浪人蜂起之事(ろうにんほうきのこと)

 正保四年(1647)三月末、信綱は人払いをしたうえで奥村権之丞と対面していた。下屋敷の一室である。公務を行う上屋敷とは違い、私的な用向きに使用している下屋敷は人の出入りも少なく、静かであった。そのために、生来病弱な三女の多阿の療養にも使われているほどだった。夜更けともなれば、実に静かである。

「張孔堂に主なる者たちが集まった由」

 張孔堂とは、軍学者由比正雪の道場で、牛込にあった。この由比正雪に怪しき動きありとして、信綱は監視させていたのであった。島原から帰還して直(じき)のことであるから、もう六年ほどになる。

 由比正雪という人物は何かと胡散臭さが目立つ。駿河で紺屋を営む岡村彌右衛門の次男として生まれたといわれている。幼少のころ家業を嫌ったため、寺に入れられたが、僧になることも嫌った。仕方なく家に戻されたが、家業を手伝うでもない。たまたま実家近くに住む浪人から軍記や歴史書の講義を受け、太平記にのめりこんだ。初めて夢中になれるものを見つけた正雪は、ひたすら没頭し、やがて自らを楠木正成の生まれ変わりと妄信するようになっていった。

 十七歳で江戸に出、親類の菓子屋に奉公し、婿入りまでしたが、家業には手もつかず、ふらふらとしては様々な道場に顔を出していたという。

 やがて、正雪の人生が変わる。楠木正成の子孫を名乗る軍学家、楠不傳(くすのきふでん)を知ったのだ。不傳の門下に入った正雪は、すぐに頭角を現す。やがて不傳が亡くなるとくなると、不傳の妹を妻とし、楠流軍学の正統を得たのだった。しかし、不傳の死に関しては、正雪が企んだものとも噂されている。

 権之丞の手のが調べたところによると、不傳が体調を崩したのは、正雪がそばに付くようになってからだという。その治療のための医者を紹介したのも正雪だった。さらに、治療費が嵩(かさ)み、支払いが苦しくなった時、立て替え続けたのも正雪だった。このため、不傳は正雪に対し、否やを告げられない間柄になっていったという。不傳は正雪を妹の婿とし、正式な後継者として指名した。不傳が息を引き取ったのは、それから程なくのことである。

 信綱が気にしたのは、正雪が紀州公、つまり御三家の一角、紀州藩主徳川頼宜の名を用いて浪人たちを集めていたためである。江戸詰めの紀州藩士とは実際に関りがあるようだが、頼宣自身が正雪とつながっているのかは、まだ定かではない。頼宜自身、恣意的な行為で自らを注目させる癖があり、問題視されることも多い。巷間、「紀州公は将軍を狙っている」との噂も流れており、そのために有力な士を求めているとも言われている。この風評を正雪が利用しているだけとも思われるが、はっきりしない間は安心できない。

 その正雪が、主だった者たちを自邸に集めたという。権之丞によれば、張孔堂裏にある正雪邸に集った者は、柴田三郎兵衛、丸橋忠弥、佐原十兵衛、永山兵左衛門、鵜野九郎右衛門、坪内佐司馬、金井半兵衛、熊谷三郎兵衛、有竹作右衛門、加藤市右衛門、吉田初右衛門、松田彌五七、平見次郎右衛門、本吉新八、有竹八蔵の十五名。邸から出てきたときには、一様にみな顔が紅潮していたという。

「証拠を固め、同志の者ら一絡めに召捕る機会を狙うこととする。今一層核心に迫るべし。これに注力いたせ」

 翌日、登城した信綱は将軍御側衆の中根壱岐守正盛と会った。正盛は、信綱の私設甲賀組に興味を示し、自身も隠密組織を整備した人物である。信綱は、正盛に紀州公と正雪の関係について探るよう依頼していたのだ。この時点で、正盛の組織は信綱のそれを凌駕する規模になっている。江戸府内を中心とする信綱の組織に対し、正盛のそれはすでに全国規模になっていた。だが、そんな正盛の組織であっても、未だはっきりとしたことが掴めずにいた。実に疑わしい素振りは見られる。だが、確証は掴めないままに時は過ぎていった。 

 

 

 時代は確実に変わろうとしていた。

 慶安元年(1648)六月二二日、松平右衛門大夫正綱がこの世を去った。家康、秀忠、家光に仕え、勘定方としてその才をいかんなく発揮した人物であった。後年は家康の眠る日光までの街道筋に私財をもって杉を植え、現代にも残る並木を作っている。信綱のことも、養父として陰に陽に支えてきた。正綱の理解がなければ今の信綱、ひいては今の幕閣は存在していないといってもいいだろう。

 つい一月前まで、家康の三三回忌行事のために日光で忙しくしていたのだが、六月十五日頃から食欲がなくなった。そのまま衰弱していき、帰らぬ人となってしまった。

 この直後、将軍家光の五男である鶴松が病を得、七月四日に亡くなったため、正綱の遺領についての沙汰は捨て置かれていたが、七月十一日になって家光は信綱を呼んだ。

「長沢松平を継ぎ、右衛門大夫が遺領をも合わせ治めよ」

 家光は、信綱に正綱の跡を継がせようとした。

「恐れながら申し上げます。義父に実の子ができた時より、別家を立て申したが、それは跡を継ぐ意思はないことを示すためでございます。この心今も変わらざれば、ご辞退申し上げます」

「伊豆であればこそ長沢松平も安泰となる。やってくれぬか」

 いつもならば家光の意を誰よりも早く、正確につかむため全力を傾ける信綱だったが、こればかりは頑なだった。その意思もないのに正綱の跡を信綱が狙っていると邪推され、正綱の長男利綱付の家臣らと信綱の家臣らの間にいざこざが生じてしまった。利綱が亡くなった後も、今度は正綱の次男、備前守隆綱付の家臣らと諍いが続いてしまっていたのだ。

「申し訳ございませぬ。これを機会に姓も大河内と改め、身の丈に合わせたいとも願っております」

「分かった。玉縄の遺領は備前守に任せよう。その代わり、松平の姓はそのままにいたせ」

 こうして、正綱の跡は隆綱が継ぐこととなり、後に正信と名を改めている。

 

 

 その時は、確実に近づいていた。

 慶安四年(1651)正月、髷を整えさせた家光は、鏡に映った己の顔を認めて愕然とした。そこには頬がこけ、肌には艶も張りもなく、目に濁りさえ感じられる見知らぬ顔が映っていたのだ。まるでどこぞの翁である。この時詠んだといわれる歌が残っている。

