御老中

 謹んで申し上げる

 松倉家において、昨年末に続き、再び落ちる者あり。数五十ばかり。みな若衆ばかりなり     

 信綱への報告を書き始めた時、右衛門作の役宅の前が騒がしくなった。右衛門作は素早く筆を走らせた部分を切り取り、口に入れて飲み込む。そして、金の無心のための文章を書き始めた。このような時に紙を焼こうとしてはいけない。焼くのに時間がかかり、燃え残りから内容を知られてしまう恐れがある。もし焼けたとしても灰が残り、何かを隠すために燃やしたことが知れてしまう。一方、飲み込んだものは腹を裂かれれば見つかる。しかし、それは最悪の場合である。捕まらない工夫をし、飲み込んだことを隠し通し、何よりも死なないための努力をする。それが忍びの考え方だった。

 どかどかと足音高く入ってきたのは、右衛門作も知った顔だった。松倉家を落ちた浪人たちである。入ってきた者だけで五人。外にも三人ほどいるようだ。松倉家の者に見つかれば大変なことになるが、実に大胆な行動である。逆に言えば、それだけ松倉家が手薄になっているということでもある。

「一緒に来てもらおうか」

 声をかけてきたのは松島半之亟だった。半之亟の父は有馬家で家老を務め、有家村に知行地を持つ家柄であり、有家村のキリシタンにとっても中核的な存在であった。有馬直純から強く棄教を迫られて拒否。知行を没収され浪人となっている。半之亟自身も浪人となっていたが、松倉家が入国した際に召し抱えられ、勝家の代になって再び浪人となっている。

「若衆たちを引いたのもお前たちかい」

「その通りだ。あの者たちも、この地の民らの行先を真剣に考えておってな。喜んで我らに協力してくれている」

「何をする気だ」

「転び証文をとらされ、棄教を告げたとしても、宣教師がおれば信仰に帰ることもできる。だが、宣教師はみな追放されておる。我々は何に頼ればいいかを示し、天主様の国を作る」

「立ち帰ってみても弾圧が厳しくなるだけだろうが」

「だから天主様の国を作るといっておろう」

「もう一度聞くぞ。何をする気だ。民らを戦に巻き込むつもりではなかろうな」

 吾知らず声が高ぶっていた。忍びに徹していたつもりだが、民らと長く過ごしているうちに情が移ったのだろうか。あるいは、大河内に奉公して以来の体験が人の心を取り戻させたのだろうか。右衛門作は、半之亟に激しい怒りを覚えた。

「何を今更。ここの民らは海岸の守りを任されておるではないか。だからこそ、城が破棄された南部にも武器庫がある。いざとなれば、地元の者どもが鉄砲を撃つ。これが有馬の時からの伝統よ。筒先に立つものが誰になるかの違い。それも無念千万の相手となれば、みな喜んで引き金を引くさ。お主も冷遇され、恨みは募っているのだろ」

 半之亟が右衛門作の手元の書面を顎で示した。どうやら信用されたようだ。このことで、右衛門作は冷静さを取り戻すことができた。

「成功するわけがなかろう。下手をすれば皆殺しになる」

「大丈夫だ。指揮は我々がとる。諸藩は幕府の許しがない限り、手が出せないのが決まり。ここは江戸から遠い。幕府の許可が下りる前に城を抑えれば、対等に話ができる。そのうえで、この地だけはキリシタンを許すことにしてもらう。ここであれば、ポルトガルからの支援も受けられるからな」

「すべては絵空事よ。そもそも幕府が対等に話すわけもない」

「我々は其方のような臆病ではないのでな。成功するために進めていくのみだ。どうだ、ここまで聞いた以上はついてくるか。さもなくば、ここで斬られるか」

「よかろう、ついて行く。だが、お前たちに得心がいったからではないぞ。お前らに任せていれば民らがかわいそうだ。だから行く」

 

 

 寛永十五年(1638)五月、再びうつ状態となった家光の気晴らしにと、二の丸にて猿楽が興行され、松平伊豆守信綱と阿部豊後守忠秋が担当することとなった。信綱と忠秋はともに老中に就任しており、幕府責任者直々の催しである。

 猿楽師は各家がお抱えの者を雇い、日頃より準備をしておくものだが、信綱は酒たばこはもちろんのこと趣味趣向、娯楽の類には全く手を出していない。当然自前の猿楽師はおらず、借り物の急ごしらえだ。猿楽は主となるシテにワキが絡むことで構成される。このときは忠秋のシテに信綱のワキという構成であった。

 楽器が鳴り、舞が始まる。だが、シテとワキの間が合わず、非常にちぐはぐとしたものとなってしまった。

 終了後、信綱と忠秋は即座に家光の前にひれ伏す。周囲は家光が怒りのあまり二人を斬り捨てるのではないかと息をのんだ。しかし聞こえてきたのは、家光の大笑いであった。

「いや、実に面白いものを見せてもらった。どうじゃ、もう一番見せてくれぬか」

 近頃は眉間に皺を寄せた顔つきしか見せていない家光が、満面の笑顔を見せている。さっそく、再演の準備をし、ちぐはぐな舞が再現された。

「この度ばかりは、伊豆殿も命拾いいたしましたな」

 酒井讃岐守忠勝に、隣にいた者が話しかけてきた。

「其方にはそう見えたか。あれはすべて仕組んだことよ」

「わざとと申されますか」

「初見とはいえお互い匠であれば、打ち合わせなりすればそれなりに舞えよう。打ち合わせをせぬなどありえないこと。流派が違おうと基本となる曲はある。他流の者と初めて合わせるに、秘伝の曲を用いることもあるまい。伊豆守は自ら猿楽師を持っていないこと、周りから間違いなどない者だと見られておることを承知のうえで、逆手にとったのよ。これを他の者がやってみたところで、打ち首になるだけ。まぁ、それにしれっと付き合える豊後守もなかなかの狸ぶりだがな」

「そこまで考え抜かれたものとは。如何精進を積みますれば、かような知恵を蓄えられましょうか」

「伊豆守の知恵は蓄えるというものではないわ。あれは泉のようなものよ。次から次へと湧き出てきおる。以前豊後守にも申したことがあるがな、伊豆守とは決して知恵比べをしてはならぬぞ。あれは人と申すべきものではないからな」

