上使殿

 信綱が第二の上使に任命されたのは、寛永十四年(1637)十一月二七日のことである。島原における農民蜂起を幕府が知り、板倉重昌を上使に任命したのが十一月九日のことであるから、わずか二十日に満たない期間での人事異動であった。

 九日の時点で幕府が知りえた情報は、島原で農民が蜂起し、代官数名が殺害され、島原城も襲われたが、撃退したというものだ。一揆勢殲滅には至っていないものの撃退したことが重視され、大事とは判断されなかった。そのため、交渉や事後処理に長け、実績もある重昌を上使としたのである。

 状況が変わったのは、天草でも農民が蜂起し、小島子、大島子、本渡において唐津藩の軍勢が大敗したとの知らせが幕府にもたらされたためだった。九州から江戸への報告には十日ほどが必要となる。そのため、二七日に幕府に届いた知らせでは富岡城の件は触れられていないのだ。知らせは唐津藩からのみでなく、周辺諸藩からも届けられた。それらを確認した限りでは、一揆勢に対し、なすすべもなく退散しているように思われる。このままでは、一揆がどれだけ拡散していくか知れない。本格的な軍事介入が必要であるが、法度によって隣国であっても他藩に対し兵を派遣することは幕府の許可が必要となっている。幕府が指針を示さなければ、当該藩のみで対処しなければならないのだ。

 板倉重昌らはすでに江戸を発っているが、到着には一月ほどはかかる。しかも、柳生宗矩が指摘しているところだが、本格的な戦闘となれば重昌では心もとない。戦において、様々な思惑を孕んでいる諸藩の手綱を引ける者が必要だった。

 将軍家光は、松平伊豆守信綱を選んだ。戦の経験はないが、戦自体は諸藩がするものだ。諸藩を動かすといった面では、信綱が適任と考えたのだ。それに、「伊豆であれば、我が考えからは外れまい」との思いが家光にはあった。そのため、信綱に白紙の朱印状を渡している。これを用いれば、将軍の命令ということにできるのだ。まさに全権委任した形であった。副使には美濃大垣藩主の戸田氏銕が任命されている。

 信綱が江戸を発ったのは十二月三日、辰の上刻、現在の時刻でいえば午前八時ごろだった。板倉重昌は上使任命の翌日には出立しているが、今回は戦になることが必定であるために、準備に時間が必要だったのだ。

 同日、土井利勝、酒井忠勝、阿部忠秋の名で板倉重昌と石谷貞清へ、松平信綱と戸田氏銕が新たに上使となり、出立したとの奉書が出されている。

 信綱は今回の行軍に長男の輝綱を同行させた。輝綱はこの年十八歳。二年前に元服したばかりだった。この輝綱は、信綱に輪をかけた筆まめであり、今回の行軍についても細かに日記をつけている。それによると、信綱は軍が箱根に差し掛かると下馬し、先頭に立ってみなを鼓舞したという。戦を前に士気を上げようとしたと推測されたが、戦場は九州である。士気を上げるにしても、いかにも早すぎよう。左手の怪我を隠すためと考えた方が自然である。

 

 信綱たちの着陣は翌寛永十五年(1638)正月四日だった。この前日に信綱は、板倉重昌が正月一日の総攻めの際に狙撃され、亡くなったとの報告を受けている。

 信綱着陣に際し、出陣している諸藩では供応の準備が進められていた。陣小屋の建設に始まり、有り余るほどの調度、寝具、飲食の糧などが用意されている。長旅の疲れを癒すため、風呂の設備をつけた船さえ用意されていた。海上の方が襲われる恐れが少なかったからだ。

 信綱はこれらのすべてを辞退している。このため信綱配下の者たちは野宿する羽目になった。夜になると雨が降り出したが、これを予想した信綱は陣幕を使用して簡易的なテントを作らせている。もちろん信綱自身も同様のもので雨を凌いだ。如何に雨を防ぐ屋根を設けたところで、壁もない野宿だ、寒さは容赦なく襲い掛かってくる。竈(かまど)の用意も間に合わず、食事も保存携帯用の干し飯(ほしいい)だった。当然信綱も同じである。この姿を見せることで、信綱は本気で戦いに来たということを示したのだ。

 翌日以降も信綱のもとを訪れる者は絶えなかった。訪問者たちは手土産を持参していたが、信綱は「着陣の挨拶に申した通りである」とこれを固辞し、これまでの経緯を確認することに勤めている。

 信綱は収集した情報をもとに軍議を開いた。

「籠城する者たちは藩の米蔵を襲い、米を奪ったこと相違ないな」

 軍議において、信綱は重要と思われる情報を一つ一つ確認していった。このことで、全体で情報を共有し、何によって方針が決められたかを明確にしようというのが狙いだ。

「ここのところ凶作が続き、年貢を払えない者も多かったと聞くが、蔵は米で満たされておったのか」

「いや、六割がたがいいところかと」

 島原藩の家老が応える。

「では、籠城する者たちが奪っていった米もそれに見合った量となるが、このままの人数が籠城を続けるとして、どれほどの期間もつと思うか」

「一月から二月あたりかと」

「今の人数が籠城を始めたのが師走の初めであったな。ならば、今月の終わりか来月には兵糧も尽きるということだな」

 信綱はしばし言葉を止め、みなにこの言葉が示す意味がしみ込むのを待った。

「さて、籠城の前、島原城を一揆が襲い、撃退したが危ないところであったというが、誠か」

 島原城を預かっていた者としては認めたくないことではあったが、周辺諸藩の者も情勢を調べている。ここは有り体に申し上げるしかなかった。

「大手門に亀裂が入るほどではございましたが、多くを撃ち取り、退散させ申した」

「そこまで苦労したのは何ゆえか」

「まずは攻め手の人数が多かったこと、そして、多くの鉄砲を用いられたことでございます」

「鉄砲を絶えず撃ち込まれては反撃も至難の業であったろう。よく反撃できたものよ」

「攻め手は、初めこそ盛んに鉄砲を撃ちこんでまいりましたが、やがて銃声も散漫となりましたのですきをついて反撃いたしました」

「鉄砲が有効であることは一揆の者どもも分かっていように、何ゆえ散漫になったと思う」

「恐れながら、弾、あるいは薬が切れたものかと」

「此度の攻城において、被害が大きくなったのも、籠城する者どもの鉄砲によると聞いておるがいかがか」

 正月一日の攻城戦では鍋島家、松倉家においておびただしい犠牲者を生んでいる。これは一揆勢の籠る原城にとりついた時に、鉄砲で狙われたことが大きい。

 ここまでを確認すると信綱は今後の方針を示した。

  • これまでの方針である、竹束、柵などで陣地を城際まで陣を進める仕寄策をもっての積極攻城の中止
  • 石火矢や大筒の砲台たる築山、監視と鉄砲攻撃のための井楼の築造
  • 築山、井楼完成後は城壁に対する砲撃に専念
  • 砲撃により籠城方が城際から引いたことを確認した後に、改めて仕寄りをつけ、城際に陣を確保する
  • 籠城する者を城外に出させないよう見張りの徹底

 いわゆる兵糧攻めであった。

 これに対し、城攻めを望む者も少なくなかった。福岡藩主の黒田忠之などはその筆頭であり、信綱に直訴までしている。しかし、信綱の対応は全くぶれなかった。

「鉄砲を頼みにしながら、弾や薬が十分でない者が望むのは短期の決戦である。充分な準備を整えず、敵の銃口の前に立つは相手の望みを叶えてやるだけのこと。この戦の結果は公方様の功績でもあることお忘れなきよう、くれぐれも抜け駆けなどなきようお願い申し上げまする」

 信綱は、陣に参加する諸藩の行動を制限するだけではなかった。着陣当時、諸藩の供応を断ったことでもわかるように、戦線において誰もが苦労を重ねているということを充分に理解し、同じ境遇を共にすることで信頼を得るように図っている。それとともに、上意として各藩に兵糧を下賜することを決めた。これは信綱の判断によるもので、幕府から送られてくるまでは自らの兵糧で立て替えてさえいる。

 また、諸藩に築山と井楼の建造を急がせる中、出島のポルトガル商館の様子を確認し、オランダ商館とも連絡を取っている。幕府としては、これまでのポルトガルによる独占交易から、オランダ中心の交易に変更を検討していた。今回の件で、ポルトガルがどのような姿勢を示し、オランダがどこまで協力するかは、今後の方針決定に対し重要な情報となるのだ。

 さらに、場内へ矢文を放ち、開城を促してもいる。正月十日の矢文は、次のようなものだった。

わざわざ書状を申し遣わす。この度、古城に立て籠もり、敵になったことは残念なことである。しかしながら、城中の者たちは天下に恨みがあるのか。あるいは松倉に恨みがあるのだろうか。その恨みに道理があるならば、いかようにも叶えよう。互いに話し下城し、家に帰り、田畑を耕し、以前のような日常に戻るならば、当面の飯米として二千石を与えよう。今年の年貢についても、一切納めなくともよい。諸役免除など、安定した生活に戻れるよう留意する。このことに偽りはない。

 信綱の署名が入っているが、実に大げさな文章である。一揆方首謀者たちは当然、この内容を鵜呑みにはしていない。だが、幕府上使との交渉を望む者が現れたのも事実であった。正月十五日から二一日にかけ、双方矢文による交渉が行われ、幕府上使の文を持参した者が二月一日に原城に入ることが決まった。