鏡には知らぬ翁の影とめて もとの姿はいづち行くらん

 家光はこの頃、うつ傾向がぶり返しており、そのため食欲が低下していた。うつ特有の、自己に対する否定的な認知の仕方も影響しているだろう。そうであれば、客観的にはそこまでの衰えではないのかもしれない。だが、この時受けた衝撃と絶望感のほどは、歌を通してにじみ出ている。

 家光は信綱を呼び、人払いを命じた。

「伊豆よ、余の顔を見よ。どうじゃ」

「お疲れのご様子でございます。なんぞ心障りがございましたら、この伊豆めをお召しいただき、ご安心してお休みくださいませ」

「疲れか、そうかもしれぬ。だがな、それだけではなかろう」

 家光の声は暗く、か細かった。

「心障りのことと言えば大納言のことだ。あれはまだ十一。将軍として学ばねばならぬことが、まだまだ多い。伊豆、頼む。政を滞らせることないよう、力を貸してくれ」

「承知仕ってございます。どうぞご安心いただき、早い回復をお祈りいたしております」

 信綱は退室すると小姓に用件が済んだことを告げた。

「公方様は、気落ち召されておいでのようだ。くれぐれも頼んだぞ。何かあれば、すぐにこの伊豆を呼べ」

 声をかけられた小姓は、まだ若年だった。この若者にしてみれば、信綱は小姓から老中筆頭にまで駆け上った憧れの人である。その信綱から直接声をかけられただけで心躍る思いであるのに、「頼んだぞ」とまで言われたのだ。まさに天にも昇る気持ちである。しかし、同時に家光の具合が悪いこと、家光を助け守るという重責が明らかにされ、緊張と不安も襲ってくる。収拾のつかぬ自分をどうにか押さえつけ、ぎこちなく一礼するだけで精一杯な状態だった。

 

 

「何卒(なにとぞ)手をお貸しくだされ」

 九尺二間の棟割長屋。ほぼ六畳と同じくらいの広さだが、竃(へっつい)や水瓶が置かれた土間があり、寝食の場は四畳半程度。窓はなく、日の明かりは入り口の腰高障子からのみだ。その薄暗い部屋の中で、客人が部屋の主に平伏している。

 客人の名は柴田三郎兵衛。三郎兵衛は本郷大超坂、現代の妻恋坂の上に軍学の道場を構えている。由比正雪の同士である。部屋の主である奥村八郎右衛門に対し、同じく同士の丸橋忠弥の後見役として彼を補佐し、引き立ててほしいと正雪が望み、八郎右衛門の朋友である三郎兵衛に説得させるために差し向けたのだった。

「張孔堂殿の志は承知。されど、何故(なにゆえ)に忠弥の補佐などと申されるか。張孔堂殿はそれがしよりも忠弥を大事とお考えか」

 奥村八郎右衛門は、信綱に仕える奥村権之丞の弟であり、権之丞がまとめをしている信綱の私設甲賀組の一人であった。

 忍の技に陽忍というものがある。忍術書によれば、姿を隠さずしてもっぱら智謀を働かせ、目的を達する術となる。その場にいてもよい人物として、日常生活を送りながら情報収集などを行うものであり、設定された人物の生まれてからこれまでをすべて身につけ、その人物になりきる方法と、自分の素性をそのまま使い、重要事のみを偽る方法がある。

 八郎右衛門は、後者を選んで江戸に潜伏した。兄が老中筆頭の松平伊豆守信綱に仕えていることも公表しており、自身も信綱に仕え江戸留守居役を務めていたことも明かしている。ただし、故(ゆえ)あって牢人となっている。その故とは何かを明かすことはお許しいただきたいが、それによって老中幕閣に恨みがある。これが八郎右衛門の設定であった。

 柴田三郎兵衛とは弓術を通して知り合った。流派は違う。三郎兵衛が北条安房守の流れである日置流。一方、八郎右衛門は大村流である。これも八郎右衛門の用意した設定である。同じ流派の方が近づきやすいようにも思えるが、ほころびが露呈しやすい。他流である方が、違う考え方に興味がわき、互いに披露しあうことで交流が密になるのだ。

 三郎兵衛は、早くから正雪とつながりがあった。そこで八郎右衛門は近づいたのだが、丸橋忠弥を正雪に合わせる際に、三郎兵衛の計画を手伝ったことで、正雪と忠弥に知り合うことができた。三郎兵衛は忠弥とは牢人になる前、最上家に仕えていた時からの知り合いであり、忠弥が江戸に来た際、宝蔵院流槍術の道場を出すのに三郎兵衛が資金を用立てたのだった。

 正雪は、八郎右衛門の才能と老中に仕える兄を持っていることを気に入った。同時に長曾我部盛親を父に持つという忠弥のことも徳川打倒の旗印となると考えた。ただ、忠弥は思慮浅く、粗忽な面があったために八郎右衛門に後見人として手綱を引くことを希望したのだ。

 正雪の思いを知ると、八郎右衛門はわざと距離をとるようにした。懐深くに入るためには、こちらから近づくのではなく、相手に求めさせる方が効果的である。相手を自分で懐柔したと思っている者は、それが相手の策であるとは考えないものなのだ。

 ただし、その距離感は非常に難しい。忠弥の無配慮な行動から、あまりに早く正雪の計画が露呈してしまえば、逃げる者も出てくる恐れがある。準備が終了し、一同がそれぞれの持ち場に集合した時を見計らっての一斉捕縛が理想なのだ。そのためには忠弥の行動を制しなければいけない。一番危険なのは、勝手に金策に走ることだ。八郎右衛門は、甲賀組の一員である田村又左衛門を、三郎兵衛を通して忠弥に近づけた。又左衛門は絹物の卸問屋であり、忠弥が道場を出す際に三郎兵衛が金策に頼ったのも、この又左衛門だった。

 

 

 将軍危篤と奥医師より知らされたのは、四月十九日の夜のことだった。明くる二十日の朝、徳川御三家当主である、尾張名古屋藩徳川光義(後の光友)、紀伊和歌山藩徳川頼宜、常陸水戸藩徳川頼房が呼ばれた。家光と直接会うことはできなかったが、後を頼む旨の家光の言葉が大老酒井讃岐守忠勝から伝えられた。光義は二代目だが、頼宜、頼房は家康の子であり、いずれも戦国の教育を受けてきた者たちである。冷静に受け止めるよりも、感情の方がすぐに動く。忠勝が伝える家光の言葉に、三人ともに憚(はばか)ることなく慟哭した。

