寛文十一年之事(かんぶんじゅういちねんのこと)

「懐かしい話を聞かせてもらい、実に楽しかった。しかし、父上が忍びの者を使っていたとは知らなんだ」

<輝綱様はお継ぎになられなかったのでございますか>

「うむ。存在すら知らなかった。知っておれば、もう少し楽ができたかもしれぬの」

<お聞きしたいことがございます。輝綱様はなぜに、父上様の後を継いで幕閣におなりにならなかったのですか>

「望んだからなれるというものではない。それこそが父上の目指したところ。まぁ、能力が足りなかったのだろうな。そもそもなりたいとも思わなんだが」

<それはなぜでございましょうか>

「弟が活躍しておれば充分。それに楽しそうな課題は、大方父上が解決してしまったからな。まぁ、それは冗談としても、藩の方が面白かったのは事実だ」

<輝綱様は、本当に川越がお好きですな。お祭りも欠かさず御覧になっておりましたし>

「あれは面白い祭りになるぞ。商人たちの意気込みがすごいからな」

<確かに。後のことでございますが、山車、屋台などの曳き物も豪華になりまして、天下祭りに負けぬ賑わいを見せるようになります>

「それは楽しみだ。だが、あれだろ。どうせ川越の商人たちは、江戸で作られた曳き物を譲り受けるのを嫌って、自前で作ることに執着してるんだろう」

<確かにそうでございますな。江戸の曳き物を譲り受け、天下祭りを模した祭りを始めるところもございますが、川越は自前にこだわり、独自に発展させておるようでございます>

「どうせ、俺たちは江戸に負けねぇ、川越のおかげで江戸が賑わえるんだ、くらいのことを口にしてるんだろうな。思えばそれこそ、父上が川越に根付かせた気風だろうな」

<確かに川越の発展は父上様の手腕が礎。そこには川越を江戸の守りとして、堅固なものにしようとのお考えがあったのでしょうか>

「それは確かだろうな。平林寺移転もその一つ。江戸に大事があった時、将軍を川越にお迎えし、江戸と川越の間に砦の役目を担える平林寺を置くことで守りを固めようとの意思であった」

<それでは、さぞかし移転も難しかったことでしょう>

「確かに難儀した。寺の新造は、砦にも使えるとの理由で認められぬのが定め。それを砦にするための移転というのだからな。生前から父上が内々に話を進めていなかったら、認められなかったであろうな」

<平林寺では父上様の墓石と、母上様の墓石が並んでおります。武将の墓としては珍しいと思いますが、これも父上様の望みでございますか>

「はっきりと聞いたことはない。しかし、父上がいつまでも母上のことを大切にしておったのは確か。そばで世話する者はおったが、ついに後添いをもらうことはなかった。毎月の命日に経を読むことは、どれだけ忙しくても忘れなかったしな。せめて、こちらでは睦まじく過ごしてほしいと思ったのだ。もっとも父上のこと、こちらでもご奉公しておるかもしれぬがな」

<左様でございますね。もっともそれは輝綱様も同じ。八江さまがお待ちでございます>

「それを聞いて安心した。実は少し不安でな。これから姉上にも会うだろう。そうなれば、まったくだらしない、まだまだですね、とお叱りを受けるのは必至。その時、あれが側にいてくれれば心強い」

<それでは参りますか>

「少しだけよいかな。なに時間は取らせない」

 

 

 寛文十一年(1672)十二月十二日、松平甲斐守輝綱は危篤となり、妻の伊都をはじめ家族に見守られていた。意識の戻らぬままに逝くだろうと誰もが覚悟した時、薄っすらと輝綱の目が開いた。

「伊都、おるか。お前は誰の変わりでもなく、紛れもない我が室。いつまでも待っておるゆえ、ゆっくりと来よ」

 輝綱はそれだけを口にすると、再び目を閉じた。焦点も合わぬ状態であるから、伊都の姿を確認できたかは怪しい。ただ、伊都には充分だった。伊都が泣くのを家族たちは初めて見た。輝綱の顔は穏やかになり、そのまま眠るように逝った。享年五三歳。

 幕府重鎮でないにも拘らず、川越藩主であり続けた稀有な人物であった。

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