其の二 日光杉並木

 雀の巣の一件から三年ほどがたち、長四郎の勤めぶりは目立って落ち着いてきた。単に智恵があるという評判だけでなく、次第にその実力も認められるようになってきた。実際長四郎の真価はその思慮深さにあった。ひらめきに似た仕事さばきについ目を奪われがちだが、長四郎は決して直感だけに頼っている訳ではなかった。お福に言われたことを教訓にして、自分が何をどのようにすべきか常日頃から考えて行動する癖がついていたのである。

 慶長一四(一六〇九)年二月、一四歳になった長四郎は衣装を振袖から小袖に変えた。「袖塞ぎ」と呼ばれる成人の儀礼である。

「着るものが変わるだけで、気持ちまでずいぶんと変わるものだな」

声変わりのため一段低くなった声で、長四郎はつぶやいた。それは自分の気持ちをさらに引き締めるためでもあった。

 とはいえ、その勤めぶりほどには長四郎の待遇は順調に上がってはいかなかった。将軍である父秀忠がいまだ健在な竹千代は、家臣の処遇についてあまり口出しをしなかったからである。そうでなくとも竹千代は、自分のことで精いっぱいという状況にあった。もともと自意識が強かった竹千代は、弟との跡目争いにも翻弄されて周りに目配せができなくなっていた。長四郎の待遇はずっと月俸五人扶持のままであった。

 一方、養父正綱は長四郎とは比べものにならないくらい出世していった。

 慶長一三年二月、正綱は駿府にいる大御所家康の「近習出頭人」に選ばれた。世に言う江戸・駿府二元政治である。家康は豊臣家との最後の戦いに備えて、秀忠とは別に自分の周りを実力者で固めていた。正綱はその一人として認められたのである。

 翌年、正綱の評価をさらに引き上げるできごとが起こった。一〇月に駿府城が火事に見舞われた際、正綱の避難誘導の指揮が適切であったということで、三〇〇〇石加増されることになったのである。火の手が回った城から避難する時、正綱は機転を利かせ納戸にあったさらし布を結び合わせて石垣に数か所たらし、それを伝わせて全員を無事に救出した。血は争えないもので、正綱自身が智恵者であることを周囲に示したのであった。

 正綱は親族を集めて祝いの宴を開いた。席上、正綱は終始上機嫌であった。

「このたびは身に余る知行を賜り、まことにありがたく存じます。

 また、皆様ご承知のとおり、兄上久綱殿もこれからは直参の旗本として、晴れて正式な代官になられるとのこと、いよいよもってめでたいことと存じます。

 我が子長四郎も近頃は大分落ち着いてまいりまして、一人合点が影をひそめてきたようですので、そろそろ元服させてもよかろうかと考えているところであります」

 長四郎が久しぶりに会う実父久綱は、照れながらもさすがに嬉しそうであった。既に代官見習として多くの経験を積んできた久綱であったが、四一歳にしてようやく陽の当たる仕官の話が訪れたのであった。正綱のおかげもあったであろうが、地味ながらそれまでの勤めぶりが評価された結果であることは間違いなかった。

 だが、長四郎は父親たちの出世を素直に喜べなかった。自分と、正綱や久綱との間の評価の差があまりにも大きかったからである。人は自分の価値を、周囲との比較の中で判断してしまう。長四郎自身それが意味のないこととわかっていても、自分の存在が否定されたようで内心の焦りを抑えることができなかった。

「もっと認められるようになりたい」

この日以来、長四郎は日増しに強くそう感じるようになっていった。人一倍勤めをこなしてきた長四郎であったが、それからというものがむしゃらに勤めをするようになった。

「一生懸命やりさえすれば、自分もいつかは認めてもらえる」

それが長四郎の願望、というよりは信念となった。それは若者らしい気負いと言えた。が、長四郎はいささか真面目すぎた。

 智恵者と言われながらも実は小才が利くたちではなかった長四郎は、気を抜くことを一切せず四六時中気持ちを昂ぶらせるようになった。寝る時でさえ帯をほどかず、御用の使いが来た時の用心のためにふすまへ足の指を押し付けて眠るほどであった。およそ趣味嗜好というものと無縁であった長四郎は、現代で言えば完全な仕事人間であった。さらに小姓の勤めは昼夜を問わず、非番もあってないようなもので一年中休む暇なく続く。これで身体を壊さないはずがなかった。

