其の十四 玉川上水

 正雪の事件を未然に防いだことは、問題のすべてを解決したことにはならなかった。このようなことが二度と起こらぬよう、万全の再発防止策を講じることが信綱たちには求められていた。

 今回の事件には、主に二つの背景があると考えられた。現状に不満を抱く牢人たちと、彼らを利用しようとする黒幕である。

 紀州徳川家の当主頼宣に、牢人たちを利用する意図があったのかどうかはわからない。ただこの事件で紀州家の提灯が使われようとしたことは事実であり、しかも正雪の遺品に頼宣の花押が付された判物が含まれていたことから、頼宣に対する疑惑は一気に高まることになった。正雪が書き置きの中で頼宣との関係を否定したことも、見ようによっては後ろ盾である頼宣をかばっているようにとれる。頼宣に対する判定は限りなく黒に近かった。

 難しいのは、御三家の中核をなす紀州家が事件に関与していることを明らかにしたとしても、それが最善の解決策とはならないことであった。これは高度に政治的な問題であり、外様大名の場合のように白黒をはっきりさせれば済むものではなく、それでもなおかつ何らかの決着はつけなければならなかった。

 この困難な役を買って出たのは忠勝であった。忠勝は頼宣の置かれている微妙な立場を理解しており、またこの種の問題が、手を着けなければどんどん悪い方へと進むものであることも熟知していた。正雪の遺品が江戸に届いた翌日には、忠勝は事態を収束させるため早くも頼宣との接触を開始した。

 忠勝は公正を期して、残る御三家の二人、尾張家と水戸家の当主にも立会いを求め、揃って紀州家の上屋敷を訪れた。もっとも、二人とも頼宣が謀反を画策しているという見方には否定的であった。

「仮に紀州殿が謀反を企てたとしても、牢人の力を借りるようなことがあるはずはない。この判物は偽物であろう」

尾張家の当主光友がつぶやいた。

「この花押は、私が知っている紀州殿のものと同じに見える。ただその色は明らかに違っている。紀州殿のものは青く、これは黒い」

水戸家の当主頼房も黒幕説を打ち消した。御三家の格式を傷つけまいとする意識も働いていたであろうが、この両家にさえ安易な批判を許さないほど紀州家は別格の存在であるともいえた。

 広間で待たされることしばし、貫禄たっぷりに頼宣が姿を現した。同席者は一様に手に汗を握った。乗寿などは緊張のあまり身体が動かなくなった。

 張りつめた空気の中、忠秋が頼宣に来訪の趣旨を説明し、正雪の所持していた判物を取り出して見せた。頼宣は口の端をぴくりと動かし、わずかな間沈黙を保っていたが、突然大声で笑い出した。

「これはめでたい。もしも謀反人が外様大名の花押を似せていたとしたら、今頃は疑心暗鬼のあまり上へ下への大騒ぎとなっていたであろう。私はもちろん彼らとの関わりはないから心配は無用であるが、公儀の方で私のことを疑うようであれば、自ら領地を返上してこの身を公儀に委ねてもよい。そうすれば問題は自ずと解決であろう」

光友と頼房が大げさに感心してみせた。

「さすがは紀州殿、南龍公の呼び名に違わず大胆な切り返しをされるものだ」

「まったくだ。進んで領地の返上を申し出るとは。こうなったら公儀の方でも度量の大きいところを示して、紀州殿に対する嫌疑を速やかに解くべきではないか」

形勢逆転と見た頼宣は、どっしりと腰を据えて幕閣たちに言って聞かせた。

「まあ、花押の偽造ともなれば、犯人たちは死罪を免れないであろうが、いつまた私に嫌疑がかからぬとも限らないから、犯人を一人か二人生かしておいて後日改めて詮議することにしたらよかろう」