「豊後守殿でも敵いませぬのか」

「さよう。まっ、見習うならこの讃岐を目指すことだな」

 

 猿楽の会を終えた信綱は自邸ではなく、養父正綱の邸に向かった。葵が病に臥せっていたからだ。葵はすでに五十を超えている。周囲から散々に嫁入りを促されていたがとうとう独り身を通してしまった。そのため、正綱の家の者が面倒を見ていた。

「これは若様、わざわざの起こし痛み入ります」

 体を起こそうとする葵を信綱は制した。四二にもなる者に若様もないだろうが、葵はこの呼び方を続けている。信綱も葵にだけはこの呼び方を許していた。

 信綱を見る葵の瞳がぼんやりとしている。

「右衛門作殿からの便りはまだないのですかねぇ。元気でいるのかしら。あの人は器用な方ではないから、何か困っているんじゃないかしら」

 ぽつりぽつりと葵が言葉を置いていく。右衛門作からはもう二年ほども便りがなかった。

「もうすぐだぞ葵。もうすぐ右衛門作が帰ってくる。そうしたら一緒に暮らせ」

「嫌ですよ、若様。揶揄(からか)わないでくださいな。あの人があたしのことなんか覚えているわけないじゃないですか」

 淡い花が咲いたような笑顔だった。この夜、葵は息を引き取った。

 

 

 島原地方で大規模な一揆が発生したとの報が幕府に届いたのは、この年の十一月九日のことである。報せを受け取った信綱は直接家光に報告するため、目通りを願った。

 家光が部屋に入るなり信綱は平伏する。

「この度、松倉領島原において大規模な一揆が発生したとの報せが届きました」

 信綱は平伏したまま、文書を家光に渡す。

「このことにつき、公方様にお詫び申し上げねばならぬ事あり。調べましたるところ四年前、当の松倉家の者より城主勝家の行いにつき訴えがございました」

「決はいかがした」

「訴えを退けましてござりまする。しかし、これを申し伝えたのは訴えを受けて二年の後」

「それだけ充分に審議したという事であろう」

「お恥ずかしながら、充分とは言えぬかと。ちょうど同じとき、かの柳川調興の一件が起こり、皆の関心がそちらにいってしまい申した。かく言うこの伊豆めも切れ切れに松倉家のこと聞き及んでおり申したが、注意が足らず。松倉の家臣らも最後の頼みと訴えに出たものを、そこまで捉えることができませなんだ。この時点で対処いたしておれば、此度の一揆も事前に抑えられたかと思うと、大変に申し訳なく、面目次第もございません」

「その訴訟、伊豆が担当であったか」

「いや、そうではございません。しかし、気づくべきであったかと」

「ならば、伊豆に責はあるまい。されど、恥じる心あれば、挽回せよ。大事と分からぬうちには老中自ら出張るは幕府の恥となるが、もし大事と分かればこの始末伊豆に任せる。よいか」

「ははぁ、有り難きお言葉」

「さっそく皆を集めい」

 

 対策検討のため、家光のもとに集められたのは、老中である信綱、土井利勝、酒井忠勝、阿部忠秋、堀田正盛と大目付の柳生宗矩らであり、御側衆の中根正盛も控えていた。

「一揆であれば訴願に対する交渉が重要事となりましょう。その点についての巧みを上使にするがよろしかろうと存ずる」

 家光の意を汲んで発言したのは酒井忠勝であった。今回、島原、天草においての蜂起では未だ訴願が提示されたという知らせはないが、通常の一揆では城主もしくは幕府に対して何らかの訴えを起こす。つまり鎮圧だけではなく、交渉術も必要なのだ。

「板倉内膳正(ないぜんのかみ)が宜しかろう。大阪では冬夏と出陣し、功も上げておるし、豊臣との和睦の際にも交渉役として大任を果たしておる。また、五年ほど前であるか、肥後の加藤が改易した後を受け、細川越中守忠利、忠興、小笠原忠真の転封の際の上使も任されており、かの地には縁がございますれば、適任かと」

 忠勝に負けぬよう土井利勝が具体的な人事案を発言する。

 板倉内膳正重昌は十六歳にして徳川家康に仕え、信綱の養父松平正綱らとともに近習の出頭人となった人物であり、御書院番頭として将軍警護の任にも当たっていた。従五位下、三河深溝藩一万五千石の大名である。

 重昌を上使にすることで纏まりつつあったところ、異を唱えたのは大目付柳生宗矩であった。

「一揆勢は代官を殺し、島原の城を襲っておりまする。今後も武力をもって対立すること必至。なれば諸大名らの合力が必要となりましょう。内膳正の位ではあまりに軽い。諸大名の重しには不足であり、足並みは乱れること間違いなし。何卒ご一考願い奉る」

「小事において重き者を用いるは、幕府の小心を笑われよう。内膳には小事であるか、大事であるかの定めを任せる。大事と定まれば直ちに代わりの者を向かわせる。小事であれば、内膳の得意とするところ、問題もあるまい」

 家光自らが意見したことで、重昌を上使として派遣することが決まった。同時に、副使として目付の石谷貞清をあてること、江戸に詰めていた松倉勝家、寺沢堅高を即刻帰領させるとともに、鍋島、有馬、立花、細川の四家に出動を命じている。

 散会となった後も宗矩は一人憤慨しており、退出しようとした御側衆の中根正盛を捕まえた。

「上様は人の心を解しておらん。あのような指示を出せば、内膳正は無理にでも小事と決めつけ、自ら解決せんとするだろう。その時は死ぬぞ。しかも犬死。残った家族には手厚く報いるよう上様にお伝えしておけ」

 後日、宗矩の慧眼が証明されるのだが、この時は誰もが普通の一揆と信じていたのだった。

 

 

 島原、天草での蜂起は偶発的なものでも、突発的なものでもない。首謀者たちが長期的に計画し、準備してきたものである。

 寛永十二年(1635)における松倉家臣四八名の退去が引鉄となり、翌寛永十三年(1636)八月にも大勢が抜けている。十三年の退去は松倉家だけではなく、天草を含む唐津藩寺沢家でも起きており、しかも、いずれも十代の若衆ばかりであった。首謀者たちは、この若衆らを天草の千束島に匿い、棄教した者たちを立ち帰らせる宣教師役兼蜂起のための工作員に約一年をかけて育て上げたのだ。

