其の八 原城陥落

 戦線の膠着は依然として続き、暦は二月へと移っていった。枯れ野が広がっていた原城の周りも青草が芽吹きはじめ、空にはひばりのさえずりが聞かれるようになった。季節はだんだんと春の訪れを告げていた。

 西国の当主たちもこの頃にはすべて原城に結集し、幕軍は総勢一二万五〇〇〇人にまで膨れ上がっていた。戦況に進展が見られない中で味方の数だけが増えるということは、それだけ全軍の掌握が困難になるということでもあった。

 実際兵糧攻めが長引くにつれ、幕府陣営に不満の声が大きくなっていった。もとより戦を本業とする兵士たちである。一揆の自滅を待つという戦術それ自体には誤りがないといっても、彼らにとって活躍の場が与えられないという事実は動かしようがなかった。このままでは自分たちの出番が訪れそうにないという焦りから、兵士たちの鬱憤は日に日に積もっていき、その矛先は自ずと総大将である信綱に集中し、次第に信綱に対する悪意へと変わっていった。

 一月の終わりに、信綱は甲賀忍者を使って城内の情報を収集させる作戦に出ていた。彼らは数日前にも原城から兵糧を奪い取ることに成功しており、今回の作戦は信綱にとって満を持した決断のはずであった。が、結果としてそれはまったくの失敗に終わっていた。忍者たちは城内にうまく忍び込むことはできたものの、切支丹の言葉や島原地方のなまりをほとんど理解することができず、そのうえあろうことか一人が誤って落とし穴にはまってしまい、一揆勢の石つぶてを浴びて半死半生の目に遭いながら脱出するという失態を演じてしまったのであった。

 この失策は幕軍の兵士たちにとって格好の不満のはけ口となった。

「我々のようなれっきとした兵士がいながら、姑息な手段を使おうとするからこのようなことになる。これで再び一揆勢を勢いづかせてしまった。和蘭艦のことにしてもそうだが、どうやら我々の総大将は正々堂々とした戦が苦手らしい」

 ただでさえこの手の失敗話は大げさに伝わるものである。信綱の評価は急落した。信綱本人は平静を装っていたものの、確実に成功すると思われた作戦が頓挫したことはやはり痛手であり、今後は低下した指導力でいかに全軍を動かすかを考えなければならないと思うと、あまりよい気持ちにはなれなかった。

 そうでなくとも信綱は、大名家との協調関係の維持に常に細心の注意を払い続けてきた。変化に乏しい毎日にあって、そのことが信綱の最大の関心事にさえなっていた。もっともそれは、大名たちが信綱に非協力的ということではなかった。現に細川忠利は頼りになる補佐役となっていた。何といっても忠利は戦国の経験者である。信綱がいくら智恵を廻らせたところで越えられないだけの豊富な知識を有していた。

「伊豆殿、海岸近くに兵糧や弾薬が置いてありますが、それでは一揆方に奪い取られる可能性があります。船の中に積み込ませておいた方がよいでしょう」

「陣中の櫓に帆柱を立て、人が入れる大きさのかごを吊るしてみました。原城内の塀の裏側を偵察するのに役立つでしょう」

「幕軍の合図に使われているほら貝は、この辺に数多くいる山伏のほら貝と間違えやすいように思われます。今後は釣鐘を合図に用いた方がよいでしょう。何なら国許から取り寄せた釣鐘がたくさんありますから、諸家に貸してさしあげましょう」

 信綱にとってありがたい助言ばかりであった。その多くは実際に信綱の採用するところとなった。だが、信綱も忠利にばかり頼ってはいられなかった。幕軍は大名家の寄せ集まりである。すべての大名が細川家のことを快く思っている訳ではなかった。中でも福岡の黒田家が細川家と犬猿の仲にあることはよく知られていた。いかに忠利の意見が優れていても、細川家だけを優遇していては諸家のねたみを買う恐れが多分にあった。信綱は諸大名を公平に扱うよう、あらゆることに気を配った。

 一方、原城からの投降者はめっきり少なくなっていた。城内の監視がきつくなったせいもあろう。また逃げられるだけの体力を持つ者がいなくなったとも考えられた。このまま兵糧攻めを続ければ、味方の損害を出さずに一揆を全滅させられるかもしれないが、それには逃げたくても逃げられない村人を見殺しにする覚悟が必要であった。

 二月一日、信綱はわずかな望みをかけ、四郎の心情に直接訴える作戦に打って出た。原城に使者を派遣し、細川家に捕らえられている四郎の母や姉と引き換えに、拘束されている村人を解放するよう四郎に呼びかけたのである。大方の予想どおり、この交渉も不調に終わった。城に送った使者は四郎からの手紙を携えて送り返された。

「城内ではすべての者が切支丹の信仰を固く守り、天主に身命を捧げるつもりでいる。異教徒の村人を拘束しているようなことはまったくない」

という強い拒絶の文がつづられていた。手紙には紙包みが添えてあった。開いてみると、中から柿やみかん、砂糖、九年母、まんじゅう、やつがしらなどが出てきた。城にはまだ多くの食糧があるという意味であろうか、あるいは母や姉に対する四郎の思いやりの表現であろうか、いずれにしても幕軍との話し合いには応じないという四郎の決意がにじんでいた。信綱はしばらくその紙包みを見つめていた。もちろんこの失敗も、兵士たちの物笑いの種となった。

 信綱は一人考えた。

(四郎を説得して村人を解放させる望みは、これで完全に潰えた。残念だが、四郎の決意を覆すことはもはや不可能であろう。村人たちを救出するには、城攻めの混乱に乗じて彼らを逃がすくらいしか残された道はない。

