信綱さん(松平伊豆守信綱のお話をしましょうか)

 ようこそおいでくださいました。

 私どもの山車人形となっております、松平伊豆守信綱さん。知恵伊豆なんぞという呼び名がついておりましてね、完全無欠なイメージ、堅物のイメージなんぞもあるかもしれませんが、ここでは硬い話はなし。気軽にお聞きいただければ、と思っております。

 目次のお知りになりたいお話をクリックしていただけますと、すぐにそのお話が読めますんで、ご活用ください。

 さぁて、ちょいとお話でもいかがですかな

埼玉とは何かと縁がある信綱さん

 えぇ~、まずは松平伊豆守信綱というお方を身近に感じてもらいたいってぇことで、こんなお話をさせていただきます。

生まれは伊奈町

 信綱さんが生まれましたのは、慶長元年(1596)、現在でいうところの埼玉県伊奈町でございまして、大河内という姓でございました。家は代々代官でございましたからその地域とのつながりも強かったようでございます。

 幼少期をこの伊奈町で過ごしましてね。小室陣屋というのが住んでいたところなんだそうですが、そこにあった天神様を信仰していたようでございます。大名になってからは社殿を寄進して伊豆天神と呼ばれるようになったなんてぇ話もあります。天神様と言えば学問の神様。後に知恵伊豆と呼ばれるようになる信綱さんですが、小さなころから志が違いますなぁ。

 この天神様ですが、後に小室氷川神社に合祀されましてね、信綱さんゆかりの品々が所蔵されておったのですが、今はさいたま市大宮にあります埼玉県立歴史と民俗の博物館に信綱さんが幼少のみぎりに使ったという短刀と硯箱が寄託され、保管されております。通常展示ではないのが残念なところですが、特別展などがありました際はぜひご覧いただきたいと思います。

養子直談判は川越で?

 その後6歳で、お父さんの弟、つまり叔父にあたる松平右衛門太夫正綱の養子になるわけですが、自ら正綱に直談判したという話が伝わっております。一人で江戸の正綱邸に行ったという話など諸説あるんで、真相のほどはよくわかりません。

 当時、正綱は徳川家康の側近として忙しくしておりました。何せ、家康は京、駿府、江戸を行ったり来たりといった状態でしてね、これについて回っていたんですから大変です。そういう状況を考えてみますと、家康が川越に鷹狩りに来た時に、同行していた正綱と会って、話をしたという説が自然かもしれませんな。ここから信綱さんの出世物語が始まるわけですんで、その始まりの地と終焉時の領地が川越というのも、何かしらの運命でございましょうかねぇ。

初めての城主は忍城

 二代将軍秀忠に家光が生まれますと、信綱さんは小姓として家光のそばで仕えるようになります。そこから出世を重ねていくわけですが、同じ小姓仲間であった者たちに比べると所領1万石を越え大名となれたのは33歳と遅いのですが、これはもう仕方がない。なにせ、他の小姓仲間たちは大名の跡を継いでいたり、家光の乳母春日局の子供であったりするわけです。一方の信綱さんはと申しますと、養子入りした松平家は将軍の親戚筋にあたる十八あるいは十四松平家の一つ、長沢松平家の分家ですが、養父正綱に男子が生まれた時に家を離れまして、独立しましたのでまさに裸一貫。ここからの出世ですから大変です。

 さて、そんな信綱さんが初めて城主となったのは寛永10年(1633)、38歳の時でございます。場所は映画にもなった「のぼうの城」で有名な忍城。現在でいえば埼玉県行田市になります。この忍城ですが、江戸時代に入りますと、はじめ松平忠吉が城主として入っておったんですが、関ヶ原の戦いの後に他所へ転封され、その後は城主不在の幕府直轄地となっておりました。その時代、代官が城番として管理していたわけですが、その代官というのが大河内金兵衛久綱。信綱さんの実のお父さんでございます。信綱さんはお父さんから城を引き渡されたということになるわけでしてね、これもまた運命を感じる話でございます。

島原鎮圧の褒美が川越転封

 信綱さんが忍藩主の時に起こったのが島原の乱(島原・天草一揆)でございます。この乱は様々な要因が絡まって起こったものなのですが、幕府はこの鎮圧に手間取りまして、信綱さんを総大将として送り、やっとのことで鎮圧に成功したというわけでございます。この褒賞として加増の上転封された先が川越藩でございました。