信綱たちは肯定とも否定ともつかぬあいまいな態度をとった。忠勝はいつものように顔色を変えず、頼宣を真っ直ぐ見つめて言った。

「それでは、この判物は偽物ということでよろしゅうございますな。そうであれば、この先悪用されることがないよう、これは破棄することにいたしましょう」

言うが早いか、忠勝はその場で判物を引きちぎった。これで詮索は終わりとなった。落としどころとしてはぎりぎりの線であったろう。事件の真相にはふたがされた。

 帰りがけ、忠勝は後ろから直孝に話しかけた。

「掃部殿、紀州殿のことをどう思われるか?」

直孝は振り返って、忠勝にささやいた。

「あの調子だからこわいのだよ…」

忠勝は黙ってうなずいた。以来頼宣は一〇年間、江戸に留め置かれることになる。

 幕閣たちにとってもう一つの懸案である牢人の問題も、頼宣とは違った意味で難題であった。江戸の町には絶え間なく牢人が流れ込み、いかなる規制をしたとしてもそれを守らせることは難しい。信綱たちが牢人を放置していたのは、そうせざるを得ない状況にあったからともいえる。

 だが、今や手をこまねいてはいられなくなった。この種の事件は猛烈な感染力を持つ。いつ何時、同類の事件が引き起こされないとも限らないのである。一二月一〇日、信綱たち幕閣は白書院に集まり、牢人問題について議論を交わした。

 最も強硬な意見を述べたのは忠勝であった。以前から江戸にはびこる牢人どもを苦々しく感じていた忠勝は、すべての牢人を江戸から追い払うことを主張した。

「彼らが真っ先に狙うのは、将軍のお膝元である江戸の町である。牢人どもを江戸から追放し、正雪の残党を根絶やしにすれば、この問題はたちどころに解消するであろう」

極論ではあったが、信綱にもある程度は理解できた。戦国の時代が終わり、既に五〇年が経過している。その間の社会情勢はおおむね平穏のうちに推移し、兵士に対する需要は著しく減退している。牢人たちはその流れに背を向け、戦乱の世に逆戻りすることを期待しているに等しい。庶民は誰もそうなることを望んでおらず、信綱たちに至ってはそれを阻止する立場にいる。一度は彼ら牢人をすべて江戸から放逐し、彼らの悪しき願望を打ち砕き、時代が逆行するものではないことを悟らせる必要があるのではないかと、信綱自身考えていたのである。正之も忠勝の意見に同調した。

 真っ向からこれに反対したのは忠秋であった。普段は自分の考えをあまり表に出さない忠秋が、この時ばかりは周囲が驚くほど力強く反論した。

「せっかくの讃岐殿のご意見ではあるが、私には賛成いたしかねる。天下国家の運営は、そのような了見の狭いことではよくないと考えるからである。

 そもそも牢人たちはなぜ江戸に集まるのか?彼らも好き好んで牢人をしている訳ではない。国許に仕官のあてがなく、さりとて適当な職もないからはるばる江戸までやって来るのである。江戸には諸国の大名が集まっており、商人や職人も大勢いる。仕官をするにしろ職にありつくにしろ、江戸にいる方が牢人たちにとって都合がよいのである。

 牢人たちを江戸から追い払えば、彼らは職に就く機会を奪われ生計を立てる手段を失うことになる。本国に帰ったところでもちろん職はない。山賊か追いはぎにでもなるのが関の山である。各々方、考えていただきたい。日本全土、広い意味ですべてが将軍家のものではないか。牢人どもが日本の片隅で悪事を働いたとしても、上様の悩みの種となることに変わりはない。むしろ全国に不安が広がることで、公儀はお粗末な仕置きしかできないと見限られ、事態をことさら悪化させることになる。

 我々がなすべきことは牢人を排斥することではなく、牢人の数そのものを減らすことである。彼らに就職の世話をし、誰もが安心して暮らせる世の中にすることである。それでこそ天下の仁政として、公儀は人々から慕われ、頼られる存在になるであろう」

 すかさず直孝が手を打って忠秋に賛成した。

「豊後殿の言うとおり、諸国の民はことごとく天下の臣民である。我々が牢人を江戸から追い払えば、公儀は人々から、『正雪ごときに懲りて、同じ臣民であるはずの諸国の民に災厄をまき散らした』と非難されるであろう。『牢人どもの身を立たなくした』とも評されるかもしれない。しかも力を持たない牢人を追放したところで、江戸の状況はさして好転するものでもない。それどころか、公儀に対する恨みがつのり、危険はかえって増大する恐れがある。そのような仕置は決してすべきでない。