 二一日にこのような結論を得ることができたのは、幕府方の攻撃準備が着々と進んでいたからである。この日、他家に先立ち鍋島勢で築山と井楼が完成し、石火矢で原城二の丸の出丸城壁への砲撃が開始されている。一揆勢は城壁の修復に人数を出しているが、これに対し鍋島勢は井楼から鉄砲を射かけ、一揆勢を下がらせることに成功した。信綱の方針の有効性が示されたのだ。

 二三日には細川勢で築山と井楼が完成。他家も普請を急いだ。こうして原城の城壁を下に臨む井楼のおかげで、一揆勢の情勢もつかめるようになり、各前線で城際にまで仕寄りを進めることが可能となった。

 二月一日、原城に入ることになった使者は四郎の姉の息子、八歳の小平であった。小平は書状を二通持参することとなった。

「よいか。こちらの書状は立ち合いの者に渡してよい。もう片方は渡辺伝兵衛に必ず渉るようにするのだぞ」

 立会人に渡しせばよいとされた書状は、今後の交渉についての提案が書かれたものだ。だが、重要なのはもう一通、伝兵衛に宛てた書状の方だった。書状の差出人は渡辺小左衛門。原城攻めに際して熊本藩から呼んであった。伝兵衛は小左衛門の父である。小左衛門によると、伝兵衛は四郎の後見人になっているという。小左衛門からの私信という体をなしているが、こちらの方にこそ、上使側の提案が書き込まれていた。

一、キリシタンは当歳児に至るまで全員を死罪とする
一、無理矢理キリシタンにさせられた者は助命する
一、「四郎の名」を騙った者たちにより操られた四郎自身も助命する

 当歳児とは今年生まれた赤子のことである。キリシタンに対しては全く容赦はしないが、そうでなければ助けるといっているのだ。家光より、なで斬り、つまり全員殺害を基本方針として与えられていたことからすると、かなり寛大な提案であった。特に、四郎は単に操られていただけとして命を救うというのが特徴的だ。

 これが伝兵衛に伝われば、この内容は皆が知るところとなるだろう。伝兵衛も小左衛門同様過激な運動には反対していたという。助かる道があるかもしれないと知れば、皆に伝えるに違いない。そして、急進派と降伏を望む者とに分かれることになる。

 籠城策が敗れる最も大きな原因が、籠城内部での諍いであった。味方同士が疑心暗鬼に陥り、自滅していく。信綱はこれを狙ったのだ。

「お考えの儀、承知仕ってござりまするが、何ゆえ使者を童にいたしましたのか。童では使者としての役割、全うできるとは思えませぬが」

 信綱の子、輝綱は疑問をぶつけた。

「此度の交渉で籠城方が折れることはあるまい。わずかでも落人が出れば儲けものといった程度のもの。であれば、使者は誰でもよい。ただし、例えば輝綱、お主を使者にしたとしよう。籠城の者はお主を人質にとって有利な交渉をしようと計るか、殺すことで皆の士気を上げようとするかもしれない。使者が童であれば籠城方とてあまりに乱暴なことはするまい」

 信綱の狙い通り小平は無事だったが、小左衛門からの書状は伝兵衛に届かなかった。首謀者たちは書状を二通とも預かり、握りつぶしたのだ。小平は柿、蜜柑、芋、砂糖、まんじゅうなどの入った袋を手土産に即刻帰された。伝兵衛はおろか四郎とも会ってはいない。

 小平が持たされた手土産は、籠城中であることを考えれば、ひどく豪勢なものだ。これを持たされたということだけで、信綱には十分な収穫だった。長期戦を覚悟し、成果を上げようと考える者であれば、たとえ潤沢であっても兵糧は大切にする。惜しげもなく放出するのは、戦を知らぬ者か、兵糧は潤沢にあるので兵糧攻めなど無意味だと主張したい者だ。一揆の中心となる者たちは、小西や有馬、松倉などの浪人であろう。戦の経験はなくとも心得は知っているはずである。であれば、兵糧策は無駄であることを印象付けるための小細工となる。つまり籠城方の兵糧は厳しくなっており、兵糧攻めは効果を上げているということが確信できたのだ。

 籠城方の必死のアピールは、その晩に放たれた矢文による返書でも表れていた。

「我ら天主様に身命を捧げる者。たとえ、落人が何人出ようと構うものではない」

 矢文にはそう書かれてあった。逆説的に、落人はいないのだから無理にキリシタンにさせられた者などいないという主張になる。差出人は渡辺伝兵衛を筆頭に四人。それぞれ署名と花押が記されている。信綱が小左衛門に確認させたところ、「父の筆跡にあらず。花押も別物」との答えが返ってきた。首謀者たちによって偽造されたものだということだ。伝兵衛は指導の場から退けられたとみていい。肉親である小平とも会わなかったところから、四郎すらも遠ざけられていると考えていいだろう。十五、六の若者にこのような大規模な一揆を指揮することなど無理なことであり、「四郎の名」を騙る者たちが、傀儡としているという信綱の読みはどうやら当たっているようであった。

 

 

 原城籠城に及んだ後、四郎は本丸に籠ったまま表には出ず、時折若衆が四郎の言葉を皆に伝えるという状態になっている。右衛門作には、四郎が元気でいるのかさえ窺い知ることができなかった。伝兵衛も籠城後、いつの間にか姿を見ないようになっている。首謀者たちはかなり焦りを感じているようだ。

 二月一日の会談後、四郎の言葉として、城中における規律などが籠城している者たちに布告されている。

一、この度、城中に籠っている各々は、多くの罪科(つみとが)を尽くし、あの世にても助かりなどおぼつかないが、神の格別のご慈悲により、城中の一人として加えられた者であり、誠にありがたく、感謝しなければならない。
一、申すまでもないが、油断なく、心の限りにご奉公につとめなければならない。
一、オラショ、断食、鞭打ちの善行だけに限らず、異教の者を防ぐため、武具の嗜みに念を入れることも神へのご奉公と心得ねばならない。
一、この世の時間は短く、昼夜怠りなくこれまでの悪行を悔い、日々神に感謝することを考えねばならない。
一、計り知れぬ神の御恩をこうむりながらも親類、縁者の忠告に背き、わがままの行いを通している者もいると聞く。これは、堪忍とへりくだりの心を持たないことから起こるものであり、互いに相手を大切に考え、忠告するべきである。この城内の者たちは、あの世までの友と心得、指導に従い行動しなければならない。
一、油断することは咎である。人により小屋に入って休み、ゆるみが見える。各々持ち場にしっかりと詰め、昼夜ご奉公しなければならない。
一、合点しない者は天狗の法にまかせ、あたら命を落とそうとしている。念を入れなければならない。
一、下々の者が勝手に城外に出ることを禁ずる。下々の者を城外に出すときは、親方はよく人選を吟味しなければならない。

 幕府方との折衝に希望を抱く者を取り締まるためのものであり、これを出さなければ、分裂しかねない状況にあったとも考えられる。そのような反対派の筆頭が右衛門作であった。

 矢文での交渉が始まったことを知った右衛門作は、できるだけ多くの者を城から落ち延びさせるために積極的な動きを開始した。和平を望む発言をしたことで、士気を下げるとして捕まえられた者たちが、どこに閉じ込められているかを調べ、接触を図る。意を同じくする仲間を作るといった活動だ。そして、矢文で城内の状況を知らせ、城を落ちるための支援を願い出てもいる。

 右衛門作にとって、誤算であり、不幸であったのは、矢文でやり取りをしていたのが、信綱ではなく延岡藩主、有馬直純であったことだろう。二月三日に右衛門作は本丸に近い大江の浜で幕府勢の使者と対面しているが、城中、城外それぞれが注目し、衆人環視の中での会談は身のあるものとはならなかった。

 有馬直純にしてみれば、右衛門作がもともと信綱も送り込んだ者だなどという事情も知らない。独自に話を進め、功績を知らしめるために大げさな演出に仕立てたのだ。もし、信綱に右衛門作の矢文が届けられていたら、違う展開が生まれていたかもしれず、助かる命も増えていたかもしれなかった。

 

「右衛門作殿、大変でございます。指導者の皆様が、右衛門作殿を捕らえると言っております」

 嘉作が飛び込んできたのは、右衛門作が大江の浜で幕府方の使者と会った翌日であった。首謀者たちは右衛門作を裏切り者として処罰することに決めたのだ。

「嘉作よ、聞いてほしい。お主が心から神を信じ、神に仕えようとつとめているのは十分に分かっておるつもりだ。だが、お主が指導者と仰ぐ者はどうじゃ。四郎の旗にするといって我が祭壇布を奪ったのみか、切り刻んで使用するような者が真のキリシタンか。サタンは助ける者の姿で近づいてくるという。どうか皆を助けてほしい」

 首謀者たちは、右衛門作が講壇に飾る祭壇布として作成していた布絵を持ち出し、上下を切り取ってほぼ正方形の軍旗に仕立て上げたのだ。

 嘉作には右衛門作の言葉が衝撃であった。四郎の旗に選ばれたことも、名誉なことであり、さすがは右衛門作とただただ尊敬していただけだった。だが、絵師の魂が込められた作品、それも神に捧げた作品を切るという行為は、確かに神に仕える者の行いとしてはあり得ぬことだ。

「私はサタンに騙されているのでしょうか・・・・・・」

「さぁ、そろそろ捕り手がやってくるだろう。ここにいたらお主までも捕まってしまうかもしれぬ。行きなさい」

 右衛門作は捕まり、牢に監禁された。

 

 