 ちなみに、島原鎮圧のために最初に赴いたのが板倉重昌と申しましてね、なかなか戦果が上がらないところを後任の信綱さんがやってくるというので、焦ります。信綱さんが来る前にどうにかしようと無理して攻めたもんですから戦死してしまいました。後のことになりますが、信綱さんの息子の輝綱の奥さんというのがこの重昌のお兄さんにあたる板倉重宗の娘でございます。島原の一件が理由ではないのでしょうが、なにやら縁を感じる話でございます。

 さて、転封してきた川越でございますが、前年に大火で町の多くが焼けはてておりましたもんですから、信綱さんは町づくりから始めることとなりました。また、川越街道や新河岸川舟運なども整備いたしまして、後の川越の繁栄は信綱さんが基盤を作ってくれたおかげといってもよいかと思います。

菩提寺平林寺は遺言で岩槻から新座へ

 川越藩主となり、川越発展のための政策をいろいろと打ち立てていった信綱さんですが、幕府の方でも老中首座となり、たいへん忙しい日々を送っておりました。そんなわけですから、川越にいる時間はほとんどなかったようでございます。ですがね、川越藩に対する思い入れは強かったようなんです。

 信綱さんの菩提寺は現在でいいますとさいたま市岩槻区にあった平林寺なのですが、亡くなる時に遺言で川越藩内に移転させております。玉川上水完成の褒賞として許可を受け、信綱さんが掘らせた野火止用水、別名伊豆殿堀のほとり、新座市に今もあるのがそれでございます。

 寺は砦にも使えるような造りをしておりますので、移転や増改築は基本的に許可されない時代ですから、手配をした息子の輝綱もさぞ大変だったことでしょう。

 平林寺は雑木林が広がる広大な敷地が国の天然記念物となっておりまして、秋には紅葉の名所として人々に親しまれております。毎年、4月17日には、平林寺の半僧坊大祭に合わせまして、信綱さんを讃えるために地元の方によって伊豆殿行列というものが行われておりますんで、よろしかったらお出かけください。

 お話してきましたように、伊奈、行田、岩槻、新座、川越と埼玉に何かと縁があった信綱さん。いかがでしょう、少しは身近に感じてもらえるようになりましたかな。

信綱さんってどんな人?:幼少から若年期

 えぇ~、知恵伊豆という呼ばれかたをされることが多い信綱さんでございますんで、武よりも文の人という印象はあるものの、実際のところどんなお人だったんですかねぇ。まずは子供の頃のお話でございます。

けっこうヤンチャだった幼少期

 ヤンチャと言いましても、別に悪さをするというわけじゃぁございません。やっぱり男の子ですんでじっとしているよりは、野山を駆け巡る方が好きだったようなんでございます。

 信綱さんの生まれは、現在の埼玉県伊奈町。今も郊外といった風景が見られますが、信綱さんの生まれた頃でございますから、木々も多く、野鳥たちが遊んでいた、とまぁそんなところだったようでございます。

 そんな中を幼い信綱さんは飛び回っていた。信綱さんは鳥が好きだったようで、野鳥を追いかけてみたり、門に回らずに生垣をすり抜けて出入りしたりしていたようでしてね、着物が破れるなんてぇこともざらだったようでございます。そのたびにお母さんがひどく怒るもんですから、お付きの者が着替えの着物を持って、信綱さんの後をついて回りました。子供の着物といったって、そんな小さなものじゃぁありませんから、お付きの者も大変だったことでしょうな。信綱さん自身、大人になりましてもこのころのことを思い出しましてね、「あの頃はよく怒られました」とお母さんに仰っていたようでございます。

 まぁ、ヤンチャってぇのはエネルギーがあって、活動力があるとも言い換えることができますから、あながち悪いことではございません。そして、このエネルギーと活動力の高さが信綱さんの人生を大きく変えることになるんでございます。

 信綱さんが6歳、あるいは8歳の時という説もございますが、叔父である松平右衛門太夫正綱のもとに伺いまして、養子縁組を直談判いたしました。

「大河内のままでは、お上の御近習になる夢は叶い難く、恐れながら養子にしていただき、松平の姓を頂きたいとお願い申し上げます」とまぁそんなことをこの年齢でいったそうなんでございます。

 子供の戯言として家に追い返さなかった正綱さんも大したものですが、6歳だか8歳だか何しろそんな年齢で遠路はるばる正綱のもとに駆け付け、思いをしっかりと告げたんですから、やっぱり信綱さんも大したもんでございます。

 この時、親と同伴ではなかったというんですがね、ということは当然人目を忍んで抜け出したということですわねぇ。親の目だけでなく、雇い入れていた者たちもいたでしょうし、何より外を飛び回る時に着替えをもって追いかけていたお付きの者もいる。特にお付きの者は文字通りそばにいたんでしょうから、家を抜け出すときに見つからないようにするのは大変でございます。あるいは、訳を話して、親には内緒にするということを容認させたのか。いずれにしてもとっさの思い付きではできないことですな。