 彼らが徒党を組み悪事をたくらんだとしても、今回のように速やかに追捕してしまえば済むことではないか。もっと大きく構えて、天下国家のためになることを実践すべきであろう」

 忠勝を含め、この正論に誰も異を唱えられなかった。忠秋の意見に感服したからではない。忠秋が何を思ってこんな話を持ち出したのか、みな痛いほどわかっていたからである。

 忠秋ほど純粋に仕置のことを考えて行動している者はいなかった。天下の政道はいかにあるべきか、忠秋は愚直にそれを突き詰めようとしていた。忠秋にとって、仕置とは民衆を従わせる手段ではなく、人々に幸せをもたらすための責務であった。道に捨て子がいれば、忠秋は必ずその子を拾って帰った。

「子を捨てたくて捨てる親などいない。そうせざるを得ないようにしているのは我々の拙い仕置である。捨て子を拾うのはせめてもの罪滅ぼしだ」

 忠秋は捨て子を自宅で養育し、長ずれば男子には職を与え、女子には嫁入り先を見つけた。その数延べ数十人に達したという。そんな忠秋の実直な性格を知っていたからこそ、民衆は家光の死に際しても忠秋に殉死を迫らなかったのである。

 牢人対策は結局忠秋の意見が通った。理想の政治を体現した忠秋の主張を、否定できる者などいなかった。対策の焦点は、牢人の数をいかにして減らすかという一点に絞られた。

 翌日、信綱たちは末期養子の規制を緩めることにした。「末期養子」とは臨終の際に急遽定められた養子のことをいうが、これまで末期養子は原則禁止とされ、大名家に跡継ぎのないまま当主が死去するとその家は取り潰しにされていた。末期養子を認めることで、大名家は存続の道が開け、新たな牢人が生まれずに済むと、幕閣たちは考えたのであった。

 牢人を積極的に減らすことにも全力が注がれた。とりわけ重視されたのが仕官先の斡旋であった。幕閣たちが総出で、牢人を雇ってくれそうな大名家を探し回った。町奉行の石谷貞清は、在任中の九年間で七〇〇人、退任後にも三〇〇人、合計一〇〇〇人に及ぶ牢人の世話をした。島原一揆鎮圧の副使であった戸田氏鉄は、三〇人の牢人を引き受けてもらうよう貞清に頼み込まれた。

 徳川政権が長い間命脈を保ち得たのは、歴史の表舞台に現われないこうした地道な活動が民衆に支持されたからにほかならない。この時も、牢人を切り捨てることなく救済する幕閣たちの前向きな姿勢が人々の共感を呼び、江戸の治安は見違えるように良くなっていった。

「だが…」

信綱の顔色はさえなかった。それもそのはずである。対策がいかに功を奏したところで、絶えず江戸に流れ込む牢人すべての就職先を見つけることは不可能だからである。

 仕官にありつけなかった牢人はますます先鋭化し、ささいなことで騒動を巻き起こす。彼らが真っ先に思い浮かべるのは決まって放火である。多大な危険を伴わず、大混乱を誘発できるからである。対する江戸の町は消火に適した造りにはなっていない。爆発的な人口増加により無秩序に家が建ち並び、延焼防止のための都市計画にまで手が回らないのである。飲み水にも事欠くありさまであるから、防火用水ももちろんなきに等しい。

 江戸城の内情も似たり寄ったりである。湧水のおかげで比較的水を得やすいとはいえ、消火をするのに十分なほどは水が湧いていない。市街地の火災が飛び火したら、それを鎮火する手立てがないのである。万が一城が包囲され、籠城するはめにでもなればそれこそ一大事である。拡張に継ぐ拡張で城内は以前と比べものにならないくらい多くの人間が働いており、湧水だけで全員の必要量をまかなうことができなくなっている。行き着く先は水不足による不本意な降伏である。

 理想を追求するだけでは政治は用をなさない。現実に起こり得る問題にどう対処するかが厳しく問われることになる。牢人を抱え込んだ代償として放火の危険と隣り合わせになっている江戸の町で、水を確保することは幕府にとって最優先の課題となっていた。だがその見通しは立っていない。信綱の浮かない日々が続いた。

 年が明けて慶安五(一六五二)年正月、信綱は家綱から呼び出された。

(さては牢人問題についてのご下問か、それとも給水対策の遅れのとがめか…?)

