其の五 春日局と天海

 寛永一一(一六三四)年六月、将軍家光の上洛がはじまった。

 伊達政宗を先頭に、二日より外様大名が上洛の途につき、旗本・譜代大名からなる本隊がそれに続いた。二〇日になって、ようやく最後尾の家光が駕籠に乗って江戸を出発した。上洛に供奉する人数は総勢三〇万七〇〇〇人。幕府の力を見せつけるのに十分な、空前の規模であった。

 信綱は家光の駕籠に付き従った。ただし騎乗の正盛に対し、信綱は歩行での供奉であった。それが何を意味するかは誰の目にも明らかであった。

 家光ら一行は五日目には箱根の山を越えた。夏の太陽の下で信綱は汗とほこりにまみれ、慣れない足取りで駕籠の後ろに従った。のどはからからに渇き、意識は朦朧とし、足は悲鳴を上げた。七日目に駿府に到着した時には、一歩一歩足を引きずりながら行列に付いていくのがやっとであった。

 その翌日は、信綱の指揮による騎馬の演習が催されることになっていた。この演習には家光の上覧も予定されていた。が、家光の勘気が解けていない信綱は、演習が中止になるのではないかと考えていた。ところが案に相違して予定どおり演習が行われることになり、家光の上覧にも供されることが伝えられ、信綱は足の痛みをこらえて指揮に当たることになった。

 翌朝、信綱配下の騎馬武者が駿府城前の馬場に集結した。この日のために厳しい訓練を積ませてきたつわものどもである。信綱は武者たちを天守閣の下で二手に分けた。両陣は隊形を整え馬印を掲げ、信綱の合図とともに演習を開始した。

 まずは左右から一騎ずつ進み出て、中央で交錯した。すれ違いざま、馬上の武者は竹刀を振りかざした。「やあ」というかけ声と、びしっという鋭い音があたりにこだまする。竹刀が数撃交わされ、両者が後ろに下がると、次の一組が前に進み出て同じく激しい竹刀の応酬を披露した。

 続いて一組、また一組と、躍動感あふれる一騎討ちが繰り広げられた。だが、家光がこれくらいのことで満足しないことは信綱も知っていた。家光が求めているのは、実戦さながらの緊張感であった。

 一騎討ちが一巡し、馬が落ち着いたところで信綱の瞳の奥が光り、再び合図が出された。次の瞬間、すべての騎馬武者がときの声を挙げて一斉に馬場の中央へ飛び出した。信綱はすかさず采配を振って兵士たちに陣形を固めさせる。左右の騎馬武者は一丸となり、目の前の馬をめがけてまっしぐらに突進した。馬は地響きをあげて互いの鼻先をすり抜け、触れ合わんばかりに重なった。

 武者たちはまたも竹刀を繰り出す。だがその動きは一騎討ちの時と比べものにならないくらいの早業であった。武者たちは騎乗のまま四方に気を配り、敵を翻弄し、味方を援護した。馬はからみ合い、竹刀は折れ、勢いあまって落馬する者もいた。そうしてひとかたまりとなって戦った人馬は、信綱の合図とともに再び左右へと弾け跳んだ。

 騎馬が実際に活躍する場も、このように敵味方入り交じる戦場である。戦場において、馬上の武者は鑓や刀を交え、足軽どもを蹴散らし、自陣を守る。そこでは馬が最も強力な武器とされ、戦の勝敗は馬をいかに制御できるかにかかっていると言われていた。とはいえ、気性が荒く神経質な日本の馬は意のままに動かすことが難しく、ましてや騎馬を一団で統率するなど現実には不可能とされていた。

 ところがこの時の騎馬の動きは違った。まるで舞いを観せられているかのように、流れるような隙のない動きを見せたのであった。さらに武者たちはそのまま速度を緩めることなく馬を両端に走らせ、次の合図に備えるべく再び整然と並ばせた。これはよほど日頃の兵の訓練と馬の調教が万全でなければできない芸当であった。家光はその一連の動きの中に、信綱の「将」としての器を見た。日々の政務に忙しいはずの信綱がどうしてこれほどまで兵を束ねることができるのか、家光が目を見張るほど見事な統率力を信綱は見せたのであった。

 演習が終わった後、家光は信綱を呼んだ。家光が信綱に言葉をかけるのは切支丹の一件以来であった。この日の家光は上機嫌であった。信綱に対する処分が少し厳しすぎたと感じていた家光は上洛前から信綱を許すきっかけを探していたが、演習の出来栄えがすばらしいものであっただけにその日のうちに騎乗での供奉を許すことにした。さらに家光は信綱に刀を下賜し、手ずから信綱に酒を酌んだ。信綱は緊張した面持ちで杯を受けた。

