方にまともに側面をさらけ出す形となり、思うように身動きが取れないまま一揆勢の格好の標的とされてしまった。

 大手を任された立花勢はさらに悲惨であった。搦手を襲撃する声を合図に、城の真下へ配置しておいた軍勢が一気に攻め立てたところ、こちらも幕府方の動きを読んでいた一揆方の砲撃が突然襲いかかったのである。ふいを衝かれた立花勢は態勢を立て直す間もなく、降り注ぐ銃弾の前にばたばたと倒れていった。弾丸をかいくぐってようやく城に取り付いた兵士には、塀の上から無数の投石が待ち構えていた。高さを利用して雨あられと降って落とされる投石は、立花勢に対して思いがけぬ威力を発揮した。名だたる武将が老婆の投じる一石にまるで歯が立たないのであった。一揆のあまりの勢いに、立花勢を援護する松倉勢はおじけづいて一歩も前に進むことができなかった。

 二番攻めも幕軍の惨敗であった。鍋島、立花ともにおよそ三〇〇人ずつの死傷者を出し、命からがら撤退することを余儀なくされた。一揆方の損害は今回もわずかであり、幕軍は城内に一歩も足を踏み入れることなく攻撃の中止に追いやられた。

 参戦する誰もが予想もしていなかった展開であった。幕軍が一揆勢に対して抱いていた無力な百姓という見方は、今や完全に改められた。正月までには一揆を鎮圧できるであろうという楽観論は影を潜め、作戦は根底から見直しを迫られることになった。重昌はすっかり頭を抱え込んでしまった。

 その重昌のもとに一通の書状が届いた。大坂から急を知らせる早飛脚であった。胸騒ぎを感じながら書状を開いた重昌は言葉を失った。そこには老中松平伊豆守信綱が第二次上使としてこちらに向かっていると記されていた。

 結局信綱は一九日まで大坂に滞在し、それから船で豊前小倉へと向かった。信綱自身はもう少し出発を先延ばしするつもりであったが、御三家の一つ紀州徳川家から船を提供したいとの申し出があり、それに後押しされる形で九州まで駒を進めることになった。

 信綱たちを乗せた船団は瀬戸内海を抜け、年の暮れが迫った二八日に小倉へ到着した。ここから先は徒歩で山を越え、佐賀に近い寺井の港で再び船に乗って島原へと向かう予定であった。元日までに原城に着くことはもはや不可能であった。逆に言えば信綱は、重昌に対し年内いっぱいの時間的余裕を与えたのであった。それが今の信綱にできる最大限の猶予であった。

 信綱が時間をかけて原城に向かっている間、重昌はどんどん窮地に追いやられていた。味方の陣地のあちこちで、重昌の統率力のなさがささやかれていた。第二次上使がこちらに向かっているといううわさも、誰からともなくもたらされた。重昌は孤立無援に陥っていった。

 二九日になって、重昌は大名家の家老を集めて三番攻めの話を持ちかけた。重昌が思っていた以上に反発の声が多く挙がった。積極論を支持するところは一つもなく、逆に全軍の仕寄(防護柵)が整うまで攻撃を延期すべしという慎重論ばかりが目立った。重昌には一揆を鎮圧する能力がないと、諸大名から見限られたに等しかった。大勢の意見に抵抗するすべもなく、重昌は心ならずも延期の決断を下すことになった。

 主導権を発揮できなくなった重昌には、当面第二次上使の陣小屋を作る役しか残されていなかった。屈辱を噛みしめながら、重昌は黙ってその場を引き下がった。

 陣小屋に戻った重昌に二通の便りが届いていた。一通は江戸にいる井伊直孝からのものであった。「重昌の手ぬるさを非難する声が江戸城内に広がっている」との忠告であった。無責任な批判に、重昌は怒るより先に情けなくなった。重昌の兄重宗からも便りが到着していた。「この際思い切った決断を下すべきではないか」という助言がそこには記されていた。肉親の情から出たものだけに、この意見は重昌の心にずしりと響いた。とはいえ、突然襲ったこの逆境に、重昌自身どう対処したらよいか態度を決めかねていた。