緊張した面持ちで信綱が参上すると、そこには家綱と忠勝が待ち受けていた。信綱が座るのを見計らって、忠勝が話を切り出した。

「伊豆殿よ、このたびの正雪の事件では本当によい働きをしたな。上様もそのことを認められ、伊豆殿に加増をしたいと仰せられるのだ」

顔にまだあどけなさを残す家綱は、親譲りの負けん気を目元に漂わせながら忠勝の話を継いだ。

「正雪の事件を首尾良く片づけることができたのは、ひとえに伊豆守の働きによる。おかげで公儀は安泰、下々の者も安心して暮らしている。その働きは一〇万石にも値しよう。褒美に加増して遣わす。どこなりと望みの土地を申せ」

(そういうことであったか…)

信綱はほっと胸をなでおろし、そして深々と頭を下げた。

「身にあまる光栄とは存じますが、加増につきましてはご遠慮申し上げたいと存じます」

「それはまたどうしてだ」

忠勝が心外な顔をして信綱に尋ねた。

「正雪の陰謀を事前に知り得たのは、たまたま私のもとに訴人が訪れたからに過ぎません。事件を未然に防ぎ得たのは、公儀が総力を結集して解決に取り組んだからでございます。それを私だけが加増されますと、『伊豆守は上様が幼いのをいいことに、自分だけで手柄を独占した』と恨まれてしまうでしょう」

信綱のもっともな答えに、忠勝はうーんとうなった。

「たまたま訪れたと伊豆殿は言うが、伊豆殿の屋敷に訴人が殺到したのは偶然ではあるまい。事件を的確に処理できるのは伊豆殿しかいないと、多くの者が認めた結果であり、事実その期待に伊豆殿は見事に応えた。ここは上様のお気持ちを汲んで、喜んで加増に応じるべきではないか」

「そうまで言っていただけるとは、ありがたい限りでございます。そのお気遣いだけで十分ではございますが、もしお聞き届けくださるのであれば、恐れながら野火留の地をいただきとうございます」

信綱は思い切って答えた。

「野火留…、それはどこにあるのだ?」

「武州新座郡、武蔵野の中にある、茅原以外に何もない土地でございます」

「そのような場所を拝領したところで、年貢米は一粒も手に入るまい。それでよいのか。それとも伊豆殿は何か別の使い道を考えておるのか?」

不審に思って忠勝が問いただした。

「武州岩付にある菩提平林寺を、そこに移したいと存じます」

信綱の返答に、忠勝が思わずひざをたたいた。

「なるほど、それなら合点がいく。寺の境内であれば無高の土地であっても問題はないし、最初から寄進するつもりなら拝領したところで誰からもねたまれないであろうからな。

 上様、そういうことでよろしゅうございますか」

「さようにいたせ」

家綱も満足げに答えた。

 そうこうしているうちにも江戸の町は雪だるま式に膨張を続け、今や町人地だけでなく武家地ですら居住空間が不足するありさまとなっていた。幕閣たちにとって、自らの寄って立つ基盤さえ怪しくなってきたのである。

 八月、幕府は幕臣たちの持ち家調査を実施し、その結果、屋敷を持たない六〇〇人余りの旗本の存在を改めて浮き彫りにした。解消策として、幕府は小身者の下屋敷を収用して四〇〇人の旗本に分け与え、足りない分は武家地の拡張でまかなった。だが、そのことによって江戸南西部に給水していたため池の水源が急激に汚染されることになり、ため池は飲料水として使い物にならなくなってしまった。

 これは由々しきことであった。家光の頃から懸案となっていた水の問題をなおざりにしてきたつけがたまり、ついに収拾困難な事態にまで発展させてしまったのである。一刻も早く対策を施さなければ、環境は悪化する一方である。思い切った行動をとる必要があった。とはいえ、既にあらゆる角度から解決の道を探っていた幕閣たちの間には、深刻な手詰まり感が漂っていた。