 この間、拉致同然で連れてこられた右衛門作はミサを開くときのシンボルとして、キリストや聖母子などの絵を幾枚も描かされていた。ただ、絵の具の量には限りがある。右衛門作は絵の具を薄く解いて、全体に淡い絵に仕立てるしかなかった。

 右衛門作の絵を持参し、各村々で若衆たちが活動を開始したのは、寛永十四年(1637)の六月頃からである。彼らは二五年前に日本から脱した宣教師が言い残したという予言を活用し、村人たちに末世到来の気分を煽り、救世主として天より遣わされた奇跡の子である四郎を主としてキリシタンに立ち帰ることを説き勧めていった。

 寛永十年(1633)あたりから続く旱魃はひどくなる一方で、すがれる何かを求めていた人々は、棄教したことを後悔し、若衆たちに許しを請うた。若衆たちがそれを聞き、神の許しを保証することで、人々は次々にキリシタンへと立ち帰っていったのである。

 ただし、立ち帰った者たちの信仰は、以前とは微妙に異なったものになっていった。それは、信仰の中心に四郎がいるからである。

 後に益田四郎時貞として知られる少年は、多くの伝説に包まれ、実態が分からない。右衛門作にしても、実際に見ているにも拘らず、彼が周囲から四郎と呼ばれていることくらいしか知らないのだ。容姿は美しいの一語に尽きる。南蛮絵のモデルとしてこれほどの逸材はない。全体の雰囲気が、幻想的なのもいい。口元には絶えず微笑が作られているが、それすら現(うつつ)のものとは思えなかった。そんな印象を強める要素の一つが、一切しゃべらないことだ。四郎の言葉とされるものは、常に側近から発せられ、言葉どころか声すら聞いたことがない。四郎のそばには、まったく同じ格好をした若者たちが五人ばかり控えていた。彼らは四郎の分身であり、影武者のような存在だ。忍びとして情報収集に長けた右衛門作にしても、四郎に関してはこの程度しか知りえなかったのだ。そのため、島原藩や唐津藩でも、長らく架空の人物と考えられていたのである。

 

「右衛門作殿、何をお描きですか」

 右衛門作付きの小者として右衛門作の身の回りの世話をしている嘉作が声をかけてきた。

「いずれ皆が集まり、宣教師によるミサが復活した際に講壇を飾るものだ」

「見事なものでございます。真ん中にあるのは聖杯でございますか」

 右衛門作が描いているのは、幅が現在の尺度で約110cm、高さが230cmほどの綸子である。色は淡い黄色で、よく見ると卍崩しに菊花の地紋が織られている。

 中央には縦線の上部が短く、下部が長いラテン十字をつけた聖餅とそれを受ける形に聖杯が描かれている。聖餅は聖杯からやや浮いており、聖なるものであることが印象付けられている。さらによく見れば、聖餅の十字の頭部にINRI(ユダヤ人の王ナザレのイエス)と書かれ、イエスの聖体であることを強調している

 それを挟むように翼のある天使が向き合って祈りをささげている。天使の手は指を組むのではなく、合掌の形である。

 これらの上には古いポルトガル語で「いとも尊き聖体の秘蹟ほめ尊まれ給え」と書かれている。

 さらに上方に目をやると葡萄や無花果といった果実の間を遊ぶ鳩が描かれている。画面の下部に目を移すと、魚が戯れる川面の上に薔薇や百合といった花々が咲いている。これらの画題もキリシタンにとってはそれぞれ大切な象徴をなす文様であった。

「いつごろ完成するのですか。実に待ち遠しいです」

「いや、当分は無理だろう。実は持参してきた絵の具が底をついてしまった」

「それは無念でございます」

「かえってこれでよいのかもしれん。いつか何の憂いもなくこの絵を完成させられる平和な世が来ること。それが私の願いなのでな」

 平和な世とは反する戦乱をここの者たちは目指している。だから、平和な世を願っているというのは皮肉でもあるのだが、この若者では気づくまい。芯から神の教えを信じ、それに関われることに喜びを感じている。四郎の影の一人であり、四郎と同じような衣服をまとっていた。年齢は十八と聞いたが、実に純朴で好奇心も強いために幼く見え、十五の四郎の影を務めることができたのだ。松倉家に仕えていた当時から、右衛門作に対して純粋な尊敬の情をもっていた。そこで身の回りの世話を志願したのだという。神の技を持つ右衛門作のことを熱く見つめているが、まるで、目を離しているうちに奇蹟が行われているのではないかとでも思っているのだろうか。謀の首謀者たちが右衛門作の様子を尋ねれば、喜んで細かなことまで話す。本人は自覚していないだろうが、これほど監視役に適した者もいなかった。

 嘉作はしばらく右衛門作の絵に見とれた後、はっと我に返った。

「これはいけない、申し忘れておりました。皆さま近々湯島に移られるとの由。右衛門作様もご一緒願いたいとのことでございます。支度などお手伝いは致しますので、ご遠慮なくお申しつけください」

 右衛門作は「いよいよか」と心の中で舌打ちした。湯島は島原と天草諸島の中間点に位置する小島である。千束島から湯島に移るということは、島原や天草での活動が本格化していくということだろう。確実に事態は進行しているようだった。

 

 長く続く旱魃による不作は島原藩にとっても大きな打撃となった。松倉家では生き残りをかけ、江戸城普請など石高を上回る規模の負担を自ら引き受け、支出が過剰となっていたのだ。このため、年貢の未納取り立てが喫緊の課題であり、対応を迫られていた。そして、この責任者に田中宗甫を任命している。宗甫は元家老であったが、老齢のため子にその後を任せ、引退していた者である。重要な任務を任せられるほど優秀だったのだろうが、引退した老臣を引っ張り出さなければならないほど、島原藩では人材に不足していたのだ。

 寛永十四年(1637)九月、宗甫は各村を回り、年貢の皆済を強要していった。

 九月の末、宗甫は口之津村に入った。ここの大百姓与三左衛門は村のまとめ役として小百姓らの未納分を肩代わりし、未納高が三十俵に上っていた。与三左衛門は延期を願い出たが、宗甫はこれを拒否。与三左衛門の息子嫁を捕らえ、籠に入れたうえで川に浸した。水籠と言われる責めである。