 城攻めに方針を転換すれば、大名家からは大いに歓迎されるであろう。兵士たちの忍耐はもう限界に近づいている。このまま活躍の場もなく戦が終わるようなことになれば、自国に戻ってから彼らを説得するのは容易ではあるまい。そもそも大名自身からして兵士たちと同じ気持ちであろう。諸家から城攻めを拒否される恐れはないと見てよい)

 この時点で信綱は、城攻めの決意を固めつつあった。一揆の指導者たちに降伏する意思がないことが明らかになった今、せめて城内に拘束されている村人たちだけでも助け出したいと信綱は望んでいたのであった。

(だが…)

と、信綱はもう一方で別の考えを巡らせていた。

(一口に兵糧攻めから城攻めへの変更といっても、実際上は正反対ともいえる方針の一大転換である。それには大名たちを納得させられるだけの大義名分が必要となるし、何より行動に移るきっかけが決定的に重要になってくる。だからといって、無理にきっかけを作ったりすれば、往々にして事態を悪化させることになりかねない。今はまだ動くべき時ではないということだ。

 きっかけは必ず城側から訪れる。城に籠る一揆勢の方が我々より苦しい立場にいることは間違いないのだ。先に持ちこたえられなくなるのは一揆勢の方だ。その時は、はっきりそうとわかる形で我々の目に映るはずだ。それまで我々は耐え続けなければならない。

 それともう一つ、今後の鍵を握る人物がいることを忘れてはならない。ほかならぬ日向殿である。最終的な決定権は総大将の私にあるといっても、日向殿と私とでは発言の重みが違う。日向殿の判断如何によって、これからの方針が名実ともに決定づけられることになるのだ)

 「日向殿」とは、備後福山の城主水野日向守勝成のことである。勝成は軍師として原城の攻略戦に参加するよう、家光から直々に要請されていた。一六歳の初陣から実戦を重ねること数十回、戦国の世を駆け抜けてきた文字どおり練達のつわものである。信綱も家光から、勝成が到着するまでは城攻めを控えるよう言い含められていた。原城へ着陣して以来、信綱は勝成の到着を心待ちにしていたのであった。

 ところが、案に相違して勝成はなかなか戦場に姿を現さなかった。まるで信綱をじらすかのように、時間をかけて原城へと向かっていた。実のところ、勝成も信綱と同じ考えを持っていた。戦は大きければ大きいほど冷静沈着な判断が要求される。殊に戦線が膠着状態にあるような場合、先に動いた方が負けとなる公算が高い。自分が到着しなければ相手の先制攻撃を誘うことができ、それだけ勝機は高まるであろう、と勝成は読んだのであった。また、自分が到着するまでの間、信綱がどのような指揮をとるのか、その器量を見定めたいという思惑も勝成にはあった。原城に到着する前から、勝成は戦をはじめていたのであった。

 だが一方の信綱にしてみれば、その間は高まりつつある無言の圧力との闘いであることを意味していた。それはまったくもって針のむしろであった。兵士たちは速やかな城攻めを望んでいた。そのための準備も既に整えていた。これ以上の無為無策には耐えられないという声が、上から下まで日増しに高まっていた。総大将の信綱としては、勝成が到着しないことを行動を起こさない理由にはできなかった。信綱は大いなる決断を迫られていた。

 信綱は耐え続けた。ただひたすら好機が訪れるのを待った。それは攻撃を仕掛けるよりずっと難しい選択であったが、ここは我慢のしどころであると自分自身に言い聞かせた。

 信綱は兵士たちが全面的な戦闘に突入することがないよう注意を払いながら、一揆勢を挑発するさまざまな作戦を繰り出した。周囲の反発を承知のうえでの行動であった。

 城の塀を地下に崩落させるというのもその一つであった。塀の下に穴を掘り、支柱に火を着けて一度に焼き落とせばそれは可能であろうと判断された。早速有馬家の国許から専門の坑夫が呼び寄せられ、計画が実行に移された。

 行動開始から一〇日ほどして、大人が立って歩けるほどの坑道が塀の直下まで掘り抜かれた。そこから先は塀に沿って真横に掘り進んでいけばよかった。作戦はあと少しで成功するかに見えた。

 だが、完成の一歩手前で坑道の存在が城側に気づかれることになり、坑夫たちは一揆方からさまざまな妨害を受けるはめになった。塀の反対側から鑓を突き刺されたり、松葉を燃やして坑道を煙で充満させられたり、果ては糞尿を流し込まれたりした。坑夫たちもこれには作業を続けることができなくなり、やむなく作戦は中止に追いやられた。

 口径が二尺五寸もある大砲で城を爆破するという案も検討された。幕府の陣営に、二〇人でも持ち上げられないほど巨大な砲弾が二つ運び込まれた。それを二つとも大砲につめ込み、さらに通常の大きさの砲弾も二〇個余り入れ、二五〇〇斤の火薬を使って原城全体を吹き飛ばそうという計画であった。ただその衝撃があまりにも大きいことから、味方も一四、五町ほど後退しなければならないことがわかり、結局これも実現には至らなかった。

 最後の望みを託して矢文も続けられた。さすがにこれに応じる投降者はほとんど見られなかった。成果を生まないこれらの作戦は、兵士たちからさんざんな悪評を買った。が、信綱はあくまで兵士たちの出動を避け続けた。信綱にとって、一揆勢を揺さぶることができればそれで十分であった。

 そのかたわら、信綱は機会あるごとに全軍に注意を喚起した。

「人間、ものを食べずに生きてはいられない。いくら原城に多くの蓄えがあったとしても、三万人の一揆勢が立て籠る城内では食糧の備蓄は毎日目に見えて減っていく。それは彼らにとって計り知れない恐怖となっているはずである。