 二月七日、信綱は自身の陣営に皆を集め、評定を行った。

「砲撃によって、三の丸は鉄砲狭間も無くなり、我らのみでも乗り込みが可能。これを占拠し、陣を敷けば二の丸、本丸を落とすも容易いこと」

 熊本藩主細川忠利である。これに柳川藩主立花宗茂も同意している。

「何も皆の手を煩わせることもあるまい。我が手勢だけで結構。何しろ、当方は上様から直々に島原、天草のことよろしく頼むとのお言葉を頂いておるのだからな」

 福岡藩主黒田筑前守忠之は、信綱着陣の頃から常にこの主張を繰り返している。

 皆が直接的な武力衝突を望んでいた。誰もが本格的な戦はこれが最後だろうと考えていたのだ。多くの大名が些細なことで改易される中、将来を安泰足らしめるためには戦での功績に勝るものはない。この戦に臨む誰もが子息を同伴し、我が子に功績を立てさせたいと望んでいた。これは武士として通常の感覚といえよう。

 信綱も皆がこのように考えているということは理解している。だが、彼の感覚では誰かが突出した功績を上げる必要はないのだ。

「筑前殿が公方様より頼りにされておることは十分に承知いたしております」

「ならば、早う城攻めの下知を下されよ」

「待てい。何を勝手な」

「そのような言葉なら、こちらももらっておるわい」

 部屋中が沸騰したような騒ぎだ。めいめいが、我こそはと声を限りに主張している。

「結構、結構。皆さま方全員が公方様の頼り。つまりは、ここに居る者は皆、公方様の宝ということにござる。これは、この伊豆めも同じ思い」

 ここまで言った時、にこやかだった信綱が表情を引き締めた。

「その宝を正月朔日の総攻撃にて失っておりまする」

 前の上使、板倉重昌が総攻撃の際に孤立し、撃ち殺された件である。騒がしかった雰囲気が、一気に冷えていった。

「その件について、公方様から直筆の書状を頂戴致した。公方様は皆の苦労は十分理解しておるが、大将を失うは武門の恥とお嘆きである。これを招いたのは、一人働きなどの身勝手な行いによるものとも仰せだ。まことにご尤(もっと)もなこと。これ以上公方様の宝を失うわけにはまいらぬ」

 信綱は、家光からの書状を皆に回した。

「これより、この戦の法を申し渡す」

一、皆々仕寄りを城際まで進め、陣を確保すること
一、石火矢、大砲、鉄砲による城壁への攻撃は、これまで通り続けること
一、籠城方も苦しくなっておるゆえ、近々夜襲があるかもしれず、柵を二重にいたし、火薬は船中で管理、火の用心に努めること
一、城内への力攻めは、皆の準備が整ったうえで、一斉に行う
一、一番重要なことだが、抜け駆けは厳禁とする

「城中に砲撃した際、思うたところに撃てず、効果の上がらないようなことがあれば、遠慮のう申し付けていただきたい」

 いわゆる弾道計算しようというのである。実際、城中に砲撃してはみたが、城を越えて海に落ちるなどといった事態がみられた。信綱は目標の距離、口径から仰角と火薬の量を計算し、指導することにしたのだ。信綱の子、輝綱はこのことがよほど印象に残ったのだろう。後年、鉄砲の口径ごとに火薬量と飛距離、威力の関係を研究し、書にまとめている。

 信綱は、一段と硬い口調を作り、次の言葉を強調した。

「重ねて言う。抜け駆け、一人駆けは禁止である。これに反した者はこの伊豆守が身命をかけてご公儀の裁きを受けさせ、改易と致す。此度、原城の仕置きにつきしくじることがあれば、生きて二度と江戸の土は踏まぬ覚悟故、皆々頼み申す」

 信綱渾身の演説である。ただ、ここで話された言葉と、信綱の決意が、幕府中枢を揺るがすことになるとは、この時誰が想像できただろうか。

 

 熊本藩主細川忠利は父親の忠興に宛てた書状で、信綱のことを次のように表現している。

「存じの外、伊豆殿は、万事の申されようが首尾一貫しており、腰が据わっている。これには下々もありがたがっておる。伊豆殿の下知がなければ、万事が静まらない。伊豆殿は実に出色の人物だと感じ入った」

 その細川忠利が失策を犯した。

 二月二一日深更、一揆勢は十代後半から四十代ほどの働き盛りを選んで夜襲をかけた。

 串山、小浜、千々石、口之津の者たち千余りが大江口方面の黒田勢を襲い、残る千六百余りが二の丸方面の鍋島勢を襲いながら井楼に火をつけようという計画である。一揆勢の目的は城を見下ろす大井楼を焼くこと、食料と弾薬を奪うことだった。

 大江口から抜けた夜襲隊は、先に触れた二手に分かれ、火をつけていった。

 この戦いで、一揆勢では二百九五の首が撃ち取られ、七人が生け捕られた。一方幕藩勢では死者七五、手負いが百七二である。中でも損失として大きかったのが細川勢の弾薬であった。この夜襲において、弾薬二山が一揆勢に奪われたのだ。忠利はこれを恥じ、総攻撃では、何が何でも一の功績を上げ、それをもって家光に詫びると心に決めた。

 

 諸大名が待ち望んだ総攻めは二月二六日と決まった。城を抜け落ちた者や夜襲の際に生け捕られた者たちの証言から、籠城方の兵糧が底をつき、限界に近付いていることが確認されたことが大きかった。

 二月二四日、信綱は皆を集め軍議を開いた。信綱は「抜け駆けした場合は改易となる」という誓紙を諸藩から得たうえで、軍法を定めている。この時定められた軍法は次のようなものである。

一、太鼓を合図に人数を出すこと
一、ほら貝を合図に軍勢を押し出すこと
一、つるべ撃ちに鉄砲を撃ち、総勢で鬨(とき)を上げること
一、総勢一同に攻撃すること
一、総勢の攻め時とみれば、火矢をすき間なく撃つこと
一、海手では番船を漕廻させ、鉄砲を間断なく撃つこと
一、後陣の衆は、下知なく先手を越えて攻撃しないこと
一、後詰より鉄砲を撃つことは固く禁ずること
一、先手衆の乗り込みが終わると、城内の小屋に火をつける役の者に火付けを命じること
一、城中に乗り込んだ軍勢は、大将の下知に従うこと
一、味方撃ちのなきよう申しつけること

 つまり、井楼からの一斉射撃で籠城方を後退させた上で城内に乗り込み、一気に片をつけてしまおうというものだ。

 だが、二六日は天候が荒れ、総攻めは二八日に日延べすることとなった。ただし、二八日は天候に関わらず、総攻めを実施し、再延期はないとも決められている。皆直接的な合戦に飢え、限界に近かったのだ。各藩は勇んで準備を進めた。

 佐賀藩鍋島勢も同様であった。藩主勝茂は着陣する前、まだ江戸にいるときから「鍋島一手による城攻め」「城内一番乗り」を繰り返し、家中に命じていた。信綱がやっと総攻めへの腰を上げたことで、勝茂は改めて家中に今回の城攻めの意義を説いている。

「よいか。日峯様ご逝去よりこの方、我らの代になって以降戦は初めてである。功を上げ、忠節を示すことこの一戦にあり。昼夜下々まで精を入れるべき覚悟、この節にありと心得よ」

 この時には、さすがに抜け駆けしての一番乗りをけしかけてはいない。だが、数々の大名家が改易の目にあっている中、徳川への忠節を示せていない鍋島家にとって、功一番となることは至上命題だった。鍋島家は日峯様、つまり藩祖であり勝茂の父である鍋島直茂が龍造寺家を乗っ取る形で作り上げたものだ。だが、勝茂の代となってからは、関ヶ原では西軍につき、大坂の陣では間に合わず、徳川への忠節を示すことができていなかった。「我らの代になって以降戦は初めて」とは徳川に忠節を示せる機会は初めてという意味なのだ。それでも、何事もなければ、一斉攻撃の中で功を競うというだけのことだったろう。その状況が変わったのは、総攻めの前日のことだった。

 二七日昼頃、久留米藩有馬勢から信綱に知らせが入った。原城二の丸に一揆勢の姿が見えないというのだ。藩主の豊氏は絶好の機会に、総攻めが早まるだろうと考え、諸藩にもこの情報を伝えている。しかし、信綱は足並みの乱れることを嫌い、二八日の予定に変更はないとして、諸藩に通達した。皆は了承し、明日の総攻めの準備を急がせている。ただ、鍋島勢だけは違っていた。

 久留米有馬家からの知らせを聞くと鍋島家では即座に、自家で定めた城攻めの際の手順に従って動き出している。まず、自陣から見て一番手前の土塁、二の丸出丸の一の土手にとりつき、出丸に進入した。砲撃によって城壁が破壊されていたこと、籠城勢がいなかったことから難なく二の丸出丸への侵入を果たした鍋島勢は、ここを最前線として陣を整えることにした。明日、総攻めの合図があった際、ここから攻め入れば一番乗りも容易いだろうとの判断からだ。

「何を悠長に構えておるか。今ならば二の丸への乗り込みも容易かろう。一手で功を占めることも可能であろうに。戦は期を見るに敏が鉄則ぞ」

 けしかけたのは軍目付として鍋島家についていた長崎奉行の榊原職直だった。軍目付とは各藩がどれほどの軍功を示したかを確認する役割だ。そのため、軍目付自身が武具を使用して戦うことはない。同行も、戦での行動を監視するためであり、軍事行動をけしかけるなど本来あることではない。ただ、この時職直は息子の職信を連れており、鍋島勢の先手に配属させていた。職直としては、この職信に手柄をとらせたかったのだ。

 鍋島勢は一応物見を放ち、二の丸の様子を確認させた。物見からの知らせでは、二の丸にも人影は確認できないという。ただし、二の丸と出丸を仕切る土塁、二の土手は砲撃にさらされておらず、ほぼ無傷のままだった。鍋島勢はこの二の土手をよじ登り始めた。これには、さすがに一揆勢も気づき、激しい戦闘がはじめられた。