「江戸北東部に給水している上水は、水量的に限界のためこれ以上給水域を広げることは難しい」

「荒川は低いところを流れているため、汲み上げでもしない限り給水は困難である。しかも舟運に利用されているため、水質にも難がある」

「飲み水が足りないだけであれば、解決はさして難しくはない。水売りから買って手に入れればよいし、現にそうしている者も多い。ところが防火用水となると、金まで払って用意する者はいない。雨水を貯蔵させるにしても、火災が多発する冬は雨の降らない日が続き、消火できるほど水は貯まらない」

もはや万策尽きた観があった。

 物事がうまくいかない時は、何をやってもうまくいかないものである。信綱の個人的な案件である平林寺の移転話さえ、思うように進んでいなかった。

 野火留の地を境内として寄進したいという信綱の申し入れに対し、平林寺からの返答は、

「池水澄むところ、月至らざるなし」

というものであった。「水さえあればどこへでも行く」という肯定的な言い回しの内に、水のない野火留への移転を遠回しに否定する意味合いが込められていた。逆に言えば、給水設備さえ整えば移転の障害はなくなるはずであるが、野火留へ水を通わせることは江戸の町以上に難しいことであった。河川から遠く離れているうえに、井戸を掘っても地下水まで深すぎて届かないからである。

「また水の問題に突き当たったか…」

返答を聞いた信綱はがっかりした。同じ道をぐるぐると廻っているような虚しさを、信綱は感じていた。

 そうした中、かねてから心配されていたことがついに現実のものとなった。九月一三日、牢人どもの謀反が再び発覚したのである。別木庄左衛門ら数人の牢人が正雪の弔い合戦を企て、二日後に予定されていた崇源院(秀忠夫人お江)二七回忌の法要に乗じて僧上寺に放火し、駆けつけた信綱ら幕閣を撃ち殺そうとしたのである。暗殺に成功したあかつきには余勢を駆って町に火を放ち、一気に無政府状態を作り出して戦乱の時代を再現しようという魂胆であった。

 幸いこの計画も、信綱への通報により辛うじて未然に防ぐことができた。が、このような対応に限界があることは誰の目にも明らかであった。事件後初の寄合は激しく紛糾した。

「毎回毎回、謀反の動きを完璧に抑え切れるものではない。正雪の時ですら、慎重さを欠いた丸橋忠弥の身辺から密告者が出なければ、あわや大惨事となるところであった」

「だから牢人は放逐してしまった方がよいと、あれほど言ったのだ」

「牢人対策はうまくいっている。一部のならず者の不行跡を理由に、これまで成し遂げたことをないがしろにすべきではない」

「目下懸案となっているのは牢人のことではなく飲料水のことであり、防火用水のことである。牢人を追放したとしても放火の危険はなくならないし、失火を原因とする火事ならなおのこと、いつ起きてもおかしくはない。牢人の数が多かろうと少なかろうと、水の問題はそれ自体解決せねばならない」

「解決するすべがないから、今こうして悩んでいるのではないか」

険悪な雰囲気が醸成されるばかりで、議論の中身はいつまでたっても進展がなかった。徒労に終わった評定の果て、ぐったりと疲れた信綱が夜遅く御用部屋へ戻ってきた。そこは老中の執務室になっており、机の上には信綱の決裁を待つ書類が山と積まれていた。

 何かにつけ文書にする時代である。行事の予定、大名からの陳情、今年の作柄、旗本の知行割り、あらゆる事案が文書の形で老中に上げられる。信綱はそのすべてに目を通し、承認を与え、新たな決断を下さなければならない。水の問題だけで四苦八苦というのに、そんなことにはお構いなしに書類は次々と上がってくる。しかも今日はそれが前の日の倍以上に膨れ上がっているように見える。信綱はそれを恨めしそうに眺めた。

 その中でひときわ目を引く書類の束を、信綱は手に取った。巻物状になったそれは前日まではなかったもので、それが一度に一〇巻以上も置かれたことで書類の山が格段に増えたように見えたのであった。ひもをほどいて開いてみると、どうやら土地の平面図らしく、至るところに地名や測量した数字の書き込みがしてあった。

「これは…」

暗い灯明の下、信綱は食い入るように巻物を見た。その作図の出来はすばらしく、すっきりとした描線と均整のとれた構図に作者の几帳面さが表れていた。図面は相当広い範囲にわたっており、全巻を通して地続きとなるように描かれていた。書き込みは江戸の西のはずれの四谷にはじまり、そこから西へ西へと続き、武蔵野を突き抜けた川のほとりで終わっていた。川の横には大きく「多摩川」と記されていた。