 近いうちに一揆方は、我々に対して何らかの行動を仕掛けてくる。各々方、その時に備えて陣小屋の守りを固め、一揆勢を迎え撃つ態勢を整えておくように」

 ともすれば一揆勢をいかに攻めるかという意識にとらわれがちな大名たちは、改めて自陣の備えを引き締めた。

 二月二一日、ついにその日が訪れた。深夜になって幕府の陣営に一揆勢が大挙してなだれ込んできたのである。その数およそ三〇〇〇。仕寄を突破した一揆勢は暗い陣中でやみくもに鉄砲を撃ち、櫓や陣小屋に火を放った。信綱が予告していたことではあったが、真夜中の、それも仕寄が最も手薄なところを狙っての攻撃であったため、予想以上に陣中深く敵に踏み込まれる結果となった。三手に分かれた一揆勢は一斉にときの声を挙げ、それに呼応して城内からも喚声が挙がり、幕府の陣営は一時騒然となった。

 だが一揆方の攻めもここまでであった。幕軍は一揆勢が放った火の明るさを頼りに敵味方を見分け、またたく間に反撃に転じてそれ以上一揆方につけ入る隙を与えなかった。攻めあぐねた一揆勢はほどなく退却を余儀なくされ、陣中は再び元の静けさに戻っていった。

 翌二二日、信綱は夜討のあった現場を視察し、諸家からの報告を受けた。幕軍の死者は七五人、手負い二百数十人であった。この中には襲撃直後の暗闇での同士討ちも含まれており、一揆の手による死傷者は実際にはもっと少なかった。物的な損害は黒田家が鉄砲の火薬を二箱奪われただけで、隠してあった食糧には手を付けられなかった。反対に城側の死者はおよそ三〇〇人、生け捕り七人であった。内容的にみて、一揆方の攻撃を首尾良く防ぐことができたといえた。さらには生け捕りを尋問した結果、城内の食糧の備蓄が底をついているとの証言を得ることができた。死者の腹を割いてみたところ、海草や麦の葉などしか出てこなかったという報告も寄せられた。

 機は熟した。食糧に窮した一揆勢は、成功の見込みのない奇襲を仕掛けるところまで追いつめられていることを露呈した。全軍はこの戦が終わりに近づいていることを実感し、兵士たちは奮い立った。それとともに、兵士たちは信綱の読みの深さに改めて感心した。あれほど激しかった信綱批判もそれ以後はぴたりと止み、幕府方の陣営は信綱に対する賞賛の声に包まれた。信綱のねばり勝ちであった。

 二三日、城からの攻撃を待ち構えていたかのように、勝成が幕府の陣地に到着した。眼光鋭く張りつめた雰囲気を漂わせたこの老人は、居ながらにして歴戦の勇士の貫禄を備えていた。信綱はあたかも予定どおりの到着であるかのように、勝成を丁重に迎え入れた。自分に対して批判がましい態度がとられるのではないかと予想していた勝成は、信綱の歓迎を悠然と受け流しながらも内心驚きを禁じ得なかった。

(ほう、伊豆守という男、なかなかどうして腹の据わった良い武将のようじゃ。長い間戦場で総大将という重責を担いながら、いまだ挙動に余裕さえ感じられる。しかも己の分際をきちんとわきまえておる。智恵者などという軽々しい評判ばかりが耳に入っておったが、これならしっかりとした采配を期待できるかもしれぬ)

勝成は信綱に好感を抱いた。

 翌日になって、信綱は諸将を陣小屋に集め、今後の方針を決する軍議を開いた。大名たちの心積りは、当然ながら城攻めで決まっていた。あとは勝成を説得することと、自家が戦功を立てやすいように有利な条件を引き出すことが彼らの目指すところであった。

 信綱はこれまでの経緯を手短かに勝成に説明し、改まって勝成に向き直った。

「日向殿、上意によって貴殿が遣わされたということは、今後の方針は貴殿のご意向をうかがってから決めるようにという上様のご趣意であろうと存じます。なにとぞ貴殿のお考えをお聞かせ願いたい」

信綱は深々と頭を下げた。

 それまで黙って信綱の説明を聞いていた勝成が、大名たちを一通り見回すとへの字に曲げた口をようやく開いた。

「原城が難攻不落の要害であることは、外から見ただけで容易にわかる。内に入ればなおのこと、攻め落とすには相当の損害を覚悟せねばならぬであろう。

 世は太平の時代になり、一揆に呼応する不埒な輩もおらぬようじゃ。急いで城を攻め落とす必要もあるまい。まずはじっくりと兵糧攻めにするのが得策というもの」

 期待と裏腹の展開になりそうな気配に、大名たちの顔色は一様に曇った。このままでは今までの辛抱も無駄になりかねないという焦りが色濃く現れていた。ただ信綱ひとり表情を変えなかった。信綱は気づいていた。これは勝成が探りを入れるためにわざと言っていることであろう、と。

 勝成の意見に賛成であれ反対であれ、それに反応していること自体、あらかじめ結論を用意して軍議に臨んでいることになる。結論が先にあると、物事を自由に考えられなくなる。上に立つ者として、それは戒めるべきことなのである。この場合勝成の意見は意見として取り上げ、全体の中で検討するという態度を取るべきであった。信綱はそのようにした。信綱の動じない態度を、勝成は目の横でしっかりととらえた。

 そうとは知らない副使の戸田氏鉄が、勝成をとりなすように前に進み出て言った。

「日向殿の仰せのとおり、もはや城内の兵糧は尽き果てております。このまま一揆の自滅を待つのが最上の策と言えるでしょう」

 勝成はじろりと氏鉄をにらみつけて言った。

「そのようなことは申しておらぬ。いたずらに城攻めを急いで兵を損ねるようなまねをしなかったこれまでの伊豆殿の采配を評したまでのことじゃ。今や兵糧も尽き果て一揆の勢力が衰えているというのに、なぜに手をこまねいて遠巻きに見ている必要があろうか。それは私の採るところではない。ここは勇躍突き進んで、一気に敵を打ち破ることこそ武士たるものの本分であろう」