 慶長一五年、長四郎は身体がだるくて仕方がなくなった。そのうちに食欲がなくなり、微熱が続き、ついには出仕もままならなくなった。無理が積もり積もって慢性的な過労に陥ってしまったのである。それまであまり病気をしたことがない長四郎であったが、この時ばかりはかなり深刻な症状で、年が改まっても体調が回復する気配は見られなかった。

 長四郎は静養のため実家に戻り、病が癒えるのを待つことにした。折しも旗本に登用されたばかりの実父久綱は気力も充実しており、代官を勤める武州忍の領民を相手に毎日精力的に働いていた。相談ごとに親身になって応じる久綱は、領民から頼られる存在であった。それを見て長四郎は、自分がさらに小さくなっていくような気がした。自分が価値のない人間に思えてやりきれなかった。

 春になってようやく小姓に復帰しても、以前と同じように勤めをすることはできなかった。ちょっとしたことで身体が疲れ、根気が続かなくなってしまったからである。再び同じ病に倒れて周りに迷惑をかけることはできないので、気持ちの上でも自重せざるを得なくなった。元服を済ませ妻を娶ったため、立場上も無理がきかないという事情も重なった。もっとも、遊びを知らない長四郎は妻お静との夫婦仲がとても良いことだけが救いであった。

 勢い長四郎は、それまで以上に智恵を働かせて竹千代に尽くすようになった。小回りが利かなくなった長四郎にとって、それが残された唯一の奉公の仕方であった。そして、それは最も長四郎らしい奉公でもあった。

 長四郎は、ある時は竹千代のお灸のもぐさの代用に畳の中にある藁みごを取り出してみせ、竹千代を感心させた。またある時は白い紙を張った戸板を庭に並べ、白壁に見立てて能舞台の目隠し代わりにした。目の覚めるような長四郎の智恵は、そのたびに竹千代から絶賛された。が、後がないとわかっている長四郎にとって、その時その時が真剣勝負であった。

 時が移り、年号は慶長から元和に変わった。この年、大御所家康は自らの死期が近いことを悟り、豊臣家を挑発して戦をしかけさせ、大坂夏の陣で完膚なきまでにねじ伏せた。家康は朝廷に働きかけ、年号を「平和のはじまり」を意味する「元和」に変えた。世の中は「元和偃武」と呼ばれる、江戸幕府を中心とした太平の時代を迎えることになった。

 竹千代もお福の尽力により跡目争いの危機を乗り越え、精神状態もようやく安定して少しずつ自信のようなものを身に着けてきた。

 一方長四郎は、相変わらず智恵を振り絞って竹千代に仕える日々が続いた。

 元和六(一六二〇)年一月、二五歳になった長四郎は一七歳の竹千代に従って西の丸に向かっていた。ふと竹千代が立ち止まり、堀にかかる橋を眺めてぽつりと言った。

「あの橋の反り加減、どうも気に入らんな。もう少し反らして作り直すよう、普請方に言っておけ」

「はっ」

と長四郎が答えたのは、了解したという意味ではなく返答につまったからであった。

 江戸城内で盛んに増改築が行われていた頃である。竹千代は橋を渡るのと同じ気安さで長四郎に橋の改修を命じたのであった。が、小姓を困らせるのはたいていこの手の指図である。橋の反り加減の良し悪しと言っても、「少し」というのがどのくらいのことを指すという基準がなかった。しかも実際に橋を直すのは普請方である。この職人たちに対してあいまいな指示を出せば、若い長四郎など叱り飛ばされるのは目に見えていた。

