其の十三 由比正雪

 慶安四(一六五一)年ともなると、江戸の町の限界は誰の目にも明らかになってきた。急激な人口増加により、食糧はもとより住むための場所さえままならなくなってきたのである。旗本ですら、居屋敷を持たない者が大勢いた。

 それでも武家地の方はまだましであった。町域の三分の二を武士のための居住地で占める江戸の町では、屋敷の再配置などによって旗本の住む空間を新たに作り出すことは可能に見えた。問題は町人地の方であった。武家地の残りを社寺地と分け合う形の町人地は、町全体の二割に満たない空間に総人口の半数にのぼる町人がひしめき、そこへ食うや食わずの百姓や、主家の取り潰しにより放出された牢人などが大量に押し寄せ、今や息をするのも苦しいほどの過密状態となっていた。武家地にしても、遅かれ早かれ町人地同様の飽和状態になるのは目に見えており、信綱たちにとって江戸の人口集中を緩和することが喫緊の課題となっていた。

 最も現実的な解決方法は町域の拡大であったが、それは口で言うほど簡単なことではなかった。最大の問題は飲み水であった。海に面した低地にある江戸の町は、井戸を掘っても金気臭い水しか出てこない。幕府はこれまで既存の河川を改修したり、ため池を利用したりして飲料水を確保していたが、今回はそのどちらもあてにできそうになかった。別の方法を考えなければならない。しかもそれは相当大がかりな仕掛けとなる可能性がある。信綱たち幕閣はとりあえず家光に現状を伝え、江戸町奉行に問題解消の具体策をまとめさせることにした。

 信綱たちは同時に治安の問題も抱えていた。開幕以来、江戸の町には下級武士を中心とする異装のならず者がはびこっていた。彼らは「かぶき者」と呼ばれ、戦乱なき世の中にあって無用の長物と化した我が身をもてあまし、往来で乱暴狼藉を繰り返していた。一年季の奉公人からなる彼らは、年季が明けた後も自国へ戻ることなく江戸にとどまり、そこへ仕官のあてのない諸国の牢人や一部の旗本までもが加わり、徒党を組み一味をなして都市下層部における一大勢力となっていた。このような不満分子は何かきっかけがあるとたちまち暴徒と化して社会不安を増徴させる。放っておくことは大変危険であり、そもそも潔癖性の家光はこのような風紀の乱れを極度に嫌った。信綱たちは事あるごとに綱紀粛正を触れ出し、かぶき者を抑え込むことに腐心した。

 とはいえ、彼らを上から抑えつけるだけでは問題の解決にならないことも事実であった。彼らは自分たちこそが体制の屋台骨を支えているというささやかな誇りを抱き、武士としてのあるべき姿と現実の自分との差に悩み、一分を重んじ義理に殉じることで自らの存在意義を確かめているのであった。それをやみくもに否定することは体制への反発を強めさせることにしかならず、蓄積した不満のはけ口をほかのものに見出す恐れもあった。信綱たちはその辺の微妙なさじ加減を求められていた。

 こうした状況にあって、二月下旬にまたもや家光が体調を崩した。身体が食事を受け付けず、粥だけはどうにか口にする程度の弱々しい姿となった。もっとも、病気がちの家光にとってそれはいつものことであり、この時も暮れから長引いていた風邪がぶり返したくらいにしか受け取られていなかった。

 ところが三月に入っても病気は回復するどころか悪くなる一方で、公務のすべてを家綱が代わりに務めるほどになり、異変を聞きつけた諸大名が足繁く江戸城に通い家光の周辺は急にあわただしさを増していった。

 家光の病状はその後も一向に改善する気配を見せず、家綱は病気平癒のため寛永寺に祈祷を依頼し、朝廷は石清水八幡宮に奉幣使を送り、明正上皇は内侍所で臨時神楽を奏した。そのいずれが功を奏したのか、一時は体調を持ち直したようにも見えた家光であったが、四月一九日の夜になって突如容体が急変した。翌二〇日の朝、諸大名や旗本らがあわてて登城した時には、家光はすでに危篤の状態に陥っていた。

 本当の死期が家光に訪れたらしい、江戸城は大いなる緊張に包まれた。大勢の人がいるにもかかわらず、城内はしんと静まり返っていた。信綱ら老中が列座する中、忠勝ひとり家光の枕元に控え、今際の言葉を聞き漏らすまいと必死にその顔に耳を傾けた。

 時が止まっているかのような重苦しい空気が城内を支配した。時折遠くの方で人を呼ぶ声が聞こえるほかは、物音一つしなかった。大名たちは何も知らされないまま、半日以上同じ場所で時がたつのを待った。

 夕刻近くになって、家光がついに息を引き取った。享年四八歳。忠勝は肩を落として静かに立ち上がり、信綱たちを伴って次の間に移った。そこで御三家ならびに譜代の面立った人物を招じ入れ、これからは家綱を盛り立てて国政に協力してほしいという家光の言葉を告げた。家光の異母弟である保科肥後守正之には、家綱の後見人となるようにとの遺命が伝えられた。信綱は別の間に集まっていた外様大名にも家光の死を伝え、国政については今までと何ら変わらないことを強調した。

 すべてのことは平穏のうちに行われた。が、まぎれもなくこれは非常事態であった。いつかこの日が訪れるであろうと覚悟はしていた幕閣たちも、いざその時になってみると先行きの不安を感じずにはいられなかった。世継ぎとなる家綱は若干一一歳、到底国政を舵取りできる年齢ではない。幕府の体制は三代を経て一見盤石のようであるが、一皮むけば上から下まで家光の強引なやり方に対する恨みつらみで満ちている。当面は忠勝を中心とする集団指導体制で乗り切るつもりだが、真の指導者を失った状態でどこまで運営が可能なものか、誰にも答えを出せなかった。

 そんな中、深夜になって正盛が殉死したという知らせが入ってきた。残された幕閣で力を合わせて困難を乗り切ろうという矢先の出来事に、城内はざわめき立った。とはいえ、家光と親密な関係にあった正盛の殉死はある程度予想されたことであり、幕閣の動揺はそれ以上大きくはならなかった。