「見事な演習であった。戦場でも立派に大将を務められるであろう。安心したぞ」

家光は信綱をねぎらった。が、急に改まった口調で信綱に語りかけた。

「伊豆守よ、お前はお前なりに切支丹のことを考えてあのようなことを申したのであろう。だが私にも将軍としての責任がある。日本の将来にとって不安な材料は、私の判断でつぶしていかなければならない。それは間違いが許されない、最終的な決断になるのだ。そこに甘い考えを容れる余地はない。最も確実と思われる方法によって行動しなければ、必ず失敗するものだ。しかも公儀が滅びたとて私の恥にしかならないが、日本の領土が少しでも外国の手に渡れば、それこそ国家の恥となってしまうのだ。

 切支丹は根絶する。その方針は変えられない。よいな」

「はっ」

家光の話を聞く前から、信綱にはわかっていた。一度下された結論が覆ることなどあり得なかった。信綱にできることは、これから一人でも多くの切支丹が血を流さないで済むよう気を配ることだけであった。

 上洛した家光は京都の至るところで将軍の偉大さを印象づけた。それは信綱たち老中の演出による、家光の一人舞台であった。

 家光はまず、幕府との確執により天皇を退位していた後水尾院に、それまでの院料の倍以上にのぼる七〇〇〇石を献上した。また親王や公家にも多額の銀子を贈り、朝廷側との力の差をまざまざと見せつけた。

 一方で上洛に供奉した諸大名には領知朱印状を発給し、自分たちの主人が誰であるかをはっきりと知らしめた。

 さらには大坂・堺・奈良の町に税の一部を免除し、京の町人には銀五〇〇〇貫を下賜した。これは家一軒につき銀三枚以上に相当し、その後長い間京の町での語り種となった。

 上洛の効果はてきめんで、家光は戦わずして敵となり得る勢力を圧倒することに成功した。家光はその褒賞として忠勝を加増のうえ川越から若狭に転封し、信綱、忠秋、正盛の三人を従四位下に叙して以後奉書に恒常的に加判するよう命じた。

 名実ともに国政の中枢を担うことになった信綱たちを待ち構えていたのは、今まで以上の重責と激務であった。信綱たちは息つく暇さえ与えられなかった。

 京都から帰着して早々、家光は江戸城を大規模に修築することを決定し、信綱たちにそのための「天下普請」を計画するよう下命した。大名の国力を削ぐことを狙った夫役の動員に、家光がいよいよ乗り出したのである。動員の矛先は利勝や忠勝など近習の大名にまで向けられ、計画の作成は最初から緊張を強いられる作業となった。

 この作業に、武家諸法度の改定作業が追い討ちをかけた。「武家諸法度」とは大名に対する幕府の基本方針のことで、将軍の代替わりごとに改定する習わしとなっていたが、外様大名を統制するまたとない機会となることから今回は大幅な見直しをするよう家光から指示されていた。年が明けてから、老中たちは法度の草案づくりのため毎晩のように打ち合わせを繰り返すことになった。家光に提出した草案は、そのたびごとに酷評を浴びて突き返されるのが常であった。

 信綱たちはこれらの作業を、それまで以上に困難な状況で行わなければならなくなった。上洛中に江戸城で発生した失火の責任を問われ、留守居役の忠世が謹慎を命ぜられたからである。家光と終生折り合いのつかなかった忠世は、その後謹慎は解かれたものの二年後に死去するまでかつての影響力を取り戻すことはなかった。そのため決定者を失った寄合は運営に多大な支障を来すようになった。忠世を引き継いだ利勝は、寄合を強力に推進するには性格的に向いていなかった。

 この時期、信綱は家庭内でも災いが降りかかっていた。妻のお静が病に倒れてしまったのである。一か月近くも咳と微熱が続いていたお静に、医師が下した診断は労咳(結核)であった。確実な治療法のなかった当時、労咳は死に至る病であった。日に日に衰弱するお静に気を遣いながらも、信綱は山のような業務を前にして家に帰ることすらままならなかった。

 寛永一二(一六三五)年六月、信綱たちは半年がかりで武家諸法度をようやく完成にこぎつけた。家光から最終案の承認が出された時、信綱はうれしいというよりほっとした。

 この法度には、老中たちが苦心して考案した条文が数多く盛り込まれていた。たとえば「参勤交代」である。信綱たちはこれまで事実上行われていた参勤交代を、隔年で参勤する制度として明文化した。一旦制度化されればよほどのことがない限りそれを破る者はいないことを、信綱たちはよく心得ていたのであった。