 言い出すべき言葉をあれこれと思い巡らせているうちに、長四郎の指がたまたま腰に差していた扇子に当たった。

「これくらいの反り加減でいかがでしょうか」

長四郎はとっさに扇子を抜き、竹千代に向かって半分ほど開いて見せた。

 西の丸に歩きかけていた竹千代は振り返り、一瞬「おやっ」という表情を見せたが、次の瞬間大きく目を見開いた。

「そうだな、それでは少し反りすぎかな」

と竹千代は長四郎に答えた。長四郎が一つ扇子をたたむと、竹千代はうんとうなずいた。

 長四郎は扇子を開いたまま、

「では、この反り加減で普請方に橋を作り直させましょう」

と言った。竹千代は満足そうに長四郎へ向き直ると、事もなげに言った。

「長四郎よ、お前は月俸五人扶持のままであったな。本日よりお前は知行五〇〇石だ」

そしてくるりと背を向け、再び歩き出した。

 長四郎は最初、竹千代の言っている意味がわからなかった。瞬時にひらめいた機転が思いがけない結果をもたらしたため、判断力が麻痺したのである。

 小姓部屋に戻って今しがた起こったことを反芻しているうちに、長四郎の中でやがてある種の確信が芽生えてきた。

「私はこれまで病気になるほど上様のために働いてきたつもりであった。が、長い間待遇は低いままであった。ところがたまたま上様のご指図にうまく応えられただけで、あっという間に五〇〇石の知行取りとなった。その違いは何かといえば、上様が望んだとおりのことをしたか否か、ということだけだ。何のかのと言っても、結局は相手の気持ちに沿って動かなければ評価は伴わないということだな」

 長い間求めていた他人からの評価を得られたにもかかわらず、長四郎の気持ちは急に冷めていった。むしろしらけてしまったと言った方がよかった。長四郎は世の中の仕組みを一気に悟った気がした。それと同時に、自分が成功の鍵をつかみ、もう頂点に立ったような気になった。そこに感動はなく、むしろ当然のことという感触だけが残った。

 その日以来、長四郎は露骨に竹千代の関心を惹こうとする言動が目立つようになった。まるで御用聞きのように、竹千代にべったりと寄り添うようになった。もともと智恵者と呼ばれるだけあって気を利かせることは得意である。竹千代が何かしようとするたびに長四郎は先読みをし、毎日のように竹千代からお褒めの言葉をいただいた。

 長四郎の振る舞いに余裕が見られるようになった。竹千代に認められたという思いが、無意識のうちに自信につながったためである。九月になって竹千代が元服して名を家光と改め、秀忠から将軍職を譲り受ける日も近いと言われるようになると、長四郎の城内での存在感はさらに増していった。

 それと同時に、長四郎は周囲に対して横柄になった。そう思われても仕方のないそぶりを見せるようになった。小姓仲間に対して、長四郎は頼まれもしないのに「それはこうすればよいのだ」と自分の考えを押しつけたり、誰かが失敗して困っていると、「だからあの時私が言ったとおりにすればよかったのだ」と嘲笑したりした。格下の者を軽んじて、あからさまに無視をすることさえあった。そうしたことが重なるにつれ、長四郎の周囲からだんだんと人がいなくなっていった。

 そんな折、養父正綱に実子左門が誕生した。正綱にとって四五歳にしてはじめてできた子であった。長四郎はこの機会に自分の考えを正綱に提案することにした。

「父上、左門殿が誕生したからには、この先長沢松平家に跡目争いが起こらないとも限りません。これを節目に自ら別家を立てようと思いますがいかがでしょうか」

 正綱は「そうか」と答えただけで、別段反対はしなかった。

 長四郎は名を信綱と改め、それまでの家紋とは別に「三本扇」の家紋をつくった。意匠の扇が、西の丸で褒められた時の扇子を指していることは言うまでもなかった。正綱より先に自分に長男が生まれていたこともあったが、もう正綱に頼らなくとも自立できるという自信がそこには表れていた。

 その陰で、「近頃の信綱様は態度が大きすぎる」という声がますます大きくなっていることに、信綱自身は気づかなかった。

 元和九(一六二三)年六月、信綱はさらに三〇〇石加増され、都合八〇〇石になった。それと同時に「小姓組番頭」に抜擢された。小姓組番とは騎馬で将軍を警護する直属の親衛隊のことで、その番頭といえば番士五〇人を束ねる要職中の要職であった。信綱はそれを当然のことのように受けとめた。周りの者も自分の出世を当然のこととして受け取るであろうと予想できた。だから本丸の廊下で六つ年下の小姓仲間である阿部小平次に出会い、信綱が小平次に気軽に声をかけた時もそういう心境であった。

