庄内藩騒動之事(しょうないはんそうどうのこと)

 長い時間をかけて読んだ文を置くと、松平甲斐守輝綱は嘆息とともに天を仰いだ。もとより室内であれば空など見えず、目に入るのは天井だけである。その天井の木目が、何やら天啓を書き記したようにも見えなくはない。だが、やはり何も読み取ることは出来なかった。

 しばらく天井を見つめていた輝綱は、ゆっくりと文に目を戻し、再び嘆息した。

 文の差出人は姉の千万であった。千万は松平伊豆守信綱の第一子であるが、その後五年ほど子宝に恵まれず、やっとできたのが長男の輝綱であった。その後は順調に子を増やし、寛永十三年(1636)に正室が亡くなるまでに五男四女を儲けている。そのため、母は幼子の世話で忙しく、千万が弟妹の面倒をみていた。つまり、輝綱にとっては頭の上がらない相手である。

 その千万が、島原からの輝綱帰宅を聞きつけ文をよこしたのだ。

 千万は、庄内藩主の酒井宮内大輔忠勝(さかいくないたいふただかつ)の嫡男、酒井摂津守忠当(さかいせっつのかみただまさ)に嫁いでいる。酒井忠勝というと、家老の酒井讃岐守忠勝がいる。双方、松平家と同祖ともいわれる酒井広親から出る譜代の名家で、老中酒井忠勝の家系は雅楽頭酒井家の別家筋であり、庄内藩酒井家は左衛門尉酒井家といわれる家柄である。

 宮内大輔忠勝はもと信濃松本藩を治めていたが、最上氏の改易に伴い元和八年(1622)に転封した。左衛門尉酒井家は武断の家柄である。徳川四天王、徳川十六神将に数えられる酒井忠次は宮内大輔忠勝の祖父にあたる。また、父の家次も一二歳で長篠の戦に出陣、敵大将の首を討ち取った功により徳川家康から家の一字を頂戴している。軍功こそが誉れであり、そのための準備を第一とするために苛政(かせい)の傾向があった。

 これに対し摂津守忠当は今の藩政のありようでは早晩行き詰まると考え、岳父である信綱の考えを取り入れ、改革を進めようと考えていた。それを支えていたのが千万である。家老にも同志の臣が増えてきた段階だったが、ここで状況が変わった。

 宮内大輔忠勝の弟、忠当からすれば叔父にあたる長門守忠重が宮内大輔忠勝にお預けとなったのだ。

 事の始まりは五年前に遡る。酒井長門守忠重は、兄が出羽庄内に転封されたのと時を同じくして出羽村山郡白岩八千石を頂戴した。寛永十年(1633)、その白岩の百姓惣代が白岩目安丞(しらいわめやすじょう)をもって江戸奉行所に直訴したのである。その内容は、次の通りである。

  • 高利で種籾を貸し付けていること
  • 米や酒を高値で押し売りしていること
  • 綿花、麻、漆などを法外な安値で押し買いしていること
  • 農地のみならず荒れ地、河原、武家屋敷、寺地に対しても百姓負担の年貢をかけていること
  • 人夫や夫役(ふえき)の代わりとしての夫銀を頻繁に徴収していること
  • 百姓の女房を城中に強制的に召し上げていること

 長門守忠重が領主になって以降の十年で、白岩の餓死者は千人余りを数える有り様だった。

 このような事情があったとはいえ、直訴はご法度である。奉行所では訴えてきた百姓惣代を裁きにかけ、処分は庄内藩に委ねた。庄内藩は訴人らを引き取り、家法に則って磔刑(たっけい)に処している。兄の力を借り、事なきを得たように見えた長門守忠重だったが、この年、寛永一五年(1638)三月七日、突然幕府から処分が言い渡された。白岩領は没収。代わりに扶持米八千俵とし、小姓の身分はそのままだが、出仕不要というのである。

 これに対し文の中で千万は「五年も経ってからの処分など、幕府の怠慢としか申せませぬ」と一刀両断に切り捨て、「かつ、領地を召し上げておきながら幕府での身分はそのままとしてみたり、身分はそのままであるものの出仕不要としてみたりとまるで一貫しない沙汰であり、これで心を入れ替えよというのは土台無理な話」と評価した。その上で「このような半端な処分にて、当藩にお預けされても迷惑千万。其方(そなた)も幕臣なら責任を取りなさい。甲斐守との結構な位を頂戴しているのですから、其方の力でどうにかしなさい。くれぐれもお父上の手を煩わせないこと」と結んでいる。

「何のお役も頂戴していない身で、何ができるというのです」

 輝綱は溜息交じりの声で、姉の文に語り掛ける。

「それに、長門守への処分を決めた時には、まだ江戸に戻ってきていなかったんですから。そんな時のことまで責任を取れと申されても・・・・・・」

 もとより返事などあろうはずはないが、それでも口にせずにはいられない。しばらく文を眺めていた輝綱は、腕を組んで瞑目した。やがて諦観したようだ。太く息を吐きだすと、晴れやかな顔つきに戻っていた。

「できないものは仕方ない。この文ごと父上にお知らせするしかあるまい」

 信綱は島原天草の一揆から帰ると、事後処理に忙しい。輝綱は、暇を見て話すことに決めたのだった。

 

 

 兄である宮内大輔忠勝にお預けの身となった長門守忠重は、それによって落胆するような人物ではなかった。むしろ怒りの感情が、彼を活性化したといってもいい。

 忠重にしてみれば、領民への仕打ちに対し、後悔の念など一切ない。当然のことをしたまでなのだ。白岩は八千石を表高としていた。当然、これを基準として相応の軍役が課せられる。有事に備えて自軍を整えておくことはもちろん、普請や参勤など必要な費用は多い。名家左衛門尉酒井家の一員としての格式もある。

 だが、白岩の実高は六千石程度である。実高に合わせて格を下げるなどもっての外だった。将軍と祖を一にする酒井家の名が許さない。当然のこととして、六千石の生産力に対し、八千石の課税を強いることとなる。

 また、忠重にしてみれば、百姓は領主の指示に従えばよく、そのための存在だという認識なのだった。そのような小さき存在が、領主を訴えるなどあり得ぬ大罪である。罰せられ、磔刑に処せられたのは当然であり、それだけのことのはずだった。それで終わらなかったのは、時期が悪かったとしか言いようがない。忠重の処分が言い渡される前日の三月六日、永かった島原天草の一揆が終焉したとの報せが幕府に届く。当初は、キリシタンとはいえ百姓の集まり、すぐに鎮静できると高をくくっていたものが、半年ほどを有する一大事となってしまった。幕府としては同じような事態を招くことだけは避けなければならない。そこで、火種となりそうな案件を探り、対処することとなったのだ。その第一例が長門守忠重の白岩領だったのである。