 勝成の断固とした口振りに、再び大名たちの表情が明るくなった。これで思っていたとおりの方針に決したという喜びが顔に浮かんでいた。だが信綱はそれでも表情を変えなかった。あくまで客観的な姿勢を貫いた。

「各々方、いかがであろう。兵糧攻めなら味方の損失を防ぐことができ、城攻めなら速やかに一揆を殲滅することが可能との日向殿の仰せである。両者の得失をよくよく検討したうえで結論を出していただきたい」

 信綱は諸大名に問いかけた。

「ここはひとつ、切支丹への見せしめのためにも、城攻めを敢行すべきではないか」

「そうだそうだ。戦を知らない兵士たちに、城攻めとはどのようなものかを経験させる意義もある」

大名たちは議論の余地などないとばかりに口々に城攻めを支持した。信綱は依然として険しい顔つきのまま、唇を固く結んでいた。総大将の意外な反応に諸大名も気づき、やがて陣営内は静まりかえっていった。その頃合いを見計らって、信綱は深く息を吸い込み大名たちに鋭く言い放った。

「各々方、考え違いのないようにしてもらいたい。私は日向殿に貴重なご意見の披露をお願いしたが、それは貴殿らが日向殿の意向になびくことを期待してのことではない。戦をするか否かは、各々方自身が決めることである。

 何はさておき、貴殿らが実際に経験した一揆勢との対戦を思い起こしてもらいたい。数に勝り、能力でも優れていたはずの幕軍が、城の鉄壁な守りの前に三度もの敗北を喫したではないか。はじめから勝てることを前提に結論を下すべきではない。

 また申すまでもないが、今回の戦は一揆の鎮圧が目的である。各々方には公儀への軍役として兵を出してもらっているが、その見返りとして公儀から扶持米の支給はしても、戦功に応じた加増を行うようなことはしない。多大な犠牲が生じた場合の補償ももちろんない。それでも城攻めでよいか、ということを真剣に考えたうえで結論に及んでもらいたい」

大名たちはにわかに神妙な顔つきに変わった。信綱の発言はもっともであった。勢いに任せて攻撃をすればすべてが解決するというものではなかった。しかも損得で言えば、明らかに攻撃を仕掛けた方が損であった。とはいえ、このまま兵糧攻めで終わることになれば彼らの存在意義が問われることになるのも目に見えていた。究極の選択を突きつけられ、沈黙が大名たちを襲った。

 しばらくして、諸家を代表するように忠利が力のこもった声を挙げた。

「我々は自家の繁栄のためにここへ集まったのではありません。公儀のため、国のため、一揆を鎮圧するという目的のために参戦しているのです。鎮圧という以上は、自然消滅のような形での終結では意味がありません。完全なる勝利こそが我々の目指すところとなります。日向殿の仰せのとおり、手をこまねいていてはそれを成し遂げることはできません。また、命を惜しんでいるようでは武士は務まりません。速やかな城攻め、それ以外に我々の結論はございません」

ほかの諸将も忠利の発言に同意した。ようやく納得した表情になって信綱は深くうなずき、大きな声で大名たちに告げた。

「それでは、日向殿の言に従い城攻めとする。後日上様からおとがめがあったとしても、私一人がその責めを引き受けよう。各々方においては心おきなく戦ってもらいたい」

 諸将の間に安堵の空気が広がりかけた、その瞬間であった。すかさず細川忠利と鍋島勝茂が前に進み出て、勝成に直接訴えかけた。

「先陣は我ら両家にお任せいただきたい。他家においては後方よりときの声を挙げ、我らにお力添えを願いたい」

しまったという緊張が諸将の間を駆け巡った。先を越されたいまいましさが大名たちの顔にあらわになっていた。そこへ両目をかっと見開いた勝成が、二人を厳しく一喝した。

「両家の軍勢だけが攻めて、他の諸勢がにわとりのごとくかけ声だけ挙げて見物している訳にはまいらぬではないか。およそ城攻めというものは、味方が心を一つにして戦わなければ到底かなうものではない。今の様子を見ていると、諸家が互いに競い合うことだけを考えていて頭となるものがおらぬ。それでは竹釘のようなもので、戦場ではまったく役に立たぬ。

 このたびの総大将はほかならぬ伊豆殿である。城攻めの布陣も伊豆殿の意向に沿って進めるべきである。これからは万事伊豆殿の指示に従って攻撃を実施されたい。私のような老人は長居無用であろう」

そう言うと勝成はさっさとその場を去っていった。わずかな間に勝成は信綱の器量を見抜き、信綱が指揮をしやすいようにすべてをお膳立てしたのであった。信綱は心の中でこの老人に感謝した。

 かくして信綱を中心に今後の具体的な計画が検討され、その結果、二月二六日をもって総攻撃にかかることが申し合わされた。先陣は本丸側が黒田家、二の丸が鍋島家、三の丸が細川家ということで決まった。城乗りに際しては櫓という櫓に帆柱を立て、上から砲撃を浴びせかけて一揆勢を塀から遠ざけたうえで進軍する作戦がとられることになった。さらには全軍に布告する軍令として、釣鐘を戦闘の一番合図とすること、城まで攻め寄せたらすきまなく火矢を放つこと、合言葉は「国」と問えば「国」と答えること、などが取り決められた。