 ところがその直後、今度は重次殉死の報が飛び込んできた。さすがにこれには城内の誰もが驚いた。家光の恩恵にあずかったという点では、信綱たちも重次と同列だったからである。その恩返しのためにも幼君を補佐していこうと申し合わせていたところを、重次が自害したことによりその主張がいかにも空々しく聞こえるようになった。家光の後を追うのがやはり武士たる者の務めなのではないかという空気が、圧倒的な力を帯びるようになってきたのである。

 城内は異様な雰囲気に包まれていた。陰鬱な死のにおいが立ち込め、大奥の女たちは声を上げて泣いていた。誰もがまともな精神状態ではいられない。信綱自身、自らの死を意識した。

 そこへ忠秋がたまたま廊下を通りかかった。

「豊後殿、貴殿はどうするつもりか。上様に殉じるつもりであろうか?」

血の気の失せた顔で忠秋に問いかける信綱に、忠秋は平然と答えた。

「私は死んだりはいたしません。若い家綱様に対し、そんな無責任な行動はとれませんから」

忠秋の毅然とした口調に、信綱ははっと我に返った。

「もっともなことだ。これでもし我々全員が上様の後を追ったら、残された家綱様は経験の浅い者に囲まれて大変な苦労をされるであろうからな」

信綱の頬に再び赤い色が差した。忠秋と一緒にいると、信綱はなぜかほっとする。忠秋のぶれない姿勢に勇気づけられるからであろう、信綱は改めて生きる決意を固めた。

 とはいえ、信綱にとってそれは決して気楽な選択とはならなかった。主要な幕閣がこれ以上家光の後追いをしないことがわかると、人々はこぞって信綱たちをこきおろしにかかったからである。民衆というのは常に直感的に判断し、自分たちの気に入らないことがあれば容赦なく罵声を浴びせかける。そこには天才的なひらめきと悪魔的な意地の悪さが同居し、反論のしようがない執拗な攻撃となって襲いかかる。信綱はまさにその矢面に立たされることになった。

 実のところ、重次の殉死には彼なりの理由があった。とりたてて家柄が良い訳ではなく、飛び抜けて才能がある訳でもなかった重次は、自分が家光に拾われたという思いを人一倍強く持っていた。そんな重次が、命令とはいえ家光の実弟である忠長を死に至らしめたことに、かねてから深い罪の意識を抱いていた。その償いのためいつかは自分も死ななければならないと、重次は前々から考えていたのである。それには家光に迷惑がかからなくなる瞬間、すなわち家光の死の直後に自分も死ぬのが一番であると心に決めていたのであった。

 もっとも、民衆はそのようなことには関心がない。あくまで自分たちの気の済むように放言するだけである。そしてその攻撃の矛先は信綱に集中した。

「伊豆まめは 豆腐にしては よけれども 役に立たぬは きらずなりけり」

彼らが好んで詠んだ歌である。

「『伊豆』という名の豆はやわらかくて豆腐にはよいが、きらず(おからのこと。腹を『切らず』と掛けている)は役に立たない」

という意味であった。

「弱臣院殿前拾遺豆州太守殉死斟酌大居士」という、ありがたくない戒名も付けられた。「拾ってもらったくせに殉死はためらう弱腰の家臣」というほどの意味であった。人の口に戸は立てられないとはいうものの、皮肉たっぷりに自分をおとしめようとする大合唱に、信綱は気持ちがどんどんすさんでいった。

「まったく下々の者は好き勝手なことを言う。上様のご恩を受けたことがない者など、一体どこにいるというのだ」

信綱と並んで民衆の批判にさらされた忠勝は吐き捨てるように言った。もっとも、忠勝と信綱とでは立場が違い過ぎた。譜代の名門の出身である忠勝にとって、国政は生まれながらの責務といえた。片や代官の子である信綱は、家光の引き立てがあったからこそはじめてこの場にいられるのであった。それだけに民衆の批判は一層鋭く信綱に向けられた。

「お静よ、私は骨身を惜しまず国政に尽くし、それなりのことを成し遂げたつもりであった。民衆にとって、そんなことはどうでもよいことなのだな」

えも言われぬ寂しさが信綱の身を包んだ。

 さらに落ち込むことに、信綱と同じ立場であるはずの忠秋には批判の声がまったく聞かれなかった。忠秋は味方で信綱は敵だ、民衆はそう判断しているようにしか見えなかった。信綱は悟った、自分だけが国政の場からの退場を命じられているのだということを。それは為政者としてではなく、一個の人間として敗れたのだと認めざるを得ない現実であった。信綱は孤独であった。

 そんな信綱のもとに一通の奉書が回ってきた。家光の葬儀を伝える奉書であった。通常、奉書は下位の老中から順に署名をし、最上位の老中が最後に署名をする。老中筆頭の信綱は当然最後に署名する立場にいた。この奉書は事前に老中たちの承諾を取り付けるために、まだ誰も署名していない草案として回覧されたものであった。信綱はそれを一読すると、真っ先に自分の名を署名して返した。

 その日の夜、屋敷に帰った信綱のところへ忠秋がふらっと訪ねてきた。別段用件があるようには見えず、ただ立ち寄っただけといった風情であった。

 一方の信綱はどうしても忠秋に対して卑屈になった。目を合わすことができず、ぎこちなく他人行儀に振る舞った。

 すると忠秋の方からやにわに信綱に語りかけてきた。

「伊豆殿、もう一〇年以上も前になりますかな、亡くなられた上様に狂言を披露したのは?」

突然何を言い出すのかとびっくりした信綱であったが、それと同時に家光ありし日のことをはっきりと思い出した。

「そういえばそんなことがあったな。たしかあの日は二人して褒美の盃をいただいたと記憶しているが…」

「そうそう、あのひどい演奏でよくもまあ、といった感じでござったが、実のところ、あの時私は上様が既に演奏の良し悪しを判断できるような体調にないことを見抜いていたのでござるよ」

「はあ?」

「演奏がはじまる前から、上様は半分白目をむいて座っておられた。私はそれを見て、これは何を聞かせても同じだと思い、そのまま演奏を続けさせたのでござるよ。

 ところが伊豆殿ははた目にもはらはらと落ち着かない様子で、上様の顔をのぞき込んだり私に目配せしたりと取り乱しているのがよくわかり申した。私は笑いをこらえるため、青あざができるほど自分の足をつねくったものでござるよ」