 当初、理不尽な処分を課した幕閣に対する怒りを示していた忠重だが、やがて憎しみの対象を変えていくこととなる。それが松平伊豆守信綱だった。

 信綱も忠重同様小姓として仕えることから始め、その後小姓組番頭、六人衆、老中と出世している。一方、忠重は小姓のままである。年齢は忠重が二歳若いが、ほとんど変わらないといっていい。出仕の時期は忠重の方が十一年遅いが、同じ時期に小姓として過ごした相手だ。もともと、この扱いの違いに忠重は納得していなかった。信綱は長沢松平に属するとはいえ、本家ではなく分家である。しかも、その長沢松平からも離れ、別家を立てている。つまりは由緒も格式もない下々の身なのだ。由緒正しい左衛門尉酒井家とは違う。

 それでも今までは、どうにか心を宥めることは出来ていた。八千石とは言え、次男の身でありながらも自領を有していたからだ。だが、それも奪われた。

 さらに、信綱は島原天草の一揆を終結させることにも成功した。終戦の当初、「たかが百姓の一揆。はじめから勝てると分かった戦を指揮するとは羨ましい」「これだけ長い時間をかければ、誰であろうと勝てるではないか」などと信綱の軍才に対しては否定的な意見が多かった。だが、幕府ご意見番である井伊掃部頭直孝(いいかもんのかみなおたか)が発した評価で、がらりと状況が変わった。

「伊豆殿は只人に非ず。小身の出ゆえに大人数の指揮などしたこともなく、大坂攻めの際には若輩ゆえに戦の経験もない。かようなるにも拘らず、切支丹一揆に対し、大兵力を掌握し、諸将の心をよく読み、一揆を攻め滅ぼした。まことに思慮深き士と申すべき者。よしんば伊豆殿五十万石ほども有す外様大名の家に生まれておれば、その動向を気に掛けるばかり、幕府の者は夜も安けく眠れなかったであろう」

 これにより、日ごとに信綱に対する評判は高まっている。

 さらに、留守居の老中たちが功第一と推挙し、将軍が感状を与えた鍋島勝茂に対し、軍法違反の嫌疑ありと信綱が訴え、評定が執り行われるに至っては、「今の幕府において伊豆殿が一位なり」「伊豆守が頷かなければ何も決まらぬ」との評判でもちきりとなっているのだ。

 この状況に忠重の憤怒は募り、いつしか自分の身に降りかかった不幸は、全て松平伊豆守信綱のせいと思えるようにさえなっていった。

 どうにかして信綱に意趣返しをしたいと念じる忠重は、兄の嫡男である忠当に信綱の娘が嫁いでいることを思い出す。

「こんなところにも伊豆の手の者が紛れておったか」

 その時、一つの計画が忠重の頭に浮かんだ。それを実行するには、まずは資金が必要だ。忠重は庄内藩出入りの敦賀(つるが)商人との接触を図ることにした。

 

 

 寛永一六年(1639)正月五日、松平伊豆守信綱は島原天草の一揆を収めた功により三万石を加増、都合六万石で川越藩に転封となった。それまでの領地、忍藩には阿部豊後守忠秋が入る。川越藩は武蔵国の中央に位置し、軍事上の要衝であるため、幕府の重職にあたる者が入封してきた地である。信綱の前には堀田加賀守正盛が治めていたが、前年、寛永一五年(1638)三月に松本藩に転封していた。

 正盛が転封する直前の正月、川越は大火により城、城下に大きな被害を出していた。特に城下はその三分の一が焼け、徳川家康を祀る東照宮や徳川と縁の深い喜多院などが失われた。このような中で転封することになった堀田正盛だが、転封後も東照宮や喜多院復興に関しては奉行として務めている。信綱の川越入りが決まると、城や城下の整備も済ませ恥ずかしくない形で渡したいと願ったが、「好きに細工できる方が伊豆も喜ぼう」と家光に遮られた。

 信綱自身が初めて川越に赴いたのは四月二三日である。この時は七日ほどを過ごし、現状の把握と町割りと呼ばれる都市計画の基本方針を決め、家臣に指示している。

 その基本的な考えは、江戸城の北の守りとしての機能強化である。太田道灌が造ったとされる城を大規模に拡張し、城近くには上級家臣、その外に中級、その外に下級の家臣宅を配し、城下のはずれや街道筋に防御の最前線に立つ足軽らを配している。町人街も商人と職人の町を分け、商業都市としての発展をより容易にする工夫もつけた。商業都市として賑わうようになれば、物資も豊富になり、籠城などでも優位となる。さらに城近くにあった寺社を武家地と町人地を囲むように配置しなおし、有事の際に外曲輪の役割を持たせられるようにするという方針も打ち出している。

 城に関しても信綱らしい工夫がみられる。信綱は、水堀を石垣で固めず土のままにした。その方が攻め手が登る際に土が滑り、侵入を難しくする。また、あえて天守閣を設けていない。今の戦では大砲での攻撃が重視される。そのような状況にあって、天守閣は城外からでもはっきりと視認でき、大将がどこにいるかを攻め手に教えてしまう。攻撃目標として恰好なのだ。外の偵察であれば、櫓でも十分である。このような考え方は、後に江戸城普請でも参考とされることになる。

 その後、諸家に対し使者として赴く、八月に生じた江戸城火災で焼失した本丸の普請奉行となるなど忙しい日々を過ごした。そんな中、九月五日に嫡男の輝綱が、京都所時代の板倉重宗の娘、八江と婚姻した。板倉茂宗は裁きに対しても実に丁寧だと評判の人物であり、たまさか島原城攻めで命を落とした最初の上使、板倉重昌の兄にあたる。婚礼の儀には両家親族が集まった。信綱の娘で、酒井摂津守忠当に嫁いでいる長女の千万、土井大炊頭利勝(どいおおいのかみとしかつ)の子、遠江守利隆に嫁いでいる次女の亀も参列した。式は決して華美なものではなく、質素だが、和やかに進行していく。ただ一人、亀を除いて。

 宴が一段落すると、千万が亀に声をかけた。亀の表情が気になっていたのだ。亀は夫婦のことで悩んでいると打ち明けた。それには父である信綱も関わっているため、父には打ち明けられないのだとのことだった。

「武家に嫁ぐにあたり、心がけなどお話いたしたく、どうぞこちらへおいで下さい」

 千万は八江を誘って、亀とともに別室へと下がった。

「これから、私が妹と話をします。よく聞いておいてくださいね」

 千万は、まず八江にそう声をかけ、亀へと向き直った。

 亀と土井利隆は、もともと仲睦まじい夫婦であった。利隆自身は、名家であり幕閣の重鎮を父とし、幼少から世話係の家臣らに囲まれて育ったためか、穏やかな性格であった。それもあってか、やや内向的な亀にも心地よく、お互いを大切にしあってきたのである。