 この騒動は城外にも伝わり、各藩が遅れてなるものかと城内になだれ込み、なし崩し的に総攻撃が開始されてしまった。信綱が一番恐れていた状況である。

 この騒ぎに信綱の息子輝綱も馬に跨り、そのまま出陣してしまった。これに気づいた岩上角左衛門は直ちに後を追い、輝綱の前に出ると道をふさいで大声を上げた。

「御前様よりのお言葉を伝え申す。『伊豆守は将軍家上使としてこの地に来たのであって、諸軍と功を争ってはならぬと、家中の者たちにも固く命じていたところである。ましてその長男がその様に抜け駆けし、先陣を争うなどあり得べきことではない。抜け駆けにあたっては、伊豆守が身命にかけて裁きを受けさせるとは諸軍にも申し伝えているところである。即刻帰れ』以上」

 信綱が直に言った言葉ではないが、正に信綱の気持ちの代弁であった。だが、頭に血の上った若者に道理で説き伏せるなど、どだい無理であろう。輝綱が無理にでも馬を進めようとすると、角左衛門は兜を脱ぎ、己の首を輝綱に差し出した。

「それがしの首を取らねば、戦に出ることまかりなりませぬ。思いを遂げるとあれば、切りなされ。さぁ」

 輝綱は角左衛門を鋭く睨みつけ、彫像のように時間が止まった。やがて、輝綱は馬の首を返し「はっ」と鋭く声を上げると、一鞭をあて、陣に返っていった。

 輝綱は信綱の子だけあって道理には明るい。しかし、若者に特有の熱さは、道理をねじ伏せようとしてくるため、すぐには落ち着くことなどできなかった。まず角左衛門を睨みつけることで、陣に戻るための行動に移すきっかけを自分につけ、帰陣後は一人閉じこもって過ごした。皆の前に姿を見せたのは二日後のことである。輝綱にも、この戦が終わればもう本格的な合戦など起きることはないだろうということは分かっていた。そして、武士として生まれたからには、一度は戦で己の力を示したいと思うのも無理はないことだった。

 ただ、この出来事は輝綱を成長させている。後年、事あるごとに「吾に武勲無きは角左衛門がためじゃ。ただな、人を止めようとする場合はあれくらいでなければならぬ」と若い家臣たちに話して聞かせるのが常となってる。

 角左衛門は島原天草の合戦の始末が落ち着いた後に家老となった。それだけ信綱の信任が厚かったということである。実は今回の件でも、輝綱の性格を鑑(かんが)みて、予め信綱との間で対処法を用意しておいたのだ。初めから輝綱を閉じ込めておかなかったのも、その方が学びになるだろうとの判断からだった。

 

 合戦は激しいものだが、全体としては幕藩勢の優位は歴然としていた。籠城方は皆命など惜しむ者はいないが、食料の不足から骨に皮が張り付いた幽鬼のごとき様相であり、己が撃った鉄砲の衝撃に倒れこむ者も多い。この日、城内に人影が見られなかったのは、動ける者総出で海岸に下り、食べられるものを集めていたからだった。結局、この時に集めた食べ物も口にする暇さえなかったのだが。

 鍋島家の抜け駆けから二刻後、現在でいえば四時間ほどで二の丸、三の丸を制圧。本丸に詰めるも日没のために本丸内に攻め入ることは避け、その場での攻防が続いた。

 翌日、夜明けとともに再び本丸攻めが行われ、八つ時、現在でいうところの午後二時過ぎには完全制圧に至っている。当初三万七千人といわれた籠城方は、城を逃げ延び保護を申し出た者、夜襲の際に捕まった者、一揆首謀者に処分された者などを除く、二万五千人ほどが家光の方針に従って、殺された。

 この時、監禁されていた右衛門作も助け出されている。

 

 その日の夜、城攻めについての評定が開かれた。集まったのは、上使の信綱、副使の戸田氏銕、総目付の井上政重、六人衆の三浦正次、軍目付の長崎奉行馬場利重と同じく榊原職直、府内目付林勝正と同じく牧野成純である。各自が目付として確認した諸藩の行動が開陳され、検討されていくのだ。

 一番乗りや敵の総大将四郎の首をとったといった主張が重複され、城内で監禁されていた山田右衛門作に首実検させることとなった。右衛門作はひどくやつれ、ずっと身動きができなかったことで、足も萎えている。だが、右衛門作も信綱も平静を装った。二人が知った仲であることをここで明かすわけにはいかないのだ。

 何体もの若い遺体が並べられ、一つ一つを確認していく。損傷の激しい者も多いが、それらを確認して右衛門作は落胆した。すべてが四郎の影であったのだ。捕まった者の中に四郎らしき者がいないことも分かっている。であるならば、本物の四郎は、とうに始末されていたということか。

 右衛門作は、適当な遺体を四郎のものとして選んだ。今更いないなど言えないではないか。籠城した皆は、そのいもしない四郎のために空腹に耐え、戦い、死んでいったのだ。

 遺体の中には嘉作の姿も確認された。嘉作は、右衛門作の描いた布絵で作られた軍旗の下に倒れていたという。きっと右衛門作の絵を救おうと、激しい戦いの中を駆け抜け、取りに行ったのだろう。「儂は皆のことを頼んだのだぞ。絵などどうでもよかったのに」右衛門作は必死に涙をこらえた。ここで涙を見せれば、嘉作の遺体こそが四郎のものと解されてしまうかもしれないからだ。

 選ばれた遺体は細川勢によって討たれたものだった。当然異論も出る。評定後、福岡藩黒田忠之が一番乗りと四郎討ち取りは黒田によるものだと直談判に及んでいるが、他の諸藩も同様に主張し、この日だけでも一番乗りを主張する者だけで十六を数えるまでとなっている。

 評定後直ちに、六人衆の三浦正次が江戸に向かっている。この時、評定では緘黙を貫いた榊原職直が土井利勝、松平忠明に宛てた鍋島勝茂の書状を三浦正次に託している。

 

 翌三月一日、信綱は二七日の行動の説明を求め、先手の衆をよこすよう鍋島家に通達している。これに対し鍋島家では、先手の者ではなく、重臣の鍋島茂賢、鍋島長昭を遣わせることに決した。先手の者では、何があったかは説明できるが、鍋島家の主張を押し出すことはできないと考えたのだ。

「二七日の鍋島先手の働きについて、委細説明いたすよう申し伝えたが、その方らが承知しているのか」

「いや、それがしらは後手にて全体を指揮いたしましておりますれば、委細は知らず。此度は御前様より、上使様の疑念がいずこにあるかを確かめるよう申し付かり、まかり越しました次第」

 この時点で、鍋島は甘く見ていたようだ。一番乗りを果たし、それによって籠城方を撹乱し、勝利を確実にした。武勲第一は間違いない。称賛されることはあっても、糾弾を受けるとは考えもしなかったのだろう。

 鍋島の使者の返事に、信綱は冷たかった。

「では、その方らに用はない。帰るがよい」

 鍋島茂腎らは必死にすがったが、信綱はさっさとその場から立ち去ってしまった。同席していた長崎奉行の榊原職直も思わぬ展開に焦りを隠せなかった。職直は鍋島勢に軍目付として同行していたが、その武功を確信していたため、まさか信綱がこのような態度をとるとは思わなかったのだ。

 仕方なしに帰陣した二人だが、あまりにも早い帰りに鍋島家では慌てて次の使者を向かわせた。二七日の先駆けに参加した大木兵部、中野内匠ら六人と家老の多久茂辰である。

 多久茂辰らは、信綱の前にひれ伏し、先の非礼を詫びると二七日の状況について六人に説明させた。

「当初は、翌日の総攻撃のために出丸の一の土手を占拠し、防御のための柵などを設けることといたしました。されど勢いを止めることは難しく、二の土手に向かい、さらに乗り越えようとして一揆勢と遭遇。そのまま交戦に入りましてござりまする。一揆勢は逃げ腰となり、これを追って二の丸に進撃。これが真の一番乗りでありまする。また、二の丸で放った火が風に追われて広がり、これが本丸を攻める道となり申した。此度、原城落城につきましては、我らの働き無類なりと存じまする」

 鍋島勢の説明は己の行動を弁解するのではなく、むしろ武勲を誇るものだった。これに対しても信綱は冷淡な反応を示す。

「委細はそれまでか。では、帰ってよい」

 鍋島勢は、もう一つ失敗を犯している。一揆の落人を捕らえ、己の奴隷とするべく船で自領に送ろうとしているところを細川勢に見つかり、信綱に通報されている。いわゆる乱取りである。これも信綱が合戦にあたって禁止している行動だった。信綱は、捕まえた者に関してはしかるべく対処するよう鍋島家に通達している。

 

 三月六日昼頃、原城についての第一報が江戸にもたらされる。細川越中守忠利によるもので、「二七日、越中守の人数が先乗りいたし、本丸を乗っ取り申し候」と自軍の軍功を誇るものだ。この書状は二七日の夜には送り出されている。未だ戦の最中であり、細川家が早飛脚などいかに周到に用意していたかが分かる。

 九日の夕刻には、三浦正次が江戸に戻っている。正次はすぐに謁見を求めず、まず、土井利勝、松平忠明に鍋島勝茂から預かった書状を渡した。鍋島勝茂は土井利勝、松平忠明ら家康、秀忠時代からの重臣たちに取り入ることに成功していたのだ。そのため、今回の合戦でも、武勲第一は鍋島であると、二人から家光に伝えてもらおうとしていたのである。