「あっはっはっは…」

信綱は久しぶりに心の底から笑った。家光がいた頃の懐かしさと、未熟だった自分に対する情けなさと、それを見透かされていた恥ずかしさとが混じり合って、笑いが止まらなくなったのである。

 忠秋も一緒になって笑った。が、忠秋の顔を見た途端に信綱ははっとした。忠秋がぼろぼろと大粒の涙をこぼしていたからである。

 何が起こったのか見当もつかず、信綱は笑うのをやめて口を閉ざした。忠秋は頬の涙を拭おうともせず、真っ直ぐに信綱の目を見て言った。

「我々はいつも二人して上様を助け、国のために尽くしてまいりました。我々は互いに信頼し合い、隠しごとなどない間柄であると信じておりました。それを何たることですか、私に黙って奉書に先に署名をするとは。あまりにも水臭いではありませんか。

 伊豆殿、世間が何と言おうと、私は最後まで伊豆殿の味方です。老中筆頭は伊豆殿以外にはあり得ない。お願いです、どうか奉書に先に署名するようなことはせず、胸を張って老中筆頭としての職務を全うしていただきたい」

忠秋は本気であった。絞り出すような声で、全身全霊を傾けて信綱に訴えかけた。ぼろぼろになりかけていた信綱の心の奥底に忠秋の言葉がしみわたった。こみ上げてくる鳴咽をかみ殺すことなく、信綱は涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら答えた。

「豊後殿、ありがとう。本当にありがとう」

 家光の死んだ直後こそ新しい体制にとまどっていた信綱たちであったが、すぐにそれにも慣れて今まで以上に実務をこなしはじめた。何といっても家光の残したものは大きかった。家光が構築した政治機構は、そっくりそのまま幕閣たちによる能率的な行政組織として機能した。

 忠勝や直孝も健在であった。譜代名門を代表する忠勝は、門閥に対する強力なくさびとなった。「御家人の長」と呼ばれる直孝は、そこにいるだけで旗本らを承服させる存在感があった。今やそこに保科正之が加わった。幼少の頃、家光の異母弟という出自を隠して信州高遠保科家の養子となっていた正之は、その謙虚な姿勢が幸いして家光が生前最も心を許す人物となっていた。家光が正之を家綱の後見人に指名したことで、うるさ方の御三家ですら余計な口出しができなくなった。正之は幕閣になくてはならない存在となった。

 一方の老中は、重次の後任として松平和泉守乗寿が加入したにとどまり、経験豊富な信綱と忠秋とでがっちりと体制を固めていた。家綱政権は古今東西を見渡しても並ぶべきものがないほど、質の高いまとまった組織となったのである。

 それから二か月余りは何事もなく過ぎた。家光の葬儀や廟所の造営などあわただしい毎日ではあったが、警戒された反乱は生じず、時折かぶき者が暴れるほかは町の中も平和であった。

 幕閣たちの間にいささかの安堵感が漂いはじめた頃、世間をあっと言わせる事件が発生した。七月九日、三河刈屋の領主松平能登守定政が、突如幕府への抗議行動を起こしたのである。

 徳川一門のはしくれであった定政は、小姓組番頭を勤めた経歴もあり決して反体制的な人物ではなかった。その定政が幕閣に意見書を提出し、幕府の許可も得ずに出家までしてしまったから大騒ぎとなった。

 定政の主張は旗本の救済であった。自分は二万石の領主に値しない。この領地を五石ずつ、四〇〇〇人の困窮する旗本に分け与えた方が、よほど公儀のためになるであろう。定政はそう訴えて領地の返上を申し出たのであった。そこには幕閣たちの無為無策に対する不満がありありとうかがわれた。

 とはいえ、その崇高な目的とは裏腹に、定政の意見書はまったく意味不明な内容であった。そこには定政が過去二〇年間に夢想した歌が延々と書き連ねてあった。

「実より出でたる智恵はすがるべし 智恵より出ずる実は滅逆すべきのみ 願う心のはかなさよ 返す返すも身のほどを知れ…」

定政反逆の知らせを聞いて集まった幕閣たちは、意見書を囲んで頭をひねり合った。

「いったいこれは公儀に対する抗議文なのか、それとも自戒の句なのか?」

忠勝はいらいらした面持ちで舌を打った。

「さあ…。わしもここに来て封を開くまでは、このような代物とは思いも寄らなかったのでな」

意見書の名宛人として、はからずも城内にそれを持ち込む役回りとなった直孝は、迷惑そうに眉間にしわを寄せた。直孝だけではない、過激な幕政批判を警戒していた幕閣たちはみな、定政の意見書に拍子抜けしてしまったのである。

 意表を突いた言動に、さっぱり意図が読めぬ意見書。幕閣たちは定政の処遇についてさんざん頭を悩ました挙げ句、結局は定政が落ち着くまでしばらくの間様子を見ようということになった。要はだんまりを決め込んだのである。

 だが定政の暴走はそれでとどまることはなかった。七月一二日、定政は自ら能登入道と号し、墨染めの衣に両刀差しという奇怪ないでたちで、同じく帯刀した供の者を二人従えて「能登入道に物を給え、物を給え」と唱えながら江戸の町を托鉢しはじめたのである。常軌を逸したこの行動に、旗本らは自らの代弁者とばかりに熱烈な支持を与えた。旗本に限らず、現状に不満を抱いている牢人や奉公人たちもこぞって定政に味方した。

 幕閣たちはさすがに定政を放っておくことができなくなった。再び額を突き合わせて定政の扱いを協議した。

「能登殿の行為はもはや厳罰に値する。彼は無断で領地を返上して出家し、旗本の救済と称して幕政を批判して廻っているのだから。それを何のお咎めもなしという訳にはいくまい。

 問題は意見書の評価である。これを自らの不徳を恥じる告白の文と見るか、はたまた公儀に対する越権行為と見るべきか…判断の分かれるところではある」

信綱が論点をまとめた。

「いずれにせよ、あまり能登殿の処罰のことばかりにこだわると、旗本たちの失望と反感を買う恐れがある。彼の主張はあくまで旗本の救済であり、彼への処遇はそれに対する回答と受け取られかねない」