 さらに翌大晦日の朝、信綱の副使であり重昌の姻戚でもある戸田氏鉄からの便りが重昌に届いた。そこには激しい文面でこう書かれていた。

「百姓相手にいつまでも手こずっているようでは、上様に対して申し訳が立たない。こうなったら無理にでも城を攻めて、早いところ原城を落とすように」

 重昌の心は決まった。選択の余地はなかった。勝敗すらもはや二の次であった。この日、重昌は翌元日に三番攻めを決行すると全軍に伝えた。有無を言わせぬ命令に、全軍は唖然としながらも従うよりほかはなかった。

 元日の交戦は未明からはじまった。戦う前から、幕府方に勝つ見込みがないことは誰の目にも明らかであった。それでも兵士たちはわずかな勝機に望みをつなぐべく、二の丸、三の丸に攻撃を集中させ、あらん限りの力を尽くして塀の突破を試みた。この日の城攻めも事前に一揆方に知れ渡っており、城内では筒先をそろえた鉄砲隊が完全な迎撃態勢を敷いて待ち構えていた。遮二無二前に進むだけの幕軍は堀を越えようとするところで第一撃の集中砲火を浴び、ようやく取り付いた塀の上からは前回にも増して激しい投石に迎えられた。

 開始早々、幕府方の兵は一〇〇〇人ばかりが一揆方に討ち取られた。攻めても攻めても一揆の囲いを突破できない幕軍は、焦りのため動きが単調になったところを城門から討って出た一揆勢の猛反撃に遭い、至るところで傷つき倒れていった。

 夜が明ける頃には、幕軍の敗色は決定的となっていた。幕府方は城を落とすどころか塀を損傷することすらできず、手負いを含め四〇〇〇人近い大損害を蒙っていた。大名家の軍勢はもう前に進もうとはしなくなっていた。諸大名にとって、この時点ですべてが終わっていたのであった。重昌は乗っていた馬を降り、金の采配を振って自ら先頭に立ち進軍を促した。それに従う大名は、もうどこにもいなかった。

 重昌は絶望感を味わいながら、わずかな手勢とともに堀を渡り塀に攻め寄せた。総大将らしき武将の登場に、一揆方は我も我もと重昌に襲いかかった。手勢の者はよくそれを防いだものの、周りじゅうを鑓に囲まれて一人また一人と倒されていった。結局塀のそばまでたどり着いたのは、重昌を含め数えるほどしかいなかった。そしてここでついに重昌の命運も尽き果てた。塀の上から重昌を目がけて大石が飛ばされ、重昌の兜を粉砕した。それにも屈せず塀を駆け登ろうとする重昌の胸に最期の銃弾が突き刺さった。塀に手をかけたまま、重昌は息絶えた。

「新玉の 年にまかせて 咲く花の 名のみ残らば 魁と知れ」

重昌が残していた辞世の句である。元日の原城は、重昌が自ら選んだ死に場所であった。

 翌二日、信綱は寺井に到着したところで重昌戦死の報に触れた。信綱は無言のまま天を仰いだ。恐れていたことがついに現実のものとなった。それを防げなかった責任の一端は自分にある。そればかりか、一揆の発生も元をたどれば自分の責任である。この後始末は自らつけなければならない。信綱は自分に強くそう言い聞かせた。とりあえず急ぎ原城に向かい、重昌の後任となって速やかに態勢を立て直す必要がある。それは目前の戦況の問題だけでなく、幕府の威信にも関わる重大事であった。

 それからの信綱は前日までとはうって変わってすばやい動きを見せた。三日には海路島原城に到着し、その日のうちに軍勢を整え翌日に現地入りできるよう手配した。同時に集められる限りの一揆の情報を仕入れ、原城に着くと同時に適切な命令を下せるよう作戦を組み立てた。与えられた時間は決して多くはなかった。誤報や憶測も混じっていた。それでも断片的な情報を積み重ねていくうちに、おぼろげな一揆の全体像が見えてきた。あとは実際に現地へ行ってこの目で確かめるしかない、と信綱は割り切った。