 その後、家康の次男結城秀康の孫であり、秀忠の娘を母に持つ越後高田藩主松平光永、同じく結城秀康の三男出雲松江藩主松平直正、前田利家の四男で秀忠の娘を正室に持つ元の加賀金沢藩主で今は後見人である前田利常がそれぞれ呼ばれ、忠勝を通して家光の言葉を聞いた。

 続いて呼ばれたのは奥州会津藩保科正之であった。家光は正之にそばに来るよう求めた。正之は家光の異母弟である。父秀忠が正室の崇源院、生前のお江の方に発覚するのを恐れ、武田信玄の次女見性院に預けた。その後、高遠藩主の保科正光の養子となった人物である。家光は同母弟徳川忠長とは良い関係を築くことができず、他に男の兄弟もなかった。正之の存在を知ってから、家光は理想の兄弟像をそこに求めたのだった。それに正之もよく応えた。

「幼少の大納言、其方に頼む」

 口を動かそうとする家光に、耳を近づけると、消え入りそうな声が聞こえた。家光の長男大納言家綱にしてみれば、頼れる親族は少ない。歳もまだ十一歳である。側で見守り、教え、時に叱れる存在が必要だった。これを託せるのは、家光には正之しか考えられなかったのだ。

「身命を擲(なげう)って御奉公仕(つかま)る。その儀におきましては、ご安心召されませ」

 正之もこみ上げるものを必死に抑え、それだけをようやく口にした。

 重い体を引きずるようにして正之が退出して間もなく、家光は目を閉ざした。

 大奥は初め、単に将軍らの私的な生活の場であったが、家光の乳母春日局が将軍の世継ぎを儲けるための組織として整備したものだ。そのため、側室を含む多くの奥女中が暮らしている。家光逝去の報はすぐに大奥に広まった。大奥に暮らす者はみな、現将軍に従うことで生きている。将軍が変われば、身の振り方がどうなるかも分からないのだ。不安に泣き苦しむ者が続出し、その泣き声は遠く大手門まで聞こえた。

 このままでは混乱が収まらない。信綱は中奥と大奥を隔てる上御鈴廊下まで来ると、仕切り役の老女中を呼んだ。

「皆の嘆きの程、よく分かる。しかし、若君様はご年少である。それ故、不埒なることを考える者もいるやもしれぬ。よって、上様ご他界の件については、しばらくの間、諸大名には隠すことといたす。もし、謀反これあれば、采配も決まっておらぬ故、奥深くまで入られよう。そのようになれば、いかなる扱われかたとなるかは考えたくもない。そうならぬよう、皆にはしばらくの間、耐え忍ばせてくれ」

 老女にも謀反が起きた時の有様は想像できたのだろう。真っ青な顔となると、信綱に深々と礼をし、奥へと走った。大奥から泣き声が聞こえなくなるまでに、時間はかからなかった。

 大奥から表に戻った信綱は、暫定的な決定機関の整備を急いだ。次の将軍は年若く、幕閣がよく補佐しなければならない。家光の葬儀などもこの暫定決定機関が仕切ることになるため、早急な対応が必要だった。

 だが、事態は信綱の想像を超えてしまった。その夜から、殉死者が続いたのだ。まず家光の御側衆である堀田加賀守正盛。

「吾は幼き頃から格別のご寵愛を賜り、浅才の身にあるにも拘らずご登用せられしなれば、ぜひとも殉死し、昇天のお供仕るべしと決意したり。各々は今より幼主をよろしく助け、恩に報いるべき。これ、死に勝る辛苦であろう」

 正盛はそう言って自刃した。次のような辞世の句が残っている。

行く方は暗くもあらじときを得て 浮世の夢のあけぼのの空

 老中では、阿部対馬守重次が殉職している。重次は家光の同母弟忠長に自刃を伝える使者となった際に「この一命を捨てても台名(たいめい)に従わせます」と誓ったといい、この時将軍に命を捧げたのだから、供をするのが当たり前だと言った。辞世の句は次の通りである。

天照らす月の光ともろともに いくすえすずしあけぼのの空

 いずれも曙を読んでいる。夜明け間近での自刃であった。正盛は信綱に宛てた歌も残している。

出づる日の光すなおにまつりごと 君の御代をば千代とのぶ綱

 その後も、御小姓組番頭で下野鹿沼藩主内田正信や、元の書院番頭である三枝守重、小十人組番頭の奥山安重などが続いた。

 このように立て続けに起きる殉死に、世間では殉死が当たり前という風潮が生じていった。しかし、これは驚くべきことである。それほど殉死は当たり前なことではなかった。家康の死に対して殉死した者はいない。秀忠の時は西の丸老中森川重俊が殉死したが、これに続く者はいなかった。殉死よりも、次の将軍の世を固めることに重点が置かれていたのだ。そのため先代の重臣たちが重職を継ぐことが多かった。後世、武士にとって殉死は美徳と考えられていたという認識が強まるが、それはこの時からである。

 この風潮を作っていったのは、幕府に反発する牢人と、改革についていけない保守的な古い価値観の持ち主たちであった。これらの不満分子は非難の的を信綱に絞った。「家光恩顧の者なのに殉死しないとは何事か」というのだ。弱臣院殿前拾遺豆太守殉死斟酌大居士(じゃくしんいんでん さきのしゅういずしゅうだいしゅ じゅんしいんしゃくだいこじ)」という戒名を作ったり、信綱を皮肉った次のような落首が書かれたりしている。

伊豆まめは豆腐にしてはよけれども 役に立たぬは切らずなりけり

仕置きだてせずとも御代はまつたいら ここにいずとも死出の供せよ

 このような風言風語に反論の声をあげたのは、酒井讃岐守忠勝であった。

「武士は二君に仕えずとは、二姓に仕えぬとの意味である。幕閣にあって、亡き上様のご厚恩に浴さなかった者などおるものか。もし、その者どもがみな殉死すれば、誰が大納言様を補翼(ほよく)するか。どうやら左様なることを申す者は、この世の富貴や出世を求める者どものようである。空きができれば代わりに己が居座ろうとでもいうのであろう。決して忠臣の申すべき言葉ではない」

 信綱にとっては、讒言に気をかけるような暇もなかった。先に土井利勝が亡くなり、今回阿部対馬守重次が抜けたことで大老酒井忠勝を筆頭に、老中は松平信綱と阿部忠秋のみとなってしまった。松平乗寿が家綱付老中となっているため、家綱に将軍宣下があれば正式な老中に加わってもらうとしても、まだ心もとない。信綱は保科正之を家綱輔弼(ほひつ)役のまま幕閣に呼ぶとともに、意見番として井伊直孝を積極的に招集することとした。正之には改革の先導役、忠勝と直孝には旧弊な勢力に対する押さえとなってもらおうというのがその考想である。