 この時、書状を預かった六人衆の三浦正次は、母が土井利勝の妹であり、一時は土井姓を名乗っていたほど、利勝に近しい間柄であった。

 また、松平忠明は、家康の娘を母に持ち、秀忠が亡くなる時に幕府顧問として井伊直孝とともに任じられた人物で、現在は上方における監督格にあたる。正式な役こそないが、その存在は幕府にとって実に重い。鍋島家とのつながりも濃く、勝茂の息子に忠明の娘が嫁いでいる。

 三浦正次帰参が知らされると、家光はすぐに報告を求めた。

「二七日、まず鍋島勢が一手で原城二の丸出城にとりつき、二の丸に攻め入ったことは間違いござらん。これによって諸藩の攻め入る道がつけられ申した。正に一番乗り。武門の誉れにござります。諸手一番は隠れなきところ」

正次の報告では、功第一は鍋島家であるとされ、先に届いていた細川家の働きなどは全く無視されている。

「まさに武功ここに極まる。鍋島勢に比べれば、他の功など霞んでしまいましょう。ぜひとも上様より感状を賜りますよう、お願い申し上げまする」

 土井大炊頭利勝の推挙により、鍋島家に家光の感状を送ることが決まった。

 十二日には太田資宗が家光の感状を持参し、有馬に向かっている。

 江戸において、この時点での評判は鍋島一色といっていい。嫡男に土井利勝の娘をもらっている堀直寄が三月十四日付で鍋島勝茂に宛てた書状には次のように記されている。

 まずもって二月二七日、落城における鍋島勢の働き、諸手一番は隠れなきことと、三浦志摩守殿江戸に戻られた際、上様に伝えられております。昨年来四度の戦いにおいて、いずれも貴殿様のご家中の働きは比類なきものと、そのお手柄を諸人が噂しております。右の旨、三月十三日に土井大炊頭殿とお会いした際も、再三このことだけをお話されており申した。島原もおおかた貴殿様にご加増になるものと存じます

 土井利勝は島原を鍋島に加増するよう働きかけを始めており、おおかたその方針に固まりつつあった。利勝にしてみれば、酒井忠勝との政権争いにこのところ押され気味であり、家光との関係も冷たいものになりかけている。これを一気に挽回するためにも、自分が庇護している者が武勲を立てたということを最大限アピールする必要があったのだ。

 

 三月二十日、太田資宗は小倉に着いた。そこで信綱が西九州を巡回中であることを知り、合流するために長崎に向かった。途中、寺井で佐賀藩主鍋島勝茂が太田資宗を出迎えている。この時、資宗は家光からの感状を勝茂に直接渡し、再び長崎を目指した。

 三月二二日、長崎にて信綱は太田資宗と会っている。資宗は江戸での評定の模様を伝え、鍋島勝茂に対して家光の感状を渡したことも話している。

 三月二五日、信綱は長崎を発ち、平戸に向かっている。平戸にはオランダ商館があった。ポルトガル中心の外交から、オランダ中心の外交へ移行していくため、オランダ方を見聞したのだ。三十日には平戸を発って、小倉に向かっている。信綱はこの小倉に幕府上使衆、諸大名を集めた。

 四月四日、島原の合戦についての大会合が開かれた。場所は前小倉藩主細川家ゆかりの開善寺。諸藩では藩主が家老などの家臣を従えて参集し、会合の参加者は二百を上回っている。

 まず、今回出陣した諸大名に対する家光の上意が示された。

「上様の上意である。此度有馬において昼夜骨折り、苦労に思う。また、有馬においていずれも精を出し、早々に一揆制圧を済ませたこと、満足に思う」

 太田資宗が上位を申し伝え、信綱も二月十一日の夜襲のことなどにも触れ、諸藩家臣衆に対し労いの言葉をかけている。この中には鍋島家の家臣たちに向けた言葉もあった。

 次に島原藩主松倉勝家、右近父子、唐津藩主寺沢堅高に対する処分が申し渡された。松倉氏は改易の上、身柄は他家へのお預け、寺沢氏は天草領を没収となった。

 一通りの申し伝えが終了し、誰もがこのまま会合は終わるものと思った。そして、席を立とうとする者もあらわれた時である。

「あいや待たれよ」

 信綱が皆を制した。怪訝な顔をしながら皆が座りなおす。

「此度、二八日の総攻めと決していたものを、鍋島勢が軍法を違え、にわかに二七日の城攻めとなった。諸勢油断なく攻めたおかげで、残らず城を乗り崩すことがはきた。しかし、たとえ一手をもって城を落としたとしても、軍法を違えれば、この伊豆が必ず公方様に言上し裁きにかける。申し分あれば、その時申されよ」

 信綱の口調は至って静かである。そのため、その心の底に燃え滾る怒りを読み取るのは難しい。鍋島勢としてみれば、すでに家光の評定は済んでおり、家光からの感状もいただいている。何を今更事を荒立てる必要があるのか。甚だ迷惑だといった様子を見せていた。この時点では、誰もが信綱一人いきり立ったところで大勢は変わらないだろうと考えていたのだ。

 だが、この時鍋島勝茂の脳裏に一つの映像が浮かび上がった。着陣当日、冷たい雨の中を諸藩が用意した陣屋や温かい食べ物、風呂や寝具などを頑なに断り続けていた信綱の姿である。これを思い出した時、勝茂は急に恐怖に襲われた。

 さっそく信綱が宿にしている小倉町人木屋善加の邸に向かい、信綱の家人、小沢仁右衛門に取次を頼んだ。

「ただ今、申し渡されたるところ、ご鬱憤のところ、誠に当然至極のいたり。恐縮に堪えませぬ。然れども、この信濃守、決して軍法に背いたわけではございませぬ。目付けの飛騨守がなしたこと。長崎に使いを出し、証文をもらい受けてまいります」

 鍋島勝茂は全ての責任を榊原職直に負わせている。どうにかして信綱から許しをもらおうと必死であったのだ。

 これに対し小沢仁右衛門は「御前様はお会いになりません」と応じるだけであった。正に門前払いの形である。

 信綱に会うことがかなわなかった勝茂は、書状を送っている。会合の後に沸き上がった恐怖は消えるどころか、強くなる一方だ。できることは何でもしなければ、居ても立ってもいられない。

 有馬において、目付けである飛騨守が鍋島の先手と共に行動された。この時、上使のご両所には飛騨守よりよくよく申し入れておくと請け合われたため、安心しておった次第。

 勝茂はこう記している。これに対する信綱の返事は、「飛騨からは何とも言ってきてはいない」とだけである。勝茂は完全に恐慌をきたした。長崎奉行榊原職直に書状で泣きつき、職直に打開してもらうことにした。

 職直にとっても、無視はできない。職直が鍋島の先手と行動を共にしていたことは周知の事実だ。当初は息子の武功にもつながると考え、職直自身強調さえしていた。いまさら知らぬでは通じない。勝茂と職直の間で書状のやり取りが頻繁に行われた。

 四月十四日には、二人をさらに落胆させる出来事が生じている。土井利勝が動いていた鍋島家への島原加増の話が棄却され、浜松藩主高力忠房へ島原転封が命じられたのだ。

 二人の反応はなりふり構わないといった様相となる。勝茂、職直ともに釈明書を信綱に送り、勝茂は再び説明の使者を送っている。さらには二度と軍法を違えぬと神に誓った起請文まで信綱に宛てて届けている。

 信綱が小倉を離れたのは四月二十日である。途中、大阪城によって西国における有事に対する対応方法について協議している。出席者は、大阪城代の阿部正次、大阪定番の稲垣重綱、大坂町奉行の曽我古祐と久貝正俊、そして家光の叔父にあたり幕府顧問ともいうべき松平忠明である。

 話は、今後西国で有事の出来(しゅったい)した時、今回のように江戸において対応を協議し、各藩に命令するのでは後手に回ってしまう。そのため大坂の幕府機関に西国有事の際の軍指揮権が必要である。このことについて帰参後、信綱から進言するという形で進んでいった。誰にとっても有意義な話しである。満足感の中、原城合戦の様子に話題が移っていったのは自然だった。

「まこと此度の諸藩の働きは素晴らしいの一言でございまする。ただ、当初二八日に総攻めということで諸藩と心合わせておったのですが、鍋島家が抜け駆けをいたし、これを救わんと策もないままに戦に突入してしまったこと、誠に無念でなりませぬ。これにつき、後日藩主を江戸に呼ぶことに決め申した」

 実にさらりとした物言いだが、松平忠明が鍋島勝茂の後ろ盾と知った上での宣戦布告である。これに対し、忠明の方ではこれといった対策を立てていない。将軍の評定が決した以上、これを覆すのは将軍を辱めることであり、不可能と考えたからだった。

 

 信綱が江戸に戻ったのは五月十一日の夜である。この一行の中に右衛門作の姿もあった。ただし、かつての下男右衛門作ではなく、原城合戦の生き残り、山田右衛門作としてだ。信綱がその身を引き受けたのである。右衛門作としても初めての拝領邸である。誰もかつての右衛門作を知る者はいなかった。本当の姿を知っているのは、信綱の他には右衛門作の後任を任された奥村権之丞のみである。

「長い間苦労をかけたな」

 江戸に着いたその夜、信綱は右衛門作と二人の時間を作った。

「此度のこと、吾が力不足を思い知った。もっと早くに対処しておれば、合戦などにはならなんだものを。こんなことを話すも厚かましいが、許してくれ」

 頭を垂れた信綱に、右衛門作は慌ててしまった。

「お顔をお上げくださりませ。͡この度のことは誰であろうと止められるものではございませんでした」

「いや、柳川の一件があったからにしても、そなたからの報告や松倉家臣の訴訟のことの意味に気づいておれば、対処もできたはずだ。少なくとも失われる命を少なくはできたであろう」