 信綱ははっとした。体中の毛が逆立つのがわかった。全神経を脳に集中し、めまぐるしく頭を回転させた。やがて顔を上げた信綱は、図面を握ったまますっと立ち上がった。

 翌日、信綱によって集められた幕閣たちが家綱の前で一堂に会した。召集の目的ははっきりとは告げられておらず、幕閣たちは互いに首をかしげながら何が起こるのかを待った。座敷の中央には例の図面が広げられ、そのすぐ横には江戸町奉行の神尾元勝が控えていた。

「それでははじめてくれ」

全員が集まったのを見計らって、信綱が元勝を促した。「はっ」と答えた元勝は、緊張のため口ごもりながら説明をはじめた。

「この図面は、私が麹町芝口の町人に作成させたものです。一言で言えば江戸の給水計画図でございます。二年前、大猷院(家光)様から江戸の水不足を解消するようにとのご指図をいただき、その具体策を何人かに検討させておりましたところ、普請請負業を営む庄右衛門・清右衛門と申す兄弟から多摩川の水を引いてはどうかと提案があり、その可能性に着目した私は彼らに実際の測量をさせ、一年かけて計画図を作らせ、一通りその図面を調べたうえで実現の見込みありと判断し、ご老中様方に上申したのでございます」

いささかの気負いを含んだ元勝の話を、落ち着いた口調の信綱が継いだ。

「このところ我々は水の問題に悩まされ続けている。それを解消することがいかに困難か、身にしみてわかっている。生半可な方法では解決に及ばないということだ。降って湧いたこの提案は何か突拍子もないものに見えるかもしれないが、我々に現状を打開する有力な手がかりを与えてくれている。

 この提案を、まずは各々方がどう思われるか、推進すべきか、はたまた手を着けずにおくべきか、率直なご意見をうかがいたい」

とまどいを隠せない幕閣たちを代弁して、忠勝が口を開いた。

「意見を述べよ、と言われても、今はじめて聞いた話の良し悪しを軽々しく口にすることはできない」

渋い顔の忠勝に、信綱はうなずいて答えた。

「それはもちろんのこと、実際に使い物になるかどうかは図面をしっかりと調べ、その後専門家に現地を精査させる必要があります。

 だが、我々に与えられた時間は限られています。その少ない時間を有効に使うため、まずは総意を固め、実行するか否かを決めてから精査に入るべきではないかと考えております」

信綱は全員に向き直り、さらに話を続けた。

「多摩川までの総延長は一〇里余り、実際途方もない距離である。当然工期はかなりの日数に及ぶ。放火に対する当面の措置とはならないということだ。工費も莫大な金額に上る。おそらく数千両という単位になろう。それでも私は行う価値があると思っている。現時点で、これ以上優れた解決策は見当たらないからである。このことに関して各々方からも意見を聞き、最終的に賛成ということで話がまとまれば、すぐにでも実地検分にかかりたいと考えている」

直孝は巻物を手に取り、図面をにらみながらいぶかしげに尋ねた。

「伊豆殿は簡単に言うが、工期や工費以前に問題にすべきことがあろう。何よりもまず、この普請が現在の技術水準で実現可能なものなのかどうかだ。図面を一目見ればわかるとおり、総延長に対する高低差があまりにも小さい。おそらく測量に気の遠くなるほどの精度が要求されるであろう。しかも自然の地形が相手であるから、図面上に現われない細かな起伏を何度も横切らなければならなくなる。そういった悪条件を克服して、一〇里以上もの通水を成し遂げることができるものなのか。そもそも実現の可能性を見極められる専門家からしていないのではないか」

信綱はためらうことなく答えた

「技術的なことについて言えば、現にこれだけ精細な図面を作れる者がいるのですから問題はないと考えます。また、実地検分する実力を備えた専門家は存在します。その者は相当な実績も有しております。正確にはあと少しで実績になると言うべきでしょうが、多摩川の引水など問題にしないほど高度な普請を実現できる人物が公儀にはおります」