「やあ、小平次か。聞き伝わっているかも知らんが、このたび私は小姓組番頭に選ばれた。小姓のお前とは立場が変わり、今後は言葉を交わす機会も減るとは思うが、これからもお前には目をかけるつもりでいるからよろしく頼むよ」

「これは信綱様、このたびはおめでとうございます。私もこれから私なりに精進をしてまいりますので、ご指導のほどよろしくお願いします」

 小平次は信綱が過労で休んでいる間に小姓となった後輩であった。信綱とは正反対の性格の持ち主で、利発そうな雰囲気はなく一見無頼漢のようなところさえあった。それでもざっくばらんな小平次の周りには不思議と多くの仲間が集まり、信綱も気安い後輩としてかわいがってはいた。ゆくゆくは自分の配下に加えてもよいと目を付けてもいた。

 そんな小平次と別れたすぐ後に、信綱の近くで何人かが談笑する声が聞こえた。

「それにしても、今回の小平次殿の番頭就任には驚かされたな」

(えっ?)

信綱が声のする方へ振り向くと、小平次と同年輩の小姓たちが話をしていた。

「まったくだ、なにせ小姓組番の番頭だからな、大抜擢だよ。しかも一気に一〇〇〇石取りだぞ。小さい大名家なら家老級だ」

「でも、はまり役ではないか。小平次殿の下なら、私も小姓組番に加わってもよいな」

「お前には無理無理」

「ははは…」

 信綱は血の気がすっと引いていくのを感じた。そんな話は少しも聞いていなかった。しかもみな心の底からうれしそうであった。それは自分の周りには全然見られない光景であった。

 信綱は一転して、羞恥心と猜疑心のとりこになった。

「小平次は私を追い抜いていたのか。私だけがそれを知らなかったということか。

 それにしても、一体なぜ小平次が私より評価されるのか。小平次の方が私よりよっぽどいい加減で、大した勤めもできないではないか。それとも私は何かしくじりをしたのか。上様のお気に召さないことをしてしまったとでもいうのか。ひょっとして、誰かが私を陥れようとしているのではないか」

 信綱は身もだえした。こうなった理由を必死に思い返してみた。それでもすべての勝敗が決してしまった気がして、絶望的になった。

 そんな信綱を、家光は特に気にかけている様子もなかった。家光は京都で朝廷から三代将軍としての宣下を受ける準備に忙しく、信綱のことを気にする暇さえなかったからである。そもそも今回の加増自体が、将軍となる前に直属の家臣の格上げを狙ったものであって、特に信綱だけを優遇した訳ではなかったこともわかり、そのことが信綱をさらにみじめにさせた。

 皮肉なことに、それからしばらくの間、信綱はいつになく順調に昇進していった。家光に従って上洛した京都では従五位下伊豆守に叙任し、寛永と年号が改まった翌年五月にはそれまでの倍を超える二〇〇〇石にまで加増された。それらすべてが家光の信任あってのことであるのは疑う余地がなかった。

 にもかかわらず、信綱の意気は上がらなかった。それは自分の前に必ず小平次がいたからである。小平次は信綱とともに上洛した京都において、信綱と同格の従五位下豊後守に叙任し、翌年一月には父親の遺領を受けて知行六〇〇〇石となっていた。小平次自身は無頓着の様子であったが、信綱は心穏やかではいられなかった。後輩でありながら自分の先を行く小平次は、信綱にとって気にかかる存在であり続けた。

 信綱は再び身体の調子を崩してしまった。今回は多分に精神的なものから来る病であった。辛うじて出仕は続けられたものの、頭や腹に常に重い痛みを感じ、座っていることすらだるく感じられた。周りから見ればそれはやる気のなさと受け取られ、信綱のことは人々からだんだんと忘れられていった。悪いことは重なるもので、信綱は家の中で転んで左腕を強く打ってしまった。この時の怪我がもとで、信綱は終生左腕が十分に利かなくなった。