 改易となった松倉家に代わって島原藩に入ることとなった高力氏が、松倉の江戸下屋敷に入った時である。土蔵から塩漬けの死骸が見つかった。その後も、土に埋められた死骸が多数見つかている。早くに介入し、松倉勝家を処分していれば、事態も違った局面を見せたかもしれなかった。

 二人は黙り込んだ。右衛門作にしてみれば、信綱を攻める気持ちはない。ただ、様々なことが思い出され、口を開くのが怖かった。右衛門作は、自分がどんどん小さくなって消えていくような錯覚に襲われていた。

 沈黙を破ったのは信綱であった。

「葵が亡くなってしもうた。もう一年になる」

 右衛門作はふっと顔を上げ、信綱を見た。「葵」懐かしい名だ。

「孫などに囲まれ、さぞ幸せだったことでしょうな」

 あの葵ならそうに違いない。右衛門作は心底信じていた。

「生涯独り身を通した。何度も縁談を持ち掛けたのだが、頑なに断りおってな。時折ここにも顔を出し、右衛門作は達者でやっているかなどと聞いてきおった」

 本当に葵か。右衛門作自身、そのような葵の姿を何度か夢想した。しかし、右衛門作が知る葵はそんなことをするとは思えない。・・・・・・いや、右衛門作自身が目をそらしていたのではないのか。葵の心にも、自分自身の気持ちにも。

 怖かったのだ。だから、「葵が自分を好いてくれるはずなどない」「自分は忍びなのだから、当たり前の幸せなど求めてはいけない」「自分にしかできない勤めがあり、恋沙汰などにかまけている暇はない」などと自分を偽っていたのではないのか。

 右衛門作の目から涙が零れ落ちた。一度堰を切った涙は、とめどもなく溢れていく。右衛門作は顔を覆うことも、涙をぬぐうこともしなかった。ただ、そこにはいない何かを眺めながら、いつまでも涙をあふれさせていた。

 

 五月十二日、信綱は副使の戸田氏銕とともに登城。しかし、この日は「日が悪い」とのことで家光との拝謁は行われていない。

 翌日の午後、信綱と氏銕はそれぞれ島原にも同行した息子たちを連れ、中奥の黒書院に入った。この拝謁自体は何事もなく終わっている。だが、信綱が退出する際、呼び止めた者がいた。御側衆の中根正盛であった。正盛は余計なことは言わない。ただ、「上様からだ」と書状を渡した。そこには「日が暮れたなら平川口から二の丸へ入るように」と書かれてあった。平川口ならば人目を忍んで二の丸に入ることができるというのである。

 この当時、家光には長女千代姫はいるが、嫡男はなく、二の丸は家光が政務からも大奥からも離れ、静かに過ごせる場所だった。この台間に家光は信綱を入れた。信綱は輝綱を伴っていたが、輝綱を控えの間にとどまらせ、一人家光との密談に臨んでいる。話は夜明けごろまで続いた。

 明けて十四日、信綱は家光の命として鍋島勝茂、榊原職直の召喚を老中に申しつけている。これに対し、土井利勝、井伊直孝が強く反対した。今更評定を覆せば、家光の威光に関わるというのが表向きの意見だ。「伊豆が上様を丸め込んだ」というのが素直な気持ちである。これに対し、原城合戦における鍋島勢の行動を吟味することの実現に信綱は尽力した。鍋島に罪があるかどうかは吟味した後のことだ。吟味さえ拒むのは、かえって疑いを招くというのが信綱の趣旨だった。

 五月二二日、ようやく鍋島勝茂に対し江戸召喚を告げる書状が出されている。勝茂に書状が届いたのは六月四日のことだった。書状には、島原のことで榊原職直を召喚するので一緒に来いとある。しかも、その書状に署名している老中衆の名が、鍋島家に出された感状に記された者たちと同じである。信綱の署名はない。そのことに、勝茂は震えあがった。まるで信綱が「署名が同じということは、先の感状などなかったものと考えよ」と囁いているように感じられたのだ。この時期、勝茂は信綱に対して恐怖症的な反応をするようになってしまっていた。

 そんな勝茂をさらに恐怖させたのは、三日後に同じ内容の書状が「念のため」と再び届けられたことだった。必ず来い。来なければどうなるか保証はないぞと言われているようなものだった。

 このころ、江戸の大名屋敷の間では、様々な噂が飛び交っていた。

「鍋島家が飛騨に転封されるそうだ」

「出羽だと聞いたぞ」

「いや、改易の上遠島と聞いている」

「土井大炊頭も駿河に転封されるらしいぞ」

 こうした雰囲気の中に身を曝さなければならないのだ。では拒否すればどうなるか。幕府に対し謀反の意ありととられかねない。

 六月五日、家中の者が総出で見送る中、勝茂の籠は江戸へと向かった。遅れること二日。長崎奉行の榊原職直が召喚命令に従い、江戸に向かっている。

 幕府は箱根の関所などに、「鍋島の一行であれば夜中でも通せ」と通達した。鍋島勝茂が江戸屋敷に着いたのは、六月二三日である。二五日には酒井忠勝から明日の出頭と告げられている。鍋島家では改めて、どのように挑めばよいか家臣らを集めて議論した。尻込みし、消極的な意見が続いたが、勝茂の庶嫡男で佐賀藩の支藩小城藩主鍋島元茂が一喝した。

「我々の粗忽(そこつ)さからこうなったのである。家はつぶれるときにはつぶれるもの。一番乗りが我々の主張であるならば、潔く一番乗りを主張するまで」

 大方の者が頷いている。

「お待ちくだされ。我方の強みばかりを告げたのでは作り話と受け取られかねませぬ。ここは律義に、有り体のまま申し上げてはいかがか」

 末席にいた中野兵右衛門である。そのままを包み隠さずに話す。それが決まるまでに深夜過ぎまでかかっている。そこまでして、皆で意思統一をするのは、主家を奪った末にできた鍋島家としての事情だった。

 そのまま床に就くこともなく、夜明けを迎え出立の時刻となった。とはいえまだ日も上がっていない刻限である。勝茂は奥方、孫子たちを呼び、水盃を交わしている。

「めでたくご帰館されますこと、お祈りいたしております。万一の時には、鍋島が名を汚さぬようなさりませ」

 継室の菊の声に後押しされるようにして邸を出た。五男直澄が手燭を持ち、嫡男元茂が勝茂の腰の物を持つ。籠に乗る勝茂以外は皆徒歩である。家臣も十人ほどがついている。

 また、八重洲河岸の辻番所にも勝茂の問い合わせに即対応できるよう、中野内匠、大木兵部、鍋島市佑らを詰めさせた。

 評定所に着くと勝茂は土井利勝、酒井忠勝に使いをやり、評定の席への元茂同席を願い出ている。しかし、これは許されず、先手を務めた者以外は控えの間に詰めているよう言い渡された。ただし、「控えの間の者とはいつでも協議なされてかまわない」という返答である。

 勝茂が評定の間に入ると、すでに榊原職直が畏まっていた。幕府側は酒井忠勝、井伊直孝、土井利勝、阿部忠秋、堀田正盛が並び、惣目付以下の役人も列座している。松平信綱、戸田氏銕は列席していない。今風に言えば信綱たちは原告側であり、尋問する者とは別の扱いだったわけだ。

「この度、有馬表へ上使として伊豆守、采女正が派遣された。その後、上使を通じて、万事上使の両人と相談し、下知に従うべしと命じた。これに加え、両人が定めた軍法もある。しかるに、二月二八日の城攻めと決められておりながら、二七日に城乗りしたはいかなる理由かを訪ねよとの上意である」

 この場に家光はいない。酒井忠勝が家光の質問を代わって告げたのだ。

 このころの家光は軽躁状態が続き、活発に活動している。昨日も忠勝邸に押し掛け、今日の質問事項について遅くまで話し込み、そのまま大奥ではなく二の丸に籠っている。家光にとっては、この時期が一番充実感にあふれていたようだ。

「有馬原城に二七日城乗りした事情につき申し上げます。二の丸出丸の一揆勢が空き退いていたため、上使殿の命で出丸の土手に鍋島の先手が押し寄せ、盾、竹束をもって占拠いたしました。ところが、一揆勢が二の丸の土手裏から鉄砲を撃ちかけ、横矢を強くうってきたため、先手が反撃いたし、二の丸に乗り入って小屋に火をかけ申した。先手を指揮いたしまする鍋島元茂、直澄はともに若輩のため、何の遠慮もなく出丸から二の丸に乗り込み申してござります。鍋島先手の二の丸乗り込みは、一揆勢との交戦によって生じたもの。これをもって先駆けといわれるは、迷惑千万。二七日の城乗りは、かねて企んだものに非ず。それが証拠に、先手の人数はその日の仕寄当番であり、他の者は陣所にて控えておりまする。城乗りは先手の者が交戦の中で起きたことであり、陣所本体は参加しておりませぬ」