 さらに、幕府の許可を得ずに隣国へ軍を出動させることや、自国の領民を疲弊させることも禁止事項とされた。これらの条文に抵触することは、即転封、改易の対象とされた。

 これら一連の改定により、大名たちはほぼ完全に自由を奪われることになり、幕府に抵抗しようにもできない体制ができあがった。

 完成した武家諸法度は江戸城大広間で諸大名に披露された。信綱はその席には呼ばれなかった。法度のお披露目そのものが並み居る外様大名を威圧するための儀式とみなされ、信綱はそれにはまだ役不足と判断されたのである。利勝や忠勝は当然それに参列した。

 厳かな空気の中、儒学者の林羅山が法度を読み上げ、大名たちはひれ伏してそれを拝聴した。続いて家光自ら法度の趣旨を伝え、最後に力のない声で付け加えた。

「私はこの先すぐに死ぬかもしれない。各々方、この法度を私の遺言と考えて、後々まで必ず守るように」

大名たちは互いに顔を見合わせた。利勝と忠勝も驚いて家光を見た。家光はうつろな目で大名たちを眺めていた。四月にも風邪をこじらせて一か月近く粥ばかりの生活を余儀なくされた家光は、自分の健康状態にいよいよ自信が持てなくなっていたのであった。

 身体が衰弱するにつれ、家光はますます将来への不安をかきたてられるようになった。

 一一月、家光は組織改革を断行した。誰の意見も容れない、家光独断の決定であった。この改革により、幕府内の役職とその職務内容が厳密に規定されることになり、すべての役職は将軍に直結するしくみへと改められた。さらに合議を徹底させるために「評定所」が設置され、毎月決まった日にそこで寄合を開催するよう命じられた。政務の速やかな遂行を重視するなら個々の老中たちに権限を委譲すべきところを、家光は自分への権力集中による安心感の方を優先させた。

 この改定に伴って、信綱、忠秋、正盛の三人はようやく小姓組番頭の兼任を解かれ、利勝や忠勝とともに交代で大名との間の取次をすることになった。実父久綱と養父正綱も、揃って代官・百姓の訴訟を担当することになった。信綱たちにとって形の上では順調な昇進であり、久綱にとっては大抜擢のはずであったが、置かれた立場を考えるとあまり喜ぶことのできない内容であった。信綱たちは家光の単なる持ち駒でしかなかった。

 寛永一三(一六三六)年正月、本格的な天下普請である江戸城外郭工事が開始された。駆り出された大名は総勢一二〇名、全大名の半数以上にのぼる、とてつもない規模の普請であった。信綱の言ったとおり、いずれの大名も実力以上の軍役を負担し、大勢の百姓を動員した。

 普請の監督を受け持つ信綱は、諸大名間の持ち場の調整や資材搬入路の確保などに忙殺されることになった。にわか仕立ての共同作業のため、現場での喧嘩やもめごとは日常茶飯事であり、また仕上がりにばらつきが出ないよう巡察にも気を遣わねばならなかった。

 さらに天下普請を内心快く思っていない大名たちは、家光に逆らえない分信綱たちにそれとなく苦言をもらし、難癖をつけ、嫌味を言った。あいまいな態度を見せればすぐにつけ入ってきた。幕府の老中として毅然とした態度を心がけながらも、信綱は身体の芯まで疲れきっていった。

 そして普請が最盛期を迎えた三月七日、妻のお静が息を引き取った。

 前の晩も、信綱は帰宅が夜半過ぎとなった。信綱が家に着いた時には、お静は熱のためにやつれ、のどをぜいぜい言わせていた。医師はもう打つ手がなく、信綱たちは病人を見守ることしかできなかった。

 信綱はお静の枕元に正座した。お静は信綱に何か話しかけようとしたが、それは声にはならなかった。

 重苦しい時がゆっくりと過ぎていった。あえぐお静を前にして、信綱はいかにも無力であった。頭に浮かぶことといえば、お静のために何もしてやれなかったという痛恨の思いだけであった。

 夜が白々と明けてきた頃、部屋に沈黙が訪れた。何一つ物音がしない時がしばらく流れ、信綱は自分に言い聞かせた。お静は三九歳の若さで、自分と八人の子供を残して他界したのだと。

 信綱は肩を震わせて泣いた。自分の情けなさに、どうしようもなく泣けてきた。握りこぶしの上に、後から後から涙がこぼれ落ちた。

(お静、私はお前に苦労ばかりかけてきた。病気になり、上様に叱られ、忙しさのあまり家のことを気にする余裕もなかった。お前の今際の言葉を聞いてあげることもできなかった。私はお前を幸せにしてあげられたであろうか。お前の一生は、果たして幸せであっただろうか)

 言い様のない挫折感が信綱を支配した。止まることのない涙は、ぽっかりと空いた心のすきまを埋めはしなかった。日ごろの疲れと相俟って、信綱は腑抜けのように身体から力が抜けていった。