 寛永二(一六二五)年、信綱は三〇歳になった。

「かつては智恵者ともてはやされた私も、三〇になればただの人か…」

信綱は自嘲気味につぶやいた。髪の毛に白いものが混じり、もう若者と呼ばれる歳ではなくなった自分がこのように情けない状態になるとは、以前は思ってもみなかった。だがそれはまぎれもない現実であった。お静が気を遣って話しかけても、返事をすることさえ面倒に感じられた。信綱の気が晴れる日はなかった。

 そんな信綱が、城内で久しぶりに養父正綱と出会った。正綱は鎌倉にある甘縄城を居城と定め、江戸城内で見かけることが少なくなっていた。七月にも加増された正綱は都合二万二〇〇〇石余りの知行取りとなり、今や押しも押されぬ大身となっていた。家康の近習時代に金庫番をしていた関係で、家康の死後秀忠に仕えるようになってからは幕府の勘定頭に引き立てられていた。勘定頭といえば、現代の財務大臣と最高裁判所長官を兼ねたような要職で、さらに二〇〇万両ともいわれる家康の遺産を管理する役もそこに含まれていた。それでいながら腰が低く実直さを失わない正綱は、多くの人望を集めていた。

 信綱の姿を見つけると、正綱は人の良さそうな顔つきで自分から近づいて声をかけた。

「おお、これはこれは伊豆殿ではないか。近頃は身体の具合はいかがかな。上様も殊のほか伊豆殿を頼りにされているご様子。公儀(幕府)のため、国のためにも、身体を十分大事になされよ」

 いつものように相手を気持ち良くさせる正綱のものの言い方に、正綱を尊敬している信綱は普段なら素直に喜ぶところであった。が、このところあまりいい思いをしていないひがみもあって、信綱は正綱に皮肉を言いたくなった。

「父上、このたびは日光東照社への道中に杉の苗を植えるとのことではありませんか」

「さすが伊豆殿、耳が早い。いかにも、大権現家康様から受けた御恩に少しでも報いるために、大御所秀忠様にお願いをして杉並木の寄進をお許しいただいたのだよ。大御所様も大層お喜びの様子であった」

「江戸城内でも評判ですよ。『さすがは公儀の金庫番。三年後の大権現様一三年神忌のために、ただの杉の木の寄進とは』とね」

「……」

「父上も、もう少し周りをよく見てから寄進物を決められてもよかったのではありませんか。これから大名たちのかけひきがはじまります。どんな寄進が周囲の注目を集めるか、自らの存在を主張する好機ととらえるからです。杉の木のことなどあっという間に世間から忘れ去られ、日光へ参拝する人もそれが父上からの寄進であったことなど顧みなくなるのではないでしょうか」

正綱はそれには答えず、ふと思い出したように言った。

「そういえば、阿部豊後殿は今や知行六〇〇〇石だそうだな。城内の口さがない連中もこれには納得の様子で、上様のお見立てはすばらしいともっぱらの評判とうかがっている。今の伊豆殿の話を聞いて、なるほど私もまったくそのとおりと感じ入ったよ」

信綱はさすがに頭にカチンときて言い返した。

「それではまるで、私が豊後殿にかなわないかのように聞こえます。そういう父上が私の歳頃には、知行わずか八八〇石ではありませんか。私はそれを少ないとは申しません。時の運もあれば、良い人に恵まれることもそうでないこともありますから。ただ、結果だけですべてを判断するのはおやめいただきたい」

「伊豆殿は、今の二〇〇〇石の知行が不満だと申すのかな」

「そうではありませんが、豊後殿に遅れをとっているのが私の責任であるかのような言い方には納得がいきません」

「すべてお前の責任ではないのかな、長四郎」

昔の名前で呼ばれ、信綱ははっとして正綱を見た。相手を射抜くような鋭い視線が信綱に向けられていた。思わず信綱は目をそらした。正綱は遠くの方を見つめ直し、静かな口調で語りはじめた。

「上様は物事を公平に見ることができるお方だ。お前に期待する一方で、このままではお前が人の上に立つことのできない人間になると見抜いておられるのであろう。そこで豊後殿とは少し差をつけた知行をお前に与えられた。今のお前の実力からすれば、二〇〇〇石でもまだ多すぎるくらいだ」

