肥前日野江城を臨む有馬川の畔に八本の柱が立てられた。その柱を取り囲むように夥しい人々が集まっている。槍をかまえた兵が柱を守っているが、人々は何かを待つように静かに佇んでいる。手に手にロウソクを持ち、中には祈りを口にしている者も見受けられる。やがて役人たちに伴われ、縛(いまし)められた影が八つ現れた。群衆が一斉に祈りの声を上げる。
八人は、次の通り。
有馬家家臣、高橋アドリヤン主水と妻のジョアンナ。
有馬家家臣、林田レオン助右衛門と妻のマルタ、娘マダレイナ、息子リヨゴ。
有馬家家臣、武富レオン勘右衛門と息子パウロ。
この八人、彼らを見守る群衆すべてがキリシタンである。
有馬晴信から六千両を詐取した岡本大八は、家康の朱印状偽造をも行っていたことから、死罪は明らかであった。だが、大八は晴信をも道連れにすることにした。晴信が長崎奉行長谷川左兵衛藤広の暗殺を目論んでいたと訴えたのだ。晴信がポルトガル船ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号を襲撃した際、大八と同じく目付として同行していた藤広が攻撃に三日をかけていたことに対し、「手ぬるい」と批判した。これに晴信が激高し「この一件の後には、奉行をも海に沈めん。楽しみにしておれ」と叫んでしまったのだ。これは多くの者が聞いている。大八はこれを証拠と主張した。
晴信は、ダ・グラサ号襲撃を藤広にけしかけられ、押し切られたことに蟠(わだかま)りを持っていた。それが爆発したのだが、当然勢いのままの発言であり、具体的な計画があったわけではない。だが、本多正純、大久保長安による尋問に害意を抱いていたことを認めてしまった。結果、岡本大八は駿府市中引き回しの上火刑、有馬晴信は甲斐へ流罪の上死罪ということになった。
有馬氏の家督と所領は、晴信の嫡男である有馬直純が相続することを認められた。直純は家康の側近であり、家康の外曾孫で養女となった国姫を妻としていることもこの処置に影響しているようだ。直純は家督を継ぐと自らキリシタンから改宗。気の小さいところがある直純にしてみれば、キリシタンへの取り締まりが強化されるのが明らかである状況に、藩を安泰させるにはキリシタンと縁を切るしかなかったのだ。直純はキリシタンである家臣らにも棄教を迫った。高橋アドリヤン主水、林田レオン助右衛門、武富レオン勘右衛門の三人以外は棄教に同意し、三人は家族とともに拘束された。人々はこの様子に「今の城主はキリシタンと縁を切るために、父上様を幕府に売ったそうだ」と噂した。
慶長十八年(1613)十月七日、八人が刑場につくと周りを埋め尽くす群衆から祈りの声が上がり、彼らの洗礼名を叫ぶ声も聴かれた。一帯が騒然となったことで、守兵の気が立ち、槍の穂を群衆に向ける。その時、武富レオンが声を上げた。
「吾らは信仰のために死ぬ。神がついてくれておるから、何ら怖くはない。皆の者も、これより先も神を信じ、信仰を守ってくれ」
八人がそれぞれの柱に縛り付けられる。皆静かであり、抵抗はない。ただ、十歳の林田リヨゴがわずかにキョロキョロと周りを見ていた。
足元に蒔が積まれ、火がつけられた。蒔を燃やす炎はそれぞれの衣を這い上り、露わになった肌を焼く。やがて火が縄に達し、縛めが解かれる。その時、林田リヨゴが、母マルタのもとに走っていった。マルタは息子を抱きしめ、「天を仰ぎなさい。私たちの行く場所です」と励まし、共に死んだ。その娘マダレイナは、炎によって縛めが解かれると、足元にある燃え盛った蒔を手に取り、頭上に置くと神への感謝を示した。
これを見つめる人々は感動すら覚えていた。彼らにとってこれは刑死ではなく、殉教なのだ。キリシタンにとって迫害は、信仰の証しである。