 さぁ、いかがでしょう。お利口さんの優等生というのとはずいぶんとイメージが違いましょ。三つ子の魂何とやらと申します。信綱さんの根底には、こんなところがあったんでございますね。

思い定めたら一直線

 根っこの部分にヤンチャなところがある信綱さん。若いころには、思い定めたら他のことには目を向けずに、頑固一徹、一直線といった様子が見られたようでございます。

 三代将軍徳川家光の小姓になった信綱さん。「家光第一」「徳川第一」と思い定めて全力で励みます。小姓は早番、遅番、宿直を繰り返すのですが、宿直の日には弁当を持っての勤務となるんだそうでございます。ですが、一度に食べきることはなかったそうでしてね、食事の途中でも呼ばれれば食事をほったらかして駆け付ける。たとえ、そばにお偉方がいようとかまいません。周りのことなど無視します。自分の仕えているのはあくまで家光というわけですな。用が済んで、再び食事を摂るわけなんですが、冬なんぞは飯が凍ってしまっていることもざらでございました。

 それは将軍に対してでも同じでございました。将軍秀忠の寝所の軒に雀が巣をつくりまして、雛を育てていたことがございました。この雛を幼い家光がほしがりまして、日が暮れてから信綱さんが屋根に上って取ることになりました。

 さぁ取ろうと手を伸ばした瞬間、姿勢を崩してドスンと落ちる。秀忠と正室のお江与の方がそれを見つけまして、「何ゆえにここにおるか」と問い詰めます。

「申し訳ございません。今日の昼頃、この屋根に雀が雛を育てているのを見知り、ほしさのあまりに忍び入ってまいりました」

 秀忠も信綱さんのことを知っておりますんでおかしいと思い、家光が命じたことだろうと重ねて問い詰めますが、頑として主張を曲げません。そこで秀忠、信綱さんのことを大きな布袋に押し込めまして、口を封じ、これを柱に吊るしました。

「事の次第をありのままに申さねば、いつまでもこのままにしておくぞ」と脅しつけますが、それでも信綱さんは自分がほしかったのだと繰り返すばかり。許され、袋から出されたのは翌日の昼頃だったと申します。

 若気の至りと申せばそうなのでしょうが、将軍さえも恐れないのですから、相当なものでございますね。

 学問の方でも、同じようなことがございました。兵法についての勉強の時でございます。兵法達者で有名な武田信玄の用兵術を学ぶよう勧められました時のことです。

「なるほど武田信玄は戦上手でありましたでしょうが、天下は取れませんでした。どうせ学ぶなら天下を取った大御所様(徳川家康)の兵法を学びたいものでございます」

 信綱さんたらこんな風に言っちゃったんだそうなんですがね、これじゃぁ嫌がる人も出そうですな。信綱さんのことを、頭は切れるが、人望のない人物なんて評するお方もおるようですが、このころの印象が強かったんじゃぁないでしょうかねぇ。

 若いころには勝気な面が目立っていた信綱さんですが、歳とともに人への接し方や伝え方も変わってまいりましてね、面白みもあるお方になったようなんですが、それはまた別の話と致しましょう。

信綱さんってどんな人?:大人になってから

 えぇ、若かりし頃は血気盛んでございますから、勝気なところが目立った信綱さんですが、大人になりますと周りを見られるようになります。ここからが本領発揮の時期なんですが、どんな様子だったんでしょうかねぇ。

失敗の達人

 知恵伊豆と申しまして大変頭が良いということから、失敗なんぞしないんじゃないかと思われている信綱さんですが、もちろんそんなことはございません。

 島原の乱の後、旗本の井上新左衛門との会話でございます。

新左衛門:「此度はたいへんなご活躍でございましたな」

 信綱 :「いやいや、わたくしではなく、参陣致した諸家諸藩のおかげ。私なんぞは失敗だらけでございました」

新左衛門:「これは謙遜を」

 信綱 :「いや真の話。攻撃の合図にと我が陣に鐘を吊るしまして、撞木で鳴らすことにしておったのですが、だんだん不安になりましてな。敵が忍び込んで鐘を鳴らせば混乱のもと。出陣しても敵がいないなんぞということが続けば、本当の合図であっても虚報と思い、動かなくなるのは必定。そこで撞木を外し、自分の手元に置くことにいたしました」