 鍋島勝茂の返答がこれである。

「個人的に尋ねたきことがある」

 井伊直孝が次の質問を口にした。

「世の噂では鍋島の目付役榊原職直が出丸へ一番乗りしたというが真か」

 これが本当であれば、鍋島勢の独断ではなく、幕府役人からの命に従ったということになる。

「その場にいなかったので分かりかねまする」

 井伊直孝はこの質問で鍋島家を救おうと考えていただけに、肩透かしを食った形となった。

「分かる者はないか」

 勝茂は家臣の河浪勘左衛門を評定の場に差し出し、答えさせることにした。

「お尋ねの城中乗り入れは、出丸の土手のことと存じます。二七日は出丸の土手を当方で固めることを目的としておりましたが、一揆勢が二の丸の土手裏から激しく撃ちたててまいりましたゆえ、榊原職直殿も出丸の土手を乗り越えて進まれてございます。正月元日の城攻めにおいて、上使殿を結果的に見殺しにしてしまったこともございますゆえ、当先手が榊原殿を追い越し、二の丸に乗り込み、小屋に火をかけましてございます」

「これにてお判りいただけましたか。口上にては失念の恐れあり、予め書に詳しきことをまとめておりますので、どうかお納めくだされ」

 この日の評定は昼過ぎに終了している。長い一日だったが、どうにか乗り越えたと勝茂は胸をなでおろす思いだった。

 

 評定が終わると列席の老中たちは家光のもとに向かい、質疑応答の様子を報告している。これに対し家光は目を輝かせて耳を傾け、細かな質問を重ねた。そのため、新たに確認しなければならないことが生じ、二回目の評定が開かれることとなった。酒井忠勝からこのことを聞いた鍋島勝茂は、目に見えて肩を落とした。

 

 同席していなかった信綱のもとに、阿部忠秋が評定の様子を知らせに来た。忠秋は信綱とは竹馬の友である。唯一の味方といってもいい。

 ここで評定に出た者たちの関係を整理する。井伊直孝、土井利勝は明らかに鍋島勝茂の側にある。そして堀田正盛もこちらとみていい。堀田正盛は家光の乳母である春日局の義理の孫にあたる。春日局の子、稲葉正勝が死んだ後は、養子として迎え入れてもいる。信綱にとって春日局は江戸城内の母ともいうべき存在であったが、正盛は土井利勝ら長老たちと親しくしていた。酒井忠勝は土井利勝と不仲であったが新勢力を抑えるという点では利勝と利害を一にしている。つまり、評定に出る者の中で忠秋が唯一の例外であり、信綱はまさに四面楚歌の状態にあるのだ。

「長四郎、今度ばかりは相手が悪い」

 忠秋は信綱のことを未だに幼名で呼んでいる。

「御長老方が総出で長四郎のことを敵と認めてしまっておるぞ。かの天下のご意見番さえも年寄り衆の溜まりに押し掛け、長広舌をふるっていきおった」

 天下のご意見番とは大久保彦左門のことだ。この年七九歳。家光への報告も終え、今後の進め方などを話していたところに押しかけ、長々とまくしたてていったのだという。

「この度、鍋島に罪をきせるは不当なり。今の軍法は茶の湯の軍法ともいうべし。なんとなれば、茶の湯の集まりは、明朝何時に会を催すのでお集まりくださいと案内する。これを受け、客も刻限を違えず、前もって沐浴などして真新しき衣に着替えてまいる。まさに只今の軍法なり。総じて戦は刻限を取り決めるなどすれば勝ちを得るは難い。いにしえの名将を見ても不意の計略を戦の第一としておる。鍋島は敵のすきを見、城を落とす攻め時とみて即座に動いておる。そのため二の丸を乗っ取ることができた。鍋島が動かなんだら、大勢を集めながら城を落とせかったではないか。万一、鍋島にお咎めがあり、国元が叛けば追討の軍を差し向けねばならぬ。されど鍋島は武門の家。町民、百姓ことごとく家臣の被官筋とも聞く。しかれば軍法を守って攻めるとも、容易く落ちはせぬであろう。そのような中、攻め手の軍勢の中に武道の心がけありの士あり、諸手をおいて抜け駆けし、これを落としたるを、軍法に背いたとして征伐いたすか。これ天下大乱の基なるぞ。これは彦左衛門の申し分に非ず。ひとえに権現様のご託宣である」

 翌年亡くなる老人とは思えぬ気炎ぶりもさることながら、家康のご託宣とは実に大げさな物言いである。忠秋もすっかり気をのまれてしまった。

「大したご老よ。だがな、公方様の様子はどうであった。生き生きとしていたであろう。柳川の一件において公方様自ら尋問すると言われたとき、一緒にいたな。なんと言われたか覚えておるか」

「たしか、早く老中になって補佐せよ、か」

「他に誰がいた。なぜ正盛が呼ばれなかったと思う」

「・・・・・・大それたことを考えておるな。分かった、力添えが必要であれば何でも言え」

 家光を大将とした孤軍が静かに決起した。

 

 信綱は評定衆が結論を出すのを座して待ってなどいない。活発に動いていた。鍋島家の転封の噂が具体的な地名とともに広まっていたが、候補地の選定にも関わっている。

 転封の場合、移動先はどこでもよいというわけにはいかない。転封先に藩主がいれば、それとの調整も必要となってくるのだ。

 今回候補地として噂されている場所は、飛騨と出羽だった。飛騨は三万八千八百石の高山藩のみで、他は天領、つまり幕府の直轄地である。天領であれば、転封先としては好都合だ。一方の出羽は、庄内藩を治めている酒井家の嫡男には信綱の娘が嫁いでおり、近しい間柄だ。信綱の根回しも可能と思われる。いずれも現実的な候補地であった。

 また、土井利勝にも駿河への転封の噂があった。利勝の転封自体は一年前にも取りざたされたことがある。一年前といえば家光が、まだうつ状態から脱していない時期だ。家光と利勝はそりが合わず、気うつを重くさせないよう利勝を遠ざけようというのが発端だった。ただこの時は、具体的な候補地も出ないまま、家光も軽躁状態へと移行したためにそのまま沙汰なしの状態となっていた。

 しかし、今回の噂では駿河という具体的な地名が囁かれている。駿河は家康が大御所時代に根拠地にしていた。その後、家光の弟忠長が入った。そして、その忠長が自刃した後は天領となっている。徳川所縁の地ではあるが、現在の土井家所領である古河よりも江戸から離れている。絶妙の地ともいえた。

 今回の転封の噂は、土井利勝のみが処罰の対象だと印象付けることが目的だった。そのことで、利勝と犬猿の仲にある酒井忠勝を取り込もうとしたのだ。だがこれはやりすぎだったようだ。酒井忠勝は危機感を膨らませ、井伊直孝を仲介として土井利勝と手を組んでしまった。

 信綱は、違う手を考えざるを得なくなったのだ。

 

 六月二八日、二回目の評定である。

「二月二七日、一揆勢は鍋島勢によって二の丸から追い出されたのであるか。こうしたことを、なお尋ねよとの上意である」

 一回目と同じく、家光の質問を酒井忠勝が代わって訪ねるという形で始められた。

「二の丸の土手が高く、一揆勢の人数までは知れませぬ。一揆勢は出丸には出てまいらなかったため、尚更でございまする」

 鍋島勢は初めから抜け駆けの意思があったわけではないことを強調しようとした答えだが、この時勝茂は家光の罠にかかっている。一揆勢を二の丸から追い出せるほどの準備を整えていたのであれば、出丸に仕寄りを取り付け、明日の城攻めに備えるという目的を越えている。勝茂もそれには気づいた。だが、これもひっかけである。一揆勢が出丸にまでは攻め出てくることがなかったのであれば、出丸にとどまったまま防御を固めておけばいいのである。

「鍋島は二の丸に入ると、左手の小屋に火をかけ、これが周りに移って一帯を焼きたてたと申しておるが、世の噂では左手の小屋のみではなく、その途端に右手の小屋にも火をつけたとある。いかがか」

「上使殿にも釈明いたしましたが、右の小屋は鍋島先手によるものではなく、榊原殿の手の者によるもの。時も先手が左の小屋に火をかけた途端などではござりません。茶を一服飲めるほどの間がございました。重ねて申し上げまするが、当方に積極的な乗り入れの意思などござらなんだのは事実」

「出丸、二の丸における鍋島勢の死傷者はいかほどか」

 土井利勝である。

「都合百七十人ほどでございます」

「内、出丸と二の丸を隔てる土手の手前ではいかほどになるか」

 酒井忠勝が重ねた。

「二の丸の土手の手前における死者は二人でございます」

 

「これで鍋島家が意図的に抜け駆けしたのが明らかになりましたな」

 評定は昼前には終了し、井伊直孝、土井利勝、酒井忠勝、堀田正盛、阿部忠秋は本丸内の御用部屋に移って刑をどうするか、話し合うことになった。

 この中で、阿部忠秋だけが、興奮していた。出丸と二の丸を隔てる土手の手前における鍋島家の死者は二人。出丸では激しい戦闘などなかったといっていい。この状況ならば、出丸に陣をとどめていても問題はないのだ。

 だが、他の者たちは忠秋の発言を黙殺した。

「鍋島家を罰することに関しては、大久保翁、紀州大納言、天海和尚、加賀前田肥前守など多くの者が赦免を訴えておる」

 発言したのは井伊直孝である。これを次いだのが酒井忠勝だった。

「確かに、軍法を犯しはしたが、功績、事情を考えれば、軽い刑でよろしかろう」

「それでは島原に出陣した諸藩が納得いたしません。諸藩の中では、早いうちから鍋島家の行いに批判が噴出いたしておったというではございませんか」

 忠明は必死に取りすがった。

「そのようなものは、功を嫉んだひがみというものだ。どうしてもというのなら、榊原を重く罰しておけばよい。あの親子がけしかけたのは事実だからな」

 土井利勝の発言で方針が決まった。

 五人は黒書院で家光に会い、審議の報告と刑の方針についての申し出ている。これをもとに家光は翌日、六月二九日に決定した刑を件(くだん)の五人に申し渡している。家光が下した判決は次の通りである。