「やめて下され。嫁はもう子が生まれようという体。変わりは私でも息子でもお好きな者で構いませぬ。何卒嫁だけは、嫁だけはお許し下され」

 与三左衛門は必死に取り付いたが、与三左衛門が苦しむほどに効果があると判断したのか、そのまま攻めは続けられた。

 川面からは顔が出ており、息はできる。しかし、冬に入った川は冷たく、体温を奪っていくために意識も薄れていく。そうなれば溺れることになるため、片時も気を緩めることは出来なかった。さらに、川の流れが速く、これに抗うためには全身に力を入れておく必要があった。

 責めは六日におよび、嫁は水の中で子を産み、そのまま母子ともに亡くなってくなってしまった。

 その夜、与三左衛門の家に皆が集まった。弔いのためである。憔悴した与三左衛門に誰もがかける言葉を失った。

「このようなことがまかり通るとは・・・・・・もはや生きていても仕方ない・・・・・・」

 項垂れ、丸くなった与三左衛門の背中は細かく震えている。

「お気持ち痛いほどに分かります。田中宗甫と申す者のやりようは、まさにサタンの所業と申せましょう。今後もこれが続き、次は誰の身に降りかかるか、考えるだに身が震えてまいります。これでは生きていても詮無いことと思われても当然でございましょう」

 与三左衛門に声をかけたのは、口之津村で布教に努めている若衆であった。若衆は与三左衛門の後ろに回り、肩を抱くようにして耳元に囁いた。

「さぞ辛いことでしょう。ですが、まこと死を恐れぬならば、その前にやるべきことがありましょう。サタンは討ち果たさなければなりません。それがデウス様の思し召しです。サタンに負けてはなりません。そうなれば、亡くなったお嫁様も神のもとに行くことが叶わなくなってしまいます」

 与三左衛門はゆっくりと顔を上げた。その目は異様な炎を宿していた。

「やるぞ。サタンを討ち果たしてやる」

 与三左衛門が田中宗甫殺害を決意すると、次々に賛同する者が続いた。これを村中に伝える者がおり、最終的には八百人近くが集まる騒ぎとなった。

 この騒ぎは田中宗甫も知ることとなり、宗甫は急いで島原城に逃げ、命を長らえることができた。

 十月十日、島原の南地区、南目の各村から庄屋たちが、有馬村庄屋の甚右衛門の屋敷に集まり、会合をもった。年貢の取り扱いについて相談するためである。一通り村々の現状が話される中、口之津村の甚右衛門が事の顛末を説明した。

「侍殺しは叶わなんだが、皆は城の者の言うことには従わぬと息巻いておる」

 これを受けて、おずおずと話し始めたのが深江村の勘右衛門であった。

「みなも同じように考えておると思うが、このところの年貢の重さは尋常なものではない。これでは納めたくとも納められぬわ」

 中木場村の久兵衛も続いた。

「実は、皆にそのことで相談しようと思っていたところだ。村の困窮はひどいとしか言いようがない。今年などはもう蓄えもなく、食うものもない。どのように言われようが、たとえ殺されようが、これ以上納められるものはない。だがそれを納めろと言ってきおる。この先どのような辛き目が待っているか、空恐ろしいとは思わぬか」

 めいめい頷く中、深江村の勘右衛門がしみじみとした口調で呟いた。

「有馬様の時分は、耶蘇宗門も繁盛し、五穀も豊穣であったに・・・・・・」

 各村の庄屋たちは、どこもこれ以上年貢を払うことができないということを確認し、疲れた様子で帰路についた。

 

 不安に満ちた世にキリシタン立ち帰りの動きが、島原で増大していった。特に南目でその傾向が強く、それを先導しているのは千束島から放たれた若衆たちである。

 当然、島原城でも不穏な気配は気付いており、各村に代官および下役人を派遣し、道、船着き場の警戒を強めている。

 十月二四日、島原城では討伐の軍を出すことに決めた。

「有馬村にて百姓どもがキリシタンに立ち帰り、無作法なことを申しておる。中でも三吉と角内は本尊を掲げて村人を集めている。両名を捕らえてまいれ」

 指揮を任されたのは、林小左衛門である。小左衛門は騎馬八、足軽二十を連れ、船で有馬村に向かった。有馬に着いたのは、とうに夜も更けた頃であった。さっそく三吉、角内の家を探らせると人が集まっている様子が確認された。小左衛門は兵を三吉、角内の家にそれぞれ踏み込ませ、両名およびその家族の拘束に成功している。だが、その騒動に気づいた村人たちが集まってきたため、討伐勢は鉄砲や槍で威嚇し、下がらせようと試みている。しかし、村人たちは少しも怖気づく様子はなく、むしろ弾に当たるほど喜びを感じているような様子で、ゆっくりと迫り続けた。討伐の軍が両名およびその家族を船に乗せ、島原城に向かったころには、翌日の未明となっていた。

 有馬村では、三吉と角内が連れ去られたことで、村人たちの興奮状態が続いていた。島原城では様子を捕らえるため甲斐野半之助と代官の島久太夫を派遣している。有馬村に姿を現した半之助らに対し、村人たちは鉄砲を撃ち、礫(つぶて)を放って襲い掛かり、半之助を殺害している。

 どうにか逃げることに成功した島久太夫により、甲斐野半之助殺害が知らされると、島原城ではさっそく討伐の軍を出すことを決めている。大将は家老の岡本新兵衛であった。

 島原城で討伐軍編成の会合がもたれていたころ、有馬村では非常に大規模なミサが催されていた。これは代官の林兵右衛門をおびき寄せるための策であった。兵右衛門はミサの現場に急行。手の者とともに突入を図る。ミサの会場に兵右衛門らが踏み込んで来ると、村人たちは素早く外に逃げ散り、身を隠した。そして、兵右衛門らが出てきたところを囲み、殺害している。なぶり殺しと言ってもいい有様であった。