新左衛門:「それは用心のいいこと」

 信綱 :「ですが、鉄砲で鐘を狙えば撞木がなくとも鳴らすことはできる。そんなことが頭をよぎりましてな。鐘を下ろし、コモでぐるぐると巻いておくことにしたのでございます」

新左衛門:「そこまで考えるとは、さすがは知恵伊豆」

 信綱 :「何のことはございません。夜になり、本当に敵襲がございました。さて、みなに知らせなければとコモを解き、鐘を釣り、撞木の準備をいたしまして、さぁ撞くぞと思ったころには戦いは済んでしまっておりましたよ」

 これは自分の失敗話をコミュニケーションに利用したという例でございます。今でも失敗話を話すことで親近感がわくなんてぇことがございますな。あれでございますよ。

 同じ島原の乱でのこと。信綱さんの依頼でオランダ船が籠城方に砲撃したことについて、細川忠利などから「外国の力を借りなければ反乱を納められぬとは、日本の恥」と批判されたということがございました。この時、信綱さんは「なるほど」と砲撃を中止させております。

 これなんぞは、自分の失策への指摘を受け止めたという形なんですが、実のところ、外国船の砲撃は一発撃ったところでもう目的は果たされておったんでございます。といいますのも、砲撃による破壊が狙いだったわけではございませんで、外国からの援軍が来るという希望をくじくことに主眼があったからなんですな。

 にもかかわらず、砲撃を続けておったのは、わざと指摘させるためではないかと思われます。なぜかといいますとね、指摘があり、それを承認すればその者の功となるからです。この島原の乱では、信綱さんの息子の輝綱も参陣しておりましてね、攻撃の際に先駆けを狙おうとしたところを家臣に止められておるんです。その時信綱さんは「大将たるもの、参陣した者に武功を立てさせるのが務め。自らが武功を立ててしまっては、苦労した者が報奨を得られないではないか」と諫めたといいます。自らの失策を指摘させることで、功を立てさせるというのも知恵伊豆らしいように思われますが、いかがでしょうかねぇ。

 さらに、こんな話も残っております。

 家光が気の病にかかっておったのですが、ようよう政務に復帰いたしました。その祝いと気晴らしに、家光の好きな狂言の会が催されることになりました。それぞれの家では狂言役者を囲っており、その者に舞わせるのですが、これで困ったのが信綱さん。信綱さんは趣味ごとに金を使うなどもってのほかという考えでしたから、自分の狂言役者などおりません。そこで、生駒壱岐守の役者を借りまして、阿部忠秋の役者と組んで舞わせることにいたしました。ですが、即興の組み合わせで息が合わず、ひどくちぐはぐなものになってしまうという次第。ただ、これがかえって家光の気に入りまして、再演を所望されたという話が徳川実記に見られます。

 いくら即興の組み合わせであってもプロですからね、打ち合わせておけばそこまでひどいことにはならないと思うのですがねぇ。普段まじめなものが失敗したり、間の抜けた様子、慌てた様子を見せますと、そのギャップで笑えてくるものでございます。どうも信綱さん、そこら辺の効果を狙ったんじゃぁないかと思えるんですが、いかがでございましょうか。

大災害の混乱を知恵で乗り切る

 知恵伊豆信綱さんの逸話というのがいくつも残ってはいるんですが、たいていは頓智話みたいなもの。上からの無理難題に困っている下役たちを助けるというのが、話の常でございます。

 例えば、えらく長~い縄の長さをすぐに測れと言われて困っているものに、10尋、今でいいますと15~18mほどでしょうか、この分だけ縄を切らせましてね、目方を計らせます。その後全体の目方を計って10尋分の重さの何倍かを計算させたというお話。

 他には突貫工事のお話が多いようですな。一時的に使うものならば、見た目を整えればいいってんでいろんな工夫を教えたようです。

 このような身近な知恵ではなく、信綱さんの知恵がいかんなく発揮されたのが、明暦の大火災、いわゆる振袖火事でございました。長い間雨が降っていないのに加え、折からの強風もあってたちまち江戸中を飲み込んだ火事ですが、江戸城にも類焼いたします。無事だったのは西の丸だけでして、天守も本丸も焼け落ちてしまいました。

 この時、混乱を抑え、速やかに復興へとつなげるために動いたのが信綱さんでございます。

 火災の最中、大奥に逃げ遅れたものが大勢いると知ると、手の者たちと一緒に大奥へ向かいますが、単に大急ぎで駆け付けたんじゃぁありません。大奥までの道のりにある畳をひっくり返しましてね、逃げ遅れた者と会いましたら、裏になった畳を道しるべに逃げるよう指示したんだそうでございます。こんな時でさえ、憎いほどの落ち着きぶりですな。