 だが、老中である信綱に休む暇は与えられなかった。信綱のことなどお構いなしに江戸城の普請は進み、監督者である信綱はすぐさま現場に戻らなければならなかったからである。

 日光で行われている東照社の大造替も、完成を間近に控えていた。家光が大権現家康のために建造した絢爛豪華な巨大建築群である。その竣工に合わせて挙行する大権現二一年神忌もまた盛大に行われることになっており、信綱たちはその準備も急がなければならなかった。

 家光の指示により、信綱が春日局と天海大僧正を饗応する日も目前に迫っていた。家光にとって親代わりともいえるこの二人をもてなすことは、家光本人に対する以上に気を遣うことであった。

 そのほかにも重要な案件、さらには雑多な作業が待ち受けており、信綱は気持ちの整理もつかないうちに背中を押されるようにして再び多忙な日常へと戻っていった。

 三月二六日、信綱が春日局を接待する日が訪れた。春日局とは言うまでもなく、家光の乳母、若き日のお福である。信綱はかつて秀忠の寝間の屋根に上ってお福から叱られたことを覚えていた。覚えているどころか、その後も何度となくお福は信綱たちのいる前でこの失敗話を蒸し返したので、信綱にとって忘れようにも忘れられない出来事となっていた。お福の話にはいつしか尾ひれが付けられ、信綱は秀忠に袋詰めにされて一晩中柱に吊るされたことになっていた。信綱は納得いかなかったが、お福に逆らえば反対にやり込められることは明らかだったのであえて反論はしなかった。それがお福の常套手段であり、そうすることによってお福は相手の出方を見るのを常としていたからである。家光の後見人を自認していたお福にとって、他人を評価する唯一の尺度は家光への忠誠心であり、反抗的な言い訳はお福の最も嫌うところであった。

 そのお福は、今や大奥を取り仕切る実力者「春日局」である。家光の後ろ盾もあって、その影響力は城内で並ぶ者がないと言われるまでになっていた。否、その行動力をもってすれば、誰の助けを借りずとも影響力を行使し得るようにさえ見えた。春日局という称号は数年前にお福が当時の後水尾天皇から賜ったものであったが、一介の将軍の乳母が天皇に拝謁すること自体、本来あり得ないことであった。ところがお福は策を弄して後水尾天皇との謁見を実現させたばかりか、天皇から称号を賜りながら退位に追い込むという離れ業をやってのけたのであった。当時幕府と朝廷の関係は冷え切っており、反幕の急先鋒となっていた後水尾天皇の処遇に頭を悩ませていた幕府はその対応策をお福に委ね、結果的にお福自ら後水尾天皇に引導を渡したのであった。お福の行動が幕府内の誰の信任に裏打ちされていたのか、それとも独断によるものであったのかは当事者以外に知る由はないが、お福だからできたという点では衆目が一致していた。

 それ以来、春日局は大奥を取り締まるかたわら、大名の饗応や非公式の折衝など重要な役をしばしば任されるようになっていた。この日はそうした日ごろの苦労をねぎらって、家光が信綱に命じてはじめて春日局を接待しようとしたのであった。

「ご苦労です、伊豆殿」

「はっ」

春日局から手土産を渡された信綱は、神妙な面持ちであいさつをした。春日局からすれば信綱はいつまでたっても家光の小姓であり、雀の巣の失敗以降もたびたびお福から叱られていた信綱は春日局にまったく頭が上がらない思いであった。

 対する家光は春日局をもてなすことを子供のように喜んでいた。家光にとって春日局は単なる乳母以上の存在であり、心の底から春日局を慕っていたのであった。

「こんなばばあをもてなさんでも、この春日は上様のためであれば何でもしますものを」

いつもと勝手が違う春日局は、居心地悪そうに家光に漏らした。

「まあ、そんなに遠慮せんでもよいではないか。たまには私が春日を喜ばせたいのだよ」

家光は半ば照れながら言った。

「春日を喜ばせたいのであれば、一日も早く世継ぎをお作りくだされ。上様の子供とあらば春日にとって孫も同然。春日は早く孫のお顔が見とうございます。お側の者たちも何よりそれを望んでいることでしょう。なあ、伊豆殿」

家光は苦笑した。天下の将軍も春日局の前では形なしであった。もっとも、春日局に対抗できる者など城内を見渡してもそう多くは見当たらなかった。

 春日局は常に信念を持って行動する女性であった。家光には純粋な愛情をもって接し、他人に対しては相手が誰であろうと思ったまま意見をした。妥協を許さない厳しさで他人も自分自身をも律し、筋が通らないことは徹底的に追及した。お福が春日局として城内で影響力を保ち得たのは、つまるところその強さゆえであった。