忠秋が釘を刺した。

「そうだ、そういった懸念はあるな」

直孝が忠秋に同意した。

 正之が幕閣を見回して、ゆっくりと口を開いた。

「各々方いかがでござろう、今回のことは能登殿の乱心ということで収めたら?我々は彼の主張を軽々しく認めることも否定することもできない。旗本らは彼の奇矯な振る舞いに喝采を浴びせ、その処分にも大いなる関心を寄せている。真正面から能登殿を処罰するのは得策でないと思う」

幕閣たちは大きくうなずいて正之に賛成した。かくして定政は乱心と見なされ、城と領地は没収、定政本人は伊予松山城主の兄定行におあずけとなった。定政は逃げも隠れもせず、悠然と兄のいる松山へと向かった。

 こうして定政の件は無難に処理されたかに見えた。が、それはこれから世間を揺るがす大事件のほんの序幕に過ぎなかった。

 七月二三日の夜、信綱の屋敷に家臣の奥村権之丞が現われた。見知らぬ男を二人連れ、顔には切羽詰まった表情を浮かべていた。時ならぬ訪問に信綱はすぐさま権之丞たちを屋敷の中に迎え入れ、熱い茶を勧めた。権之丞はそれには口をつけず、あいさつももどかしげに早速本題へと移った。

「ここにいる二人は弟の八左衛門と、従弟の七郎右衛門でございます。どちらも牢人の身ではありますが、日頃から武術の鍛練を心がけ、鑓の名手と評判の高い丸橋忠弥という男の道場に出入りしておりました。

 その丸橋が今日になって、公儀転覆の計画を二人に漏らしたのでございます。二人が私の縁者であることを丸橋は知らなかったのでしょう。高揚した口ぶりで、かなり突っ込んだ説明までしたとのことです。二人は黙って話を聞き、帰ってくるなり私のところに知らせに来たという次第でございます」

 八左衛門が語る忠弥の話では、計画は既に実行段階に入っており、各地に散らばった実動部隊が来たるべき時を待っているとのことである。主力となる兵士は八左衛門と同様の牢人であるが、行動が開始されればそれが数千人規模の大軍となって全国一斉に蜂起する筋書きであるという。蜂起に参加した牢人には仕官の道が開けているとのことであった。

 話を聞いた信綱はしばし考え込んだ。たしかに大事件ではある。が、にわかには信じ難い。なにしろ話が大きすぎるし、その割には詳細が曖昧すぎる。

「より深く調べてみる必要があるな、それも早急に」

重大な案件なだけに、信綱は努めて慎重であろうとした。だが、そう信じざるを得ないような情報が次から次へと信綱のところに舞い込んだ。その夜のうちに、さらに二人の訴人が現われたのである。

 訴人の名は林理左衛門と田代次郎右衛門。どちらも信綱とは面識がない。お互い同士も顔見知りではなく、時を前後して別々に信綱の屋敷を訪れた。

 理左衛門の方は幕臣の大沢尚親に連れられてやって来た。以前から忠弥と懇意であったという理左衛門はかれこれ以前から計画の全容を聞かされており、この日の日中いよいよそれを実行に移すと忠弥から告げられた。理左衛門はどうしたらよいかわからず知り合いの尚親に打ち明け、尚親が信綱へ注進するよう理左衛門に勧めたのであった。

 もう一人の次郎右衛門は自称金貸しの牢人。何のつてもなくいきなり信綱のところへ押しかけてきた。この日の夕刻、忠弥が一〇〇両もの大金を借りに来て、うっかり謀反の計画をしゃべったとのことである。次郎右衛門はその場はさりげなく聞き流し、金は明日用意すると約束して忠弥を帰し、夜明けを待たずに信綱のもとへと駆け込んだのであった。

 本当に大切な情報というのは、それを生かせる人物のところにしか集まらない。謀反に関するさまざまな情報がこの夜信綱のところへ集中した。もちろん当の信綱はそれに満足している余裕などない。事件をすばやく解決に導かなければ、何が起こってもおかしくはないのである。

 信綱はひとまず訴人たちの話を総合し、できる限り正確な情報をつかむことにした。その結果わかったことは、忠弥のほかにも首謀者が数人いて、主犯格は由比正雪という軍学者であるとのこと。弁舌が巧みで、彼に心酔する者は数多いという。共謀者はほとんどが牢人で、いずれも武芸に秀で一騎当全の働きをするとの評判である。中でも金井半兵衛という者は剣の達人で、その腕前は相当なものであるらしい。

 首謀者たちはそれぞれ江戸、大坂、京都、駿河に分散し、あらかじめ決められた行動をとる手はずとなっている。まずは江戸城二の丸にある塩硝蔵(火薬庫)の下奉行河原十郎兵衛が、三日後の二六日に塩硝蔵を爆破する。驚いて登城する老中たちの駕籠を忠弥たちが襲撃する。老中を討ち取った忠弥らは紀州徳川家の紋が入った提灯を押し立て、江戸城内へ突入し家綱を監禁して城を占拠する。

 江戸での蜂起に呼応して、大坂では金井半兵衛が、京都では熊谷三郎兵衛が、それぞれ町に放火し騒動を起こす。幕府のやり方に不満を抱いている牢人やかぶき者、旗本らがそれに合流し、反乱は一大倒幕運動へと進展する。その機を逃さず正雪が駿河の久能山を攻略して立て籠り、そこに蓄えられている金銀を強奪する。久能山を拠点に駿府城へも攻撃を仕掛け、城を奪い取りそこから全国へ号令をかける。まさに大胆きわまりない計画であった。

 彼らの目的は牢人や下級武士を貧困から救うことにある。義憤に駆られた彼らは、家光亡き後の政道を正すために反乱を起こそうと企てているのであった。だが、牢人どもが束になってかかったところで、そうやすやすと幕府を倒せるものではない。所詮牢人は牢人であり、組織立った行動は望めず、金銭的な裏づけがなければ仲間をつなぎ止めておくことすら難しい。

 実はこの計画には黒幕がいるという。その黒幕が正雪らを影で操り、牢人たちを組織し、幕府を倒壊に追い込もうとしているとのことである。幕府に匹敵するほどの力を持つその黒幕とは、誰あろう紀州徳川家の当主徳川頼宣であるという。