 その後、最優先としたのは、江戸の大事と各地から江戸に向かってくるだろう諸藩に対して、「江戸城は焼失いたしたが、将軍様はご無事。江戸へ参ることは無用」と全国に報せを走らせること。 参勤交代も停止しまして、江戸に居る者もできる限り国もとに帰るように要請しました。 江戸に何かあった時にどのような働きをしたかで、後々の処遇が変わるかもしれないと思っている諸藩にしてみれば出ばなをくじかれた感じでございましょうか。しかし、被災で混乱する江戸に大勢が詰め寄せてきても、何らする仕事もなし、混乱を深めるだけのことと信綱さんは考えたんでございます。

 これは、大藩小藩の区別もなく、別格扱いをされていた御三家に対しても同様の扱いでしたので、信綱さんへの風当たりは強まったようでございますが、ここで動じることがないのがこのお人。このころ政策は合議制で決められておったのですが、非常時ということで全部を自分で背負ったのでございます。このあたり、若かりし頃の強情さが、根っこのところには残っておったようですな。

 次に打って出たのが米対策。蓄えてあった米をどんどん被災者へ提供いたします。商人の中にはこの大火事で米の需要が高まるだろうからと、値を吊り上げることを考えていたものもおったようですが、そんな者たちよりも早く米をいきわたらせたわけです。米が足りなければ、値は上がりますが、十分にあるのであれば値を上げることもできない。そんな状態で、米の値の上限も定められました。

 こうして、米の高騰を抑えることに成功した信綱さんは、さらに米を集めることにいたします。被災した者たちは、しばらくの間は自給できませんから、米を提供し続ける必要がある。そこで、値が落ち着いた米を倍の値で買おうとお触れを出したんですな。結果、全国から米が集まりまして、復興も順調に進めることができるようになったのでございます。

 ちなみに、この火事で天守閣も焼け落ちてしまいました。実はこの天守閣、三代目でしてね、初代家康、二代秀忠、三代家光と代々天守閣を作り変えていたんでございます。で、この火事の時が四代将軍家綱の時。当然、新しい天守閣を作るんだろうと誰もが思っておりました。事実、1年後には天守台の石垣が完成。ところが、将軍補佐役であった保科正之が「城の守りに天守は不要」と天守建築を中止したということでございます。そんなところにお金をかけるなら、江戸の復興、発展に使った方がいいってなところだったんでしょう。

 信綱さんも同じ考えだったと思います。なにせ自領の川越城を大改修する時、同じ理由から天守閣を作らなかったお人ですからね

 攻城に大砲が使われるようになりますと、天守が恰好の攻撃目標となります。これが一番効果を上げたのは大坂の陣。信綱さんは5歳の時でしたが、翌年には叔父正綱のもとに養子を願い出たという頃のことでございますから、非常に印象深かったことでしょう。このことからも天守不要との思いは強かったと思います。

小説のネタになりそうな話

 えぇ~、大河ドラマなんてぇものがございますな。これで主人公になりますってぇと、大変な人気が出るもんでございます。信綱さんもぜひ取り上げてもらいたいもんだと思うんですが、いかがでしょうか。

 そん時のネタになりそうなお話をまとめてみました。諸説ありますもんですから、事実かどうかというところもございますし、多少装飾されているところもございますがご勘弁願います。

忍び使い

 忍びの者、忍者ってぇのは小説なんかでも、その常人離れした能力で大活躍しましてね、人気のあるもんでございます。この忍者と信綱さん、かなり縁があったようでございまして、どうやらたびたび使っていたようなんですな。

 信綱さんにとって忍者というのは、遠い存在ではなかったようなんでございます。

 忍者を使った武将として有名なのが、江戸初期に伊賀を領国としておりました藤堂高虎。大坂の陣や二代将軍徳川秀忠の娘、和子が宮中に嫁いだ際にも活躍したという話が残っております。この藤堂家に信綱さんのお母さんの弟が2人仕官しておるんです。特に下の弟は藤堂の姓を頂くほどでございました。ちなみに、伊賀忍者で大名まで昇った服部半蔵の甥も藤堂の姓をもらい、伊賀上野城代となっております。

 信綱さんにとっては叔父にあたる人が忍者に近しかったわけで、様々なものに興味を持ち、政務に活かす知恵としてきた信綱さんとしても、興味津々だったのではないでしょうかな。