(お静にもこのような強さがあれば、いま少し長生きできたであろうものを)

詮方ない思いが信綱の脳裏をよぎった。

「お静殿のことを思い出しているのかな、伊豆殿。心ここにあらずといった様子じゃな」

「はっ、いえ、その…申し訳ございません」

春日局から図星を突かれ、信綱は返答に詰まった。

「まあ、伊豆守とて疲れているのであろう。外様大名と連日渡り合っているところへ奥方の不幸が重なったのだからな。春日よ、大目に見てやってくれ」

珍しく家光が信綱をかばった。

「よいよい、伊豆殿。女にとって、自分のことを思ってくれる男がいるというのは何よりもうれしいことじゃ」

「春日様…?」

信綱はとまどった。こんなことを口にする春日局ははじめてであった。春日局は穏やかな表情を信綱に向けて言った。

「お静殿はやさしい方であったと聞いている。伊豆殿を残してこの世を去るのはさぞかし無念であったろう。だが、伊豆殿にめぐり逢えたことは幸せであったと、お静殿は思っているはずじゃ。

 伊豆殿、お静殿のために大いに泣きなされ。それがお静殿への一番の供養になろうて。そして、おのれの愛する者のために泣ける人間にこそ、周りの者は着いて来るものじゃ」

 思いも寄らない春日局のやさしい言葉に、信綱は目頭が熱くなった。人前ではぐっと悲しみをこらえていた信綱であったが、お静を亡くした空しさはささいなことで信綱を孤独に陥れていた。春日局の投げかけた言葉は、そんな信綱の心に一つの明かりを灯した。それは明日の生きる力につながる、心温まる光であった。

「そろそろ、膳を運ばせないか」

家光はそっけなく信綱を促した。家光が信綱に饗応を任せたのは智恵伊豆らしさを期待したまでのことで、信綱の心の動きなどにはまるでお構いなしのようであった。

「はっ、ただいまお持ちいたします」

信綱が手をたたくと侍女が膳を運んできた。そしてそれを春日局と家光の前に据えると、静かに下がっていった。膳の上には茶碗が七つ、その中に七種類の飯が盛られていた。

「これは?」

家光がいぶかしんで信綱に尋ねた。

「七色飯でございます。それぞれ茶飯、粥飯、菜飯、粟飯、麦飯、赤飯、そして引割飯が入っております」

信綱はありのままに答えた。家光の顔がみるみるうちに怒りで赤くなった。

「そんなことはわかっておる。これは毎朝私が食べているのと同じものではないか。お前はこの私を愚弄するつもりか」

「上様、実は私はそのおのれの愚かさゆえに、かつて春日様からお叱りを受けたことがあるのでございます。本日はその話を披露させていただきたく、この七色飯を用意させていただきました」

 信綱ははっきりとした口調で家光をさえぎった。信綱の声に圧され、さしもの家光も言葉を飲んだ。信綱は膳を横目で見ながら話を続けた。

「上様が毎朝召し上がっているこの七色飯、もとはといえば春日様のご発案なのでございます。上様が体調をくずしてご膳を召し上がらなかった日のこと、春日様が私どものところにお見えになられ、大変な剣幕でこうおっしゃられました。『あなたたちは自分の勤めをわきまえていない。上様にとって、ご膳は力の源ではありませんか。食事を摂らずして戦に勝てるとお思いか。あなたたちはあらゆる手を尽くして、上様が食べたくなるようなご膳を用意しなければならぬのです。

 明日からは七種類の飯を用意しなさい。七種類あればそのいずれかは上様のお口に合うでしょう。また、七つ釜の飯を同時に用意することなど他所ではまねができませんから、将軍権力の象徴という意味合いを持たせることもできるでしょう。

 それでは無駄ばかり増えてしまうとお思いかも知れぬが、そうではありません。余った飯は下の者がありがたくいただけばよいのです。それによって周りの者も上様の恩恵に浴することができ、今まで以上に感謝の気持ちをもって勤めに励むようになるでしょう』と」

 信綱はちらりと二人の顔を見た。家光は大きな目をして信綱の話を聴き、春日局は目を伏せて黙っていた。信綱は静かに話を続けた。

「春日様はいつでもあらゆることに気を配られております。この時も、上様のお身体のこと、将軍としてのあり方のこと、さらに下の者のことにまで配慮されておりました。それでいて春日様はご自身を利することがありません。上様もご存知のとおり、春日様のお食事といえば玄米飯とぬかみそ汁、それにいわしを添える程度でございます。春日様が望めばどんな贅沢も可能でありながら、そうなされようとはされません。常に上様のご威光を高めることだけを望んでおられます。その高いお志、すぐれた人格は万人の模範とするところであり、私などもただただ感服するばかりでございます」