 島原城に林兵右衛門殺害の報が届いたのは午の刻であった。事は一刻を争う。岡本新兵衛率いる討伐勢は船二十艘で有馬村に急いだ。

 昼七つ、現在の時刻でいえば午後四時を過ぎた頃、新兵衛らの船団は有馬村の沖に着いている。だが、新兵衛はそこで船団を止めた。うす暗くなった村々の所々に、赤く炎が舞い上がっているのが見えたのである。場所からすると、寺社などであるようだ。それが有馬村から深江村にかけて、転々と確認できる。

「村の者どもが寺などに火を放っておる。今のところは深江村の辺りまでだが、勢い余ってそのまま北上すれば城が危ない。一方、このまま村に戻るならば、押し出してすり潰して見せよう。いずれになるか、今しばし様子を見る」

 新兵衛はそのまま停船させ、様子見を続けることにした。

 この頃、島原南目を中心とした村々に次のような書状が送られていた。

きっと申し遣わす。

当村の代官林兵右衛門がデウス様に敵対したので、これを打ち殺した かねがね天人が申されていたのもこのことである。 村々の代官をはじめ、ゼンチョ(異教徒)は一人残らず討ち取らねばならない。 そのためには村を越え、宗門として団結しなければならない。 これ、くれぐれも背くべからず、村々へ廻状を廻す次第である。

 署名には佐志来作右衛門と山善右衛門とある。佐志来作右衛門とはいかにも作り名らしいが、これは松倉家浪人の松島半之亟であった。右衛門作を拉致した際にも同行しており、謀の首謀者たちの中でもリーダー格と言える。半之亟は三吉、角内が捕らえられた後に有馬村に入り込み、興奮状態にあった村人たちを蜂起へと導いている。善右衛門も千束島で謀を巡らせていた首謀者たちの一人であるが、実はこの時有馬村にはいない。してみれば、この廻状はあらかじめ用意されていたものと考えられる。これをもってしても、半之亟たちが、いかに用意周到に村人たちを誘導していったかが分かる。

 この廻状を受け、各村に入っていた若衆の先導により、南目の村々では代官殺害を蜂起のしるしとしていった。首謀者たちは、代官を殺すという行動によって、村人たちを戻れない状況に追い詰めたのだ。この時、殺害された代官は六人を数えている。

 各一揆勢は寺社やそれに携わる者、異教徒や立ち帰りを拒む者の家を焼き、殺害しながら徐々に島原城に迫っていった。

 また、島原の南端、口之津では藩の武器庫である御用蔵を一揆勢が襲い、兵糧五百石、鉄砲五百挺余り、弾七箱、火薬二五箱、弓や長柄多数を奪っている。

 岡本新兵衛が帰城を決めたのは翌二六日未明のことであった。そのわずか後には、一揆勢が深江村に集結。先方隊を島原城に向かわせ、城下を焼くとすぐに退散している。これによって島原城近郊の村々では城内に逃げ込む者が続出している。これに紛れ、一揆勢は選んだ四十名を城内に進入させることに成功した。

 深江に集結した者たちはそのまま代官二名を殺害している。これに対し討伐の軍を出すことが決められたのは昼八つ、現在の時刻で午後二時を回ってからだった。島原城では人手の不足が深刻化していたのだ。

 松倉勢はまず島原城のすぐ南に位置する安徳村に入ると、人質を取ったうえで庄屋たちに道案内をさせている。安徳村の南、中木場村に入った時には庄屋の喜右衛門が自ら道案内を買って出たため同行させている。

 深江村の境に古い砦があり、そこに一揆勢が立てこもっているらしいとの情報を得た松倉勢は、砦を囲ませるが人の気配が感じられない。斥侯を砦に向かわせたが、大勢が籠っている様子はないという。確認のために押し入ると、広い屋敷の中には、年老いた者、体の不自由な者といった男女五名ほどがいただけだった。

「儂らはみなキリシタンだ。ほれ、切れ」

 年老いたキリシタンたちは、次々に自らの首を差し出した。

 一揆勢は、一緒に行動することができない者だけを残して、どこかに移動したらしい。松倉勢は深江村の中へと進んでいった。しばらくすると窪地がある。松倉勢がそこに下りきった時、窪地を望む高台に一揆勢が湧き出、鉄砲を一斉に放ってきた。不意を突かれた松倉勢は多くの手負いを出したが、一揆勢が次の射撃のために弾込めをしている隙をついて反撃に転じた。

 火縄銃は一発ごとに弾と火薬を込め、火口にも火薬を注ぐといった準備が必要である。一斉射撃では次の準備までに間が開いてしまい、反撃を受けやすいのだ。にも拘らず、一揆勢が一斉射撃を選択したのは、信頼できる撃ち手が少なかったからである。一方の松倉勢は鉄砲を二組に分け、交互に討つことで絶え間ない射撃を可能とした。一揆勢は退却を余儀なくされ、庄屋の屋敷に逃れた。

 庄屋屋敷は建屋が二棟あり、その一方を戦闘力のない者に充てた。そこでは女子供らがオラショと呼ばれる経を高らかに唱えていた。

「ぐるりよーざ どーみの いきせんさ すんでらしーでら きてやきゃんべ ぐるーりで らだすて さーくら おーべり」

 オラショの声に押され、働き手は屋敷の周りに逆茂木を立て、菱をまき、弓矢で松倉勢を撃ちたてた。

 松倉勢は一揆勢の射撃の合間を利用し、じりじりと距離を縮め、屋敷に火をかけることに成功する。一揆勢は屋敷を抜け出し、南に向かって逃げ去った。

 この戦闘による死傷者は、松倉勢で六十人ほど、一揆勢では三百人余りと言われている。

 

「何者だ。そこで何をしておる」

 島原城内にある武器蔵の影にしゃがみこんでいる人影を家臣が見つけたのは、城の守りを評議しようという頃合いであった。この時、いったん後退していた一揆勢が有家、布津、堂崎などの勢力も加え、島原城に向かっているとの報告がもたらされていたのだ。

「城内に逃げてきた者でございます。何しろ勝手が分からず、どちらへ行けばよいやら、迷っていたところでございます」

 勢いよく立ち上がり、ぺらぺらと話し出したのは、貧しい身なりの農民であった。慌ててはいるが、うろたえた様子は見えない。

「そうか、それは難儀よのう。して、そこにしゃがみこんでいたのは何ゆえか」

「いや、ここまで来ました時に、急に胸が苦しくなりまして。えぇ、これは持病でございます。時々このような状態になりますが、しばらくしゃがみこんでおりますと落ち着いてまいります」