 同時に信綱は、諸大名に釘を刺した。

「先にも述べたとおり、このたびの一揆の鎮圧は軍役以外の何ものでもない。したがって討ち取った首の数が問われることはない。むしろ速やかに城を攻め落とすため、向かってくる敵は斬り捨てにして首は取らないということで全軍の統一を図りたい」

大名たちは異議なく了承した。信綱にとって、布告の形を取らないこちらの取り決めの方が意味のあることであった。それによって村人がさらに逃げやすくなることを信綱は期待したのであった。

 それぞれの陣小屋に戻った諸将は、その日のうちに総攻撃の準備をはじめた。兵士たちは自軍が優勢な戦闘で、誰よりも多く手柄を立てようと士気を高めていた。

 ところが、夜になって雨が激しく降りはじめ、翌二五日になっても止まず、結局その日一日降り続くことになった。攻撃の際は火矢を放って火攻めとすることに決まっていたので、このままでは計画どおりにいかないと、二六日の朝になって改めて軍議が催された。その結果この日の攻撃は断念することになり、天候に関わらず二八日に総攻撃を決行することに延期された。

(どうも私のやることなすこと、すんなりとはいかぬものだな)

信綱は苦笑した。雨は二六日いっぱい降り続いた。

 二七日、ようやく雨も上がり、諸勢は翌日の城攻めのための最終的な準備を急いでいた。信綱も何か取りこぼしていることがないか、入念な確認作業を行っていた。そこへ有馬家から目付を通じて、二の丸出丸の一揆勢が後退しているとの情報が入ってきた。信綱が櫓に上って確かめてみると、なるほど出丸にはほとんど人影がなく、撤退した後であるかのように見えた。総攻撃に先立って出丸を確保しておくことはあながち無意味なことではないので、信綱は諸大名を集めて出丸に進出しておくべきか評議したところ、諸家の足並みが揃わなくなるといけないのでそのままにしておこうということになった。その後鍋島家から、翌日の攻撃の足がかりとするため仕寄を出丸のそばまで近づけておきたいとの申し出があった。信綱はそれは許可した。

 当初の予定どおりということで話が落ち着き、一息ついた信綱が諸家を交えて茶を飲んでいると、物見の者があわただしく駆け込んできて信綱に報告した。

「鍋島勢が出丸から攻め込み、早くも一揆勢との交戦がはじまっております」

「何だって?」

信綱は思わず飲みかけの茶碗をひっくり返した。

 信綱から許可を得た鍋島勢は出丸の際まで仕寄を寄せ、さらに目の前の塀を取り壊して竹束で足場をこしらえていた。すると二の丸にいた一揆勢がふいに鍋島家の動きに気づき、鍋島家の前線に鉄砲を撃ち込んできた。鍋島勢もこれに応戦し、期せずして激しい銃撃戦がはじまった。騒ぎを聞きつけた他の一揆勢もそこに合流し、戦闘はみるみるうちに拡大していった。そこへ鍋島家の目付役である榊原職直の子職信が、若さゆえ血気にはやって塀を乗り越え、出丸へ飛び出していった。もはや引き下がることができなくなった鍋島勢は出丸にどっとなだれ込み、小屋という小屋に火を放ち、後退する一揆勢を追ってそのまま二の丸へと押し寄せていった。

 隣でその様子を見ていた細川家も、負けじと木戸を切り開き三の丸に突入した。三の丸を守っていた一揆勢は突然のことに驚き、しばらくその場で持ちこたえたものの細川勢の勢いに圧されてずるずると引き下がっていった。

 あまりにも唐突なできごとであった。鍋島家の抜け駆けと見た信綱はもはや評定をしている暇はないと判断し、とりあえず居合わせた諸将に突撃するよう命じた。大名たちもすぐさま事態を飲み込み、大急ぎで自陣へ取って返した。兵士たちは甲冑を着ける間も惜しみ、そのままの格好であわてて城内に突入していった。

 信綱はさらに全軍に対し戦闘の開始を知らせるべく、一番合図のための釣鐘を撞くように指示した。ところが、いつまでたっても鐘の鳴る音が聞こえてこなかった。それもそのはず、誤って鐘が撞かれたりすることがないよう、信綱自身が取りはずしたうえでこもに巻き、縛って隠しておいたのであった。我ながらあっけにとられた信綱であったが、結局合図の鐘は鳴らずじまいとなった。

 その間にも幕軍は進撃を続けていた。とりわけ強力だったのは細川勢であった。一揆の抵抗をものともせず、三の丸の勢力を撃破し、二の丸へと突き進んでいった。それに着いて来られたのは立花勢だけであった。両家は競い合って大手口へと向かった。

 本丸側から城内に乗り込もうとした黒田勢は、原城きっての難所である切り立った石垣と一揆方の激しい抵抗にはばまれ、思うように塀に取り付くことができなかった。当主の黒田忠之は歯がみしたがあとの祭であった。他の諸勢は細川家の後を追って三の丸から続々と兵を進めていった。

 二の丸の真下にたどり着いた細川勢は、大手からの正面突破を試みた。だがそこは城の守りがことのほか厳しく、一面に張りついた一揆勢がここを先途と撃ちかけてくる激戦地となっていた。兵士たちはやむなく左右に回り、塀をよじ登ったり打ち破ったりして次から次へと二の丸に乗り込んでいった。

 さすがに二の丸には一揆の勢力が数多く残っており、幕軍目がけて息をもつかせぬ攻撃を仕掛けてきた。至るところに設けられた堀や落とし穴のため、ただでさえ思うように進むことができない兵士たちは、弾丸や弓矢が耳元をびゅんびゅんと飛び交い、物陰から突然一揆勢が飛びかかってくる中を、一歩一歩足取りを確かめながら前へ進んでいった。