 

 

「こりゃぁ、いいところに店が出ていやがる。おう、邪魔するぜ。温けぇの一つもらおうか」

「これはどうも、ありがとうございます」

 四月二五日の夜更けである。眺めがよいために時間を忘れ、気づくと日が暮れているという日暮里。そこにある道灌山は特に眺望がいいことで有名な場所だった。秋になると虫の鳴き声を聞く名所ともなる、自然豊かな場所だ。日暮れになれば、虫の季節以外では人の姿もまれなはずである。

 その麓に屋台が一件出ていた。酒を飲ませる店である。日本酒を冷やして飲むようになったのはつい最近のことで、もともとは季節に関わりなく温めて飲む。チロリと呼ばれる錫製の容器に酒を入れ、湯煎して温めるのだ。

 後年、江戸では屋台文化が花開き、蕎麦切りと呼ばれる麺状の蕎麦や握り寿司、鰻、天ぷらなど種類も豊富になっていったが、この時分にはまだそれらの料理もない。ただ、男の一人世帯が多い江戸では外食で済ませることも多く、手軽な屋台はありがたがられた。

「つまみになるようなものはあるかい」

「あいにく味噌くらいですが」

「いいねぇ、そいつもつけてくれ」

 酒が温まるとチロリごと湯を張った容器に入れて出す。酒が冷めない工夫である。これに味噌と猪口を添えた。客はチロリから猪口に注ぎ、グイっとあおると、ほぉーうと太い息が吐き出された。

「あぁ、身体の凝りが解れたぜ。おめぇさん、いつもここに店を出してんのかい」

 客は格子の小袖でいかにも町人風だが、髷(まげ)や所作を見ると牢人であることが透けている。

「へい。この場所に店を出したのはここ二、三日でございます」

「じゃぁその前は違うところに出していたのか」

「へい。方々を。はじめは住まいに近くて、人出のある場所を選んでいたんですが、そういうところは先客がおりまして。ずかずかと入り込めれば、なんてことはないんでしょうが、どうもいけません。流れ流れて、ここへたどり着いたというわけでございます」

「じゃぁ、その前は何か違うことをやってたのかい」

「へい。岩槻のちょいと先の方で農家をやっておりましたが、不作が続いて二進(にっち)も三進(さっち)も行かなくなりまして、江戸に参ったという次第でございます」

「そりゃぁ大変だったな。岩槻と言やぁ、殿様が殉死したっけなぁ」

 岩槻は阿部重次の所領であった。

「へい。そのようでございますね。ただ、わたくしのような下々の者にとっては、上の方々がどうなろうと、縁のないことでございまして」

「まぁ、そうだろうな」

「お客様は、今日はお楽しみのお帰りで」

「いや、ちょいと野暮用でな」

「そうでございましたか。ここは何でございますね、遅くの方が人の出がございますね」

 主人の言葉に、客の目つきが鋭く変わる。

「いえ、そろそろ帰ろうかと思ったころから人の姿が見え始めましてね。有り難いことにこうしてお客様までついたものですから。さすがは虫の音の名所でございますね」

「虫の音にゃ早すぎだろ。たまたまなんじゃないかい」

 時刻は亥の下刻。現代で言えば夜の十一時を過ぎている。町の境界にある木戸は、すでに閉じられた刻限だった。そのような時刻に出歩く者は本来ならば少ない。

「おぅ、そんなところにいたのか。そろそろいい刻限だぜ」

 客を呼ぶ声がした。こちらも町人風だが、身体が右に傾いている。よく見れば、道を行く者は、商人風であれ、職人風であれ、皆体が右に傾いていた。長く腰に刀を差している者の癖だ。重い刀を左の腰に差している場合、身体の傾きを正すために右に引き上げる。これが癖になっていると、刀を差していないときに、どうしても体が右に傾いてしまうのだ。

「亭主、ごちそうさん。勘定はここに置いていくぜ」

 客が引き上げ、人通りも途絶えると、店の主人は火を落とし、道具を片付け、屋台をひょいと担ぎ上げた。そのまま人出が向かって行ったのとは反対の方向へと歩いていく。

 やがて暗がりに入り込むと、屋台に濃紺の布をかぶせた。その瞬間、屋台は闇の中に消えた。

 続いて主人は、自分の身なりを整え始める。上着を裏返すと濃紺の衣装になる。草履を脱いで、これも濃紺に染めた革足袋を履く。覆面から手甲、股引と全身が濃紺で覆われ、闇に溶け込んでいった。店の主人は信綱の私設甲賀組の一員だったのだ。身なりが整うと、足音もさせずに道のないところから道灌山を登り始めた。

 この日、由比正雪一味が道灌山に集結することは、奥村八郎右衛門を通して知らされていた。いわゆる決起集会である。当初は一党総員が集結する予定だったが、さすがに人数が多すぎる。全体を二五の組に分け、その組頭のみを集めることにしたのだった。

「拙者、駿河へ参って府中の城に火を放つ。途中合流した駿河、三河、尾張の同士とともに府中の城を落とし、一旦、久能山に立て籠り、西国から下り来る京、大坂の勢と合流。紀州公の後ろ盾をもって江戸を攻める。

 吉田、金井は大坂攻めの大将となる。途中、四国、西国の同士と合力し、大坂城、大坂奉行所を火攻めにして、これを打ち破る。その後は、京の後詰めとなるべし。

 加藤、熊谷は京攻めの大将となる。畿内の同士と合力し、二条を攻め、京を焼く。御所より帝をお連れ申し、比叡に入る。ここで大坂方と合流し、幕府討伐の勅命を頂戴して江戸に進むべし。

 江戸攻めは丸橋を大将、柴田を参謀とする。柴田が城の火薬庫を爆破。その混乱に乗じて、弁慶橋より丸橋隊が本丸に突入。将軍の御首(みしるし)を頂戴する。

 決起は七月二六日。各組の動きに関しては、所属する大将よりそれぞれ沙汰がある。くれぐれも焦ることの無いよう、準備を進めてほしい」

 正雪の下知に、参集した者たちが低く「おう」と応える。その様子を甲賀組の者が暗闇の中から見つめていた。

 

 