 それが変わってしまったのは昨年の十二月である。土井大炊頭利勝が酒井讃岐守忠勝とともに老中から大老となり、同時に利隆が六人衆を解かれたのだ。

 当初、利隆は藩政に意欲を見せていた。その時点では、亀との夫婦仲は何ら変わりはなかったのだが、ある日を境に利隆はふさぎ込み、苛立つことが目立つようになった。口さがない家臣の噂話を耳にしてしまったのが原因であった。

 曰く、「大殿の大老就任は体(てい)のいい閑職送りだ」「若殿も同時に幕閣から遠ざけることで、土井家の力を削ごうとしたのだ」「すべては伊豆守が権力を独占しようと謀ったことだ」というようなものである。

 他人を疑うことを知らなかった利隆は、衝撃を受けてしまった。信頼していた家臣たちが、尊敬すらしていた岳父信綱を悪しざまに言っている。このことで、まず家臣らを信用できなくなってしまった。家臣らの言葉に耳を塞ぎ、己の思考の世界に入り込んでしまった利隆は、信綱のことも信用できなくなっていった。今までの、ありがたいと感じていた言葉の一つ一つが、奸計の類であったように思えてくる。間違った見方であっても、それに合致する出来事だけを拾っていくことで、それが正しことと確信できてしまうのだ。やがて、この世に不可能なことなどないと信じていた父利勝のことさえも、信綱にいいようにあしらわれる小者に思えていき、誰のことも信用できなくなってしまったのだった。

 当然、亀は利隆を案じ、何があったのかを訪ねた。これに利隆は、はじめ口を閉ざすだけだった。重ねて確かめる亀に、やがて思いを話し出した利隆だったが、一度切れた堰からは、黒く濁った思いがあふれ出していく。仕舞いには「お前も承知していたのだろう」と、亀を罵るような有様となっていった。

 誰もが利隆のことを気にかけ、元の穏やかな状態に戻したいと、様々に力を尽くした。だが、利隆の様子は一向に改善される様子は見られなかった。最近では、利勝さえも「このままでは亀殿がかわいそうだ」と口にする。このことも、離縁の時期が迫っているのではないかと思えて、亀を苦しめているのである。

 妹がとりとめもなく吐露する不安を、千万は黙って聞いていたが、言葉が切れた時を見計らい口を開いた。

「人の情と行ないは、己でどうにでもできるものです。情とは夫婦、家族、友などへの思い。行ないとは所作や態度、務めなどとなるでしょう。一方、縁は人ではどうすることもできません。例えば、誰と、いつ、どのような別離を迎えるかなどは誰にも計り知ることはできないのです。特に武士はいつ死ぬやもしれぬ存在。朝に家を出た者が、必ず帰ってくるとは限らないのです。己ではどうしようもないことに思い悩み、己でできることを蔑ろにしたのでは本末転倒。相手がどうあろうが、自分のなせることを精一杯にやること、それが武士の妻というものです」

 千万はここで言葉を切り、亀の耳にしみ込むのを待った。やがて、うつむいていた亀の顔がゆっくりと上がる。その目を覗き込み、千万は優しい笑顔を作た。

「亀は、大切なお方がいつ死ぬか分からない世と、そうでない世のどちらがいいかしら」

 亀に語り掛ける声は、先ほどまでとはがらりと違ってとても優しかった。

「大切なお方がいつ死ぬか分からない世なんて嫌です」

「父上様は、侍が死と背中合わせで生きなくてもいい世を作り出そうとしているのです。それはとても困難な道です。なぜなら、侍というものがこの世に生まれてからずっと、侍とは死と背中合わせに生きるものだという考えが当然だったからです。当然と思われているものを変えようとする者は、とかく白い目を向けられ、恨まれます」

 亀の瞳の焦点が合ってくるのがわかる。千万の言葉が、亀に届き始めたのだ。

「亀は父上様は好きね。ならば、父上様を信じて。そして、己にできることを精一杯するの。大丈夫、亀は一人じゃない。私もいる。そして、私にとっても、亀がいることは大切なことなのよ」

 

 広間では男たちの談笑が続いていた。主に話しているのは信綱と板倉重昌だ。二人は西国の治め方について、嬉々として意見をぶつけ合っている。輝綱はそれを聞き、意見を求められた際に発言しなければならなかった。だが、輝綱にしてみれば、正直それどころではなかった。姉が妻を連れて行ったことが、気になって仕方がない。何を話しているのか。千万であれば必要なことを正しく話して聞かせているのだろうが、何も祝言のその日でなくてもいいではないか。そんなことを考えていると、父と岳父への返答がおざなりとなってしまい、父に叱責され、岳父には「それほど娘のことを想ってくださるとは、ありがたいことですな」とからかわれる。

 そんなことが何度かあった後、妻や姉妹が戻ってきた。気のせいか、あるいは姉に仕込まれたとの思い込みのせいか、伏し目がちにはにかんでいた八江が、まっすぐに輝綱を見つめてくるように思えてならない。それも、強い輝きを放っているではないか。輝綱は「先手を取られたか」と内心唸った。どんな話があったか知らないが、かわいらしい乙女は、すでに武家の妻へと変身してしまったようだ。

 

 

 時代が変わる時には天地が鳴動するという。実際には天災が生じることで、変革の必要性が増し、時代を変えざるを得なくなるということだろうが、信綱が時代を変えようとしている中、各地で異変が報告されている。

 寛永一七年(1640)六月十三日、蝦夷地にある内浦岳では朝から山鳴りが激しく、人々は不安げな視線を向けていた。この山は、現代では北海道駒ケ岳あるいは蝦夷駒ケ岳と呼ばれ、函館の北方、渡島半島から亀田半島が突き出る付け根に位置する。内浦湾に面する独立峰である。

 午の正刻、山頂の一部が崩壊。岩屑雪崩(がんせつなだれ)となって内浦湾になだれ込み、これが原因で津波が発生する。この津波にのみ込まれ、溺死した者だけで七百人を超えた。さらに、激しい噴火による火砕流が四方を襲う。もともときれいな円錐形をしていた山の頂上部が大きく失われ、現代の尺度で標高1700mほどだったものが、最高部で1100m、多くは800m級と、五割程度が失われるという大規模な爆発であった。

 激しい噴火は六月十五日まで続き、強く振動した空気によって津軽でも家が震えた。激しく吹き上がった灰は空を覆い、渡島半島のみならず津軽でも暗闇に閉ざされ、昼夜も判然としない有り様となった。鳥獣の不安げな鳴き声は響いているが、どこかに姿を隠しているらしく動くものの姿は見られない。その後も火山活動は続き、静まるまでに七十日を要している。

 この火山活動により降り注がれた火山灰は、作物の葉を覆い、成長を妨げ、あるいはその重さで作物をへし折っていった。また灰の影響で土壌の酸性度が変わったこともあり、その後も不作が続くようになってしまった。