 信綱は自分の身体が凍りつくのがわかった。吸い込まれるように正綱の話に聞き入った。

「私が杉の木の寄進を思い立った三つの理由をお前に話そう。

 第一に、大権現様のためにふさわしいと考えたからだ。東照社に向かう日光道中は、言うなれば全行程が社の参道のようなものだ。古来、杉は神が宿る聖なる木だ。道中の両脇に荘厳な杉並木が続けば、人々は到着する前から厳粛な気持ちになり、大権現様の遺徳に思いをはせるであろう。これが杉を植える一つ目の理由だ。

 第二に、大御所様のために最もふさわしいと考えたからだ。私は大御所様からも一方ならぬ御恩を受けている。私を勘定頭に取り立ててくれたのも大御所様だ。その大御所様は私に、箱根の関所までの険しい道を緩やかな新しい街道に作りかえるようお命じになられた。『街道の両脇には杉の木を植えて、旅人を夏の日差しと冬の寒風から守るように』とおっしゃられてな。大御所様はつくづくやさしいお方だと思う。

 大御所様が日光へ参拝するたびに両脇の杉並木を目にすれば、すぐさま私のことを思い出してくれるであろう。私が大御所様を慕い、大御所様をよく理解しているということを覚えていていただけるであろう。これが二つ目の理由だ。

 第三に、ほかならぬ私自身にふさわしいと考えたからだ。大権現様や大御所様が私を使ってくれたのは、決して私の頭が良いからとか勤めぶりが際立っているからではない。勘定頭といっても、自分より数字に詳しい者はほかにいくらでもいるだろう。だがな長四郎、勤めというのは一人でするものではない。大切なのは物事を任せられるだけの信頼関係で結ばれているかどうかだ。私はただ誠心誠意ご奉公することだけを心がけてここまでやってきた。そんな私を信頼してくれたからこそ、お二人とも私を使ってくれたのだ。大権現様に華々しい寄進をすることは私には似合わない。むしろ愚直に杉の苗を植え、育てることが自分にふさわしいと思う。それが精いっぱいの感謝の表れなのだ。

 お前はさっき、一三年神忌の寄進と言ったな。私はこの杉並木を、大権現様の三三年神忌の寄進と考えているのだ。これから二十数年間、私はずっと杉の苗を植え続ける。私が死んでも、息子の左門にやり遂げさせるつもりだ。それが私の、残る生涯をかけた御恩返しなのだ。これが三つ目の理由だ」

 ふうっ、と一つため息をつくと、正綱は再び静かに話を続けた。

「お前は先ほど、私が杉の木を植える理由を聞こうともせず、自分の頭の中で考えたことだけを頼りに良し悪しの判断をした。お前は人に共感する気持ちがない。そういうところは、お前が私の養子になりたいと言って来た時から、実は少しも変わっていないのだ。

 お前から養子の話を聞いた時、私はお前に、『ご両親は承知しておられるか』と尋ねた。なぜだかわかるか。お前はあの時、大河内家にとって長男であり一人息子であったからだ。兄上のお前に対する期待は並大抵ではなかったのだよ。私は兄上からお前の自慢話を何度も聞かされたものだ。だが兄上は、お前の将来のことを考えてお前が養子に出ることを許してくれた。そんな兄上を、お前はあの時ないがしろにするような言い方をした。私は養子にするのを断ろうとした。だが思い直して、お前が両親のありがたみを知るには外の飯を食べるのもよいかもしれぬと考えた。お前がそのことをいまだにわかっていないようで残念でならない。お前にわからせられなかった、自分が情けない。

 長四郎、よく聞くのだ。お前が軽んじた兄上は、今や代官として武州忍およびその周辺の広大な土地を管理しておられる。兄上はその地で民生の向上に力を尽くし、開削した堀は兄上の名を冠して『金兵衛堀』とまで呼ばれている。代官としてこれほどまでに慕われている人物はきわめて少ない。私は兄上を深く尊敬している。その兄上の大きさがお前にはわかるまい。人を人間性で評価せず肩書きや風聞で判断し、上っ面な付き合いで自分だけを際立たせて良く見せようとする、それこそがお前の決定的な欠点なのだ」

 信綱の目からどっと涙があふれ出た。それと同時に、自分の中の何かが音を立てて崩れていくのを感じた。その残骸を洗い流すかのように、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちた。正綱の目にも涙があふれていた。正綱が信綱にはじめてぶつけた心の底の叫びであった。それは信綱の心の奥底に直接届く熱いものであった。