 五月三日、家光に大猷院の号が勅諡(ちょくし)された。

 五月六日、家光の遺体が日光大黒山に葬られる。これによって日光に廟所が造られることになったが、家光が遺言で家康を凌いではならないことをきつく言い残していたことから、非常に難しい計画となった。華美豪華にすればいいのならば、現在の粋を集めればいい。だが、遺言により華美豪華には出来ない。それでいながら家光の威光を示さなければならないのだ。日光大猷院廟は時間をかけて計画されることとなり、まずは上野の東叡山に御霊屋(みたまや)を造営することとなった。この普請に対し、信綱の長男輝綱も六月二二日に監督を仰せつかった。造営開始の儀式である手斧(ちょうな)始めが行われたのは七月七日。信綱をはじめ、幕閣の重臣たちが列席している。

 このように新たな体制を固めている最中の七月九日、家康の異父弟である松平定勝の子で三河刈谷藩主松平能登守定政が、長男の定知とともに突然出家した。定政は四二歳。定知は未だ七歳である。井伊直孝に宛てられた書状には、刈谷二万石から武器雑具に至るまで悉(ことごと)くを幕府に返上し、それをもって旗本の困窮を救ってほしいとあった。

 定政は天徳大居士と勝手に名乗り、墨染めの衣に銅の鉢を持って江戸の町を徘徊した。

「松平能登の入道に、もの給え、もの給え、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」

 人々は徳川の一門による突飛な行動に驚き、新しい将軍体制に不安を隠せずにいた。旗本や大名の中には定政の意を良しとする者が多く、この一件をもって幕閣への不満を口にする者も現れた。このような状況にあったため、幕府は定政の処分に窮した。

 七月十五日、幕府は主だった大名らを集め、定政の書状を回覧させた上で処分を発表した。

「能登守の所業、その志はありと言えども狂気の沙汰」

 開口一番、信綱はそう断じた。強烈な言葉にざわめきが生じる。

「所領を幕府に返却し、それをもって困窮する旗本たちを救う。例えば、二万石を五石ずつに分ければ四千の者が助かるとあるが、では己の抱えていた者たちはどうするのか。無責任に放り出せば、いったい何人の者どもが路頭に迷う。これをもっても、まともに考えることもできない状態であったことが明らかである」

 信綱の言葉には毒が含まれている。そのため、誰もが憎しみを込めた視線を信綱に向けた。

「狂気の致す所業なれば、その罪を咎めることは出来ず。よって隠岐守に召し預ける」

 代わって処分を発表したのは保科正之だった。この裁決に、聞く者たちの緊張は和らいだ。改易もやむなしといった見解が大半を占めていたからだ。

 隠岐守とは、定政の兄松平定行のことで、将軍執務を補佐する溜詰(たまりづめ)にも任じられていた。

「寛大なる沙汰、同じ一門にある者として感謝申し上げる」

 発言したのは御三家の一角、水戸藩徳川頼房だった。頼房は続ける。

「能登守の所業、真に奇行と申せませども、困窮する者を救いたいとの心には偽りはなきと存ずる。事実、先年の大不作より困窮を続ける者も多くおるのは確か。また、幾分かのご加増を賜れば助かる者もおるのも確かでござる。此度、代替わりにあたり、恩賞の沙汰あるかと心待ちにいたせし者も多くありましょうが、今だその沙汰はなし。能登守の奇行が今時となりましたのも、恩賞無きを確かめたからでございましょう。これについては幕閣の方々は如何お考えでありましょうか」

「まったく水戸殿の申される通り。ただ、元服は済ませたとはいえ、上様が未だ幼くましますのも、また事実でございます」

 応えたのは信綱だった。

「今、恩賞を与えれば、上様の御心ではなく、老中たちが己の考えで進めたことと考える者が多くありましょう。そうなれば、上様への忠節ではなく、老中にすり寄り、私欲を満たそうとする者も現れんとも限りませぬ。このような行いは、幕府に上様の他に権力を持つ者を作ることになりまする。まこと忠臣であるならば、上様が公方様とおなりになり、将としてご成長いただくまでお待ちいただきたい。何もそう長いことではござらぬ」

 信綱は、一貫して皆にとって耳の痛い、反感を買うことを発言している。嫌われ役を一身に引き受けているのだ。それによって幕府への反感を、個人に対する憎悪へと転換しようというのが信綱の考えだった。

 この考えに則って役割分担がなされたが、当初は保科正之が嫌われ役を引き受けると申し出ていた。これを信綱が却下し、自分で引き受けたのだ。なぜなら、正之は家綱輔弼役とはいえ、正規の老中ではない。もし、正之が嫌われ役を演じたならば、人望もなく、正規の老中でもない者を幕閣に加えている幕府に批判の矢が向いてしまう。逆に正之が皆の信頼を得るようにすれば、幕閣に加わっていることに対し、誰からも批判の声は上がらないだろう。

 何も嫌われ役を一人に決めず、回り持ちにすればいいのではないかとの意見も出たが、これも信綱は却下した。信頼していた者が、嫌われるようなことを告げれば、裏切られたとの思いから、より一層憎悪の念は強まる。そうなった場合、みなの信頼を回復させるにはかなりの労力と時間を要する。結局幕府の信頼は薄まるのだ。だから、嫌われ役は一人に限る。これが信綱の主張だった。

 この時、信綱の心には改名を願い出た時に家光からかけられた言葉があった。あの時から、時を越えて一字賜った身との思いがある。堀田正盛が殉死の間際に、「死に勝る辛苦」と予言したが、生きながらに地獄に落ちるなどなんともないことだった。後年、信綱の人物評は、知恵はあるが人望はないというものが多い。その理由は、信綱が自身で嫌われ役に徹したことにあるのだろう。

 

 

 七月十八日、子の刻。由比正雪の一味が、再び道灌山に集った。京、大坂を攻める者たちはすでに江戸を発っているため、四月の集会よりは人数が減っている。それぞれ目立たぬように商人、職人の形だった。

 正雪は再度概要を告げ、長期の計画で緩んだ士気を高めようとしたのだ。

 そして、七月二一日未明。正雪は同士数名と江戸を発った。見送りは江戸攻め大将丸橋忠弥と参謀柴田三郎兵衛の二人である。二人は日本橋で一行と別れると、江戸での計画実行に向けた準備に入った。

 七月二三日の朝方、絹物問屋田村又左衛門のもとを丸橋忠弥が訪ねた。

「大切な御用のため、二千両ほどを用立てていただきたい」

 忠弥は挨拶もそこぞこに、そう切り出した。又左衛門は忠弥が自分のところに金策に来たことに安堵した。もし他のところに行けば、変な噂が立ち、計画自体が中止になるかもしれない。そうなれば、一斉に召捕ることはできなくなってしまうからだ。