 そのすぐ横では、城内に閉じ込められていた村人たちが脇目も振らずに反対方向へ突進していった。はじめから戦う気などない村人たちは、出口に向かって死にもの狂いで逃げ出したのであった。逃げ惑う村人たちと、刀や鑓を合わせながら随所で一揆勢を責め立てる幕軍と、後退しながらも鉄砲を撃ち続ける一揆勢が入り交じり、二の丸は大混乱となった。

 その混乱に拍車をかけるように、兵士たちは二の丸の小屋に火を着けて廻った。炎はみるみるうちに二の丸全体を覆い、折からの強風にあおられ鍋島家が放った出丸の炎と一つになって空高く舞い上がっていった。先行していた鍋島勢でさえ、火の手に進路をふさがれて二の丸より奥へ攻め込むことができなくなった。鍋島勢は西の土塁を守る一揆勢にてこずり、二の丸への到着が遅れていた。

 信綱は二の丸の後方に陣を構え、そこから合戦を注視した。燃え盛る炎の熱は信綱のところにまで届き、額からは脂汗がにじみ出ていた。もっともその汗は、予想していたよりはるかに少ない逃亡者に対する苛立ちのせいでもあった。逃げる余力を残した村人にしてこの程度の人数である。ましてやこれから戦いが激しさを増す中で、力の弱い者が生きて出られる可能性は相当低いと言わざるを得なかった。信綱はさらなる救出策の必要性を痛感した。

 戦況は次第に幕府側の優位となっていった。数に勝る幕軍は訓練された鉄砲隊の威力でじりじりと一揆方を圧倒し、接近戦ともなるとさらにその優勢さを増していた。死をも辞さない覚悟の一揆勢が束になってかかったところで技量に勝る武士にかなうはずもなく、一人また一人と力でねじ伏せられていった。兵士たちも無傷ではいられなかったが、体中血まみれになりながら本丸の包囲網をだんだんと狭めていった。

 日が西の空へと傾きかけた頃、細川勢はようやく本丸の下に到達した。細川家としては何としてもその日のうちに本丸を陥れたいところであったが、一揆側も最後のとりでを死守すべく激しく鉄砲を浴びせかけ、兵士たちを寄せ付けようとはしなかった。細川勢は猛攻に耐えてその場に踏みとどまり、さらに塀ぎわへの前進を試みた。本丸からは投石でこれに対抗し、兵士たちの頭上に隙間がないくらい石の雨を降らせた。石ばかりでなく、大木、鍋釜、熱した灰など、ありとあらゆる物が塀の上から投げ落とされた。兵士たちが担ぐ旗は棹が折られ、布がずたずたに破られた。石臼に当たった兵士は、石臼もろとも谷底へ転げ落ちた。

 一揆のあまりの勢いに、さしもの細川勢でさえ本丸を攻めあぐんでいた。その間にも諸勢は後から後から本丸下に到着し、本丸の周りは人であふれんばかりとなった。最前線で身動きが取れなくなった兵士たちは投石をよけることすらできなくなり、たまらず塀ぎわから退いた。後ろにいた兵士たちはそのあおりで将棋倒しとなり、荒波のように大きなうねりとなって崩れた。三度までそれが繰り返された後、これ以上崩れかかることがないようにと鑓の穂先が一斉に本丸方向へ向けられ、ようやく崩れるのが収まった。

 それでも本丸の攻略は依然としてはかどらなかった。何人かは塀を乗り越え、中にいる一揆勢と鑓を突き合わせていたが、後続が思うようにいかなかった。もはや日暮れが迫っていた。信綱は本日中の決着は困難と判断し、全軍に攻撃の中断を命じた。だが誰も攻撃の手を緩めようとはしなかった。むしろますます勇んで一気に本丸を攻め取ろうとした。信綱の使いの者が先手の諸勢に攻撃を中止するよう伝えても、「見知らぬ者だ」とうそぶいて取り合おうともしなかった。

 軍令違反と取られかねない命令の無視に忠利も困惑し、先手にいる家老衆に直接引き揚げるよう伝えさせた。前線で兵士たちを鼓舞していた家老衆はあきらめきれない様子であったが、

「後手が先手を支えている以上は、先手から兵を引き揚げることはできません。後手から引いていけば先手の者もだんだんと引き揚げるでしょう」

としぶしぶ引き揚げに応じた。

 家老衆が同意したことで、少しずつ後ろの方から兵が引きはじめた。先手の者たちも攻撃の手を緩め、守る一揆方の銃声もまばらになっていった。

 その時を待ち構えていたかのように、細川家の家老が再び大声で本丸の攻撃を命じた。兵士たちは我が意を得たりと取って返し、守りが手薄となった本丸の塀を次々と乗り越えていった。こうなっては行き着くところまで突き進むしかない。信綱は気を取り直して兵士たちが攻撃するに任せた。彼らの行動は明らかに軍令に背いていたが、今さら引き揚げを命じたところでそれに従う者がいないこともまた明らかであった。

 本丸に乗り込むが早いか、兵士たちは火矢で小屋を焼き払い、一揆の囲いをさんざんに打ち破った。一揆勢は抵抗むなしく本丸の奥へと追いやられ、揚げ木戸の内側に逃れていった。そこは一つの独立した区画を成しており、寄せ手の攻撃を防御するのに適した造りとなっていた。残った一揆勢はみなここへ集結し、揚げ木戸が閉じられ内側からしっかりとかんぬきがかけられた。押し寄せる幕軍は何重にもその周りを取り囲んだ。