 実際、後のことになりますが、信綱さんが忍者を使ったということが史料に残されております。信綱さんが総大将を務めました島原の乱がそれでございます。

 信綱さんはこの島原の乱よりも前、将軍上洛の際などに甲賀の忍者たちと面識があったようでございますしてね、信綱さんが島原に向かうこと知った甲賀の者たちが従軍を志願してきました。この時10名が許されております。甲賀側の資料では、城の堀の距離と高さ、矢間の形、沼の深さを調べるように指示されただの、籠城方の兵糧を盗み出したなどという任務が書かれております。この戦には信綱さんの息子、輝綱も同行しておりまして、「島原天草日記」というものを書いておるのですが、そこにも忍者に関する記述がありますんで、島原の乱に忍者が従軍していたことは間違いないようでございます。

 この後にも信綱さんは忍者を使っていたような様子が見られます。

 慶長4年(1651)に三代将軍徳川家光がなくなりますと、その混乱を突くように由井正雪たちが多くの浪人を集め、幕府転覆を企てます。世にいう慶安の変でございます。しかし、密告があり、計画は未然に防がれました。この密告者も信綱さんたちが放ってあった忍者ではないかと言われております。

 さらに秀忠の27回忌を利用して老中たちを暗殺しようと計画された、承応の変でも信綱さんが活躍しております。こちらも信綱さんへの密告によって事なきを得ておるわけなんですな。なぜ都合よく信綱さんのところに密告があったのか。こいつも予め放っておいた忍者の仕事かもしれませんよ。

鼎の脚

 鼎(かなえ)という器がございます。古代中国で作られたものでして、初めは足が3つでございました。この足が1つでも失われれば、器が転んでしまうというので、三代将軍徳川家光を支えた三人を鼎の脚と呼んだんですがね、それが柳生宗矩と春日局、そして信綱さんでございます。

 柳生宗矩は将軍の兵法指南役であり、諸大名の監察まで務めたお人。春日局は言わずと知れた家光の乳母でございます。

 ここからちょいと深みにはまりますよ。

 柳生家は菅原道真を祖としまして、春日神社の社領の地頭をしていた家柄でございます。主家をいろいろと変えながら世を渡ってきましたが、豊臣の世になりまして、没落。宗矩が必死に仕官先を探さなければならなくなりました。

 その後、徳川に仕えて大名にまで昇り詰めます。これは単に将軍家兵法指南役になったからというわけではございません。同じ時期に小野次郎右衛門忠明という指南役もあったんですが、この所領が六百石。一万石以上の宗矩とは雲泥の差ですな。

 この差は、剣術、兵法の差じゃぁございませんで、宗矩が政治の方にも関わっていたというのが大きいようでございます。ただし、一介の剣術家、兵法家が政治に介入するのは容易いことではありません。そこには誰か後ろ盾があったはずなんですな。ですがね、その後ろ盾というのも誰でもいいわけじゃぁない。権力の中枢にいる人物、しかも、後に諸大名の監察役である大目付までしているところを見ますと、しがらみの薄いものが後ろ盾となっているように思われます。当時の幕府において当てはまりそうなのは南光坊天海ぐらいのものでしょうか。

 天海は、天台宗の高僧で、家康に召し出され、参謀として活躍した人でございます。特に江戸の町づくりや家康の神号を東照大権現にしたなんてぇ話は有名ですな。一説には、明智光秀だってぇ話もありましてね。「そんなわけねぇだろ」と笑い飛ばしたくなるところではございますが、ここでつながってくるのが、春日局でございます。

 春日局という呼び名は朝廷からいただいたものでございまして、もとの名は福。お福さんというわけでございます。父親は明智光秀の重臣、斎藤利光。母親は稲葉一鉄の娘とも姉ともいわれております。父の利光は、本能寺の変の首謀者で、実質上の大将として兵を動かしていたというお人。そんなお人の娘が、次の将軍になるかもしれないという子供の乳母になるんですから、普通なら考えられません。通常ですと、昔から徳川に仕える譜代の家臣につながるものから選ばれます。一方春日局は徳川とは縁がない。縁がないどころか秀忠の正室で家光の母親お江与は、本能寺の変で死んだ織田信長の妹の娘。こいつは不思議な話でございますね。

 そもそも春日局が乳母となったいきさつがはっきりとはしておりませんで、一説には京の札所で公募されていたのでそれに応募したというものがございますが、これもあり得ませんわねぇ。未来は分からないまでも、次の将軍になるかもしれないお子さんをそば近くで育てる仕事ですよ。どんなふうに育てるか分からないようなものに任せるわけにはいきませんわなぁ。