「春日よ…」

家光はいとおしむような目を春日局に向けた。瞳はかすかに潤んでいた。春日局は下を向いたまま固まっていたが、おもむろに箸を取り七色飯を食べはじめた。食べている途中で、春日局は信綱に声をかけた。

「今日の春日は胸がいっぱいのようじゃ。飯がのどにつかえてしまった。伊豆殿、すまぬがぬかみそ汁を一杯持ってきてはもらえまいか」

 信綱はほっとした。正直なところ、春日局が七色飯を喜んでくれるかどうか確信はなかった。が、なまじごちそうを出しても喜ばないであろうことはわかっていた。「竹千代様を正しい方向に導け」という、子供のころのお福の叱責も信綱の耳に残っていた。信綱が出した結論がこの七色飯であった。それでよいかどうかの判断を、信綱は春日局に委ねたのであった。春日局の反応はそれが間違いでなかったことを物語っていた。

 振り返ってみれば、雀の巣の失敗話をした後でお福は決まっていつも、

「だが、この失敗のおかげで長四郎殿は秀忠様から目をかけられるようになったのだから、人生何が幸いするかわからぬものじゃよ」

と、他の小姓たちに言って聞かせたものであった。実際は秀忠に特別目をかけられたことなどなかったから、信綱はそのたびにきまりの悪い思いをさせられた。が、そのおかげで他の小姓たちに対して少しばかり面目を施すことができた。お福はお福なりに信綱を立てていたのであった。実際のところ、お福の小言を真剣に受けとめて成長していった信綱のことを、春日局は気に入っていたのである。

 この日はささやかではあるがなごやかな、心に残る宴となった。

 翌二七日は、家光の命によって信綱が天海大僧正を江戸城に招く日であった。天海は上野にある東叡山寛永寺の住職である。「東叡山」という山号は「東の比叡山」を意味しているが、強大な比叡山延暦寺の勢力を抑えようとした家康が関東における天台宗本山として川越仙波の喜多院に名付けたのがはじまりであった。当時天海は喜多院の住職であり、家康は天海の実力を高く評価して延暦寺に対抗できる地位を天海に授けたのであった。その後秀忠によって江戸城の近くに寛永寺が創建され、天海がその住職に任命されたのに伴い、東叡山の山号も喜多院から寛永寺に移された。天海は一貫して幕府の宗教政策の一翼を担ってきたのである。

 家光は以前からしばしば天海を江戸城に呼んでもてなしていた。父秀忠以上に祖父家康を慕っていた家光にとって、家康亡き後は天海が父親代わりのようなものであった。もっとも、この時すでに一〇〇歳を超えていた天海は年齢的には家光の曾祖父ぐらいに当たり、家康が帰依するほど仏道に通じていたこの老僧は家光にとって父親どころか活仏のような存在であった。

 信綱は城内で何度か天海を見かけたことはあったが、あまりにも格が違いすぎて言葉を交わしたことはなかった。天海を饗応するのもこれがはじめてであった。この日の接待は、天海に日光東照社の遷宮式の導師を務めてもらう謝礼の意味もあり、信綱は天海をもてなすというより、ただひたすら粗相がないことだけを祈った。もちろん天海が自分のことを覚えてくれているなど期待もしていなかった。それだけに、門前で出迎える信綱に天海の方から声をかけてくれたことには、信綱は素直に感動した。

「おお、これは伊豆殿、本日はお世話になりますぞ。奥方様がお亡くなりになられて間もないというのに、まことにかたじけない。お静殿は本当にお気の毒でござった」

(私の妻のことまでご存知なのか)

信綱は驚き、それまでの緊張がうそのように和らいでいった。驚きはすぐさま尊敬に変わり、「この人には逆らえない」という気持ちが自然と湧いてきた。

 天海を大僧正たらしめたのは、豊富な仏典の知識でも横紙破りの政治力でもなく、この人間性ゆえであった。その活動は宗教界にとどまらず、およそあらゆる人間関係に向けられていた。将軍に罪人の赦免を進言したり、家臣の失敗をとりなしたりといった微妙な問題に関して、天海ほど頼りにされている人物はいなかった。ほかならぬ養父正綱でさえ、天海にとりなしてもらったことがあった。こうした行いが天海の立場をゆるぎないものにしていたのである。そうでなければ、人間の本性を知りつくした家康から「人中の仏」とまで呼ばれたりはしない。

 城内の白書院に通された天海は、一〇〇歳を超えているとは思えないほど元気であった。

「まもなく日光東照社も完成しますのお。聞くところによると、家光殿はこのたびの造替を天下普請とはせず、費用のすべてを公儀の金庫でまかなわれたとのこと。大権現様に対する家光殿の熱い思いが伝わってきますなあ」