「それは辛いのう。医者に見せておるのか」

「見てもらいたいのですが、あいにくそれまでの蓄えもございませんもので」

「よくないのう。ところで、その隅に置いたものは何かな」

 家臣が指さしたのは、武器蔵の壁に着けるようにして置かれた袋であった。

「これは失礼いたしました。持病の薬でございます。しゃがんでいたうちに落ちたものでございましょう。このまま失くしてしまうところでございました。ありがとうございます」

「ほぉ、医者には見てもらっていないのに、誰から薬をもらっている」

 家臣の追及は執拗だ。初めは余裕をもって辻褄を合わせていた男も、ついほころびを見せてしまった。家臣が腰の刀に手を伸ばすのを見るや、男は脱兎のごとく逃げ出した。

 やがて捕まった男は、拷問の末、キリシタンであること、城に火をつけようとして入り込んだことなどを語りだした。実は、一揆勢が先に城内に潜り込ませていた四十人の頭格だったのだ。もちろん仲間がいるということは、一切語らなかったが、城方は他にもキリシタンが潜入しているかもしれないと、厳しい探索を行なった。

 キリシタンの美徳であり、弱点でもあるのが、神に対して嘘をつくことができないということである。キリシタンかどうかを問われた場合、方便としても「キリシタンではない」とは言えない。よくて沈黙するのがせいぜいである。多くの者がキリシタンであることを認めていった。

 潜入した四十人が捕らえられ、処刑された後も城内にいる避難民に対して、厳しい詮議が行われた。キリシタンではないものの、いつ裏切るか分からないと判断された三会村などの者たちは、城内には入ることを許されず、城門の外での警護を命じられている。

 さらに、家臣らの守り場が定められた際、百姓とのつながりも強い足軽や奉公人たちを厳しく監視することが確認されている。実際、一揆勢が城に迫った時に、一揆勢に呼応した者がおり、百四一人が処分されている。

 この時点で島原城に籠る家臣衆は五八人。これを大手門、桜門、諫早門、先駆門、田町口、東小口、西小口などに配分したのだった。

 

 一揆勢が城下に入ったのは日も暮れようという時間である。加勢を得て、最終的には千五百人余りの軍勢となっていた。この指導者の中には、千束島から湯島に移っていた首謀者たちのうち、大江源右衛門、千束善右衛門の姿も見られる。彼らの主導によって、事が運ばれていることが、これでも分かる。

 一揆勢は城下の寺などを焼きながら大手に押し掛けると、三百程の鉄砲を撃ちたてた。一揆勢の射撃法は一斉射撃である。腕が未熟な者が多いのを数でカバーしようというのだ。

 島原城は南北に伸びる長方形をしており、大手門は城の南端、天守の背面を臨んだ所に突き出た外枡形にある。天守の背面に大手門があるというのも珍しいが、島原城は外曲輪と内曲輪からなり、大手門から入った者は水堀に囲まれた内曲輪に沿って侍屋敷を抜け、半周したところから一本橋で二の丸に入り、再び一本橋を渡って本丸に入るという構造になっているのだ。

 南から攻め入った一揆勢は城に沿った形で流れる大手川を渡り、外枡形を東に回り込んで大手門に向かうこととなる。

 一方大手門を守る者たちには鉄砲が二十程しかなかった。これを大手門の上部と櫓に分け、さらに二組に分け、それぞれ二段撃ちを行っている。この射撃を効果的にするため大手門の手前に柵を設け、攻め手を蛇行させるようにしていたが、一揆勢は逆にこの柵を用いて、撃ち終わると柵の影に引いてから弾込めをしているため、なかなか効果が上がらなかった。

 やがて、長柄、斧などを持った一揆勢が大手門に張り付き、門扉を力任せに壊し始めた。守備方は大手門の上部から石を落とし、弓鉄砲を撃ちかけたが、一揆勢は逆にこられを狙い、守備方を翻弄する。守備方は、仕方なく大手門や櫓に上っていた者たちを大手門の裏に回す。斧や薙刀、長柄が叩きつけられる音が響き渡る。その音は天守にもはっきりと響いていた。それとともに千五百の鬨の声が上がる。松倉勢の誰もが恐怖した。それをどうにかねじ伏せるようにして、鉄砲をかまえる。

 一際大きな音が響き、門扉に亀裂が入った。それを広げようと、さらに一揆勢が殺到する。

 守備方はこの亀裂に鉄砲を放った。密集した一揆勢が至近弾を浴びて吹き飛ばされる。逃れようもない攻撃に、一回放たれるたびに十人以上が命を失っていく。一揆勢も亀裂から鉄砲を撃ち返そうとするが、守備方は広い枡形に散ってしまうために狙いもままならなかった。日が移り未明になると、一揆勢の弾が切れてしまい、力ずくで門を破壊するしかなくなってしまった。

「もうすぐ城内で火が上がる。そうすればこっちのものだ。みなのもの押し切れ」

 大江源右衛門が張り裂けんばかりの大音声で鼓舞する。鬨の声が、やがてオラショへと変わっていき、大合唱となっていった。

「あめ ばーら がらさみちみちたーまりや てーく てんらい らーおらーち きんきんきんなーとーれーつー べんけんなー べんけんなー きんきんとーれん あーめん じぇず  あめ ばーら がらさみちみちたーまりや てーく てんらい らーおらーち きんきんきんなーとーれーつー べんけんなー べんけんなー きんきんとーれん あーめん じぇず」

 オラショを唱えながらの破壊行動は恍惚へと誘い、一揆勢から恐怖心を奪っていった。武器を門扉に叩きつける者たちが、次々に撃ち飛ばされ、死体の山を築いていく。それを登り越え、次々に押しかけて行くといった情景が繰り返されていった。

 夜明けになっても城内に火は上がらなかった。もし、潜伏した者のうち何名かが城方から逃れ、あるいは一揆勢に呼応する何者かが火をつけ、本丸か二の丸に渡る橋が落とされでもすれば、本丸は孤立してしまう。だが、これ以上は待てる状況ではなかった。一揆勢は南に向かって退却することとなる。