  • 榊原職直、および職信父子を押し込めとする
  • 鍋島勝茂は出仕停止とする

 押し込めとは役人監視の下で邸の一か所に閉じ込められる刑罰である。一方、出仕停止は閉門し、屋敷内で謹慎することとなる。

 五人は家光の判決を受けると、それを訴えた側と訴えられた側に報告する役割をこなすことになった。

 まず、本丸菊の間にて松平信綱、戸田氏銕に伝え、次いで酒井忠勝の邸にて榊原職直、榊原職信、鍋島勝茂に伝えられた。

 この判決に、鍋島勝茂は安堵の息をついた。一方、榊原職直は予想外の申し渡しに呆然としていた。長崎奉行である職直にしてみれば、幕府が守るのは自分の方だという思いがあったのだ。

 

 

 七月十九日、松倉勝家が預け先で死罪となった。松倉家の江戸屋敷から出てきた数々の死骸から、今回の一揆についてのみでなく、その政務に根本的な問題があると判断されたのだ。

 その日、信綱の上屋敷の一室。陽だまりの中、濡れ縁で庭を向いて座る右衛門作の姿があった。

「そこにおられたのですか」

 右衛門作の小さくなった背中に声をかけたのは、奥村権之丞であった。権之丞にしてみれば右衛門作は甲賀の先達であり、信綱への仕官を推薦してくれた恩人である。そのため、右衛門作のことを気にかけ、たびたび様子を見に来ている。

 右衛門作は江戸に戻って以降、抜け殻の状態だった。周囲からは、すべてに対し厚い壁を作り、自分の世界に閉じこもってしまっているように感じられる。

 そんな右衛門作が一度だけ、激しい怒りを覚えたことがある。その相手も権之丞だった。

 右衛門作は権之丞を後継者として後を任せていたため、権之丞から不在時について報告された。その中に、西ノ丸普請場での事故があった。これに対し権之丞は、事故から信綱を守れなかったことを詫びている。これに対して、右衛門作は怒りを覚えたのだ。信綱を事故に合わせたことについてではない。

 右衛門作にとってそれは事故などではなく、何者かが信綱の命を狙ったことが明白なのだ。ヨシキリを追った時の顛末、実家にて長療養を強いられた不調、そして家光を狙った刺客の存在。これらを考えあわせれば、誰を神輿に担いだ者の企みかも分かる。事実、その神輿に担がれた者が処分され、一切の可能性が立たれて以降、信綱は怪我も病も得てはいないではないか。それを事故と断じていることが腹立たしかったのだ。

 しかし、右衛門作はすぐに己の失策に思い至った。己にとっていくら当然至極であっても、他の者にとってはそうではないのだ。

 右衛門作は信綱の人となりや役割、日課などについては事細かに申し送っている。だが、ヨシキリ追いや長療養、家光暗殺未遂については失念していた。あまりにも当然の情報だったからだ。

 あるいは実家での長療養については家人から聞いたこともあるかもしれない。だが、葦原から家光の小姓たちを置き去りにした者が、何かにおびえた様子を見せていたことなど、右衛門作しか知らないことなのだ。

 右衛門作は己の無力に打ちひしがれ、深い沼の底に沈みこんだ。怒りを覚えてから一瞬のうちである。権之丞も気づきはしなかっただろう。いや、もしかすると気づいたのかもしれない。権之丞は右衛門作から後継者として認められたほどの能力者だ。気づいているからこそ、もう一度沼の底から上がってきてもらうために、関わり続けているのだろうか。

「本日、松倉勝家が刑に処されました」

 一揆の原因を作った人物である。にも拘らず、右衛門作に反応はない。何を見ているのか、あるいは見えていないのか、同じ姿勢のままである。

「何をなさっておりましたか」

 右衛門作が微かに顔をしかめている。誰かに似たようなことを尋ねられた気がする。それも、ごく親しい者にだ。その声や顔が思い出せそうになるが、その度鋭い痛みが頭を襲う。これまでにも何度かあった。むろんこれは嘉助のことだ。右衛門作は、嘉助のことを思い出してもいい状態に至っていない。そのために、脳が拒否しているのだ。この時、権之丞は背後にいたために、その微かな反応に気づいていないようだった。

「・・・・・・雀が・・・・・・遊んでおってな・・・・・・」

「右衛門作殿も鳥がお好きであられましたか」

 好きなのだろうか。嫌いではないが、好きかといわれると違う気もする。誰か、もっと鳥が好きだった者がいたような気がするのだ。

「御前様も鳥がお好きで、今も度々お鷹屋敷に鷹を見に出かけております」

 そうだ、鳥が好きだったのは信綱だ。右衛門作の頭脳が少しずつ明瞭になっていく。

「ただ、いつのことでしたかお供した際、妙なことを口になさいまして。確か、鷹はよい。だが、吾は吾の道を行くのみだ。確かこうでございました」

 右衛門作がゆっくりと振り仰ぐ。権之丞は予想外のことに驚きを隠せずにいた。だが、権之丞の方に顔を向けていても、権之丞を見ているわけではない。右衛門作は、そこにはいない者に心の中で語りかけていたのだ。

   どういう意味なのでございますか。

 自由に飛ぶことに憧れを感じてでもいるのか。しかし、鷹師に飼われている鷹ならば、いずれ必ず鷹師の許に帰ってくる。それほど自由とも思えない。では、単独で己の能力を発揮していることへの憧れか。うなずけるようにも、見当はずれなようにも感じられた。

   己は本当に、信綱様のことを分かっているのか。

 右衛門作は生まれた時から信綱を知っている。そして、誰よりも早くその才を見抜き、出世への道案内をしてきた。だが、信綱は幼いころから右衛門作の想像の外にいなかったか。信綱ならば、己の力のみで出世の道を切り拓けたのではないのか。

   己は何一つ分かっていなかったのか。

 右衛門作は再び、前に向き直った。そこにはもう雀の姿はなかった。どこかに飛んで行ってしまったのだろうか。しかし、右衛門作はそこにはもういない雀に、どこに視点があっているのか判然としない目を向けていた。

 権之丞はため息を一つ漏らすと、静かにその場を去っていった。

 

 

 十一月七日、本丸黒書院。井伊直孝と老中の土井利勝、酒井忠勝、松平信綱、堀田正盛、阿部忠秋、六人衆の土井利隆、酒井忠朝、三浦正次、阿部重次、朽木植綱が家光に呼ばれた。

「公方様の御意である」

 家光が座に着くと側近が家光の言葉を伝え始めた。

「大炊頭、讃岐守は、今まで仰せつけられていた細かな役目は赦免いたし、毎月一日、十五日に出仕せよ。その間、御用ある場合は年寄り衆とよく相談すること。これに伴い、対馬守に伊豆守、豊後守並みの御用を命じる。また、遠江守、備後守は御役を御免とする」

 大炊頭は土井利勝、讃岐守は酒井忠勝のことであり、対馬守は阿部重次、遠江守は土井利隆、備後守は酒井忠朝のことである。つまり、利勝と忠勝を後年大老と呼ばれるようになる名誉職として実務からは外し、代わって重次を信綱、忠秋と同じ老中に昇格させるというのだ。これだけならば昇進であり、報奨人事といえるが、そうではない。利勝の子である利隆、忠勝の子である忠朝の二人が六人衆を解任されていることを見れば、明らかに旧勢力を幕閣から遠ざけるための人事と分かる。日は違うが、堀田正盛は老中のままではあるが実務を解かれ、家光の御側衆に命じられており、三浦正次も翌年には六人衆を解かれている。

 これが家光と信綱が出した解決策であった。鍋島家の始末がついて以降、これを活用して旧勢力を一掃し、家光が病気療養中でも家光の意思を継いだ形で、安定した政治体制をいかに作り上げるか、試行錯誤が繰り返されていたのである。

 初めは軍法に背いた鍋島勝茂に対し、家光に感状を出させたことを追求し、利勝を罰することも考えた。だが、それでは周囲が黙っていないだろう。鍋島勝茂に対して同情的な反応を示した者たちが、それ以上の反応を見せるのは明らかだった。罰するという形で、事を進めることはできない。

 利勝の駿河転封も検討されたが、領地を江戸から遠ざけたとしても、老中のままであれば何も変わらない。

 そこで、栄転という形にしたのだ。これであれば、周囲の反応も抑えることができる。さらに、利勝のみではなく、忠勝に対しても使える。これによって、松平信綱、阿部忠秋、阿部重次の三人が政務の中心をなすこととなった。さらに勘定奉行、寺社奉行、町奉行といった中央の幕府機構、大坂町奉行、駿府町奉行などの地方の幕府機構をも老中が統括することとなった。家光配下の新勢力が幕府を治めることとなったのである。家光の念願がかなった瞬間だった。

 

 

 同年十二月二九日。老中松平信綱、阿部忠秋、阿部重次が列席の上、酒井忠勝の邸に 鍋島勝茂が呼び出された。赦免の申し渡しのためである。

 その日、井伊直孝は未だ謹慎のために門を閉ざしていた鍋島家上屋敷に出向いた。

「早くご門を開けられよ」

 年にも拘らず大音声である。川浪勘右衛門と中野兵右衛門が屋敷内から出て応対する。この二人に対し、赦免されたことを告げ、

「この度のご蟄居、面目、これに過ぎるものはなし。武門として、うらやましい限りじゃ」

と言い置いて去っている。これが、直孝の宣戦布告であった。この後、信綱は古き価値観の亡霊たちとの戦いを強いられていくのだった。

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