 年が明け寛永十八年(1641)になると、江戸で地震が頻発するようになる。人々が何か凶事の前兆ではないかと噂しあう中、西国で夏の干ばつと秋の大雨が重なり、北陸など日本海側を中心に長雨と冷風による冷害が発生。農作物の不作範囲が一気に全国規模へと広がっていった。

 これが翌寛永十九年(1642)から寛永二十年(1643)をピークとする、寛永の大飢饉へとつながっていく。島原天草の一揆の発端が度重なる不作であったことを考えると、このような状態がかなり長く続いていたことになる。

 

 そのような中、寛永十八年(1641)八月九日、変革の象徴となりうる人物が誕生する。将軍世継ぎとなる竹千代、後の徳川家綱である。この時家光は三八歳であり、誰もが待ち望んでいた男児である。

 家光は長男の誕生を知ると「この子を次の将軍とする」と宣言し、幼名を自らと同じ竹千代に決めている。自らが幼少期に巻き込まれた世継ぎ問題を、わが子で再現したくはなかったのだ。これに伴い、竹千代付家臣団の編成も進められ、信綱の四男である信定十五歳と、五男である信興十二歳が竹千代付小姓となった。二人が城へ上がることが決まると、信綱は二人を呼んで小姓としての自身の体験を語った。

「何やら身共の知恵について、人ではないと褒めてくださる者もいると聞いておる。されど、吾も人なり。およそ天下にあまねくある者は、みな人にして九割方は違うところはない。何が違うか。おそらくはこれであろうな」

 信綱はゆっくりと立ち上がり、裾を少し持ち上げた。信定と信興が目を向けると、そこには大きなたこができた足の甲が見えたのである。このたこは、いわゆるかしこまりだこと言われるもので、常に正座でかしこまっている者に見られる。

「実の父、つまりは其方たちの祖父となる金兵衛久綱、養子になることを受け入れ身共を育ててくださった右衛門太夫正綱は、ともに権現様、台徳院様にねんごろに召し使われていた。身共も幼い日から、この両の親のそばに昼夜、寒さ熱さもいとわず控えておった。そして、権現様、台徳院様が申されたこと、御奉公の仕方などについての話を聞き続けてきたものである」

 権現とは徳川初代将軍家康、台徳院は二代将軍秀忠のことである。

「公方様の小姓となってからは、いついかなる時にお召の声がかかってもいいよう、他の者がどうであろうとも常に控えておるようにした。そうして度々お召を頂くうちに、どのような時に、何の御用にて、如何様(いかよう)な求めがあるかも分かってくる。これが分かれば、如何様に準備をいたせばよいかも分かろう」

 二人とも、大きな目で父を見つめ、一言も聞き漏らすまいと身じろぎもせずに聞き入っている。ともに、父の利発さを受け継いでいるようだ。それぞれ、後に分家し、旗本となっている。特に、信興はその後大名にまでのぼり、若年寄、大坂城代、京都所司代を歴任する逸材へと成長していくことになる。

「若君様は、次の公方様となる身。そのことをよくよく弁え、誰からも敬られるよう取り計らわなければいけない。よくよく心得、お仕えしなさい」

 

 

 飢饉は悪化の様相をたどり、各地で餓死者が出始めた。このような状況下で農民の間に田畑を捨てての逃散(ちょうさん)、身売りが頻発するようになった。捨て子も日常のこととなっていく。幼子を町に連れて行きそのまま置き去りにする、店先に赤子を置き捨てる、川に流して溺死させるといったことが各地で当たり前のこととなっていったのだ。逃散した者は京、大坂、江戸といった都市部に流入し、これらの場所では衣食住が急激に不足するようになってしまった。

 これに対し、寛永十九年(1642)二月十二日、幕府は人身売買の禁止や最下層階級の奴婢に対する使役期間の制限を定め、収容と食事提供を行うお救い小屋が設置された。

 しかし、一向に好転の兆しは見えず、五月八日、これまでの飢餓奉行に代わり、将軍家光自らが対策本部を立ち上げ、情報収集のために諸国への巡察使派遣と町奉行による江戸府内の巡視が命じられた。

 様々な情報が報告され、これをもとに将軍隣席の上での評定が行われた。

「各地ではますます困窮極まり、餓死する者、身売りする者、土地を離れ逃散する者は日増しに増え続けているとの報告がなされておりまする。このため田畑は持ち主を失い、荒れ果てている有様」

 まず、松平伊豆守信綱が状況を説明した。

「逃散、身売りで田畑が荒れたれば、天が落ち着いたとしても作付けできぬこととなる。これではいつまでも凶作が続いてしまおう。逃散、身売りに関しては厳に取り締まり、重く罰すること必至と存ずる」

「それで収まるか」

「収めるしかなかろう。手をこまねいておれば、真似する者が増えるばかりぞ」

大老の土井大炊頭利勝と酒井讃岐守忠勝が舌戦を繰り広げる。この二人は、島原天草の一揆の後、鍋島家への評定の際に反信綱として手を結んだはずだった。だが、生来反りが合わないのだろう。お互いの言動に対し一言返さなければ気が済まないようだ。

「お恐れながら申し上げます。民草が逃げるのは、そこではもはや生きていくことができないと考えたうえでございましょう。なれば、土地から離れないようにするためには、ここで生きていくことができると思わせることが先決と存じまする」

 阿部豊後守忠秋が、予め信綱と打ち合わせておいた内容を発言する。

「あい分かった。領民の救済について、藩主の責任で進めるよう申し伝えることとする」

 家光が一つ目の断を下した。一同が平伏する。

「江戸府内におきましては、先に述べた各地の逃散者、および各藩の人減らしによる牢人どもが多く流れ込み、住処も食べるものもなく、救い小屋を頼る者が絶えぬとの報告を受けておりまする。罪を働く者も多く、対処が急がれまする」

 皆が直ると、信綱が次の報告を口にした。

「今しがた豊後守が申されたこと、はなはだ御尤(ごもっと)も。しかしながら、藩がこのような状態で、まともな救済などできるのでござりましょうか」

「幕府の助けが必要であろうな」

 阿部対馬守重次の発言に忠秋が答えると、すかさず重次が言葉を重ねた。

「どのように助けまするか。幕府が下々まで直接救うなどは土台無理」

 阿部重次は真面目一本の男である。信綱より二歳年若く、忠秋よりも四歳年長。家光に身命を捧げているということを公言して憚るところなく、そのようなところから家光の信任を受けて、寛永十六年に土井利勝、酒井忠勝が大老になるのに代わって老中となった。信綱は重次のこのような性格を活用し、話の流れに対し疑義を呈することを役割として仕向けていた。このように、提案者や疑義を呈する者などの役割を分割することで、老練な古老に対し会議の印象を良く見せているのだ。