 

 島原城が襲われたのと同じ二六日、天草でも動きが見られた。大矢野島で渡辺小左衛門に率いられた立ち帰りキリシタンたちが、寺を焼いたのだ。小左衛門らは翌日には上島の栖本郡代である石原太郎左衛門に面会を求めている。棄教を約束した転び証文の引き渡しを求めるとともに、太郎左衛門自身に対しても同行を申し出たのだ。

「証文は富岡にある。必要とあらば、そちらを訪ねられよ。キリシタンのことは富岡城代の藤兵衛殿と話し合う必要がある。故にしばし待たれたい」

 富岡は唐津藩における天草統治の中心地であり、その城代が三宅藤兵衛であった。このように寺を焼き払いはしたものの、島原に比べ、天草は穏やかに事が進んでいた。これは、指揮を執っている渡辺小左衛門によるところが大きかった。

 この小左衛門は度々湯島に渡り、首謀者たちと会談している。そのため右衛門作とも馴染みとなっていた。

 石原太郎左衛門との面会が済むと、小左衛門はそのまま湯島に渡っている。湯島の首謀者たちから連絡があったのだ。

「実は頼みたいことがある。四郎殿についてだ」

 四郎の生家は熊本藩宇土郡江部村の庄屋次兵衛の屋敷の脇にある。

「未だ母上様と御姉妹が生家に残っている。急ぎ迎えに行ってほしい。隠密裏のことゆえ、土地勘がある其方でなければできまい」

 十月二七日には富岡城がある下島の本戸村、食場村で大規模なキリシタンへの立ち帰りが生じており、天草から島原へ援軍の要請が行われている。城代の三宅藤兵衛は本戸、食場に軍を送っており、自身も二八日には下島の本渡郡代所に移り、上島へも軍を送っている。このような混乱の中であれば、四郎の家族を保護することも可能だろうというのである。

 小左衛門は二八日の夜に宇土郡に入り、キリシタン仲間の九郎右衛門のもとに泊まった。そして翌日郡浦の岸に着いたところを捕縛されている。

 なぜこうも都合よく捕り方がいたのか。

「貴様らの仕業か」

 小左衛門捕縛の報を聞くと、右衛門作は首謀者たちのもとに向かった。

「何のことかな」

「しらばっくれるな。小左衛門殿のことだ。貴様らが売ったのだろう」

「何のことかと思えば、埒(らち)もない。こちらは忙しいのだ。邪魔をせんでもらおうか」

 右衛門作に詰め寄られた有馬家の浪人、芦塚忠右衛門はしらを切ったが、小左衛門が捕縛されて以降、天草のキリシタン一揆は急激に過激化し、島原の一揆勢と同様な状況となってきている。小左衛門がいなくなったことがいかに大きなことかが、それだけでも分かる。

 その小左衛門は尋問の中で、四郎のことを語っている。小左衛門は純粋に四郎を救世主として崇拝していた。そのため、四郎の家族を保護するという任務も喜んで引き受けたのだ。たが、捕縛されたことで、自ら保護することは叶わなくなった。そのために、四郎の家族の保護を熊本藩に頼むことにしたのだった。

「此度宇土に参ったのは、江部村の庄屋次兵衛のもとを訪ねるためであります。この次兵衛の屋敷の脇に益田甚兵衛と申す者の家があり、甚兵衛が妻と娘がおりますれば、これをお連れするのが勤めにございました」

 小左衛門は、洗いざらい話すことが、四郎の家族を救うことになると決意し、すらすらと話し出した。あまりにもよく話し、聞きもしないことまで説明するため、小左衛門の証言は当初疑われたほどだ。

「その益田甚兵衛とは何者か」

「息子の四郎殿とともに島原にてキリシタンを広めております。四郎殿はデウスがこの世に遣わされたお方でございます」

 小左衛門の供述をもとに、江部村の庄屋次兵衛のもとを捜索したところ、確かに小屋のような家があり、甚兵衛の妻と娘二人が拘束された。ただ、これらが本当に四郎の家族であるのかは、誰にも分からなかった。

 

 十一月十二日、事態は大きく動くことになる。

 島原藩の米蔵は、島原城内のみではなく、各所に郷蔵と呼ばれる米蔵が存在していた。この郷蔵は一揆勢の勢力域にも多くあり、城方はその対応に苦慮していた。郷蔵の管理について一揆勢が油断している今、一箇所、二箇所でよいならば軍を派遣し奪還することもできよう。だが、それをすれば、他の蔵に対しては一揆勢も守りを固めてしまう。協議が重ねられたが、十一月十日ごろから一揆勢が廃城とした原城を本拠と定め、何やら普請を進めているとの報告もあり、僅かであろうと米を奪還するしかないとの結論に達したのだ。

 田中藤兵衛を大将とした家臣十二人が鉄砲組百、槍組百に人夫三百をつけて三会村の郷蔵へと向かった。一揆勢も見張りの者がこれを知らせ、総勢三百程で迎え撃つ準備を整えた。

 一揆勢の戦い方は、基本的にいつも同じである。松倉勢を引き付けたうえで鉄砲の一斉射撃を浴びせ、怯んだところを長刀や槍などを持った者たちが襲い掛かるというものであった。

 そこまで大勢の一揆勢が待ち構えているとは予測していなかった松倉勢は、狼狽え、足軽の中には一揆勢に加わる者も見受けられた。籐兵衛は鉄砲組の再編のみに集中し、二弾撃ちで反撃する。絶え間ない銃撃に一揆勢が後退すると、その隙をついて人夫を蔵に入れ、米七百俵を奪うことに成功した。

 これに対し、一揆勢も翌日には安徳村の郷蔵を襲い、米を奪うとともに村を焼き払っている。

 天草方面でも大きな動きが見られた。大矢野島に集結した大矢野、千束、島原の一揆勢が、海路と陸路を使い上島の上津浦に向かったのだ。陸路を取ったものは、加勢を募りながら行軍し、翌十三日に上津浦へ集結した者たちの数は五千余りにも達している。