 それを聞いた信綱は「うーん」とうなった。たしかに頼宣は常々幕政批判を繰り返しており、御三家の中でもひときわ挑戦的な人物と目されている。一方で情に厚い面があり、進んで牢人たちを召し抱えているともうわさされている。頼宣であれば牢人の救済に立ち上がることも十分にうなずける話であったし、何より頼宣には幕府に取って代わろうとする動機が存在した。頼宣にとって、次期将軍に家綱が就くというのは面白い話ではない。幼君を将軍に仕立てるくらいなら、家康の実子である自分を将軍に据えるべきであろうと頼宣が考えたとしてもおかしくはないのである。

 もっとも、頼宣が謀反を起こすというのは作り話であろうと信綱は読んでいる。あまりにも現実離れしているからである。正雪たちは頼宣の名を勝手に利用しているに過ぎない。その点について信綱は何ら心配をしていない。ただ牢人たちがそれを真に受けたとしたら計画の実現性は飛躍的に高まるであろうし、忠弥が紀州家の提灯を小道具に使おうとしていることからしても、頼宣とは何らかのつながりがあると見た方がよい。御三家がからんでくるとなると、事は外様大名以上に厄介になる。不用意な攻撃を仕掛けることもできず、場合によっては自分たちが攻撃にさらされる危険性すらあるからである。さすがの信綱も額に脂汗がにじんだ。

(この計画が現実のものとなれば、国中が大混乱に陥り公儀の権威は失墜する。事が起きてからあわてて事態の収拾に動いても、紀州家が何かにつけて行動を阻止しようとするかもしれない。この件はとにかく未然に防がなければならない。もはや一刻たりとも手をこまねいている暇はない)

信綱はすっと立ち上がり、訴人たちへのねぎらいもそこそこに権之丞を連れて表に飛び出した。そして鉄砲玉のように忠勝のもとへと向かった。

 出がけに信綱は家の者に言い残した。

「私は讃岐殿のところへ行く。どうやら讃岐殿は急病らしい。ほかの幕閣にもそのことを伝えてくれ」

かくして夜の江戸の町に「讃岐殿危篤」の報が飛び交うことになった。

 寝込みを襲われ憮然とした表情の忠勝は、さらに自分が危篤と聞いて幕閣たちが駆けつけてくると知り、何とも言えない複雑な顔をしていた。信綱は集まった幕閣たちを手ぎわよく忠勝邸へ招き入れる一方で、忠勝に深く詫びを入れた。

「讃岐殿、非礼をお許しくだされ。少しでも早く、秘密裡に皆様にお集まりいただくには、これ以上の理由が思いつかなかったもので。

 それほどまでに事態は急を要しております。町の中で大規模な反乱の動きが見られます。未然にこれを防ぐには、とにかく早いうちに手を打たなければなりません」

かたわらでそれを聞いていた乗寿が、興奮気味に幕閣たちに呼びかけた。

「各々方、お聞きになられましたか?かくなる上は明日の朝一番にでも家綱様に報告し、対策を講じるべきではあませんか」

忠勝は乗寿を冷ややかに見つめて言った。

「和泉殿、何を寝ぼけたことを申しておる。伊豆殿は事が起きる前に片付けてしまおうと言っておるのだぞ。つまりそれは首謀者たちを今夜のうちに召し捕ってしまうということだ。これは非常事態だ。家綱様への報告は後になっても構わない。事は一刻を争うのだ」

こういう時の忠勝は実に頼もしい。信綱の言わんとすることを即座に理解してくれる。他の幕閣も同様であった。信綱の必死の形相から事の重大さを感じ取り、その場で事件の未然解決に乗り出したのであった。

 真っ先に取り上げられた課題は、何といっても正雪の身柄拘束である。すでに正雪は駿河へ向けて出発してしまっている。おそらく二、三日後には久能山に到着するであろう。到着するが早いか、正雪たちは予定された行動に移るはずである。捕縛が一日遅れれば、それだけ彼らの勢力は膨らむことになる。信綱たちは駿府城代に書状を送り、久能山の警固を強化するとともに速やかに正雪を見つけるよう指令を出した。

 同時に信綱たちは江戸町奉行石谷貞清に人を遣わし、忠弥と十郎兵衛の二人を至急捕らえるよう指示した。知らせを受けた貞清は直ちに部隊を編成し、現地へと急行させた。

 どんよりした曇り空の夜であった。時折小雨も降っていた。信綱の提案により、江戸での捕物は一味の者に気づかれないよう提灯を灯さず、切支丹捜索の名目で行うことにした。忠弥の捕縛には与力二騎と同心二四人が差し向けられた。現地に到着した彼らは忠弥が自宅にいることを確かめたうえで二手に分かれ、後手の者が逃走に備え夜の町に包囲網を張り巡らせた。

 包囲が完了すると、先手の者が持ってきた竹束をひしぎ、口々に「火事だ、火事だ」と大声を挙げた。竹をひしぐパチパチという音が夜空にこだまし、まるで本物の火事のようであった。これも信綱が考え出した智恵であった。鑓の名手である忠弥に武器を持たせたら一筋縄ではいかないであろうとの判断から、火事を装って忠弥を家の外におびき出すことにしたのであった。案の定だまされた忠弥は丸腰のまま飛び出したところを同心たちに飛びかかられ、あえなく取り押さえられることになった。

 十郎兵衛も塩硝蔵にいるところを難なく召し捕られた。同心に両腕をつかまれた十郎兵衛は、観念したようにぐったりとうなだれた。

 既に周囲は明るくなりかけていた。信綱たちは自宅へは帰らず、そのまま直孝の屋敷に移り今後の作戦を立てることにした。

 とにかく正雪の拘束が先決である。主犯格なだけに人一倍勘は鋭いはずである。今日のうちに正雪はまだ駿河に到達しないであろうから、捕縛は早くとも明日以降になる。その間に謀反発覚のうわさが正雪の耳に入りでもしたら、正雪は警戒して行方を暗ますかもしれない。ここ二、三日が正念場である。幕閣たちは当面の措置として小田原城に書状を送り、箱根の関所を入念に固めさせるよう指示した。

 信綱たちはさらに、公儀隠密にも捜査協力を依頼した。将軍の直属機関である隠密は老中の支配から独立した存在であったが、正雪を捕らえるにはその機動力が必要と判断した信綱は、礼を尽くして出動を要請したのであった。隠密の頭である中根正盛は、快くその要請を引き受けた。