 四日、原城に到着するが早いか、信綱は諸大名の家老たちに城の周囲を案内させた。信綱を待ち受けていたのは味方の陣営の沈滞した空気であった。大名家の陣小屋を見て廻るうちに、信綱は厭戦気分が蔓延してることにすぐ気がついた。どの陣小屋も深手を負って横たわる兵士であふれていた。口にこそ出さないものの、「このような事態を招いたのは公儀である」と、兵士たちはうつろな目で訴えていた。家老たちもそれは同様であった。大名家にとって、幕府の老中である信綱は歓迎されざる人物であった。

 この日、信綱たち上使一行は屋根のない夜空の下で一夜を過ごすことになった。「急な三番攻めのため陣小屋を建てる暇もなかった」という投げやりな言い訳が信綱に対してなされた。食事さえ用意されていなかった。一行は黙って生米を噛み、お湯をすすった。

 夜が更けると皆つづらに寄りかかって寝た。夜半過ぎには雨まで降り出した。これからの行く末を暗示するような、冷たい一月の雨であった。雨だれ以外に音のない闇の世界で、空腹と寒さをこらえながら、寝つけない夜はなかなか明けようとはしなかった。

 翌朝、信綱は参戦するすべての大名家の家老を集めた。今後の方針を伝える信綱の第一声である。全員が信綱を取り囲み、一挙手一投足を見守った。信綱の上使としての評価はこの一声にかかっていた。

 もしこれまでの敗戦の原因を大名家の怠慢のせいにしようものなら、その瞬間に信綱は全軍を敵に回すことになる。彼らとて重昌の命令に従って必死になって戦ってきたのである。結果だけですべてを判断されてはたまらないという気持ちが全軍の中にあった。

 逆にすべてを重昌のせいにするようなら、その無責任さゆえに信綱は見向きもされなくなる恐れがある。凡庸な重昌を上使に選んだのは幕府であったし、城攻めの結果を見ないうちに第二次上使を送り込んだのも幕府だからであった。

 かといって諸大名をほめでもしたら、それこそ逆効果である。正当な評価もできないうわべだけの賞賛は軽侮の対象にしかならない。兵士たちが上使に求めているのは、的確な状況判断と勝つための戦略、それだけであった。

 信綱はまず集まった家老全員を見渡し、低く張りのある声で一人ひとりに語りかけるように話をはじめた。

「一月もの長きにわたる従軍、そして三度に及ぶ城攻めは、各々方にとって難儀であったと思う。結果にこそ現れてはいないものの、城攻めにどれだけ多くの精力が注ぎ込まれたかは諸家の陣小屋の中を見れば一目でわかる。

 領国のことも気がかりであろう。棄教したはずの切支丹がいつ何時立ち帰るかわからないからな。原城の成り行き次第では、領国で切支丹一揆が起こってもおかしくはない。各々方に目の前の城攻めだけに集中しろという方が酷であろう。

 そこで、大名家の中で領国に帰って兵士を休養させ、切支丹の一揆に備えたいというところがあれば今すぐ申し出てもらいたい。しばしの暇を与えよう。もちろん当主に無断で決められるような事柄ではないから、帰って当主と協議するだけの猶予は与えよう。ただし、ここにいる家老衆も相当程度の裁量権は与えられているはずであるから、協議の必要性は自身で判断したうえで、それなりの覚悟をもって申し出てもらいたい」

 家老たちは全身をこわばらせた。明らかにこれは信綱からの挑戦であった。浮ついた気持ちで参戦し続けることは許されないと、信綱は言外にそう伝えているのであった。うかつに動くことは危険である。家老たちは本能的にそう感じ取った。集まった者は一人として動こうとはしなかった。

 やや時間を置いてから、信綱はふっと小さく息を吐き、そして再び話しはじめた。

「各々方の城攻めに対する決意のほどはよくわかった。上使として礼を述べたい。これで我々は一蓮托生である。この信綱を生かすも殺すも、各々方の行い次第である。私も将軍に成り代わって全軍の命を預かる身であるから、くれぐれも誤った判断をしないよう心して城攻めに当たりたいと思う。

 そこでまずはじめに、諸国の切支丹の動向について、私なりの見解を披露したい。それがこれからの原城攻略の起点になると考えるからである。もしも異論があれば、即座に指摘してもらいたい。