自信に満ちた信綱を見て、忠勝がつぶやいた。

「半十郎殿か…」

信綱は首を大きく縦に振った。

「そのとおり。現在佳境に差しかかっている利根川の普請を推し進めている伊奈半十郎忠治殿こそ、多摩川からの引水を調査できるただ一人の人物と言えるでしょう」

そこまで黙って聞いていた忠秋が、急に口を差しはさんだ。

「無茶な話だ。半十郎殿は今まさに利根川の普請の総仕上げにかかっている。一刻たりとも現場を離れることはできないはず。下手に利根川から引き離しでもしたら、多摩川の普請と共倒れになりかねない。そんな危険を犯してまで多摩川の普請にこだわるべきではない」

議論に値しないと言わんばかりの忠秋の口ぶりに、信綱はかすかなため息を漏らした。

 「利根川の普請」とは、幕府が三〇年以上も前から取り組んでいる利根川の改修工事のことである。それは幕府の威信をかけた国家的な大事業であった。奥州からもたらされる大量の米を江戸へ直接運び入れるため、鹿島灘に注ぐ常陸川を使って一〇〇〇俵積みの船を遡上させ、関宿で太日川に川替えをして江戸湾へ下らせようという計画である。それには常陸川と太日川を上流でつなぎ合わせ、なおかつ双方の流水量を飛躍的に増大させる必要があった。利根川はその給水源としての役割を期待されたのである。

 一口に改修といっても、その難易度たるや新河岸川の比ではない。一〇〇〇俵もの米俵を積んだ大船を滞りなく遡行させるには、水源となる利根川をはるか東まで延々と引き込み、常陸川と太日川へ等分に水が落ちるようにしなければならない。流れが一方に偏れば、水の少ない方は船が通れず、多い方は下流域が洪水にさらされる。そうでなくても、関東きっての暴れ川である利根川は増水するたびに大量の土砂を押し流し、容易に川筋を変えてしまう。そのため普請は最初から困難を極めていた。

 この事業を一手に引き受けていたのが、関東代官頭の伊奈半十郎忠治である。忠治は事業の開始当初から陣頭に立ち、現場をぐいぐいと引っ張ってきた。川筋が不安定と見るや台地を掘削して頑丈な水路を築き、渡良瀬川や鬼怒川など合流する主要な河川にも大々的な改修を加え、さらには利根川の瀬替えを何度となく行って荒れ狂う奔流を巧みに抑え込んだ。その甲斐あって、大自然との格闘もついに終盤を迎えることになり、残すは利根川と常陸川を直結させる赤堀川の開削のみとなっていた。とはいえ、この部分が普請全体を通じて最大の難関であることは疑いなく、忠秋が忠治のことを心配するのは当然といえた。

 信綱の提案にさまざまな異論が持ち上がり、果ては忠治の招致まで問題にされたことで、多摩川からの給水は風前の灯となった。そこへ、それまで黙っていた正之がにわかに発言を求めた。

「各々方の意見はもっともである。多摩川から水を引くことは不可能に近い。

 とはいえ、ここで伊豆殿の提案を否定したとしたところで、何の解決にもなりはしない。伊豆殿とて無理を承知でこの話をしているのであり、たとえわずかでも望みがあるのならそれを実行に移そうではないかと我々に訴えかけているのであろう。

 半十郎殿は目下、利根川の普請の中でも一番の難所に挑んでいる。その行方には公儀としても並々ならぬ関心を寄せている。だが、江戸への給水がそれ以上に重要であることは、ここにいる誰もが知っていることである。

 各々方、いかがでござろう。ここは半十郎殿に一〇日ほど時間を割いてもらい、多摩川の計画を精査してもらっては。それができるのは半十郎殿しかいないのだし、半十郎殿の方でも自分の知識と経験が江戸の人々の役に立つのであれば、これに勝る喜びはないであろう」

 幕閣たちは口をつぐんだ。正之の言うことはもっともであったが、それでも危険が大きすぎると感じていたからである。いずれにせよ厳しい選択であった。

「肥後守(正之)の言うとおりにせい」

それまでやり取りを見守っていた家綱が突然口を開いた。絶妙の間合いであった。家綱は自分が決断を下せば幕閣たちの覚悟を引き出せるであろうと考えたのである。実際これで最終的な方針が固まった。急転直下、多摩川からの給水は実現に向けて動き出した。