 ここで出てくるのが、天海となった光秀が、自分とつながりのあるお福をごり押ししたんじゃぁないかというお話でございます。

 春日局は、乳母として徐々に権力を身につけまして、最終的には無理やり上洛するという行動まで出るわけですが、これも天海の後ろ盾があったからじゃぁないのかというわけでございます。乳母は将軍の一番そばで、一番長い間を接しておるわけでございますから、権力をもちやすい。これはもう初めっから充分わかっていることですな。ですから防止策がとられていて当たり前なんですが、これがまったくのノーガード。しかも、乳母ではあっても地位も何にもあるもんじゃぁない、にも拘らずですよ、朝廷との折衝までしちゃうんですから、普通じゃぁありませんな。

 そんな、春日局との接点が多かったのが信綱さんです。信綱さんは家光の小姓だったわけですから当然でございますが、元服前の信綱さんにしてみれば春日局は母親の投影であったのかもしれませんな。

 信綱さんと柳生宗矩とのつながりは、役務の上だけではありません。宗矩の息子、柳生十兵衛三厳は13歳で徳川家光の小姓となっております。この時、信綱さんは24歳。4年後の元和9年(1623)には御小姓組番頭に就任するようなころでございますんで、新任の十兵衛の指導も行っていたでしょう。また、元和7年(1621)からは十兵衛が家光の稽古に付き合うようになっておりますが、信綱さん自身も度々稽古に参加しておるようです。そんな状況ですから、つながりも深かったんじゃぁないかと思われるわけでございます。

  天海、春日局、そして信綱さんは城下に屋敷を頂戴しましてからはご近所さんでもありました。

 さらに申せば、信綱さんが藩主となりました川越は、天海ゆかりの地でもございます。今の喜多院は、もともとは無量寿寺の北院だったんですがね、天海が住職をしておった時に喜多院と改めたそうでございます。火事で家屋が喪失した際は、江戸城紅葉山御殿の一部を移築いたしました。これが、今に残る「家光誕生の間」と「春日局化粧の間」でございます。また、慈眼堂という建物も喜多院にはございますが、これは天海を祀るお堂でして、死後に慈眼大師という名が送られたところからこう呼ばれております。

 このように、天海との縁が深い地に信綱さんが転封されたのも、何かの意味があるんでございましょうかねぇ。天海は、この三人を使ってどうしたかったのか。信綱さんは、天海さんの力に使われていたのか、使っていたのか、抑制していたのか。

 ちなみに、天海さんは日光東照宮の大改修を終えた後、病を理由に閉じこもるようになりました。これと時を同じくするように、信綱さんのような家光子飼いの人材が、古い人材にとって代わって幕府を切り盛りするようになってまいります。

 さぁ、これ以降は、皆さまの想像力にお任せいたしましょう。 皆さまならば、どんな絵を描きますでしょうかね。

今でも信綱さんを感じることができます:観光とちょっと不思議な話

 えぇ~、これまで信綱さんが生きておった時代のお話をしてきましたが、今でも信綱さんを偲べるところ、事柄はないかということでございましてね、それでは今のお話をしてまいりましょうかな。

信綱ゆかりの地を観光してみませんか

川越城本丸御殿

 川越城は太田道真、道灌親子が築城したものですが、信綱さんが大規模な拡張、整備をいたしました。まぁ、ほとんど作り直したってぇほどのものだったようでございます。ですから、あちこちに信綱さんらしい考えが現れておったようですな。たとえば、石組み。特に堀なんかは石を組むより土のままの方が取り付きにくいというので、石垣状にはしない土のままだったといいます。今も、市役所方面から本丸御殿に向かう途中に、中ノ門跡で見られます。また、天守に関しましても大将がどこにいるかを教えるようなもの、城外の監視ならば櫓で充分と言われていたようでしてね、天守をもたない城にしたようでございます。

 各地のお城は明治になりますってぇと次々に壊され、川越城もその例にもれずに解体されていったんですが、本丸の一部だけは他の用途に活用されたことで残されたというわけでございます。それが今に残る本丸御殿。当時のことですからね、歴史的な価値がでるなんざ思いつきませんから、使われかたも乱暴なものです。入間郡役所なんてぇのはいい方。たばこ工場だの、学校の校舎だのにも使われております。校舎だったらいいじゃないかとお思いになりますか。それが、よりにもよって体育館代わりに使われていたようでしてね、バレーボールと思われる跡が、今でも天井にはっきり残っておりますよ。

 現在、江戸時代以前の天守が残っている城というのは全国で12、本丸が残っている城は3ほどでございますから、貴重なものです。

 近くには、「通りゃんせ」という歌のモデルとなったといわれる神社もございます。当時は城の中にあった神社だったもので、城から出る時には厳しく検められたということでございます。