 これに対し、富岡城付きの兵と唐津藩の加勢を合わせた軍勢が下島の本渡に集結。軍議の結果、上島の栖本郡代所および大島子、下島の本渡および亀川に軍を配することになった。だが、唐津藩から来た加勢たちは事態を深刻なものとはとらえていなかったようだ。十月二六日の時点で栖本郡代にやってきた者たちは五十余りだったという。鍬や鋤を持った農民たちが数十名、あるいは味方を増やし百余りで押し寄せたところで大したことではない。その程度の認識だったのだ。そのため物見を出すこともしていなかった。

 天草での初の武力衝突は、十一月十四日、上島の小島子で起こっている。小島子は、唐津藩加勢が配された大島子と山一つ挟んだ位置にある。その小島子には、大島子に加勢の軍が配されることに伴い、それまで大島子で守備していた富岡城代付属の軍が移り守っていた。

  小島子に押し掛けた 一揆勢は三千を超える規模となった。小島子を守る呼子平右衛門は、九里吉右衛門と古橋庄助に鉄砲組を指揮させ必死に守ったが、一揆勢はまるで湧いてくるかのように次々と押し寄せ、肉薄するまでにそれほどの時間を要さなかった。

「平右衛門、まるで山津波じゃ。きりがないぞ」

 庄助が悲鳴を上げる。呼子平右衛門は大島子への退却を決断せざるを得なかった。

 小島子の守勢が逃げてきたことで一揆勢の進撃を知った大島子の唐津勢は、島子川の畔に陣を敷いた。これに対し一揆勢は島子川の対岸に留まり、動きを見せていない。一揆勢が威圧され、弱気になっていると見た唐津勢は、鉄砲組を前面に押し立てて川を渉りはじめた。一気に攻め取ろうというのである。川を渉り、射撃の準備を始めると、一揆勢にも動きが現れた。最前列の者たちが左右にはけていったのだ。その裏から現れたのは大勢の鉄砲組である。唐津勢は呆然自失の体でそれを眺め、一揆勢の一斉射撃の的となった。完全に不意を突かれ、戦意を失った唐津勢は反撃もほとんど見られず、敗走し始めた。この戦いでの唐津勢の死傷者は、討死が四人、手負いが二人である。人数が極端に少ないが、かえってどれほど慌て、早々に退却していったかが分かる。

 一揆勢はこの勝利に勢いづき、そのまま下島の本渡に向かっている。途中、通りがかった村で加勢を要請し、聞き入れない家は焼き払った。海岸線を西に進み、下島の本土を臨む浜で干潮を待つ。この当時、上島と下島の間は浅瀬となっており、干潮時には歩いて渡ることができたのだ。

 唐津勢は富岡城代率いる天草方に、小島子、大島子から退却してきた者たちを加えた二千五百で海岸線を固めている。内訳は富岡城代の三宅籐兵衛率いる天草方が千、唐津藩家老の岡島次郎左衛門率いる唐津藩加勢が千五百であり、指揮系統もそれぞれに分かれていた。つまり統一されてはいなかったのだ。

 下島の本渡は、東を海、南に町山口川、北に広瀬川が流れている。海路を行く一揆勢は、広瀬川の北、茂木根の浜に船を着け、南下して広瀬川を渡った。本渡の東方面から浅瀬を渡ってきた者たちと二方面から攻撃しようというのだ。

 当初、守備する唐津勢が一揆勢を圧倒していたが、一揆勢が二手の別動隊を設け、一隊に本渡城下である町山口村の焼き討ちさせ、もう一隊は唐津勢を臨む高台に上げて鉄砲や礫を撃ち下ろさせたのだった。これに狼狽した唐津藩加勢の大将、岡村次郎左衛門が退却を決定。早くも戦線を離脱しようと馬に跨った。

「お待ちくだされ次郎左衛門殿。無策のうちに逃げては被害が広まりましょう。ここは軍議を開き、全軍にご指令いたすためにも、どうぞ御馬よりお降りくだされ」

 三宅籐兵衛の家臣が次郎左衛門の馬にとりつき、懇願したが、それを振り払い、馬を急がせている。大将格の脱落に唐津勢は混乱状態となり、雪崩を打っての退却が始まった。逃げ道としては北と南の陸路。そして東を抜けての海路である。このうち北と東は一揆勢で埋め尽くされている。南の町山口方面は村を焼かれたとはいえ、まだ手薄だった。敗走する唐津勢はこの町山口方面に殺到したのだ。町山口村を抜けると町山口川にぶつかる。この川には十間(けん)ほどの橋が架かっており、みながそこに殺到した。だが、先に村を焼き払った一揆の別動隊が橋の中ほどを二間ばかり落としていたため立ち往生し、大変な混雑が生じてしまった。一間は現在の寸法で約1.8mほどである。二間ともなればともなれば、優に3mを超え、飛び越すことは難しい。立ち往生した者や川原に降りてどうにか川を渡ろうとしていた者たちを一揆勢が襲った。

 この混乱の中、三宅籐兵衛は最後まで本陣で指揮を執っていたため撤退が遅れてしまった。退却を決めた時には、すでに町山口方面は人で溢れる状況であった。そのため、籐兵衛たちは北を目指すことにした。籐兵衛に従うものはわずかに五人。誰もが傷を負っていた。

 広瀬川を渡ろうと岸に降りた時だ。六十人ほどの一揆勢が籐兵衛たちを囲んだ。手には竹鑓や刃が鉈のような形状をした長刀、竹の先に脇差をはめ込んだものなどを持っている。一人一人を見れば戦力など高が知れているが、多勢である。籐兵衛は観念し、自刃して果てた。

 天草地方の統治を任された富岡城代の三宅籐兵衛を殺したことで、天草の一揆勢も引けない状況に追い込まれた。それは島原の一揆勢が代官を殺害したことで引くことのできない状況に追い込まれていったのとまったく同じ構図である。これこそが謀の首謀者たちの狙いであったようだ。

 島原からの援護の一揆勢は、本渡の戦いが終わると島原に帰還している。

 そして、天草の一揆勢はそのまま富岡城に向かった。一揆勢が富岡城を攻めたのは十一月十八日である。一揆勢は各地で人数を増やし、三千を超えるほどになっていた。

 だが、多くの犠牲を払い、数回にわたって攻め立てたが、富岡城が落ちることはなかった。

 その後、島原、天草の一揆勢に招集がかけられ、原城籠城へと事態は進んでいった。

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