 この時の疑問はもっともなことだ。藩に民の救済を命じても、藩そのものにそれだけの力がなければ不可能だ。では、それに代わって幕府が直接救済しようとすればどうか。まず情報を収集し、分析した後に、対策を立てる。このようなことを全国に対して行うとあっては、遅々として進まず、状況はさらに悪化するだろう。しかも、土地によって状況が違うのだ。一括した対策では効果が出ない。

「左様御尤も。なれば、領民は藩に救済させ、藩の救済を幕府が行えばいかが」

 このように問題を単純化するのが、信綱のうまいところである。これに家光が同意を表明したことで、方針が決まった。

 信綱はその足で勘定方に向かった。現在、勘定奉行は養父である松平右衛門太夫正綱である。家康、秀忠、家光の三代に仕えた忠臣も六八歳となっていた。

 飢饉に対する方針を説明し、具体策の話し合いが一段落した後、正綱は信綱に柔らかな表情を見せた。

「なかなか、二人で話すこともできなんだが、立派になったものだ。たまには我が邸にも顔を出してくれ」

「ありがたいお言葉にございます。されど、お邸に伺うのはご遠慮いたしましょう。伊豆がお家を分捕りに来たと、噂されかねませんから」

 大げさな話だと一蹴できない事情がある。信綱は別家を立て長沢松平分家から離れたとはいえ、未だ世間的には長沢松平分家の出であると認識されている。しかも、長沢松平分家の中での代表格とまで思っている者も少なくなく、家光も正綱の後継は信綱と考えていた。正綱に実の男児ができた際、愁いをなくすために別家を立てた信綱にしてみれば、甚だ迷惑な話だった。

 信綱にはその気がないのだから、無視してもいいのだが、このような風評を気にせざるを得ない者たちもいる。正綱の息子、松平佐渡守利綱付きの家臣たちである。信綱に対し警戒の念を強くし、信綱の家臣たちにも食って掛かることがある。信綱から長沢松平分家を継ぐ意思のないことを告げられ、承知している信綱家臣らにしてみれば受け流そうとするのだが、度々であれば諍いに発展することもあった。信綱にしてみれば世話になった養父や古くから仕えている者たちに感謝の挨拶もしたいところではあるのだが、不用意に長沢松平分家に近づくことができないのだった。

 五月十七日、勘定奉行松平正綱の名で、大名小名を問わず各領主に宛て、その領するところの農民に対し金品の支給による救済を命じるとともに、財政が疲弊し、救済もままならない場合は米を貸し与える旨触れが発せられた。

 五月二三日には関東、東海などの代官を招集し、老中が各地の状況を確認。これをもとに、祭禮や仏事の簡素化、衣類や住居の身分による規制、本来稲作のための田畑に煙草などを作付けすることの禁止、植樹の奨励といった農民への規制とともに、幕府発行の手形以外での農民の使役禁止、村役人や代官に対する規制、公正な賦課のための帳簿作成および検印の義務化など農業安定化のための幕政への介入を取り決めた。

 さらに八月十日、年貢の勘定に農民の参加を認めるなど、農民保護を打ち出した。このように政は、力による支配から、法と人命救済を重視したものへと移行を始めたのだった。

 

 

 行く者もあれば来る者もある。

 寛永二十年(1643)九月、家光の乳母であり、信綱にとっても城内の母と慕っていた春日局が死去する。同じく十月には江戸の町づくりに大きく関わった天海僧正が遷化(せんげ)、つまりこの世を去っている。奇しくも家光擁立(ようりつ)に尽力した二人であった。

 翌寛永二一年(1644)三月、井伊直孝とともに家光後見人として幕政に参与してきた重鎮、松平忠明が死去する。同じく六月十七日、信綱の養父正綱の実の長男である利綱が二五歳という若さでこの世を去った。

 七月五日、信綱の長女千万と酒井忠当夫婦に長男である忠義が生まれる。

 時を同じくして、土井大炊頭利勝が倒れ、その後意識は戻ったが、起き上がることができなくなってしまった。この時、信綱は見舞に訪れ、そのまま夜を明かしている。

「ご息女には辛い思いをさせてしもうた。許せよ」

 利勝は呂律の回らぬ口で、切れ切れに呟くように言葉を発した。利勝の子、利隆に嫁いだ亀は離縁となり、今は谷中下屋敷で病弱な妹、多阿の世話をしている。

「何を申されますか、大炊頭殿にはお気遣いをいただき、父娘共々に感謝いたしております」

 信綱の本心であった。亀の離縁にしても、憎くて家から追い出したわけではない。利隆が被害的になり、亀を傷つけてしまうために離したのだ。利勝がいつでも亀のことに心を尽くしてきたことは、信綱も亀も痛いほどに感じている。

「倅の育て方を間違ったのかもしれんな。まずは藩政にて政を学ぶべし。伊豆殿の御子息を見れば、六人衆から外れた意味も分かろうに」

 土井利勝と酒井忠勝の大老就任と、その子息である土井利隆、酒井忠朝が六人衆を解任されたのは寛永十六年(1639)のことだ。これは老中の新陳代謝を狙った若返りに合わせ、特定の家による世襲制となることを嫌い、真に将軍を補佐し幕政を進める能力のある組織にしていくための処置だった。利勝が言うようにまずは藩政に励み、政の何たるか、民の生活ぶりはいかなるものかを身につけてほしい。その上で、ゆくゆくは老中になってほしいとの願いもあったのだ。信綱の子、輝綱もその考えから無役である。老中として忙しくしている父に代わり、藩内のまとめとなることを言いつけてある。利隆にはそれが分からなかった。いや、初めは藩政に精を出していたのだが、その意図を解さない家臣の口さがない噂話を聞いたことですべての歯車を狂わせてしまったのだ。

「お疲れになりませぬか。少しお休みください。しばらくお側に居りますので、ご安心を」

「伊豆・・・・・・上様を・・・・・・頼む」

 七月十日、土井利勝は生涯を閉じる。享年七二歳であった。

 

 正保二年(1645)四月二三日、竹千代が五歳にして元服。家綱と名乗るとともに従二位に叙し、大納言に任官した。これに合わせ、家光の異母弟である保科正之が肥後守を留任したまま左近衛権少将に任じられ、続いて七月従四位上を賜った。公認されてはいないが、内々に家綱を補佐させるための準備として、家光が朝廷にはかった結果である。

 次期将軍が家綱と名乗るようになったことで、信綱は内々に改名を願い出た。綱の字が共通するため遠慮したのだ。これに対し家光は必要なしと却下した。

「余が今こうしていられるのは伊豆と讃岐がおってくれたおかげじゃ。礼を言う」

 家光はかねがね「古(いにしえ)よりあまたの将軍ありと言えども、余ほどの果報者はあるまじ。右の手は讃岐、左の手は伊豆」と酒井忠勝、松平信綱の二人を評している。

「中でも伊豆は、生まれて間もなくからの付き合いだ。ずいぶん我がままを申し、苦労をかけた。その感謝の気持ちもある。まぁ、ここだけの話だがな。だから、名はそのままにせよ」