 私の見通しはこうである。諸国の切支丹はこれ以上一揆を起こすことはない」

 家老たちは一斉にどよめいた。理由を聞かなければとても納得できるものではない、というとまどいの色がありありとうかがわれた。信綱自身はさして動じた様子を見せず、ざわめきが収まるのを待って話を続けた。

「私は決断を下さねばならぬ時、結論を導くに足る三つの理由を頭に思い描くことにしている。その理由をあらゆる角度から検討し、それでも三つとも正しいとみなせそうであるならば、結論自体もほぼ間違いないと考えるからである。今回の場合、私が諸国の切支丹が一揆を起こさないと断言する理由は次の三つである。

 第一に、ここ数日この周辺で新たな一揆が発生していないという事実である。各々方、考えてみてもらいたい。もし仮に次の一揆が起きるとすれば、この原城を取り囲む地を措いてほかにあるまい。もともとこのあたりはかつて切支丹の地であった。ということは、原城の一揆に刺激されて近隣で一揆を起こそうと考える者が出てもおかしくはないのである。今ならば幕軍は三度の城攻めに敗れて意気消沈している。この機会に幕軍を背後から襲いかかり、原城の勢力と挟撃すれば殲滅させることも夢ではないはずである。だが、元日の城攻めから四日たった今日になっても、近隣で一揆が蜂起したという知らせは入っていない。それはつまり近隣諸国の切支丹に一揆を起こす気がないということである。ましてやより遠国の切支丹ともなればなおさらである。これが第一の理由である。

 理由の第二は、一揆が勃発した時の状況にある。このたびの一揆が、切支丹による代官殺害に端を発したことを思い起こしてもらいたい。一般にこうした状況は、発作的な暴動が引き金となったと考えるのが自然である。だが実はそうではない。一揆が発生する前から、数人の扇動家が切支丹の立ち帰りを推進していたことが明らかになっているからである。つまりこの一揆は、相当な計画性をもって進められていた切支丹の立ち帰りがおおもとの原因であったと考えられるのである。おそらく扇動家たちは、かつての切支丹国の再興を夢見て立ち上がったのであろう。領主の抑圧下でも自分たちの信仰を守れるだけの確固たる基盤を築こうとしたのではないかと思われる。その活動の成果が、島原・天草での切支丹の立ち帰りである。時がたてば切支丹はさらに広い範囲で立ち帰り、より深くこの地に根を張ったであろう。それが一揆という武力行使の形になって現われたのは、代官殺害という、彼らにとっても予期せぬ事態に発展したからにほかならない。かねてから自分たちの境遇に不満を抱いていた一部の立ち帰り切支丹は、この事件に乗じてさらに反乱を推し進めようとした。そうした暴動に引きずられる形で、島原・天草全体が一揆に飲み込まれてしまったのである。

 今回の一揆が現在のところ島原・天草という特定の地域に限られていることは、この先も一揆が広がることはないということを意味する。島原・天草より外部には扇動活動が及ばなかったことの裏返しだからである。現に島原の北にある村々は、はじめから一揆に参加していない。これが二つ目の理由である。

 理由の第三は、蜂起した一揆勢の動きにある。最初に島原城を襲い、続いて富岡城、さらに原城と、狙うべき標的を次々と変え、しかも破却されていた原城を除いて攻略に失敗しているという事実は、一揆勢が当初から見通しを立てて籠城を企てた訳ではないことを物語っている。蜂起した直後の島原の一揆勢は、島原城を占拠してそこを足がかりに別の拠点を確保しようとしていた形跡がある。彼らが目指したのは、かつての切支丹の一大中心地であり、今も南蛮人が多数行き来する長崎であったと考えて間違いあるまい。その計画が頓挫したのは、おそらくほぼ同時期に蜂起した天草の一揆のせいであろう。島原の一揆に加勢するつもりで蜂起した天草勢であったが、強力な唐津軍の登場により逆に島原からの援軍なくしては一揆を維持しきれなくなったのだと思われる。一揆が同時多発的に発生したことが、かえって力の分散をもたらし、彼らに計画の変更を迫ることになったのである。