「これならば、キリシタンたちによる一揆などありえぬな」
ごく小さく呟いた者がいる。右衛門作であった。右衛門作はこの群衆の中から様子を見ていたのだ。
有馬領に入った右衛門作は、南蛮絵師の山田右衛門作として直純に仕えた。
忍び働きによって収集した情報を伝えるため、描画の法は忍びならば誰もが学んでいる。中でも、右衛門作は絵を描くことが特に得意であった。松平正綱の江戸屋敷に入ってからは、南蛮絵に興味を持ち、度々江戸府内の教会兼診療所へと足を運んだ。そこに飾られている絵を見るためだった。初めて南蛮絵を見た時の衝撃を、右衛門作は今でも鮮明に覚えている。物が立体で表され、高さや奥行きすら読み取れる。これを身につければ一枚でとてつもない量の情報を表せるのだ。真剣に眺め、どうにかこの技を身につけようと模写を繰り返す右衛門作に宣教師たちは好意を持ち、貴重な南蛮絵具をプレゼントしてくれるほどの仲になった。それが活かされたのだ。
右衛門作は静かに群衆から離れた。知らせを待ちわびているだろう正永に報告しなければならなかった。
元和六年(1620)は正永にとって特別な年であった。
正月二十日、俸禄として五百石を賜った。この時、正永二五歳。一石は成人男性一年分の米量であり、単純に考えれば五百石であれば五百人を賄えるだけの収入となる。だが、現実には五百石分すべてが手に入るわけではない。米を作る農民の取り分もあり、四割二百石分がいいところだ。それでも、五人扶持からの加増である。大きな前進といえるだろう。
この加増は、正永にとって実にありがたいものであった。右衛門作を九州にやった時、代わりの甲賀者を右衛門作が選び、一人雇っている。そして、七年前に井上正就の娘を妻とし、娘も儲けた。さらに妻を手伝う下女も雇っている。これは葵が信頼できる者を選んだ。本当であれば葵に任せたかったが、すでに葵は長沢松平分家にとって欠くことのできない存在となっていたのだ。このような者たちを自らの禄で養わなければならないのだった。
正永の禄高は小姓仲間たちと比べると低く、加増も遅かった。竹千代の乳母お福の息子である稲葉正勝は別格としても、小姓仲間たちは大名の子息であり、所領を受け継いでいる者もいる。一から這い上がった正永とは差が生じても致し方ないが、小姓の中での正永の役割を考えるといかにも少なすぎる感は否めない。やはり松平忠輝との関わりが影響しているのだろうか。その忠輝は大坂夏の陣で不行跡があったとして元和二年(1616)改易の上流罪となっている。
正永に加増があった元和(1620)六年の五月には、将軍徳川秀忠の娘、竹千代の妹である和子(まさこ)の入内という一大事があり、上洛の際には正永の養父松平正綱が同行している。
八月五日には正永に待望の男子が誕生。幼名を主殿(とのも)と命名している。夫婦仲は睦まじいものであったが、正永の多忙もあってなかなか恵まれなかった男子である。喜びに浸りたいところではあったが、それどころではなかった。九月に竹千代の元服が決まっていたのである。
次期将軍の選定については長く言及されることがなかったが、大御所の徳川家康が死の直前、元和二年(1616)正月に竹千代を指名したことで、にわかに動き出すこととなった。竹千代の弟である国松に甲府二三万八千石が与えられ、翌元和三年(1617)に竹千代が西ノ丸に移ることとなったのである。知行地をもらうということは幕府の臣となることを示している。また、西ノ丸は家康が秀忠に将軍を譲った後、駿府に移るまで住んでいた場所だ。