 信綱はこみ上げるものを必死にこらえて、平伏した。

 

 

 夏、庄内藩の上級藩士が借入金返済に窮し、救済を申し出る。借入先は敦賀商人、藩主宮内大輔忠勝の母二の丸殿、そして宮内大輔忠勝の弟長門守忠重であった。家臣らは俸給を米札で支給される。米札とは、米に変えられる手形のようなものだと考えればよい。この米札のうち、食い扶持は米に変え、残りはその時の相場で売って金に換える。問題はこの米相場だった。非常な安値が続いていたため、金が足りず、借財をしなければいけない状況に陥ったのだ。

 藩主宮内大輔忠勝は、長門守忠重と相談の上、敦賀商人が用立てしたものに関しては忠勝が肩代わりし、二の丸殿と忠重が用立てたものに関しては利子を一割として三年の年賦払いで返済することに決めた。当初忠勝は、すべてを肩代わりしようと考えていたが、忠重がこれを諫めたのだ。

「商人らに対するものは、藩の対面にも関わること故早急に処理せねばなりませぬ。しかしながら、それ以外のものは別。ここですべてを肩代わりいたせば、借り逃げの風潮が藩内に根付いてしまいましょう。母上様がご厚意にて貸し与えたものでござるぞ」

 こう言われれば頷くしかなかった。母の二の丸殿が貸しているということも大きい。

 この裁定に対して、二の丸殿および忠重から借り受けていた三二名は、年譜返済を五年に延ばしてほしいと願い出た。これに忠勝は激高したという。

「こちらの恩情に対し、感謝ではなく、さらなる要求を突き付けてくるとは、どこまで増長した者どもか」

「まったくでござる。これこの通り、家臣などというものは、甘くすればつけあがるもの。全額肩代わりなどしておれば、いかがな有り様になり果てたか」

「其の方の申す通りであった。礼を言うぞ」

「痛み入りまする。ですが、兄上。気にかかることが・・・・・・」

 忠重が声を潜めたため、忠勝は耳を傾ける。忠重は距離を縮めて、その耳に囁いた。

「冗長した者たちが皆、若君付きだったことでございます。若君が甘いのか。あるいは若君に付いた者たちの質であるのか。いずれにしろ、若君の考え方にも影響を与えましょう。注意したほうがよろしいかと」

 忠勝は感情のままに、三二名に対し在郷という処分を科した。在郷とは、一日につき一人五合の飯米を与え、農村に住まわせたうえで最低限の生活を強い、俸給はすべて返済に充てるというものだ。幕末まで続く庄内藩の歴史の中でも、この時だけに適応された制度である。三二名にしてみれば大事だ。藩を辞したいと願い出たが、これがさらに忠勝を怒らせた。在郷における移転先が櫛引、小国、小名部といった雪深い山間地となったのだった。

「雪の中を幼子の手を引き、山へ移るなど、行きつけるものか。今でも飢え死にしそうで、力が入らない。この場で死なせてくれ」

 涙ながらに訴える声を、執行にあたった家老たちは強いて理無視した。藩主忠勝の命は何があっても翻ることはない。下手に上申などすれば、事態はさらに悪化し、こちらにも飛び火するだろう。十月、三二名はそれぞれ幼子や老いた親など家族とともに城下を離れ、在郷先へ移っていった。

 十一月三日、江戸にいる忠当のもとに、家老たちから状況が報告された。藩内に動揺が広まることを恐れ、忠当にとりなしてほしいと願ったからだ。

 十一月一三日には、忠当の岳父信綱のもとにも、長門守忠重による藩政干渉によって藩政が滞っている旨書状が届けられている。これによると藩主忠勝と家老との接触を忠重が妨害し、一言も進言することができない状態であり、何事も忠重との協議だけで決められているという。

 この書状に署名している者は家老の高力喜兵衛、同じく石原内記、同じく石原平右衛門、組頭の高力喜左衛門である。彼らは忠当付というわけではない。庄内藩の中心的家臣たちだった。その彼らが忠当の藩政改革の方針に心惹かれ、忠当派として働くようになっていたのだ。忠当の改革の中心的な思想は、武断政治から文治政治への転換である。今までの武断政治では、藩が成り立たなくなるのは明確であり、農民の逃散や藩士の離藩が発生すれば間違いなく酒井家は潰される。実は、庄内藩では先年、領内の農民との間に諍いを生じさせたことがある。この時は、忠当の岳父である信綱がとりなし、大ごとにならずに済んだ。だが、同じことが度々重なれば、信綱であろうとかばい立てすることはできなくなる。危機感を持った忠当は、妻を通して信綱に教えを乞うた。家臣たちの中にも危機感を抱き、志を持つ者もいた。その双方が結び付くのに時間はかからなかった。

 この動きに危機感を抱いたのが、忠当の叔父である長門守忠重だ。忠重はやはり戦の人である。忠当派に対して速やかに手を打った。その一つが借財を理由とした、忠当派の切り崩しである。

 さらに、手の者を忠当派に潜ませることにも成功していた。

 信綱への書状に署名している石原内記は、妹を白岩領主時分の忠重に嫁がせている。そして、庄内藩家老になったのも忠当派の三二人が城下を離れたのとほぼ同じ頃と新しい。どう見ても忠重の息がかかった者と思われる存在である。内記はこれを逆に用いた。「長門守があのような男と知っておれば、命に代えても妹を嫁がせなんだものを」「長門守が手を回さなければ家老にもなれなんだとは、自分でも情けない」「長門守は貸しを作ったと考えていようが、何であんな男に力が貸せようか」など、内記は忠重との関わりを隠そうともせず、声高に批判を繰り返すことで忠当派の信頼を勝ち取っていったのだ。早くも忠当派の中心的な一員に名を連ねるまでになっており、忠当派の頭格である高力嘉兵衛のそばにつき、逐一忠重に情報を送っていた。

 忠当派が信綱に訴え出たことを知ると、忠重は藩への反逆として、兄忠勝に注進した。

「この動きを見れば、これらの恥知らずどもを影で動かしているのは伊豆守とみて間違いなかろうかと存じます」

「されど、伊豆殿は酒井家の窮地を救ってくれたお人ぞ」

 忠重の主張に、忠勝もすぐに同意したわけではなかった。白岩領の百姓が領主忠重を訴えた翌年、寛永十一年(1634)八月に庄内藩でも農民たちの大規模な逃散があり、大庄屋である高橋太郎左衛門が訴え出たのである。これを受けたのが信綱だった。信綱は問題を幕府で取り上げることはせず、高橋太郎左衛門を士分に取り立てることで、訴えを取り下げさせた。これによって酒井家は事なきを得たのだ。なお、この年の十二月、約束通り信綱の長女千万が、酒井宮内大輔忠勝の嫡男、忠当に嫁いでいる。