 翌二五日、正盛は手下の与力を駿府へ向かわせ、現地の動向を探らせた。次の日には別の手下に碓井の関所を固めさせた。要所要所の警戒を強化し、正雪の身動きが取れないようにする作戦であった。二七日には信綱が正雪の人相書きを諸大名に配布し、日本全土に包囲網を拡大した。

 その間信綱たちは頻繁に打ち合わせの場所を変更した。敵の一味がどこに潜んでいるかわからないのである。しかも連中は自分たちを見つけ次第殺しにかかるかもしれない。居場所はできるだけ知られないようにしておいた方がよかった。

 町の中ではあっという間に謀反の風聞が広まっていた。話には尾ひれが付けられ、正雪は四〇〇〇人の門弟を使って江戸の町を火の海にし、水道に毒を流して住民たちを混乱の渦に陥れようとしていることになっていた。一方で正雪が見つかったという報告は依然として入ってこなかった。事件が発覚してからもう四日がたとうとしている。そろそろ正雪の消息をつかまなければ、事態は混迷の一途をたどるばかりである。少しずつ信綱たちに焦りの色が浮かんだ。

 だが、実は正雪たち一行は既に駿府で発見されていたのである。

 二五日の夜遅く、正雪とおぼしき総髪の男が茶町の梅屋に投宿しているという情報が駿府の町奉行所に入ってきた。まさしくそれが正雪であった。梅屋は駿府における紀州家の立ち寄り場所となっており、正雪たち一行は紀州家の家中の者と称してそこに宿をとったのであった。

 正雪を生きたまま捕らえるよう言われていた町奉行は、確実に正雪を捕縛するため宿の外に誘い出すことを画策した。まずは配下の与力や同心を使って梅屋を遠巻きにし、与力の一人を使いに出して、「江戸から手負いの者の詮議を命ぜられ、旅人の疵改めをしている。至急町奉行宅までご同行願いたい」と伝えさせた。

 宿からは正雪の取次の者が現われた。

「自分たちは紀州家の者である。疵改めには協力したいが、箱根を越えてからこのかた主人が体調を崩し、参上いたしかねる状態にある。こちらに検使を遣わされて、手疵の有無を改めていただければありがたい」

と丁重に断った。

 与力はやわらかい口調で、「お話はもっともであるが、紀州家の方へむやみに検使などを差し向けてはかえって失礼かと存ずる。ここはひとつ、奉行宅までご足労願いたい」と食い下がった。

 取次の者は、「それでは主人に聞いてまいりましょう」と言って中へ入っていった。そしてそれきり表へ出てこなくなった。

 しばらくは何の動きも見られないまま、時間だけが過ぎていった。町奉行は無理に宿へ押し入ることもできず、手持ち無沙汰に腕を組んで待っていた。

 突然宿の大戸のくぐりが開き、中から四〇歳くらいの男が現われた。同心がばらばらと取り囲むのを横目で流しながら、男は悠然とした態度で与力と対峙した。

「検使を遣わしては失礼に当たると言われるが、それはこちらが望んだことであるから一向に差し支えない。何なら検使を認めるという証文を差し出してもよい。早く検使をお送りくだされ」

男が言うと、与力の方でも一歩も退かず、

「身体が動かないということであれば、こちらで駕籠を用意いたしましょう。それでも行けないというのであれば、是非ともその理由をお聞かせ願いたい」

と、押しの一手を貫いた。

 何度か押し問答が繰り返された後、

「それではもう一度、主人にその旨を申し伝えましょう」

そう言って男は宿へ引っ込んでしまった。再び音のない時間が訪れた。

 間延びした空気があたりに漂っていた。同心たちはすることもなく、所在なげに持ち場をうろうろしていた。町奉行は今さら引くに引けず、時折深いため息をついてその場の雰囲気に耐えていた。

 とうとう夜が白々と明け、互いの顔が見分けられるほどになってきた。夏場とはいえ一日で最も冷え込む時間帯で、同心たちは思い出したように時々大きく身震いした。

 この状態がいつまで続くのか、誰もがいい加減待ちくたびれた頃、大戸が開いて一〇人ばかりの男が一度に表に現われた。いずれも両肌を脱いで、「手疵などは少しもござらん。とくとご覧あれ」と口々にわめきちらした。

 同心たちはうかつに手出しをすることもできず、少し離れたところから男たちを見守っていた。すると後ろから落ち着いた感じの総髪の男が姿を現わした。由比正雪であった。いかにも体調が悪そうな顔をして、ようやくのことで立っているように見えた。正雪は与力に向かって力のない声で話しかけた。

「家来どもの手疵はお改めになりましたか。怪しい者はおりましたでしょうか。私はご覧のとおりですので、ここで肌脱ぎをするには及びますまい。

 宵のうちからこのように大勢で騒いでいるのはどうしたことですか。私どもは構いませんが、大納言様(頼宣)のためにはよろしくありますまい」

与力がそれに応えた。

「この騒ぎにお心当たりがないのであれば、今すぐにでも奉行宅へお越しいただきたい。もし思い当たることがあるようなら、天を駆け地をくぐろうとも逃がすことはできません」

 正雪は笑った。

「これはまたずいぶんと大仰な物言いでござるな。どうしても参らねばならぬというのであれば、今から駕籠を用意いたしましょう。とりあえず支度をしますから、しばらく外でお待ちくだされ」

そう言うと正雪は家来どもを引き連れて宿の中に消えていった。そして二度と生きた姿を見せることはなかった。

 様子がおかしいと感じた与力が宿のそばへ近寄ってみると、先刻まで人の気配があった宿からは何の物音も聞こえてこなかった。さてはと思って町奉行が宿になだれ込んだ時には、正雪は既に部屋の中で息絶えていた。集団で自決を図ったのである。外界の騒ぎとは裏腹に、至って静かな死であった。

 正雪が自害したことを伝える報告は、二八日の遅くになって信綱たちのもとに到着した。正雪を生きたまま捕らえることはできなかったものの、これで江戸の住民の不安は取り除くことができたと、信綱は幾分ほっとした。残る大物金井半兵衛も、遅かれ早かれ捕らえられるであろう。半兵衛の人相書きはすでに全国に出回っており、隠密も随所で目を光らせている。逃げ切ることは不可能に見えた。