結果的に一揆勢は原城に籠城した。もちろん、勝算があるからこそ籠城したはずである。外部からの援軍がなければ籠城は意味をなさない。彼らが期待したのは近隣の切支丹と、そして南蛮人であったに違いない。ところが南蛮人は動かなかった。なぜなら当時南蛮人の責任者は江戸に詰めており、一揆発生後はそのまま江戸に抑留されているからである。今日に至るまで、一揆を救援する動きはどこにも見られない。今まで述べたことから当然であろう。これが私が、これ以上一揆は起こらないとする三番目の理由である」

 信綱は、家老たちの目が次第に生気を取り戻してくるのを感じていた。誰もが信綱の方を向いていた。信綱に対して異論が出される気配はなく、むしろその発言に根拠ありと認め、安心感すら抱きはじめているのが伝わってきた。周りの雰囲気に力を得て、信綱はそのまま話を続けた。

「今までのところで意見がなければ、これから我々がとるべき戦略について考えてみたい。

 その答えは、今私が話したことの中にあると考える。一揆勢は援軍を頼んで籠城した。ということは、原城を孤立無援にして援軍が来ないことを知らしめればよいということになる。原城を取り囲む仕寄を頑丈にして確たる包囲網を構築し、一揆勢を兵糧攻めにしてしまうことがその唯一の手段となるであろう。三度にわたる直接攻撃は、その意味では行うべきでなかった。否、そのことを差し置いても、仕寄は真っ先に固めるべきものなのである。昨日各陣を巡ってみて、仕寄が十分でない箇所がいくつも見受けられた。各々方の心の中に、相手が百姓と侮って手を抜く気持ちがなかったか、あるいは仕寄の重要性を理解していないのか、いずれにせよ第一に改めるべきことである。今から各自陣小屋に戻って、早急に仕寄を固めるよう当主に報告されたい」

 幕軍の陣内は一転してやる気に包まれた。出された結論は重昌の時と何ら変わらなかったが、一人ひとりの目的意識がまるで違った。それまでの沈滞感はうそのように消え、幕軍の動きは見違えるように良くなった。

「これで我々の方針は兵糧攻めと決まり、あとは一揆方の降伏か自滅を待つだけになりましたな」

信綱に同行していた勘定組頭の能勢四郎右衛門頼安が、信綱の意図を確かめるように問いかけた。

「四郎右衛門殿は本気でそう考えているのか?悪いがそれは戦というものをあまりにも知らない者の発言と言わざるを得ない」

空俵を利用した仮の陣小屋作りに取りかかっていた信綱は、頼安の方へ振り返るときっぱりと言った。

「戦とは成り行きに任せて勝ち負けを決めるだけのものではない。それではたとえ勝ったにしても、相手からはたまたま勝ったとしかみなされないのだ。戦の真の狙いは、相手に二度と反抗する気を起こさせないくらいの実力の差を見せつけることにあるのだ。

 これから私は勝つためのさまざまな作戦を実行する。奇策も含め、あらゆる手段を行使するつもりだ。相手の戦意が喪失するまで絶え間なく働きかけることが重要なのだ。

 作戦の第一弾として、私は和蘭に協力を要請する。今回の一揆鎮圧についてはすでに和蘭人から協力の申し出を受けている。和蘭の艦隊が海から火砲を見舞うことによって、原城を全方位から取り囲み一揆勢を孤立させることが可能となるのだ」

 信綱の答えにあっけにとられた頼安は、思わず信綱の顔を見た。信綱の眼光はいつになく鋭く、まさに戦闘の只中にあることを示していた。信綱にとって、兵糧攻めは純然たる積極策なのであった。頼安は全身に鳥肌を生じた。

 信綱は再び頼安に背を向け、その場で平戸の和蘭艦に原城沖まで回航するよう指示した。驚いたのは和蘭人であった。幕軍への協力の申し出はあくまでも礼儀上のものであって、本格的な参戦は彼らにとっても想定外のことだからであった。しかも彼らの艦はすでに荷物を積み終えて帰帆の準備を整えている。この機会を逃すと季節風を利用してバタヴィア(現在のジャカルタ)へ帰ることも非常に困難になると予想された。