誰に話しかけるともなく、天海は遠い目をして語りはじめた。

「大権現様は本当に立派な方でござった。あれほどの方は一〇〇年に一人も出ますまい。無論、武家の棟梁であった大権現様は聖人君子ではなかったかもしれぬ。だが、力だけが横行する乱れた世を治めることができたのは、大権現様を措いてほかにおらなかった。

 わしは大権現様の生前、『家康殿は七つの徳を備えておられる』と申し上げたものじゃ。大権現様は大層お喜びになられて、お抱えの絵師に七つの徳を表した七福神の絵を描かせなさった。わしが『七福神めぐり』を思いついたのはそこからでな。七つの寺をめぐり七福神を拝めば七つの徳を積むことができる、と人々に説いたのじゃ。そうすれば庶民は今まで以上に大権現様の遺徳を身近に感じられるようになると思うてのう。近ごろでは谷中の七福神めぐりといえば大変な人気で、物見遊山の人で毎日あふれておるとのことじゃ」

天海はあくまで自然体でありながら、それでいて人を惹きつける魅力にあふれていた。家光も天海の話を黙って聞いていた。有徳の士とはこのような人のことを指すのであろう、と信綱は心の中で思った。

 ふと天海は家光に語りかけた。

「のお家光殿、戦国の世が終わったとはいえ、庶民の暮らしはまだまだ貧しいものじゃ。人々は日々を精いっぱい生きるだけで、生活のうるおいというものにはあまりにも縁遠い。せめて寛永寺にお参りに来た時くらい、楽しい思いをさせてあげたいと思うておりますのじゃ。

 不忍池に弁財天を祀ったのもそのためでしてな。あの池は四季折々さまざまな表情で庶民を楽しませてくれますからのお。また、最近わしは暇をみては忍が丘に桜の木を植えておりますのじゃ。花見の頃には大勢の人が訪れて、それはそれはにぎやかなものですぞ。

 家光殿もいかがですかな、拙僧と一緒に桜の木を植えてみては。庶民の喜ぶ顔を間近で見るのはいいものですぞ。それに、上様お手植えの桜となれば人々はきっと大事に育て、上様に対する親しみもさらに増しましょうぞ」

家光は我が意を得たりとばかりに大きくうなずいて言った。

「わかりました。必ず寛永寺へうかがわせていただきます。早速吉野から桜の木を取り寄せましょう」

天海は満足そうな顔をして何度も首を縦に振り、それから信綱に向き直って言った。

「伊豆殿、人間誰しも辛い時があるものじゃ。逆境の最中にいると、それが永遠に続くように思われるかもしれぬ。じゃが、いつかまたよい日が必ず訪れる。そのためには決して今を悲観せず、気長に待つことじゃよ。それともう一つ、世の中にはさらに恵まれない境遇の者がいることを片時も忘れないことじゃ。不幸な者にはいつくしみの心をもって接しなされ。人はいつでも、他人に生かされているものじゃからのお」

「ははっ」

信綱は深々と頭を下げた。天海が自分に対して励ましの言葉をかけてくれたことに、信綱は心の底から感謝した。

 信綱は天海の中に、人としての理想の姿を見たような気がした。そこには弱い者に対する優しさが満ちあふれていた。幕府の老中として、自分も常にそうあらねばならぬと、信綱は自分に言い聞かせた。

 この日は天海をもてなすというより、天海に多くのことを教えられた日となった。

 翌二八日、日光東照社で行われる東照大権現二一年神忌の参列者が発表された。家光の命令でいくら費用をかけてもお構いなしとされた東照社の造替には、最終的に延べ一七〇万人の大工と二八〇万人の雑役が動員された。陽明門に代表される彫刻や金細工にも湯水のごとく金銀がつぎ込まれ、総工費は優に一〇〇万両を超えていた。

 信綱は自分も当然参列に加わるものと思っていた。が、伝えられた参列者の中に自分の名前はなかった。

(もしや春日様か天海様のことで、上様のお気に召さないことがあったのであろうか)

信綱の不安な気持ちを察してか、忠勝が信綱に話しかけた。

「伊豆殿、参列者に選ばれなかったことを気にすることはない。上様は伊豆殿に少し休養を与えるつもりなのだ。奥方が亡くなられてからこの方、伊豆殿は供養をする暇さえなかったであろうからな。上様もそこのとことろは十分気にかけておられるのだ。

 もっとも、留守中の天下普請を伊豆殿に任せようという思惑も、上様にはあるがな」

相変わらず仏頂面の忠勝であったが、信綱にとって忠勝の心遣いはありがたかった。自分に対して無関心に見えた家光が内心では気を遣ってくれていることもわかり、信綱は肩の力がすっと抜けたような気がした。