 計画に加担していたほかの者たちも相次いで検挙された。捕らえた者から一味の名前を聞き出し、芋づる式に捕縛していった。その数およそ七〇人、もとより数千人という数は虚構でしかなかった。

 八月八日、正雪の自害した現場からさまざまな遺品が江戸城内に運ばれてきた。正雪の書き置きもその中にあった。懐紙二枚にしたためられたそれはところどころに血がついており、その場の生々しい雰囲気を伝えていた。

「このたび讒言があり、私が叛逆を企てているようにお聞き及びになったこと、無理もないと思います。しかしながら、私のような者がどうして当代の天下を乱すことができましょう。

 もっとも、天下の仕置が無道で上下の者どもが困窮していることについては、心ある者なら悲しまない者はおりません。そういう状況にありながら、松平能登守様が諫言のため出家したこともかえって狂気と見なされるありさまでは、忠義の志も空しくなってしまいます。これは天下の大いなる嘆きであり、上様のためにも良からぬことと思います。

 私は不肖の身でありますが、天下を困窮させている讃岐守らを遠流に処するため、少々のはかりごとをもって人を集め、籠城してそのことを天下に知らしめ、天下長久の政策を申し上げてその後はいかなる処分も受けようと考えておりましたところ、それも失敗に終わりました。

 大納言様の名前をお借りしましたのは、そうしなければはかりごとが成立しなかったからで、偽って扶持をいただいていると申しました。私はどなたからも扶持を受けてはおりません。そのことにうそ偽りはございません。

 申したいことはいろいろありますが、時間がないのでこれだけ言い残します」

 天下の謀反人らしからぬ、真摯な内容の文章であった。自分たち幕閣を天下困窮の張本人と名指ししてはいるものの、敵としてすべてを切り捨てるには惜しい存在であったと、信綱は感じていた。何より正雪は天下国家を第一に据えている、その心情に偽りがあるとは信綱には思えなかったのである。

 忠弥についても同じことが言えた。処刑場のある鈴が森まで引き立てられる間、忠弥は拷問にやつれた様子も見せず、にっこり笑って見物人の前を通り過ぎていったという。見る者をして「さすがは」と感じ入らせた忠弥も、やはり私心を捨てて行動を起こした一人であった。

 金井半兵衛は大阪で遺体となって発見された。失意のうちに自害に及んだのである。死ぬ前に半兵衛は遺書を残した。

「正雪に協力した疑いにより、一族まで取り調べを受けるのは仕方のないことである。しかし彼らは本当のことを知らない。おおかたは遠方にいたし、また急なことでもあったので連絡の取りようもない。それにこうした大事なことを、女子供にまで話すものでもない。

 自分にとって正雪は若い頃からの師匠である。その師匠に一大事を明かされて、どうして辞することができよう。正雪亡き後、時節を待ってその遺志を果たそうとしたが、自分の養父母をはじめ、何の関係もない者までが糾問されていることを憂い、その無実の罪を晴らすために切腹する次第である。

 正雪は私欲のために事を起こしたのではない。政道がよこしまで、武家のみならず町人や百姓までもが憤りを感じている、そのことを訴えるために牢人たちを結集しようとしたのである。天下の善政のために我が身を顧みず立ち上がった、この計画は無道のものではない。

 父は計画のことを少しも知らなかった。にもかかわらず、罪のない一族の糾弾を嘆いて長良川に入水してしまった。親不孝この上ないことである。

 親が子を思う気持ちに貴賎はない。父がもしこの計画を知っていたらどうしたであろうか。正雪に協力することを許したであろうか。自分は正雪に協力しなければ義を失うことになる。だからあえて父には何も話さなかったし、父であってもこうした大事なことを打ち明けたりはしないであろう。

 この書き付けに目を通された方には、養父母や一族の者の助けとなっていただきたい。賞罰を分けた仁慈の政道として、人々はお触れを守るようになり、治世は長久となるであろう」

 半兵衛もまた、義に忠実な高潔の士であった。境遇さえ違ったものであったならば、手に手を取って天下国家を支え合っていたかもしれない、そう思うと信綱は残念でならなかった。

 ここ何年かの間で、世相はがらりと変わっていた。自らの腕だけを頼りに社会の上層を目指す時代はとうの昔に過ぎ去り、今や平和で安定した自分の居場所を求める時代となっていた。時流に乗れない多くの牢人がくすぶっている現状は健全とはいえないが、世の中が移り変わる節目にあっては避けることのできない現象であり、誰が為政者になっても解消できるような性質のものではなかった。信綱や忠勝はたまたまそういう時代に居合わせたに過ぎない。正雪たちにはそういった視点が決定的に欠けていた。それが正雪の不幸であった。

 事件発覚から二〇日ほどで、正雪に連なる謀反人はほとんどが捕らえられるか、あるいは自害した。信綱のとった適切な措置により、事件は未然に解決され、国内の動揺は最小限に食い止められたのである。八月一八日、満を持して家綱の将軍宣下が行われ、晴れてここに四代将軍が誕生した。

 その二日後、ようやく落ち着きを取り戻した江戸城に信綱は一人座っていた。この日は家光の忌日に当たり、信綱は亡き家光に江戸の無事と家綱の将軍就任を報告するために、家光のかつての居室を訪れたのであった。

「大猷院(家光)様、ご安心なさいませ。江戸の町は今日も平穏でございま…」

話し終わらぬうちに、信綱は胸の奥からこみ上げてくるものを感じ、涙をこらえ切れなくなった。あふれる涙は幾筋も頬を伝い、ひざの前に置いた扇を濡らした。

 決して心安い主君ではなかった。それどころか、常に緊張をもたらす暴君ですらあった。にもかかわらず、その生涯を思うにつけ、運命にもてあそばれながらも自分の役柄を真面目に演じ切ったそのひたむきさに、信綱は目頭が熱くなるのであった。

 家光が必要以上に権力を行使したことは否めない。しかし、私利私欲のために権力を振りかざしたことは一度としてなかった。家光の頭の中には常に日本の将来のことがあり、やり過ぎのきらいはあったにしても、結果的に日本が戦乱から脱却する総仕上げを果たし、軍事政権とは思えないほど平和な国家を築き上げたことも事実であった。

 殊に心の病から立ち直ってからの家光の治世は、比類なき善政とさえ言えた。鎖国政策のおかげで、明朝末期における世界的な混乱に巻き込まれずに済んだし、内政面でも飢饉に痛めつけられた農村を速やかに復興するのに大きな力となった。