「さて、それにござる。真に酒井のお家を救ったのでござろうか。百姓が領主を訴えるなどあってよいことではござりませぬぞ。そのような者は、厳しく罰すればよいだけのこと。それを、あろうことか士分に取り立てるなど、正気の者の行いか」

 忠勝も根っからの武断の人である。忠重の主張にも、感覚的には頷ける。

「しかも、庄内でのことと、白岩でのことに何の変わりがありましょうや。それを一方は百姓を士分にしてまで揉みつぶし、一方は領主から領地を奪うとは何事。若君にしても変わり果てたのは、伊豆の娘が嫁いだ以降。伊豆めがそそのかしたとしか思えませぬ。伊豆めは、酒井を救うのではなく、乗っ取ろうとしておるのではありませぬか」

 こうして、忠勝の疑心は育てられ、嫡子の忠当、家臣団、忠当の後ろ盾で幕府重鎮の信綱から心を離していってしまうのだった。

 

 忠当派から書状を受け取った信綱は、十二月十八日、庄内亀ヶ崎城代の松平甚三郎を江戸に召喚。事情を聴くことにした。庄内には前領主最上氏の頃から鶴ケ岡城と亀ヶ崎城があった。酒井宮内大輔忠勝が入封したとき、忠勝は鶴ケ岡城を本拠としたのである。そして、亀ヶ崎に城代として入ったのが、忠勝にとって叔父にあたる松平甚三郎だったのである。信綱の尋問に対して、甚三郎はまともには答えられなかった。庄内藩において城代職とは名誉職ではあったが、実際には藩政から切り離された閑職である。忠勝は、側にいれば何かと気障りな叔父を、亀ヶ崎に入れることで、隔絶していたのだ。ようは厄介払いである。

 有効な情報を入手することができなかった信綱は、即日、家臣の奥村権之丞を呼んだ。権之丞は甲賀の出であり、信綱の私設甲賀組、個人的な隠密集団のまとめである。手の者を庄内に潜ませ、情報を収集しようと考えたのだ。

 

 年が明け、正保三年(1646)正月、庄内藩家老の高力嘉兵衛は石原内記とともに江戸に向かった。忠当を通し、訴状を提出するためである。この訴状の中で、嘉兵衛は家老職と藩士を辞することを願い出ており、実際に江戸で町家を借りて蟄居した。

 石原内記は嘉兵衛とともに忠当に訴状を届けると、そのまま庄内に戻った。当然、内記は忠重に報告している。忠重は、嘉兵衛の行動を問題として騒ぎ立てた。「江戸にてお暇を請うなど御法度」というのだ。嘉兵衛も警戒し、国元の母に向けた書状を使って仲間たちとやり取りを試みたが、忠重は嘉兵衛の書状を誰宛てであろうと検閲することとした。

 忠重の手は止まらない。戦人として様々な策を立て、駒を動かすことに喜びさえ感じているようだった。忠重は、嘉兵衛と親密な中にある男を捕らえさせている。毛利長兵衛という藩士である。

 長兵衛は忠重の邸に拘束されたまま監禁された。そして、厳しい拷問と、嘉兵衛を裏切り忠重の手駒となることを強制され続けたのだ。己のみならず、一族の命の危機に長兵衛は忠重の命に従うようになってしまったのである。

 まず命じられたのは、藩主忠勝の邸に火をつけることだ。警護の者に捕らえられた長兵衛は、尋問に対し高力嘉兵衛に命じられてやったことだと答える。さらに、借財の返済に窮した者の訴訟についても嘉兵衛が唆したことであるのみか、その金貸しの元締めも嘉兵衛だと告げたのだ。

「これはすべて、当主様の求心力を奪い、家臣たちを若様につけ、早急に家督を譲らせるためである」

 次々と語られたこれらの作話は、忠勝の耳に入れられ、忠当廃嫡さえも話題に上るようになっていった。

 

 

「庄内に潜ませた者から知らせが届きましてござります」

 信綱は奥村権之丞と二人きりで、対面していた。下屋敷の一室、権之丞に命じてから二月が経とうとしていた。

「庄内で起きておりますこと、実にきな臭いものでございます。そもそもの始まり、藩士たちの借財でございますが、これは庄内藩のみの話。他藩にて同様のことが起きているという事実はございません」

 借財は単年のことではない。だからこそ返済に窮したのである。ということは、飢饉の最中(さなか)か、その余波が収まりきらないうちから借財が行われていたということになる。いうまでもなく米相場は需要と供給の関係性によって変動する。欲しい者が提供量を大きく上回れば相場は上がり、提供量の方が欲しい者よりも多ければ相場は下がる。飢饉によって米が不足している状況では、米相場が下がることなどありえないことだ。

 また、多くの藩士が借財をした中で、忠勝の嫡男摂津守忠当付きの者だけが敦賀商人からではなく、二の丸殿や忠重から借り入れているのもおかしい。敦賀商人のみではすべてを用立てることができないことはあろう。しかし、様々な身分、立場の者が混じっていることの方が自然で、ここまではっきりと分かれているのは何らかの意図が感じられる。

「裏には長門守がおると思われます」

 忠重は藩の米札を一手に取引している敦賀商人に近づき、米の相場を偽らせ、安く買いたたいた上で、高利で金を貸し与えるように申し入れた。初めは危ぶみ、二の足を踏んでいた敦賀商人たちであったが、二の丸殿が計画に加わったことで引き受けたのだった。

「二の丸様はどの程度ご承知か」

「こちらは真に厚意による行いかと。ただ、長門守が声をかけ、金を貸し始めたことは疑いありませぬ」

 忠重は藩士たちの窮状を説いて、貸し付けてやってほしいと頼んだのだ。詳しいことは一切知らせていない。知って演技ができるほどの力量は、二の丸殿にはなかったからだ。それでも二の丸殿が加わったことは大きかった。敦賀商人だけでなく、藩士たちも安心し、厚意に甘えていった。

「二の丸殿と長門守が貸し付けていた者は、すべて摂津守の手足となっている者。その他の者たちは敦賀商人から貸し付けられ、領主自らが立て替えることで、事なきを得ておりますが、三二名は雪深い山村に押し込められ、返済にのみ尽力させられているようでございます。これなるは、摂津守の手足をもぐことが目的でありましょう」

 権之丞は、忍び出身ではあるが、やや結論を急ぐ癖がある。ただ、それをわきまえておけば、情報収集の手並みは優れていた。そのため、信綱は権之丞を重用していたのだ。

「敦賀商人の中に潜ませることは可能か」

 商人たちの中に入り込み、証拠を探せというのだ。

「数名ほどは廻せるかと」

「よし。宮内大輔殿と家臣、特に家老たちとの間柄は如何か」

「奥深くにまでは忍び込めてはおりませんが、訴状にあったことはほぼ間違いないかと」

「これからも続けよ」

 

 