 四月一三日、家光が日光へ向けて出発するのを見送ると、信綱は天下普請の打合せをするため作事(建築)の責任者を自宅へ呼んだ。現在進行中の天下普請が完了したあかつきには、間髪を容れず天守閣の修築が予定されていたからである。集まった作事奉行、大工頭、棟梁といったそうそうたる顔ぶれを前に、信綱は激励のあいさつをした。

「今日ここに集まってもらった面々は、日本最高の水準を誇る作事の専門家と言っても過言ではない。公儀の象徴であり、江戸の顔ともなる天守閣の修築はお前たちにとって不足はないであろう。難しいこともあろうが、皆で協力し合って立派なものを作りあげてほしい。困ったことがあれば私がいつでも相談に乗ろう」

「ありがとうございます。今後ともいろいろとご教示いただければ幸いです」

自分たちの経験と知識に絶対的な自信を持つ作事方たちは、内心では信綱に教わることは何もないと思いながらも形ばかりのあいさつをした。

「そうか。それなら一つ聞かせてもらうが、各々方いまの天守閣の状態をどう思う?」

信綱の質問を聞いた途端、作事方の間に緊張が走った。自分たちの仕事に本気で口をはさむつもりなのか、という警戒感がありありとうかがわれた。作事方を代表して、大工頭の一人が注意深く答えた。

「さようでございますな。すでに二〇年ほど風雨にさらされ続け、破損箇所が目立って多くなってきているように見受けられますが…」

「そうであろう。殊に外壁の痛みはかなりのものだ。白壁が剥落してところどころ土色の下塗りがむき出しになっている。その都度お前たちに補修をしてもらっているが、老朽化のため最近では修繕が追いついていないのが現状だ。かといって公儀の面目もあり、破損箇所をそのまま放っておく訳にもいかないのが悩ましいところだ」

作事方の態度の変化に気づいていないかのように、信綱が気軽に相づちを打った。すかさずもう一人の大工頭が話を継いだ。

「さればこそ、上様は天守閣の修築を思い立たれたのでしょう。かくなる上は諸大名に建て替え同然の修築をさせることが、我々に与えられた使命であると信じております」

「それは結構だが、いくら修築をしても再び外壁が痛んでくるのを抑えることはできまい。しばらくするとまた見苦しい姿をさらすことになる。いずれはまた公儀の手で補修を繰り返さねばなるまい。

 各々方、ここのところをよく心得ておいてほしい。天下普請は無論大切だが、公儀への負担という意味ではむしろ日々の補修の方が重要なのだ。

 ただでさえ公儀の普請は見栄えが優先し出費がかさみ勝ちになる。ましてや天守閣の外壁の補修ともなると足場を組んでの高所作業となり、左官や鳶の手間賃なども跳ね上がってしまう。補修が度重なればそれだけ費用が膨れ上がるということだ。建造物はしっかりとした目的を持って設計することが大事だが、これからはいかに補修費を抑えるかということも考慮に入れて設計に当たってもらいたい」

信綱の意図がようやく飲み込めた作事方たちは、なるほどと大きくうなずいた。が、それでもまだ疑問が解けない作事奉行が、率直な質問を信綱に投げかけた。

「伊豆守様のお考えはもっともなことですが、どのようにすれば補修費を抑えられるのでしょうか。かかってしまうものはある程度仕方がないと思うのですが?」

「そこなのだが、実は現在の状況を見越して、この二〇年間私が自宅の庭で試していることがあるのだ。それが実用に耐え得るものかどうか、専門家であるお前たちに検証してもらいたいのだよ」

 信綱が指差した庭先には、壁土がいっぱいに詰まった木箱が五つほど置かれていた。いずれも相当年数がたっていると見えて、中には固まった壁土がぼろぼろに崩れかけているものもあった。信綱はにっこり笑って話を続けた。

「白壁が剥がれることはやむを得ないと私も思う。であれば、破損をしていても見苦しくないように下塗りから白土を用いればよいのではないかと私は考えたのだ。とはいえ、何の根拠もなくいきなり白土を使う訳にはいくまい。材質を変えたため結果的に外壁全体がもろくなって、下塗りもろとも短期間で剥落するようなことがあっては一大事だからな。そこで壁土の材質を少しずつ変えた五種類の白土の見本を作り、どれが一番下塗りに適しているかを試していたのだ。材質の記録も残っている。好きなように利用してもらえばよい」

 信綱は奥にしまってあった壁土の記録を作事方に差し出した。あまりの周到さに、作事方は開いた口がふさがらなかった。だれかれとなく、「智恵伊豆」という信綱のあだ名を思い出していた。

信綱會をフォローする
川越市旭町三丁目 信綱會