巷間、この次期将軍選定には、竹千代の乳母お福の家康に対する直訴が影響しているとの噂があるが、これは事実ではない。乳母が勝手に外出すること、特に遠出ができるはずもないし、次期将軍については家康と秀忠の中では初めから竹千代と決まっていた。これは好き嫌いではない。徳川の代が永続するためには、将軍選定に何者かの思惑が入り込む余地があってはならないのだ。そのため、基準は嫡子継承しかあってはならないのだった。
確かに、竹千代の母であるお江の方の国松への溺愛ぶりは異常ともいえた。このことからお江の方が国松を将軍にしようと企んでいるのではないかと考えられていたが、実のところお江の方も国松が将軍になれないことは承知していた。だからこそ不憫にも思い、国松への肩入れがひどくなっていったのだ。今も国松を宥めることに力を注ぎ、今回の竹千代の元服の儀において、国松を同時期に元服させたのはお江の方の意向であった。
元服を機に名乗りが変わる。竹千代は家光に、国松は忠長に変わることが決まっていた。これにも国松は噛みついた。名の由来については何ら説明はないが、字面からすれば、家光の家は家康から、忠長の忠は秀忠からもらったものと解することができる。これに対し、名にも序列をつけ、自分を徒(いたずら)に貶めたものだとして、名を決めた金地院崇伝を恨んだのだ。「崇伝を呼べ。手打ちにしてくれる」と喚き散らす国松を宥められることができる家臣はおらず、お江の方に任せて遠巻きにしている様は、江戸城に勤める者たちにも知れ渡っていた。だが、西ノ丸に詰める正永はこのような状態にあることに気づく暇もなかった。
竹千代元服の儀の仔細については幕府重鎮たちによって計画され、それが竹千代に伝えられる。ただし、それを覚えるのは小姓であり、適時竹千代を導かなければならなかった。将軍の小姓であれば、その数も多く、組に分かれて組番頭が統率するが、竹千代の小姓はそこまで達していない。小姓たちの統率は正永に任された。役務があれば惜しむ正永ではない。元服の儀の準備や竹千代への付き添いなど一切の分担や統括をこなすために非番を返上し、邸に帰ることも稀といった状態であった。
これを補佐したのが阿部正秋である。理に偏りがちな正永に対し、正秋は戯れをうまく使える人物だった。小姓仲間のうちでも妙に気が合い、幼名のまま本気で話しあえる仲である。親しい者としては他に、お福の子である稲葉正勝がいるが、この年西ノ丸書院番として竹千代警護を任され、小姓からは離れている。三人は偶然にもみな名に正の字がついており、これもあってか親近感も一入(ひとしお)であった。
九月六日、竹千代元服の儀が滞りなく済むと、正永は正秋に声をかけられた。
「大変なお役であったが、無事に済むことができた。長四郎のおかげだが、お主のことだ、邸にも帰らず、息子の顔もろくに眺めておらんのだろう。後は我々がやっておくから、早う帰れ」
まったくの図星である。正秋にはこのような鋭い観察力もある。正永が信頼する所以の一つであった。
主殿も生まれて一月が過ぎている。生まれたばかりのしわくちゃさはなくなり、全体にふっくらとしてきた。乳をちゃんと飲んでいるのだろう。今は寝ているが、しきりに口を動かしている。夢の中でも乳を飲んでいるのか。正永は娘の千万を膝に乗せ、一緒に赤子を覗き込んだ。
「吾(わし)に似て利かん気が強そうな面構えをしておるな」
「父様は利かん気が強かったの」
千万が不思議そうに正永を振り仰ぐ。
「そうだな、母上にはよく叱られたものだ。それも厳しくな。それで反省はするが、懲りはしなかった。この子も母様を困らせるかもしれない。千万、主殿の面倒をよろしく頼んだぞ」