「仔細については、かねがね柴田様より聞いておりますが、こちらも商売でございますので、確かにお返しいただけるという確証が必要でございまして、丸橋様より何にお使いで、どのようにお返しいただけるかお話しいただけませんでしょうか」

 忠弥は、又左衛門の柴田三郎兵衛から話を聞いているとの言葉を易々と信用した。又左衛門と三郎兵衛とは関係が深い。忠弥の道場を開く際、世話人となった三郎兵衛は又左衛門から資金を用立ててもらっているのだ。

 すっかり安心した忠弥は、作戦の概略を語りだす。

「ことが済めば三百万両ほどは手に入る。来月には借りた二千両を二万両にして返せる。これは私欲のためには非ず。今、あまりにも困窮する者が多いのは、すべて幕閣の無能なる故。どうかご助力いただきたい」

「それほどまでの大事を打ち明けてくださるとは、この田村又左衛門、承知いたしました。ただし、そこまでの大金でございますので、今すぐにご用意できるというわけにも参りません。明日の八つ過ぎにはご用立ていたしますので、どうかお宅の方でお待ちください」

 忠弥は喜び勇んで帰っていった。これで忠弥を自宅に足止めすることができるだろう。又左衛門は奥村八左衛門のもとを訪ね、ともに信綱に目通りを願った。

「件(くだん)の一党。いよいよ動き出しましてござります」

 信綱は一つ頷き、奥村八郎右衛門、田村又左衛門、八郎右衛門の兄の奥村権之丞に同行を命じ、右筆に大老酒井忠勝が俄かに病を得たため、牛込の酒井邸に参集いただきたいとの書状を書かせ、幕閣の者たちに知らせを発しさせた。

 酒井邸に集った者たちは、主の忠勝をはじめ一様に怪訝顔である。当然だろう、病を得たといわれた忠勝は、まったく異常がない。

「この度は急遽、秘密裏にお集まりいただくため、皆様方を謀にかけるような仕儀となったこと、誠に申し訳ござりませぬ」

 信綱が一堂に頭を下げる。

「謀反を企む徒党がいるとの注進が参りましたため、皆様とともに聞こうと考えてのこと。注進してまいったのは、ここにおる当家家臣奥村権之丞の弟八郎右衛門と絹問屋田村又左衛門。この伊豆もまだ仔細を不承知。早速に、両名より話させましょう」

 奥村八郎右衛門、田村又左衛門はそれぞれ、知りえたことを説明し、さらに八郎右衛門は由比正雪一党に参加する者たちの名をしたためたものを提出した。

「でかした。久方ぶりに腕が鳴るわい」

「掃部頭、歳を考えよ」

 酒井讃岐守忠勝が、井伊直孝を制した。

「なんじゃ、久方ぶりの差配だというに、讃岐は心躍らんのか」

「己の気の問題ではないわい。若い者に任せよというのだ」

 そこまで言われれば、直孝も顔をしかめて黙り込むしかなかった。

「して、どうする」

「恐れながら、一党に感づかれましてはなりませぬ。最も怖いのは、ばらばらに分散し、個々が勝手に行動した場合。そうなると取り締まりも難しくなってしまいまする。ここはまず手の者に、奉行所が隠れキリシタンの大規模な取り締まりに出張るらしいと噂を広めさせまする」

 直孝が「便利な手の者がおるもんじゃな」と小声で、隣の阿部忠秋に話しかけた。

「謀反の徒は十四組に分かれておりますれば、両奉行所の与力、同心をそれぞれ指揮をさせ、召捕らせたいと存じます。また、捕り方の数を補うために小姓組、書院番からも廻させようと考えております。この伊豆も直接指揮にあたる所存なれど、掃部頭様、讃岐守様、肥後守様にあっては城にて上様をお守りいただきたい」

 直孝、忠勝、保科正之が力強い頷きを返す。

「豊後守はいかがいたす」

 阿部忠秋に関しては信綱は指図せず、考えを質した。

「城に詰め、手助けの必要なところにいつでも参れるよう、一隊を整えておく」

 これで江戸に関してはあらかたが決まった。

「京、大坂と駿府には至急使者を立てねばなりませぬな」

 保科正之である。

「京、大坂については賊徒の規模も小さいことから、所司代、城代に任せてもよいかと。駿府につきましては首領の由比正雪がおりますれば、上使を立てた方がよいかと存ずる」

 警備を担当する新番の頭である駒井親昌を駿府への使者とし、急ぎ出立させることとなった。併せて御側衆の中根正盛の与力を駿府に派遣するため準備を進めさせることも決められた。

 

「策は授ける故、ご指図のほどはお任せいたす」

 信綱は、丸橋忠弥捕縛にあたって、隊を率いる北町奉行石谷貞清に声をかけた。貞清は、島原天草の一揆討伐にあたって、初めの副使として出陣。信綱が着陣した時には、負傷のために下がっており、直接顔を合わせてはいない。島原の後は、信綱とは違い重用されることはなく、しばらくは冷や飯を食っていたが、昨年から北町奉行に抜擢されていた。

 信綱の授けた策というのは、火事を偽るというものである。竹に切れ目を入れておいたものを数多く持参し、それを一気に引き裂く。バチバチと火が家屋を焼くのに似た音をさせ、「火事だ」と大きな声で叫ぶ。この騒動に丸橋忠弥と居合わせた同志、合わせて五名が忠弥の長屋から駆け出してきた。忠弥を含め三名は太刀を掴んでいるが、二人はよほど慌てたのか無腰だ。

 忠弥たちが表通りに出たところで捕り方が囲み、別動隊が長屋に踏み込む。忠弥が持っているだろう連判状を確保するためだった。

 忠弥らを囲んだ捕り方は、梯子を持った者たちが押し込み、身動きをとれなくしようと謀ったが、これは難なく躱されてしまう。忠弥は宝蔵院流槍術の達人である。そのため、奪われた時のことを考え、捕り方は棒、槍の類は携帯していない。刀での乱戦となった。

「危ない故、お下がりください」

 貞清は信綱を制し、前に出る。そのやり取りに気づいた一人が、静かに近づき、信綱を襲った。斬撃が振り下ろされる刹那、信綱は脇差を抜いて刀身の動きを逸らせる。賊は大勢を崩すが、追い打ちはかけずに脇差を逆手に持ち替えた。守りに徹したのだ。

 信綱は、怪我の後遺症で左の手首から先に麻痺が残る。そのため両手で刀を扱うことができなかった。人知れず工夫をした結果、身につけたのがこの型である。左手は太刀の柄に親指を引っ掛けて鍔の上に置く。こうすることで、手首から先がぶらぶらと揺れずに安定する。