 七月三十日、信綱の長男輝綱とその妻の八江が、一橋の上屋敷から、この年構えられたばかりの柳原の中屋敷に移ることとなった。八江の療養のためである。昨年暮れ、次男惣左衛門を産んでから体調が戻らなかったのだ。

 また、惣左衛門も病弱であり、政務のために出入りが激しい上屋敷よりも、静かな中屋敷の方が良かろうと判断したのだ。

 妻子のみではなく、輝綱も中屋敷に移ることになったのは、信綱の計らいであった。信綱自身、早くに妻を亡くしている。この時信綱は四一歳、妻は三九歳であった。このころ信綱は柳川一件が終息し、滞っていた政務をこなす激務の中にあったため、妻を見舞うことも少なかった。このことが今も後悔となっている。八江が回復してくれればいい。だが、心が弱っている時に一緒にいてやれるのならば、それに越したことはない。

 信綱も妻を亡くすまで側室を設けなかったが、輝綱も側室を設けていない。家の存続のために多くの側室を持つのが当たり前だった頃においては、珍しいことだった。それだけに、息子の胸の内を、信綱は想像できたのだ。

 転居を前にして、八江は父である板倉重宗を呼んだ。

「父上様、これまで慈しみくださり、甲斐守殿のもとに嫁がせていただき、本当にありがとうございます。八江は果報者でございます。心残りは、もうすぐ甲斐守殿をお支えすることができなくなること。あのお方はとてもいいお方でございます。でも、誰かの支えが必要。できれば、安心できる者に後を託したいのです。八江がいなくなりましたら、伊都にお願いできませんでしょうか。あの子なら安心して託せられます」

 父と二人きりになった八江は、涙を拭いもせず、父に縋(すが)りついたのだった。

 伊都は八江の妹である。八江が八女、伊都が十一女だ。活発な伊都は、十人いる姉の中でも八江によく懐いており、八江も可愛がっていた。ただ、継室として嫁ぐにはまだまだ年若すぎる。父の板倉重宗にしてみれば、実現することなどとは思えなかったが、娘を安心させるためだけに深く頷いてやるのだった。

 中屋敷に移ってからは静かな時を過ごしたが、そのまま回復することはなく、十二月七日、輝綱に看取られながら八江は息を引き取った。死の直前、八江は後を伊都に任せたいと輝綱に告げる。輝綱はそれに承知したが、これも八江を安心させるためだ。もともと輝綱には、八江の他に妻をもらうつもりはなかった。八江の死後、輝綱は位牌を作らせ、亡き母や早世した兄弟とともに邸の仏壇に納めた。

 

 

 庄内でも事態は進んでいた。九月二四日、酒井宮内大輔忠勝が、江戸において自主的に蟄居している高力嘉兵衛に対し処分を言い渡したのだ。庄内藩士の職を解き、九州への追放である。「二度と酒井家に関わるな」というのだ。さらに、「本来ならば死罪に値するが、伊豆守をはじめ口添えする者がおったため、一命は助ける」とわざわざ付け加えている。

 嘉兵衛自身は生かされたが、彼の町家に出入りしていた香庄新兵衛などは、一族の者共々切腹が命じられ、鶴岡の総穏寺にて果てた。

 嘉兵衛の周辺に対する攻撃は、まだ続けられた。十月十日には嘉兵衛の弟である小左衛門、同じく叔父にあたる喜左衛門も追放され、処分を受けた者の数は追放十三人、切腹十一人に上った。

 この処分を説明した書状が、忠勝から息子の忠当に届けられている。この書状には、毛利長兵衛が証言した嘉兵衛らの罪状が添えられ、「この書付を見れば合点もいくであろう。すべて其方の御為である」と記されていた。

「若様、殿をご安心させるためには、どうあっても必要でございます」

 書状を届ける使者となった末松吉左衛門はこう迫り、「大悪党、高力が一門を決して召し返さぬこと神明に誓う」との誓紙を忠当に書かせている。

 その後も、忠当付家老水野内蔵助など多くの者が命を狙われ、老母や妻に至る一族郎党悉くを切り殺される者も現れるといった有様で、忠当は苦しい立場に追いやられてしまった。

 そんな中、忠当を必死に支えてきた妻の千万が体調を崩す。子を産んで以来、不調がちではあったが、いよいよ起きられないほどになったのだ。忠当としては心配でならない。妻の顔を見に行きたいのだが、忠当が部屋に入ると、千万は無理をして起きようとする。それが辛くて、忠当の足は遠退いていった。

 いよいよ危ないと知らされたのは、天保四年七月十五日である。忠当は、千万の部屋に入り、出てこなかった。妻が疲れぬようにとの気持ちではからではあったものの、長く顔を出さなかったことが悔やまれて仕方なかったのだ。

 千万は翌日、忠当に看取られ、静かに息を引き取った。享年三二歳であった。

「若、このままでは伊豆守殿との縁(えにし)も絶たれまするぞ。ご決断を」

 千万の葬儀が済んだ夜、忠当を忠当付きの家臣らが囲んだ。すでにその数は異常な少なさである。

 このところ忠重は、息子の九八郎と忠当の妹を娶(めあわ)せようとの動きを見せていた。ここで、忠当と信綱の繋がりが切れてしまえば、藩内に求心力を失い、廃嫡も十分にあり得る。忠当付き家臣たちの焦りは募るばかりだったのだ。

「其方らの気持ちはよく分かった。だが、今はそれだけしか言えぬ。今日ばかりは引き上げてくれぬか。頼む」

 忠当は暗い顔のまま、家臣たちに頭を下げた。

 庄内藩主酒井宮内大輔忠勝が急死したのは、十月十七日のことである。死因は定かではないが、急だったことは確かである。忠当派は忠重派の虚を突いて、毛利長兵衛を捕縛。厳しい調べの結果忠重の計画が明るみにされた。幕府は忠当の相続を認めている。

 信綱は庄内藩の家老格を呼び、今後の藩政について助言している。その中で、「宮内大輔どのがもう一年、半年生きながらえておれば、酒井家はお取り潰しになっておったやも知れぬ」と漏らしている。これを聞いた庄内藩酒井家家老の中には、身を強張らせた者もいたという。

 その後も、信綱は積極的に酒井庄内藩を助けた。家老、組頭、郡代町奉行、目付から構成される会所寄合は信綱の助言で設置されたものである。藩政の基本方針も武断から大きく変わっていった。

「農民の持つ鍬は打ち出の小槌のようなものだ。農民が働けばその打ち出の小槌より恵みが生じ、農民が働かなければ打ち出の小槌は振られない。藩を支えるのはすべて、この農民の働きである。であるならば、藩は農民を愛護し、農民が働けるよう心をかけなければならない」

 信綱の助言は触書や心得として、直ちに藩内に広められた。このような助力は、忠当が早くに亡くなり、子の忠義が跡を継いでからも続き、幕末まで続く庄内藩の礎を築いていくことになる。

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