出産前後のこととなると男どもにはお手上げである。正永の妻の出産にしても、知恵者といわれる正永でもどうしようもなかった。役務が忙しかったのを幸いとしているようなありさまだ。このような時に頼りになるのが養母の存在であるはずだった。しかし、養父の正綱は子供のできないこともあり、正室と離縁。後妻をもらっている。この後妻が若く、しかもこの時懐妊していたこともあり、妊婦らの面倒は葵が取り仕切らざるを得なかった。とはいえ、葵は嫁いだこともなく、当然出産したこともない。そのため、手当たり次第に伝手(つて)を頼り、出産や立ち合いの経験がある者たちの話を聞いた。正綱の後妻や正永の妻にとって、葵は姉であり、時に母のような存在となっており、安心して身を任せることができたのだ。
正綱の嫡子が誕生したのは、この年の十二月である。待望の男子であり、正次と名付けられた。祝いの席で正永は正綱に、「嫡男が誕生した以上お家を継ぐのは嫡男とするのが当然であり、自分がこの家にとどまっては要らぬ諍いのもととなります。また、正の字も継嗣が名乗るのがふさわしいでしょう。自らこの家を出、正の字も返上したうえで、別家を立てようと思います」と告げた。
正綱にしてみれば、六歳で養子に迎えて以来我が子として接してきた。家のことを考えても、家光となった竹千代の覚えもめでたい正永に継いでもらう方が安泰である。必死に留意したが、正永の気持ちはすでに堅い。とりあえず継嗣のことは置くこととし、別家を立てることは承認せざるを得なかった。
正永は、以後名を信綱と改めた。全ての後ろ盾を排除し、自ら尽力することとなったのである。
謹んで申し上げる
未だ肥前、肥後一帯にはキリシタン多くあり。これら村を単位とし、信仰を守る。その初め、領主が入信の時に領民を村ごとにまとめて入信させる。これをもって単位となす。藩政においても村を単位とし、村ごとに触れを出す。これこの地の特徴なり。
この地、島多く、大小合わせ百二十余り。目の届かぬ村多し。有馬が移りし時に、多くの臣が浪人となり、これらの島に潜んでいると見られる。
村各々畑多く、豊かなり。田は谷の水をひく。ただし、年貢は幕府へ届けている高よりも一割がた高し。地に代官を置き、その指示により庄屋がまとめる。
有馬より松倉に代わりし後、原城、日野江城を廃し、島原城を築く。これにより、それまでの城下である南目に役人過少となる。村人ら自ずと治めること大となり、役人の力小となる。村人穏やかなるが、棄教のこと遅々として進まず
右衛門作の報告である。右衛門作は南蛮絵師として有馬氏が転封した後も、松倉家に仕えている。右衛門作が領民から慕われていることが理由として大きかった。松倉家では新しい領地の管理に苦労し、右衛門作を度々使者として領民への対応を託している。
報告によれば、肥前、肥後の境となる島原領や天草領といった地域は、禁教令が強化された今でもキリシタンが多いようだ。しかも、村単位がそのまま教区となっている。これが急激に信者を増やした理由であり、同時に棄教を阻む原因ともなっている。個人の思惑、感情のみではなく、村の総意、同意が重要なのだ。このような場合、変革は避けられ、維持が好まれる。
「ここを治めるのは難しいな」
キリシタン禁制は、キリスト教を危険と考えてのみ定められたものではない。キリシタンへの対応、領民管理ができなければ、領主をいつでも罰することができるということの方が重要なのだ。幕府に対抗できる勢力は力を弱めるというのが今の根本方針だ。現にここ五年に限って見ても藤田重信、坂崎直盛、村上義明、関一政、福島正則などが改易、成田長忠、近藤政成、市橋長勝、田中忠政などが死去にあたって相続時に大幅な減封となっているのだ。長沢松平本家当主であり、将軍秀忠の弟である松平忠輝も大坂夏の陣において不行跡があったとして改易され、自身は流罪となり、伊勢や飛騨に預けられているのだ。幕府の方針に容赦はない。