 信綱を襲った賊は、その型を見て冷静さを失った。侮られたと感じたのだ。冷静さを失ったものは、力攻めに傾く。斬撃が直線的となり、予測が容易になった。やみくもに振り下ろされる刀身を、斜めに構えた脇差で受けることで、滑らせ、方向を逸らし、わが身の左右に流していく。動きや受けるための力を極力少なくすることで、体力の消耗を避けることもできた。しかし、片手のみで躱し続けることは思った以上に体力を消耗させていく。

 信綱の額にうっすらと汗が浮かび、これを好機と賊はさらに力を込めて刀身を振るう。この様子に気づいた捕り方の一人が駆け付け、後ろから賊を袈裟懸けに切りつけた。

「大丈夫でござりますか」

「いささか疲れただけだが、助かった」

 信綱の息は上がっていた。このまま攻め続けられれば、どうなったか分からない。

「しかし、御老中がこれほどの腕前とは存じませんでした」

「いや、幼いころにはやんちゃでな」

 捕り方に負傷者を出したが、丸橋忠弥らを捕縛することには成功した。奥村八左衛門が認(したた)めた名簿と押収した連判状をもとに、江戸攻めのため、潜んでいた者たちが次々に召捕られていった。

 明けて七月二十四日。信綱らは井伊直孝邸に参集し、捕縛した者の処分について談じ、小田原藩主稲葉正則に箱根の関所を固め、身元改めを厳格にするよう命じることを決めた。

 七月二五日の昼を過ぎた頃、駒井親昌が駿府に到着。即座に信綱よりの指示を告げる。府中を探索させると、茶町の旅籠に「紀州大納言家中」を名乗る一行が滞在していることが判明した。さっそく旅籠を取り囲む。方針としては生け捕りである。まごうことなき紀州公の家中であるならば、堂々参上して申し開きせよとの駿府方の指示に、由比正雪はのらりくらりと時間を費やしていたが、ついに「籠を用意してほしい」と応じた。早速籠を旅籠の前に用意し、部屋に赴いて声をかけたが、部屋の中は微かにも音がしない。

「しまった」

 慌てて部屋に飛び込むも、中はすでに血の海であった。全員が自害して果てていたのだ。

 京、大坂でも捕り物が行われた。この中で、京攻めの責任者の一人熊谷三郎兵衛と、大坂攻めの責任者の一人金井半兵衛に逃げられたが、三郎兵衛は七月三十日、半兵衛は八月三日にそれぞれ自害しているところを発見された。

 由比正雪の一党はことごとく処罰されたが、問題はこれからであった。問題は二つ。一つは紀州公。もう一つは浪人をどうするかである。

 紀州公とは、徳川御三家の一つ、紀州和歌山藩主徳川頼宜である。由比正雪は事あるごとに頼宜の名を語り、ばかりか紀伊殿の判物(はんもつ)、すなわち頼宜の判がある文書を多数使用していた。幕府としては真偽のほどを質さなければならない。しかし、頼宜は事が大ごとになるほどに開き直り、わざと挑発して見せる癖があったのだ。

 信綱らは協議の結果、まず酒井忠勝を非公式に和歌山藩邸に向かわせることとした。

「この一通の真偽を質すため、持参仕った」

 頼宜と対面した忠勝は、前置きもなくそう告げると、頼宜に正雪所持の紀伊殿の判物一通を滑らせるように渡した。

「世の中にはいたずら者がおるようだ。かような謀書(ぼうしょ)を作った者がおる。しかも、これをもって公方様を亡きものにせんと、仲間を募りおっての。有り得んことだが、まずは印形をお確かめくだされ」

 目を通した頼宜の目が大きく見開かれ、顔が真っ赤に色付いていく。それを見た忠勝は、頼宜が関わっていないこと、判物が偽物であることを確信した。いかにも謀反を起こしそうな頼宜の名を正雪が利用しただけに過ぎない。

「やはり謀書でありましたか。まずは安心仕りました。されど、今後は印形を管理する者にも充分用心いたしますよう、老婆心ながら申し上げる」

 これは、忠勝の機転であった。ことが大きいだけにまったく御咎めなしともいかない。誰かが責任をとる必要があるのだ。

 忠勝の言葉を聞くと、同席していた頼宜の家臣、加納何某(なにがし)が静かに席を外した。忠勝の意図を察し、一切を自分の責任として縁側で自害したのだ。

 後日、頼宜は登城し、老中らに正雪一党と一切関わりがないことだけを告げた。これに対し、幕府は頼宜を御咎めなしとしたが、藩領である紀伊に戻ることは許さなかった。目の届くところに置いておこうというのだ。

 

 由比正雪らの騒動が一段落した八月十八日、家綱に将軍の宣下があり、ここに四代将軍徳川家綱の代が始まった。これに関する諸行事を済ませ、八月末、信綱の姿は川越にあった。

「まこと本年の例大祭において、神幸を執り行えと申されるのでございますか」

 川越氷川明神の神職である。信綱から九月の例大祭において神社内での祭礼のみではなく、氏子域を巡る神幸祭を執り行うようにとの要請があり、戸惑いを隠せないでいた。

「御神幸については、かねてより願っていたこと。特に本年は特別な年にあたり、御神幸を始めるにはこれほどの好機はあるまい」

「大猷院様の喪に服されるべきと存じますが」

「これは異なことを申される。大猷院様が東照大権現様の身許に祀られたのはご承知の通り。つまりは神のもとにいらっしゃることになる。神は穢(けが)れを嫌い、活力のないものを嫌うと申す。そして、民の活気があることを喜び、そのための晴れの日に降臨し、力をお貸しくださると申す。なれば、御神幸は神に喜んでいただくに最も適しておると申せよう。さらに先般、四代将軍が宣下された喜ばしき時。これを皆で寿(ことほ)ぐことこそ、今は重要事。ここは何があっても御神幸を執り行っていただきたい。非難する者があれば、この伊豆のもとに赴かせよ」

 信綱の意志は固い。何が何でも今年の例大祭において神幸を執り行わせようと一歩も引かない姿勢に、神職の方が折れるしかなかった。

 家綱への将軍宣下があったとはいえ、未だに家光を悼む風潮の方が強い。これが家綱軽視を招き、松平能登守定政の出家や由比正雪らの蜂起を招いている。家綱の将軍就任を祝い、家綱のもとで一致団結するという風潮を作り上げることが急務であった。その一環として、信綱は自領における神幸を行い、領内に活気を満たすことを計画したのだ。これが一つのモデルとなり、全国に活気が漲るようになればいい。