(父上の言うとおりだ。私は今まで自分のことしか考えてこなかった。それでは周りから信頼されなくて当然なのだ。父上はそのことをわかっていたのだ。

 それでも父上は我慢してこられたのだ。いつか私がわかるのを、待っておられたのだ。これほどまでに、父上は私のことを考えてくださっていたのだ)

 信綱は正綱に返す言葉がなかった。ありきたりな感謝の言葉など、まったく力を持たないように思えるほどであった。

 正綱の言葉は信綱にとって衝撃的であった。それからしばらくの間、信綱はぼーっとしていた。内心では、自分はこれからいかにあるべきかを必死になって考え続けていたが、一朝一夕で答えが見つかるようなものではなかった。信綱が立ち直るには相当な時間が必要に思われた。

 突然家光が大声で騒ぎだしたその夜も、信綱はまんじりともせず布団の中で自分の歩むべき道を考えていた。それはむし暑い夜で、なかなか寝つけないところへ雨上がりで蚊が大量に発生し、折悪しく城内で蚊遣り火を焚くかやの木を切らしていたため、家光が堪忍袋の緒を切らしたのであった。

 安眠を妨げられて不機嫌な家光の前に、信綱が進み出て言った。

「上様、納戸に古い将棋盤がありますが、あれを燃やしてもよろしゅうございますか」

家光は憮然として、

「将棋盤を燃やしてどうしようというのだ」

と尋ねた。信綱は瞳に笑みをたたえ、

「将棋盤はかやの木でできておりますので、燃やせば蚊遣り火を焚くことができます」

と答えた。

意外な申し出にきょとんとした家光だが、すぐに「面白い、やってみろ」と許可した。

 早速盤が燃やされた。信綱の言ったとおり、その煙は見事に蚊遣り火の代用となり、家光はぐっすりと眠ることができた。

 翌朝、家光は上機嫌で信綱を呼んだ。

「昨晩の将棋盤といい、以前の畳の藁みごといい、まったくお前の智恵には驚かされるよ。いったいどうしてお前はそんなにも多くのことを知っているのだ」

「実は…」

と言いかけて、信綱ははっとした。信綱は気づいたのであった。それらがみな、父久綱から教わったものであることを。

「実父久綱より教わりました。父は私のような子供の質問にも、領内の百姓の相談にも親身になって応じていました。そして、どうしたら疑問が解決できるのか、どうすれば暮らしが楽になるのかを、一緒になって考えておりました。これらの智恵はみな、そうした父の努力の賜物なのでございます」

信綱は家光に向かって胸を張って答えた。

「そうか。お前もよい父親を持ったな。これからもせいぜい父親を大事にすることだ」

両親の愛情に恵まれなかった家光は、少しうらやましそうに言った。

 自分の中に父がいるという発見は、信綱の目をはっきりと覚まさせた。

「私は父上の血を受け継いだ子だ。父上のやり方も見て知っている。父上のやったことを思い出そう。その中に、正しい生き方の答えが必ず見つかるはずだ。自分にとって最高のお手本は、実は私の最も身近なところにあったのだ。私はもっと早くそのことに気づくべきであった」

そう思うと長四郎は、胸の中に今までにない力がみなぎるのを感じた。

 この日を境に信綱は変わった。久綱がそうしていたように、進んで多くの人に話しかけ、話を聴くようになった。はじめは気味悪がっていた周りの者も、少しずつ打ち解けて信綱に相談を持ちかけるようになった。信綱にとって、一度も経験したことのないさまざまな悩みや考えがそこにはあった。それらはどれ一つとして同じものはなく、また決まった解答もなかった。すべての答えを自分だけが知っていると思っていたことが、いかに自分の一人よがりであったかということに信綱は気づきはじめた。自分一人だけの力では何もできないということがようやくわかってきた。人は互いに協力し、助け合って生きているのだということを、はっきりと知ることができた。養父正綱が自分に何を伝えようとしていたのか、信綱はやっと理解できた。

 信綱の病はいつのまにか消えていた。信綱はもう迷うことはなかった。

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