右衛門作の報告も上に伝えれば何らかの懲罰を加えられるか、厳しい課題を課せられるだろう。ただ、信綱には今すぐ上申する気持ちはなかった。
家光はまだ将軍ではない。とは言え、家光を介さずに秀忠に告げることは信綱の立場からすれば憚(はばから)れる。では、家光から秀忠に伝えてもらえばよいか。それは無理だろう。情報を知れば家光のことだ、自分で対処せずにはいられない。どちらにしろ、今右衛門作の報告を上申しても問題が生じるだけなのである。
「これから右衛門作がどのような報を伝えてくるかだな」
右衛門作の便りを心待ちにしている者がもう一人いた。葵である。葵は未だ正綱の邸にいるが、信綱が別家を立てた以降も何かしら用事を作っては訪れていた。家といっても拝領屋敷など与えられるような立場ではなく、小さな役宅だ。そこに、親子と小者、下女の六人で暮らしている。そんな小宅にやってきては世間話のついでに、右衛門作から頼りは来ているのか、達者でいるようかなどと訊ねてくるのだった。このやり取りは信綱が正綱の邸にいた時から変わらない。右衛門作が九州に向かってから十年近くが経っている。右衛門作が家中にいる時分から、葵には何度も縁談話があった。その全てを固辞し続け、三十も半ばを過ぎた今も未婚を貫いているのは、右衛門作のことが理由であることは誰の目にも明らかだ。
信綱の妻は右衛門作のことを直接は知らない。当然、何のために遠くへ行っているのかも知らなかった。ただ、元の奉公人で、今は他家に移ったのだと考えているようだが、定期的に便りが来ることから、信綱とは今でもやり取りがあることは分かっている。そのため、葵のために口をきいてやってはどうかと、再三信綱に告げてくる。信綱としても葵の気持ちが分かるだけに早く右衛門作を戻したいという衝動に駆られることもある。しかし、報告を読むたびに、その地の特殊性が分かり、どうしても胸が騒ぐのだった。
元和九年(1623)六月、家光の将軍宣下に先立ち、信綱は小姓組番頭に任命された。小姓組は市中巡回、将軍警護、儀式時の世話役などにあたるものとして、前年十一月に整備された。最初は六組であったものが、今回増やされたのだ。後のことになるが、番頭は通常四千石ほどの者が任命されており、任命と同時に三百石の加増があり都合八百石になったとはいえ、小身の任命は異例である。純粋に信綱の能力が買われたわけである。
六月二八日、将軍宣下のため家光が江戸を発ち上洛。これに信綱も従っている。将軍宣下が行われたのは七月二七日であった。この時、忠長も権中納言に任官。信綱もこの時に従五位下伊豆守を賜っている。これにより、家光が本丸に入り、秀忠が西ノ丸に移ることとなった。このための改修工事が始まっており、江戸城内では槌の音が響き、活気立っていた。新しい代の到来を誰もが感じていたのだ。
江戸に戻ると家光は外様大名らを集め、将軍就任を継げた。
「͡この度、余が将軍を拝命されたについて、其方らに申し渡すことがある。先の将軍は其方らと同列たる一大名であったこともある。それ故、その方らへの遇し方にも含みがあった。
然れども、余は生まれながらにして天下人である。故に外様、譜代の別は余の中にはない。今後、その方らに対しても譜代大名と同じく家来として遇する事とする。左様心得よ。
不承知の者あれば、心置きなく謀反いたすがよい。本日より三年の猶予をつかわすゆえ、国もとに帰り支度いたせ」
新しき代となることへの宣言であった。
家光は小心であるがゆえに、周囲が家光のことをどのように扱うかに過敏であった。そのため、無理難題を吹っ掛けることでその反応を試すようなことが多い。これは子供のころから変わらぬ癖のようなものだ。この時も、ことさらに高圧的な物言いをすることで外様大名たちの反応を試したのだろう。