 神幸祭を町作りの一環として積極的に活用したのは、家康であった。家康が入府した当時、江戸は海が城近くまで入り込み、芦の湿原が広がる寂しい状態であった。井戸を掘っても塩辛い水しか湧き出さず、水の確保も難しい。そこで家康は一から町を造り直したのだ。必然的に町民は工事にあたった人夫を中心とした流入者ばかりになる。この状態では土地に対する愛着も住民間のつながりもない。治安の維持や土地離れを防ぐことも難しい。

 これを改善するために、家康は江戸の鎮守三社の神幸祭を奨励し、保護することにした。神社を発した神幸行列は、町を巡って江戸城に向かい将軍の拝謁も得る。これによって特別感が演出された祭は天下祭りと称せられ、町民は晴れの日を楽しんだ。やがて、神幸行列の後に、町民たちが付き従うようになり、町民による附属祭り、つけ祭が発展していくようになる。こうして、同じ町の人々が結ばれ、町への愛着が育まれるようになっていく。江戸っ子の「過去には干渉しないが、今に関しては目一杯お節介を焼く」という気質は、このようにして作られていった。

 信綱は、この祭りの効用を間近に見ていたため、今回これを活用しようと思い立ったのだった。

 九月二五日、川越氷川祭礼において神幸が執り行われる。

 まず、神木と太鼓が行き、その後に幟旗を掲げた者、鉾、四神が続く。さらに神の先導役である猿田彦に扮した者、獅子、巫女、神輿と続き、神馬と馬上姿の神職が行く。この時の獅子頭や神輿などの祭礼道具は信綱が寄進したものであった。

 大火から街並みが全く新しくなった川越の住民たちは、突然出現した神幸行列に驚喜した。城で輝綱らとともに見物していた信綱にも、町が活気づいていくのが肌に伝わってくる。信綱の狙いは間違いなかったのである。

 後のことになるが、川越でも神幸行列の後に町民らが行列を作って従うようになり、やがて山車や芸能屋台、仮装行列などが加わるようになっていく。これが、現代の川越まつりへと発展していくのである。

 

 

 由比正雪らの一件に関して、未だ牢人対策という大きな問題が残っていた。牢人が多く生まれる原因となっている末期養子については、緩和の方針が決まった。末期養子とは、当主の死の間際に慌てて養子をとることである。当主自身の意志を無視することにつながるとして禁止されていたのだが、これによって継嗣がおらずにお家断絶となってしまうことが多かったのだ。これを緩和することで、新たな牢人の発生は抑制できる。しかし、問題は今すでに巷(ちまた)にあふれている牢人たちであった。

 十二月十日、この日も老中らが集まり、協議を重ねていた。

「正雪、忠弥らの党が非望の企てをなし、騒乱をなさんとした件であるが、幸い、祖宗(そそう)の慰霊(いれい)をもって速やかに鎮めることができた。だが、このような事態となった元は、牢人らが多く府下に群居しておるが故である。ならば、府下の牢人らをすべて追い払うのが肝心であろう」

 酒井忠勝がまず気炎を上げる。幕府三代の霊の力で鎮めることができたとは、忠勝らしい表現の仕方だ。一同が大きく頷くのを確認して、忠勝が満足そうな表情を作った。

「讃岐守殿の申されますこと、まことに一理ございます。然れども、牢人が多く集まるは、府下が諸大名の集まる地なればこそでございます。出仕を望む者としては、これほどに便ある地はございません。しかるにこれを追わば、路頭に迷い、山賊、強盗に身を落とす者も多くありましょう。そうなれば良民の害となりまする。彼(か)の者たちの困窮は言うまでも無きことながら、その妻子らにおきましては困窮の程推し量るに余りありまする。何卒、牢人追放につきましてはご再考いただきたく、お願い申し上げまする」

 阿部忠秋が、いかにも困り果てているという様子で申し出る。ここまでは信綱が予め想定していた通りだった。信綱は幕閣の評定を開くにあたって、一つのパターンを作り出した。まずは、重鎮の意見を聞き、同意するところには同意しておきながら、重鎮らに受けの良い忠秋が意見を出す。この意見こそが決定に持っていきたいものなのだ。通常であれば、ここで保科正之が補強のために発言することとなる。だが、この時は意外な援軍が現れた。

「今の申し出、いちいち尤もである。彼の者らが府下に群居し、何事か企んだとしても、此度のようにそれを捕らえるなど容易。それを、牢人どもを追い払うなどすれば、幕府は正雪らの所業に脅え、何ら対策も立てぬまま徒(いたずら)に飢え殺したとの評判になろう。この方が忌むべき恥と申すものよ」

 井伊直孝であった。今回、ことが実行される前に賊徒を捕らえることができたことが、自信となったのであろう。さらには、島原天草の一揆での苦い思いもある。江戸でならば直接、そして即座に対応もできるが、遠方ではそうはいかないのだ。牢人を追放したことで、対処の難しい遠方で事が起きれば、その方が大事となる恐れが過分にある。それが確認できたことで、大勢が決まった。牢人追放は取りやめとなったのだ。

 直孝の見込みが正しかったことは、翌年明らかになった。慶安五年(1652)九月、増上寺で執り行われる崇源院、すなわち秀忠の正室お江の法要を利用しての老中襲撃計画が露呈したのだ。別木庄左衛門を頭とする牢人たちの企ては、由比正雪たちの計画同様信綱の手の者たちによって明らかにされ、一党は捕らえられ、法要も無事に終了した。この事件は、この年九月十八日をもって承応と改元されたため、承応事件の名で呼ばれるようになった。

 十月、江戸府内の浪人たちに対し、取り調べを実施する旨が発せられた。この時、浪人たちに不安が広まったため、幕府は次のように追加している。

此度府内に散在する牢人を調査することにつき恐懼(きょうく)する者がいるが、罰せられるでも追い払われるでもない。土地、家屋を貸す者も何ら心配することなく、貸し与えてよい。ただし、誰に貸し与えているかを寺社は寺社奉行、市井であれば町奉行、近郊ならば代官所に届け出、名簿に記すこと。新しく貸し与える場合も同様である。また、武家が貸し与える場合も、その所属につき登録すること。

 これは現代でいう住民登録である。浪人たちの動向を把握するためには重要だが、浪人の困窮を救うには別の対策が必要だった。

 浪人たちの多くは仕官先を探しに江戸に来たのだ。であれば、仕官先やそれに代わる仕事を提供すればいい。幕府のこの方針に一番熱心だったのが、町奉行の石谷貞清だった。貞清は、弁舌巧みに牢人の仕官斡旋に尽力し、生涯に千人以上を仕官させた。

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