「そもそも我々の言う協力とは後方支援のことで、全面的な参戦までは想定しておりません」

和蘭の商館長ニコラス・クーケバッケルは参戦を断ろうとした。が、長崎代官の説得にあい、港に停泊している二隻のうち一隻をバタヴィアに帰帆させ、残る一隻を原城へ向かわせることにした。

 和蘭艦が攻撃につくまでの間にも、信綱は手を休めることをしなかった。六日には甲賀忍者に命じて原城の周囲を偵察させた。信綱たち一行が九州へ向かう途中、自ら従軍を申し出た忍者たちである。信綱は期するところがあってそのうちの一〇人を原城まで連れてきていたが、この機会に彼らの実力を試しておこうとしたのであった。

 指令を受けた忍者は直ちに偵察に取りかかり、堀の深さや石垣の高さ、塀までの距離、矢狭間の形状などを正確に計測して信綱に報告した。信綱はその成果に満足し、それをもとに実測図を作成して江戸にいる家光に写しを送った。

 一〇日、信綱は今度は城に向かって矢文を射ち込むことを主張した。城内の一揆勢に投降を促すためであった。意外とありふれた提案に、副使の戸田左門氏鉄は期待はずれといった面持ちで信綱に尋ねた。

「内膳殿もたびたび矢文を用いて武装解除を呼びかけたようですが、あまり効果がなかったと聞いております。この期に及んで矢文に何を期待するのでしょうか」

信綱は質問に答える代わりに、氏鉄に向かって逆に質問をした。

「左門殿は、一揆方の大将とされる四郎という男をどう見ておるか?」

意表をついた問いかけに、氏鉄はまごつきながら答えた。

「そうですな…。その者はまだ年端もいかない少年と聞いております。さりながら城内では自ら天草の姓を名乗るなど、人心掌握に長けているとも聞き及んでおります。若いのに大将に選ばれるくらいですから、よほど秀でたところがあるのでしょう」

 信綱はうなずき、遠く城を見晴らしながら答えた。

「そう、四郎はまだ若い。齢は一七になったばかりとのことだ。彼が大将となったのは、たしかに優れた資質を備えているからに違いない。だが四郎とて武将としての経験がある訳ではない。実力は未知数だ。にもかかわらず彼は大将に選ばれた。それはどういうことか?切支丹にとって、四郎は精神的な支柱であるとしか言い様がないと思う。切支丹の象徴として祭り上げられているに過ぎないということだ。そのことばかりではない。一揆全体が、そうした宗教的熱狂のうえに成り立っているようにしか見えないのだ。

 熱狂の渦中にいる一揆の指導者たちは、自分たちが正しいことをしていると信じて疑わない。誰もが自分たちと同じ気持ちで参戦していると思い込んでいるのであろう。だが城内にいる者の中には、自らの意思に反して一揆に参加させられている者が数多く含まれているのだ。城から逃げ出してきた何人かの者がはっきりと証言している。村の庄屋に有無を言わさず連れてこられたり、協力しなければ殺すと脅されて仕方なく行動を共にしている者が、実は意外なほど多いのだ。

 矢文の送り先は敵の指導者ではない。逃げようかどうしようか迷っているそうした村人たちだ。私は矢文を使って、そのような者たちに逃げるきっかけを与えようと考えている。投降者の生命と生活を矢文で保証することによって、おそらく今までとは比較にならないくらい多くの投降者が現われるはずである。その結果城内の士気は低下し、一揆は間違いなく弱体化する。それが矢文の狙いである。

 まもなく和蘭艦が到着し、砲撃によって一揆勢に圧力を加えることになる。頼みの援軍がいつまでも現われない一揆勢は、自分たちが孤立無援であることを改めて思い知らされる。同時に矢文の効果で城内から投降者が続出し、一揆が足元から揺さぶられる。硬軟織り交ぜたこれらの作戦によって、一揆勢を内部から崩壊させる。それが私の作戦だ」