戦国大名というと豪放磊落(ごうほうらいらく)なイメージがあるが、存外小心者も多かった。もっと言えば、豪放磊落な者はその性格故に戦場などで死に、小心者が生き残った。家光の祖父、徳川家康や豊臣秀吉がその典型である。秀吉は、褒賞や催しによって周囲の歓心を買い、力を示したし、家康は根回しを怠らなかった。家光も、その小心者の流れにある。
このような時代の流れの中で、取り残され、苛立ちを募らせてていたのが家光の弟である忠長だった。忠長はもともと利発であり、兄の補佐役として期待されていた。将軍宣下の翌年、寛永元年(1624)には駿遠甲合わせて五五万石を有するようになり、駿河大納言と呼ばれるようになる。父秀忠の期待のほどが感じられる石高だが、忠長自身は絶大な権力を持つべく将軍となった兄と比較し、不満ばかりが大きくなっていったのだ。これが高じ、大御所となった秀忠に「百万石を賜るか、さもなくば大阪城主にするか」との嘆願書を送り付け、見放されている。
さらには、手に負えなくなった家臣のいずれかが薦めたものか酒を覚え、その量も日に日に増えていった。
忠長が駿河大納言と呼ばれるようになった寛永元年(1624)五月、信綱は千二百石の加増があり、都合二千石持ちとなった。このため急ぎ家臣を求めなければならなかった。禄高が上がるということは、その知行地を管理しなければならないことでもある。また、外出時における供回りの人数なども禄高ごとに規定されている。この時、和田理兵衛元清、岩上角右衛門持俊、石川作右衛門景盛、小沢仁右衛門一幸などが登用されている。
信綱が登用にあたって求めたのは内政力である。知行地は一国にまとまっているわけではない。地域によって領民の特色も変わってくる。それらに合わせながら管理するには有能の臣が必要となる。武力は二の次でもよかった。今の戦では武将の個人的な武力などは大勢に影響しないのだ。兵を指揮の通りに動かせる能力の方が重要だ。それ以外とすれば、天候や進路を正しく読む能力、櫓や堀などを素早く建造できる能力の方が戦には重要だろう。信綱はそう考えて様々な知識を学んできた。
この頃の信綱は忙しい合間を見つけては、西ノ丸改修工事の様子を見ることが習慣となっていた。これも学びの一環である。信綱の役宅には練り土を様々に工夫した土壁や、それぞれ塗料を変えた板壁の見本を置き、雨露にさらされるとどのようになるかの実験までしているほどだった。建築に関する知識欲は高い。この時の改修工事では居館のみではなく、西ノ丸大手橋架橋工事まで行われており、眺めているだけでも様々なことが学べ、楽しかったのだろう。
そんな一日、信綱が建材の置かれてある場所に差し掛かったその時だった。立て掛けられていた柱材などが音を立てて崩れた。その一つが激しく左の上腕部を打ち、信綱は弾かれるように倒れた。夥しい柱の下敷きにならなかったのは幸いというべきだろうか。命を失ってもおかしくない事故である。人々が集まってきた時には、信綱は意識が朦朧とした状態であった。医師が呼ばれ、急ぎ手当を受けたが、強く頭を打ったこと、左上腕部の骨折と肩の脱臼などによりしばらくは出仕できない状態が続いた。
再び出仕が叶うようになったのは、年が明けてからだ。周囲には全快したように振舞っていたが、実は左手には後遺症がある。上腕部の背面を通る神経を痛めたため、手首を反らせることと、指の付け根の関節を伸ばすことが自分の力ではできなくなってしまったのだ。このため、腕を上げると幽霊のように手首から先がだらりと垂れてしまうようになってしまった。信綱は周囲に気づかれぬよう、自然に左手をかばうような所作を工夫した。これに気づいた者は、ほとんどいなかった。