 承応元年(慶安五年から改元)一二月、利根川の現場から忠治が到着した。真っ黒に日焼けした顔と、それとは対照的な白い髪が現場の苦労を物語っていた。

「半十郎殿、お久しぶりでござる。はるばる江戸までようこそお越しくだされた」

信綱のねぎらいの言葉には耳を貸さず、忠治はつかつかと直孝に歩み寄って言った。

「掃部殿、このたびのお召しは、利根川の現状を理解したうえでのことと受け取ってよろしいのですな」

直孝は面くらいながらも忠治に向かって答えた。

「さよう、半十郎殿の置かれている立場は皆よくわかっておる。そのうえで半十郎殿に江戸の事情を察してほしいのだ。江戸の給水はそれほどまでに逼迫している。そしてこの問題を解決できるのは半十郎殿しかいないのだ」

忠治は黙ってうなずいた。眉間のしわが、依然として納得はしていないと主張していた。無理もない。利根川の普請が一番大事な時に、わざわざ江戸まで呼び出されたのである。現場を知らないにもほどがあると、忠治は言いたかったのであった。

 忠治が不機嫌なのはそのせいばかりではなかった。忠治は信綱にわだかまりを感じていた。本来ならば信綱の方が自分に仕えていたはず、というわだかまりであった。信綱の生家である大河内家は代々伊奈家に仕えていた。伊奈家は信綱にとって主家筋に当たっていたのである。信綱自身、六歳になるまで四歳年上の忠治に遊んでもらっていた。年端のいかない信綱は、忠治から見れば遊び仲間の数にすら入らない存在であった。そんな信綱から呼びつけられたことに、忠治は腹立たしさを隠せなかったのである。

 不満をあらわにする忠治を気にかける様子もなく、信綱はこれまでの経緯を淡々と忠治に説明した。厳しい顔の忠治は微動だにせずそれを聞いた。説明が終わるや、忠治は深く息を吸い込んで幕閣たちに告げた。

「皆様ご承知のとおり、利根川の普請は今や最大の山場に差しかかっております。これまで我々は赤堀川の開削に挑んでは敗れてまいりました。今回の挑戦をもってすべてのことを終わりにしたいと考えております。私は利根川の普請に、全身全霊を傾けて取り組む所存でおります。

 明朝より多摩川の実地検分に取りかかります。調査が済み次第、利根川に戻ります」

闘志をむき出しにする忠治に、幕閣たちは何も言葉をかけられなかった。

 翌朝早く、検分が開始された。忠治を含む三人が立会人となり、発案者の庄右衛門・清右衛門兄弟を先頭に取水口となる武州羽村を出発した。一行は足元を気にしながら、予定された上水筋を下っていった。

 道すがら、忠治は庄右衛門に厳しい質問を発し、庄右衛門は言葉少なにそれに応じた。庄右衛門と清右衛門は共同で請負業を営んでいるとはいうものの、それぞれの役割は明確に違っていた。弟の清右衛門は人足や資材、資金の手配を受け持ち、測量については兄の庄右衛門に任せきりにしていた。対する庄右衛門は根っからの職人で、話しかけられてもめったに口をきかず、図面をにらみながら忠治たちを指で案内した。

 検分は思いのほか速く進んだ。経験豊かな忠治は危険と思われる箇所についてのみ質問をし、無駄なことは一切聞かなかったからである。庄右衛門の方も忠治の言わんとすることをよく飲み込み、難しい質問にも明確に答えていった。自信に満ちたその態度は、庄右衛門が本物であることを表していた。江戸に近づくにつれ、忠治の表情はだんだんと和らいでいった。

 検分は予定より三日早く、六日間で終えた。四谷に到着した忠治はその日のうちに幕閣たちへ報告した。

「よくできた計画です。取水口付近も、川の曲線をうまく利用した設計となっています。勾配の処理も申し分ありません。何か所か普請に手間取りそうなところはありますが、庄右衛門なら問題なく切り抜けられるでしょう」

 最後に忠治の口から笑みがこぼれた。幕閣たちはほっとした。これで江戸の町への給水はどうにか間に合いそうだという安堵感に包まれていた。

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