 既に日没となっていた。この日の城攻めはここまでとなった。細川家の大軍は日が暮れてからも本丸内に殺到し、鑓を横にすることもできないほどひしめきあっていた。もしここで一揆方が決死の反撃に出たとしたら、幕軍としても並々ならぬ損害を被りかねない。細川勢は柵を設けて一揆勢を封じ込め、代わる替わる鉄砲を撃って夜を明かすことにした。柵の前はたいまつで照らされ、矢面が常に明るい状態に保たれるようにした。海上でもかがり火がたかれ、海手から落ちのびる者がないよう厳重に見張られた。

 閉ざされた木戸の内側からは、一揆勢が切支丹の祈りを唱える声が聞こえてきた。祈りの合唱はさざ波のように大きくなったり小さくなったりしながら、決して途切れることなく続いた。彼らにとって、祈り続けることだけが心の支えとなっていた。

 信綱は日の出とともに攻撃を再開することを諸家に伝えるとともに、決戦を前に全軍に檄を発した。

「長かった一揆勢との戦いも、明日をもって決着がつけられることになる。歴史に名を残すであろうこの一戦に、各々の持つすべての力を出しきってもらいたい。

 幕軍に抵抗する者は最後の一人まで討ち取ることを、総大将として全軍に命じる。それらの者は国法に背く反逆者である。徹底的に叩きのめしてもらいたい。

 逆に戦意を喪失している者はそのまま捨て置いて構わない。そのような者にかかずらわって、落城を遅らせるようなことがあってはならない。無抵抗の者は城が落ちた後でまとめて生け捕りにするつもりである。あくまでも原城の陥落を第一と心得てもらいたい。

 日本中がこの戦に注目している。後世に恥じぬ合戦となるよう、全軍の活躍に期待する」

 兵士たちは腹に力を込め、この決戦が持つ意味を改めて胸に刻んだ。

 二月二八日の朝を迎えた。原城は濃い霧に包まれていた。一睡もせずに夜を明かした兵士たちは、脂ぎった顔で総攻撃の合図を待った。城の周りはくすぶった煙の臭いが漂い、よどんだ空気が兵士たちにまとわりついた。

 霧が晴れ、あたりが次第に明るくなってくると、一揆勢が籠る塀の中に焼けずに残った家が見えてきた。高い石垣と松の木に守られ、この一画だけが無事であった。一番奥にあるのが四郎の家であった。忠利はそれを焼き払うように命じた。たちまち何本もの火矢が射かけられ、炎が家を包み込んだ。

 燃え上がる火が合戦の合図となった。柵を越えて四方から一度に攻め寄せた幕軍の兵は、絶望的な反撃を試みる一揆勢を手当たり次第に粉砕し、残存する勢力を追いつめていった。それは一方的な殺戮と呼ぶべき、情け容赦ない大虐殺となった。信綱の命令は完全に無視され、抵抗する者だけでなく、隠れていた女子供も、老人も、見境なく斬り捨てられた。兵士たちからすれば、戦場で敵を区別している余裕などあるはずなかったのであった。

 行き場を失った一揆勢の中には、自ら死を選ぶ者もいた。燃え盛る小屋の中に飛び込む者や、焼けた柱の下に子供を押し込み自らも重なるように身を投じて死んでいく者など、見るに耐えない光景がそこかしこに見受けられた。

「よいか、城の陥落が第一だぞ。無抵抗の者には手を出すな。あくまで生け捕りにするのだぞ」

 使者が報告に来るたびに、信綱は空しくそう言い続けた。何度言ったところで兵士たちの耳に届くとは思われなかったが、信綱は辛抱強く同じ言葉を繰り返した。

「伊豆守様、どうしてそこまで生け捕りにこだわるのですか。城に籠った者はすべて滅ぼしましたと、上様に伝えればそれで済む話ではないでしょうか?」

勘定組頭の能勢四郎右衛門頼安が、不思議に思って信綱に尋ねた。信綱は固い表情をしてすっと立ち上がり、本丸の一点を凝視しながら頼安に答えた。

「私は一人でも多く、生きたまま捕らえるべきと思っているのだ。その理由は三つある。

 第一に、この先再び切支丹に不穏な動きが現れた時、それらの者を潜入させれば敵方の情報を手に入れやすいと考えるからである。第二に、それでも再び一揆が起こってしまった場合、それらの者を人質として利用できるからである。そして第三に…」

「第三に?」

「たとえ切支丹とはいえ、人々がむざと殺されるのを見るのは忍びないからである。私もただの人間だ。一揆の者であっても、死に方ぐらいは自分で選ばせてやりたいと思う。それが人の情というものであろう」

信綱は頼安に訴えるようなまなざしを向けた。

 幕軍はついに城の最奥部にまで達していた。もはや幕府側の勝利は動かしようがなかった。それでも兵士たちは手を休めることなく、かさにかかって残る一揆勢を斬って廻った。逃げる者は追いかけて背後から斬りつけた。信綱の願いとは裏腹に、一揆勢の命運はここに尽き果てようとしていた。

(やはりこういうことになってしまうのか。総大将などといっても、上から命令するだけでは一兵卒たりとも思いどおりに動かせはしない。ならどうすれば、兵士たちに無差別な殺戮を止めさせることができるのであろうか)

 信綱は焦点の定まらない目で城内を見渡し、ひたすら救済策を考えた。視線の先はどちらを向いても、死体の山また山であった。悠長に思い悩んでいる暇などない、ここは人が殺し殺される戦場であった。さまざまな考えが頭の中に浮かんでは消えていく間、信綱は横たわる一揆の死骸をぼんやりと眺めていた。そのほとんどは首と胴がつながっていた。普通なら敵を討ち取った証として、首は取られてなくなっていそうなものだが…。