 信綱の巧みな心理戦に、氏鉄は思わずうなった。後ろで聞いていた頼安も、何度も大きくうなずいた。戦国の世の戦い方とはまるで違う。それでいて目的を達成する手段として驚くほど理にかなっている。味方の兵を損なわずして敵を追い詰める、その手法はまさに「智恵伊豆」そのものであった。一見奇策ともとれる手段によって、信綱は一揆の解体を目論んでいるのだということを、誰もがはっきりと理解した。

 だが、並み居る大名や兵士たちも、誰一人として信綱の本当の意図までは気づかなかった。それは信綱の心の奥底にしまい込まれ、決して口にされることはなかった。信綱の真意とは、一人でも多くの人間を生きて帰らせることであった。一揆方も切支丹もない、一個の人間としてのかけがえのない生命を、信綱は救おうとしていた。矢文はそのための手段なのであった。あまりにも大胆であるがゆえにかえって気づかれない、だがそうと知れれば厳罰をもって処されることになる。そんな危険と背中合わせの難題に、信綱はあえて挑戦することを自分自身に課したのであった。

 この日、城からの投降を促す矢文が何本も城内に射込まれた。信綱は祈るような気持ちで、自らの思いを矢文に託した。

 翌一一日、原城沖に和蘭艦が姿を現わした。高い機動力で和蘭の主力を担うフライト艦、デ・ライプ号である。たった一隻の参戦であったが、信綱はその登場に満足した。商用船とはいえ大陸間航海をこなせるほど頑丈な艦体に海戦用の大砲を備え、戦艦として十分に通用する威圧感をデ・ライプ号は漂わせていた。大砲は全部で二〇門あり、そのうち五門は事前に陸揚げされ砲台に固定された。

 早速信綱たちと商館長クーケバッケルの間で作戦会議が開かれた。クーケバッケルは、島原湾が遠浅のため艦を原城に近づけることができず、しかも原城の家屋が石造ではなく木造主体のため大砲の攻撃力はほとんど限られたものになる、と主張した。

「残念ながら、我々の艦に搭載されている大砲は対要塞戦用の臼砲ではなく、海戦用に造られた直射砲ですので」

クーケバッケルが言い訳すると、信綱はそれでも構わないと告げ、デ・ライプ号を味方の同士討ちとならない位置に配備するよう指示した。

 和蘭艦が配置に着いたのを確認すると、信綱は手下の者にささやいた。

「よいか、和蘭の大砲が砲弾を何発発射し、城にどれだけの損害を与えるかを正確に記録するのだぞ。特筆すべきことがあれば、それも細大もらさず記録しておくのだ」

 同じ頃、元日の戦況報告が江戸にもたらされた。重昌の敗戦を伝える報であった。もとより完全な負け戦であり、正当な評価を期待できるものではなかったが、実際上も重昌の戦いぶりの稚拙さだけが取り沙汰される結果となった。家光に至っては重昌のことを「いのしし武者」とまでこきおろした。無理な城攻めの原因は少しも省みられることなく、重昌の失策という表面的な理由でもって敗戦は片づけられた。

 とはいえ、事態がさらに深刻の度合いを増したことだけは江戸城内でも確認された。こうなっては信綱だけにすべてを託す訳にはいかない。家光はついに西国の大名を総動員して一揆を潰すことを決意した。翌一二日、家光は江戸に留め置いていた西国の当主、熊本の細川忠利、佐賀の鍋島勝茂、久留米の有馬豊氏、柳川の立花宗茂を原城へ向かわせるとともに、福岡の黒田忠之にも援軍を出すよう命じた。当主自身が現地に赴くことで、現場の士気が向上することを家光は狙ったのである。命令を受けた当主たちは先を争って九州へと向かった。

 和蘭艦による砲撃は、同じ一二日に開始された。雷のようなすさまじい音と、腹の底にずしりと響く振動が原城を揺るがし、この日以来それが連日繰り返されることになった。クーケバッケルの言っていたとおり、砲撃による原城の損傷はそれほど大きくはなかったが、心理的な効果はそれを補って余りあった。

 砲撃がはじまると、信綱の予想したとおり城からの投降者が格段に増えた。ある時は夜影にまぎれて、またある時は海岸に食糧を採りに出たふりをして、数人から、時には二、三〇人単位で投降してきた。これらの者たちは幕軍に捕らえられ、陣小屋で簡単な尋問を受けた後に釈放された。立ち帰り切支丹も、棄教さえ約束すれば深く詮索されることなく解放された。