 家光のとった飢饉対策は、天下普請を行わなかったというだけの消極的なものではない。代官による恣意的な搾取を防止するため、その職務規制を徹底的に強化し、最終的には年貢徴収の裁量権を代官から取り上げることまでしたのであった。そのうえ時代に合った軍役令を軍学者に考案させ、百姓にかかる夫役を軽減することすら計画していた。

「今度天下普請を行う際には、この新しい軍役令を公布して百姓の負担をできるだけ軽くすることにしよう」

そう語る家光の目には優しさが満ちあふれていた。

 気性の荒さはすっかり影を潜めていた。三年前、丹波福知山城主の稲葉紀通に謀反の疑いがかけられ、その糾明のため家光が紀通を召喚しようとしたところ、紀通が自殺するという事件が起きた。以前の家光であれば、それこそ謀反の事実があった証拠だ、と強硬な態度をとっていたかもしれない。が、この時の家光は違った。逆にそのことを嘆き、「これからは風聞だけで大名を呼びつけたりはしない」と諸大名に誓ったのであった。

 家光が優れた人物であったことは、配下に有能な人材を揃えていたことからもうかがえる。愚昧な主君であれば、信綱のように才走った家臣をそばに置いたりはしなかったであろう。家光は反対に信綱を重用し、積極的に使いこなした。

「伊豆守のような家臣がもう一人いてくれればよいのだが」

と、家光は常々人に漏らしていた。

「私ほど幸運な将軍はいない。右手に讃岐守、左手に伊豆守」

とも語っていた。家光は信綱に全幅の信頼を寄せていたのである。幸運はむしろ信綱の方にあった。

 天下祭を今のように盛んにしたのも家光であった。もとはといえば楽しいことが大好きな普通の青年だったのである。幼少の頃から家光を見てきた信綱は、快活で屈託のない家光こそが本当の家光であることをよく知っていた。

 それだけになおさらである。家光が亡くなってからというもの、世相は暗くなる一方である気がする。せめて町の中がぱっと明るくなるようなことをして、家光が安心して永眠できるようにしたい。信綱は家光の霊に向かって、生前家光が好んだ祭を通じて世の中を活気づけることを誓った。

 九月、信綱の屋敷に和田理兵衛が訪れた。

「理兵衛よ、待っておったぞ。早速川越に戻って祭の準備に取りかかってくれ。城下の町年寄にも声をかけて、できるだけにぎやかに祭礼を催すのだ」

 理兵衛は何が起こったのかわからないというような顔をして信綱に尋ねた。

「殿、大猷院様の喪はまだ明け切っておらぬと存じますが」

信綱は家光の死に対し、養父と同じ一五〇日間の服喪を自らに課していた。服喪期間中は鳴り物を差し控えるのが通例であった。

「喪は九月一九日に明ける。理兵衛が川越で祭の話を進めているうちには、ちょうどその頃になろう」

「氷川明神の祭礼は、例年九月一五日となりますが」

「今年は特例だ。それだけに出し物も特別盛大にあつらえるよう、町年寄にも伝えよ。遅まきながらこの祭には、川越の町開きの意味もある。私からも町方への援助を惜しまないつもりだ」

「さようにおっしゃられましても、あやつり人形や獅子舞はそんなに急には用意できませぬ」

信綱は不思議なものを見るような目つきで理兵衛の顔をのぞきこんだ。

「何を申しておるのだ?町なかの祭礼といえば『だし行列』であるぞ。城下の連中なら皆そのことを知っていよう。彼らは今まで何度か江戸の天下祭を見たことがあろうし、出し物についても相当詳しい者がいるはずだ。そちらの方は万事町年寄に任せておけばよい。理兵衛はとにかく祭を盛り立てることだけを心がけてくれ」

「はあ…」

かくして九月二五日、はじめてにして異例ずくめの川越氷川祭礼が行われることになった。

 さすがに江戸との間を頻繁に行き来している川越の町人である。祭の作法についてもよく心得ており、信綱の言うとおり短期間で天下祭に負けない立派な祭礼を立ち上げた。

 もっとも、そこにはまだ現代の川越まつりに見られるような立派な「山車」は曳かれておらず、その原型となる「出し」という名の作り物を神輿のように担いで歩いていた。軽妙な囃子も聞こえては来ず、山車の上で囃子が競演する「曳っかわせ」を見るためには、この先二〇〇年待たなければならなかった。

 それでも城下の町人たちは、自分たちの手によるはじめての祭に熱狂し、思い思いの仮装をして「出し」の後ろを練り歩き、江戸まで届こうかというほどの歓声を挙げて祭の行列を楽しんでいた。前評判を聞いた近隣の町や村からも大勢の見物客が詰めかけ、黒山の人だかりとなって行列の両脇を陣取り、趣向を凝らした出し物の数々に酔いしれていた。

 いつ果てるともなく続く行列は、家光の最後の葬列のようでもあった。それは同時に、これからはじまる新しい時代の幕開けをも暗示していた。

 未遂に終わった正雪の計画を「幕府転覆計画」と呼ぶことがある。だが正雪自身がいみじくも語っているように、この程度のずさんな計画で幕府をつぶすことはできない。本気で転覆を目論むのであれば、その前にやっておくべきことは山ほどある。

 たとえば、少なくとも外様大名の半数は味方につけておく必要がある。そのうえで面立った譜代大名と裏で通じるくらいの政治力が求められる。資金、用兵、兵站などの計画も綿密に組まねばならず、政権を奪った直後には基本政策や行政組織などができあがっていなければ話にならない

 正雪の計画は、そういったあらゆる面で成功する条件を欠いていた。喩えて言えば、新聞の社会面を飾ることはあっても、政治面に顔を出すことはあり得ない代物であった。

 だからこそ信綱にとって、この計画はなおさら実現させてはならないものであった。彼らの企図した、塩硝蔵の爆破、老中の襲撃、久能山の乗っ取りなど、どれをとっても平時においてまったくの盲点であり、ひとたび起きてしまえば甚大な被害を招いたであろうことは想像に難くないからである。事件を未然に防いだことが、幕府にとって何よりも価値のある働きであった。信綱は間一髪のところでそれを成し遂げたのである。

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