「ああ、そうか。兵士たちは首を取っても報奨には結びつかないということだけは心得ているのだな」

混濁する意識と戦いながら、信綱は漠然とそう考えた。その時信綱ははっと思いついた。

「これだっ」

信綱は反射的に後ろを振り返り、かたわらにいた使いの者にありふれた話でもするかのように語りかけた。もどかしさのあまり、声はかすかにうわずっていた。

「一揆の人数がまったくわからないというのも、上様に対して聞こえが悪かろう。残っているものだけで構わないから、死体の首を集めてその数を数えるよう全軍に伝えよ」

いきなりの命令に戸惑う使者に向かって、信綱は「あくまで後日の参考のためにな」と念を押した。使いの者は首をかしげながらも、信綱から言われたとおりのことを兵士たちに伝えた。

 驚いたことに、命令を聞いた途端、兵士たちは動きを止めた。そしてそれまで追いかけていた一揆勢のことなどそっちのけに、転がっている死体に取り付きはじめた。戦場は一転して死者の首狩り場と化した。彼らは信綱の命令を、「集めた首の数だけその者の手柄とする」と言われたかのように受け取ったのであった。兵士たちは血まなこになって死体の首をかき集め、一つの首を奪い合った。生きている者のことなど彼らの眼中から消し飛んでいた。そしてそれが信綱の狙いであった。辛うじて城の外に脱出してきた一揆の者を目にした時、信綱はほっと胸をなで下ろした。信綱はほんの少し、自らの罪を償えたような気がした。

 昼近くになり、信綱の前に一揆勢の首がいくつも運び込まれてきた。信綱は四郎についてもできる限り生け捕りにする方針を打ち出していたが、それが守られている可能性はきわめて低かった。おそらく四郎の首は、目の前に山と積まれた首の中に埋もれているのであろうと思われた。

 とはいえ、幕軍の中に四郎の顔を知っている者は一人もいなかった。そこで四郎の母親が連れて来られ、首実検に供されることになった。

 信綱の前に引き立てられた四郎の母は、毅然とした態度ではっきりと言った。

「四郎は天から遣わされた子です。どうして首など取られることがありましょう。あの子はきっと天に昇ってしまったか、南蛮か呂宗に落ち延びたに違いありません」

母親は心の底から四郎のことを信じていた。母親の言葉は、同時にすべての切支丹の願いでもあった。

 四郎の母は目の前に転がるおびただしい数の首を悠然と眺めていたが、そのうちの一つに目が止まると走り寄って抱きかかえ、その場に泣き崩れた。

「なんとまあやせ衰えてしまったことか。さぞかし無理を重ねたのであろう」

切支丹の最後の望みを打ち破る、悲痛な叫び声であった。無情にも周囲からはわっと歓声が挙がった。この瞬間に原城の陥落が確定した。信綱は身体の力がいっぺんに抜けた気がした。

「お静、私はやれるだけのことはやった。自己満足に過ぎぬと、お前は思うかもしれぬがな…」

人知れず信綱はつぶやいた。

 四郎の首は南蛮人への見せしめに長崎へ送られた。信綱は戦勝を家光に伝えるため、書状を記して箱に入れた。その時信綱は思い立って、ふたに「落城」としたためた。後日それは原城陥落をいち早く知らせる信綱らしい智恵であると人々から賞賛されたが、信綱にしてみればやり場のない無念をこの二文字に込めたつもりであった。

 ようやく一揆を終結に導いた信綱であったが、ゆっくり骨休めをしている暇はなかった。頭の中は早くも戦後処理のことに切り替わっていた。信綱はそのまま江戸には帰らず、長崎へと向かって行った。

 四か月以上に及ぶ切支丹の一揆は、こうして終わりを遂げた。以後日本において、戦争も、大規模な内乱も起こらない時代が二〇〇年以上続くことになる。表面上切支丹の禁制は守られ、島原・天草において切支丹による一揆が起こったことも、長い間人々から忘れ去られる。

 落城の際に生け捕りにされた一揆勢は、その後幕軍の審問にかけられ、改めて棄教を迫られた。ほとんどすべての切支丹はそれを拒否し、笑顔のまま処刑されていった。四郎の母も、姉も、すべての親族が処刑された。落城に際し一人でも多くの生存者を、という信綱の願いは、結果として叶うことがなかった。

 処刑された遺体は、城攻めの際の犠牲者とともに原城の石垣下に集められた。そして外見からそれとわからなくなるまで、原城もろとも上から大量の土がかぶせられた。一揆に関するすべてのものが、一揆の記憶とともに地中深く葬り去られたのであった。

 切支丹で生き残ることができたのは、信綱が領国へ連れて帰ったわずかな人数だけであった。それらの者は生存していること自体が秘密にされ、その後の信綱の転封にまぎれて最終的に武州川越へと移された。川越の切支丹たちは生涯信綱に感謝したという。

 もっとも、信綱のしたこと全部が無駄に終わった訳ではなかった。信綱がさまざまな智恵をふりしぼり、落城までに城の外へ逃がした者は合計一万人以上に及んでいた。それは最初に籠城したうちのおよそ三分の一に当たる、信じがたいほどの生存者数であった。

 島原・天草の切支丹は、宗門の再興を切に願いながらも武力闘争というキリスト教徒本来の作法とかけ離れた行動をとってしまったことにより、今日に至るまで誰一人としてローマ法王庁から「殉教者」とは認められていない。彼らは日本の歴史上、最も報われないキリスト教徒であったといえる。彼らは本国を除いて満足な慰霊すらされてこなかった。その数少ない例外が、信綱の菩提平林寺にある島原の乱の慰霊塔、「肥州島原対死亡霊等」である。「対死」すなわち敵味方双方の慰霊のためのこの塔は、何も語らず今でも信綱の墓のかたわらにたたずんでいる。

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