 砲撃の様子は信綱の手下の者によって逐一記録された。一二日は艦から一四発、一三日は一七発、一四日には砲台から二六発、艦からは九発と、ありのままに書き留められていった。二五日には陸に備え付けた大砲のうち一門が暴発し、近くにいた和蘭人一名が跳ね飛ばされて即死した。別の一門は筒尻が抜けて、砲車が粉々に砕け散った。それらの事故もすべて克明に記録され、家光に送られた。

 二六日、江戸から駆けつけた熊本の当主、細川越中守忠利が到着した。少数の側近だけを伴い、馬や船を乗り継いでの強行軍とはいえ、あきれるばかりの早さであった。外様大名ながら狡猾と評されるほどの抜け目なさで家光の信頼を得ていた忠利は、加藤清正亡き後の熊本に転封されて今や「九州の目」とまで呼ばれるようになっていた。

 忠利は到着するなり、信綱に向かって直ちに和蘭艦の砲撃を中止するよう進言した。細川家が幕府にとって必要な存在であることを見せつける絶好の機会ととらえる忠利にとって、自分の出番がなくなる外国の参戦は到底認められるものではなかった。もっとも忠利はそのような本音はおくびにも出さず、努めて冷静なふりをして信綱に詰め寄った。

「このたびの一揆はあくまで日本国内の争いのはずです。それを外国の武力に頼るなど、日本の恥をさらすようなものですぞ。もし万が一、援軍を出した見返りに和蘭から領土の割譲を要求されでもしたらどうするつもりですか?

 一揆の鎮圧は細川家単独でもやってのける自信があります。おそらく他家も同じ思いを抱いていることでしょう。今からでも遅くありません。和蘭に一揆鎮圧から手を引くよう命じていただきたい」

 常日頃から家光や利勝といった幕府の頂点にいる人物を相手にしている忠利にとって、老中になってまだ日の浅い信綱など取るに足らない軽輩に思えた。自分が一喝するだけで信綱は縮み上がってしまうであろうと、忠利はたかをくくっていたのである。そんな忠利に向かって、信綱は少しも臆することなく滔々と自分の意見を述べた。

「越中殿、貴殿ほどの人物が物事を表面でしかとらえていないとは意外なことだ。このたびの一揆が公儀の対外政策にどのような影響を及ぼすか、貴殿もよくご存知のはずであろう。

 今回の一揆により、かねてから切支丹を後押ししてきた南蛮国は決定的に立場を悪くするはずである。おそらく彼らは近い将来日本からの退去を命じられるであろう。だが、その場合日本も南蛮国に代わる貿易相手を見つけなければならなくなる。その唯一の候補と言ってよい存在が和蘭国だ。公儀としては和蘭に賭けざるを得ないともいえる。だが、それには和蘭が切支丹に協調的でないことが絶対条件となるのだ。

 以前から和蘭は切支丹に対し距離を置いている。が、それは和蘭人が切支丹と敵対関係に立つことを立証するものではない。いざとなれば切支丹に荷担する可能性は十二分にあった。今回和蘭の大砲が切支丹の立て籠る城に合計四二六発の砲弾を射ち込んだことは、和蘭国が南蛮国に代わる貿易相手となり得る最低限の条件を満たしたことを意味する。それは和蘭にとって貴重な実績となるのだ。

 越中殿は和蘭の領土的野心を警戒しているようだが、和蘭はいまだかつて日本に領土を要求したことはないし、そのようなことになった場合はそれこそ国を挙げて抵抗すべき事態となろう。その時こそ越中殿、貴殿の腕の見せどころではないか。

 なお、越中殿の忠告に関わらず、本日をもって和蘭艦は帰帆させるつもりであった。もうこれ以上和蘭に攻撃させる必要はないであろう。越中殿、まだお聞きになりたいことがおありであろうか」

 忠利は黙して語らなかった。信綱に反感を抱いたせいではない、忠利は一瞬にして信綱の実力を理解したのであった。それ以来忠利は、うって変わって信綱の良き相談相手となる。

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