川越氷川神社

 現在では縁結びで有名でございますが、創建は古墳時代にまでさかのぼるという由緒ある神社でございます。川越城ができましてからは川越の総鎮守とされ、篤く信仰されております。

 信綱さんは城主となりましてっから川越の町づくりを進めていったんですが、それが一段落したところで、氷川神社に祭具一式が寄進しまして、神幸祭を奨励したんでございます。神幸祭といいますのは、神社の中ではなく、氏子域をぐるりと回るお祭りです。それまで、神社では例大祭として、神社の中で神事はされておりましたが、信綱さんはせっかくだからと町ぐるみの祭りにしようとしたんでございますな。 これにはモデルがごございましてね、徳川家康が江戸の町をまとめる時に使った手なんです。

 神幸祭が行われるようになりますと、御神幸の行列の後に町の者たちがついて回るようになりました。これを「つけ祭り」と申しまして、このつけ祭りが発達していったのが、現在の川越祭りということでございます。

 ですから、信綱さんは川越祭りのきっかけを作ったお方といわれておるんですな。

 川越祭りの二日目、日曜日に時間を限定いたしまして、川越氷川神社の本殿域が解放されます。この本殿には、世界的にも評価の高い彫刻が数多く施されておるんですが、これを間近に見られる機会ですので、ぜひお立ち寄りいただきたいと存じます。

平林寺

 信綱さんの菩提寺で、信綱さんが興した大河内松平家の霊廟やお墓があるお寺さんです。

 もとは現在でいうところの埼玉県さいたま市岩槻区にあったんですが、信綱さんの遺命で現在の埼玉県新座市野火止に移されました。

 大河内松平家廟所には、信綱さんのお墓があるんですがね、奥さんのお墓と並んでおります。そして隣には、息子の輝綱のお墓と、その奥さんのお墓がございます。信綱さんは奥さんとの間に五男四女を儲けました。側室も合わせてとなれば珍しくないかもしれませんが、奥さんとだけということですからね、これは頑張ったもんでございます。信綱さんも忙しい身だったんですから、きっと仲の良いお二人だったんでしょうな。

 禅宗の修行道場があるお寺ですんで、多くの修行僧が学んでおります。そのため建物内は一般公開されておりませんが、古の武蔵野を偲ばせる境内を散策することが出来ます。

 境内には、大河内松平家廟所のほかに、島原の乱供養塔、玉川上水や野火止用水の開削に功があった重臣たちのお墓、野火止の名のもととなった野火止塚や業平塚がございます。とくに秋になりますと、紅葉が見事で大変人気のあるところですんで、皆さまもぜひ、のんびりされてはいかがでしょうかな。

野火止用水

 野火止用水は、信綱さんが開削した堀でして、伊豆殿堀とも呼ばれております。

 東京都立川市で玉川上水と分岐しまして、小平市、東大和市、東村山市、東久留米市、清瀬市、埼玉県の新座市、朝霞市を通りまして、志木市で新河岸川に注いでおります。全長は24㎞というんですから大変なものでございますな。

 江戸という町は埋立地がほとんどでございますので、水の工面が問題でして、このために多摩川の上流から江戸に水を送る堀を作ることにいたしました。その総奉行が信綱さん。大変な難工事でございましたが、信綱さんの家臣、安松金右衛門や小畠助左衛門らの助力もありまして、無事に完成いたします。 この功績の褒美として許されたのが野火止用水の開削でございました。

 現在では遊歩道などが整備されているところも多くありまして、コイが泳ぐ場所もあるようです。自然の中を散策するのも気持ちいいかと存じますよ。

吉田城

 信綱さんを祖とする大河内松平家はいくつかの分家に分かれておりますが、本家筋にあたるところが幕末を迎えたのが、三河吉田藩でございます。その居城が吉田城でして、現在の愛知県豊橋市にございます。

 ここは東海道沿いに位置しておりまして、交通の要衝。戦国時代には戦がたびたび起きていたようでございますが、江戸時代になりますと川に面し、吉田橋越しに見える城の姿が美しいと、歌川広重など多くの絵師に好んで描かれたそうでございます。

 明治に入りますと陸軍歩兵18連隊が置かれておったんですが、現在は公園として地元の人々の憩いの場となっております。隅櫓が資料館となっておるほか、美術博物館、文化会館、スポーツ施設などが整備されております。

豊城神社

 信綱さんを神として祀る唯一の神社でございます。もともとは、吉田城の中にあったんですが、明治になって移されましてね、現在は少し離れた住宅街の中にひっそりと佇んでおります。ごく小さな神社でして、細い路地を入ったようなところにありますもんですから、自動車で行くのも一苦労でございました。豊橋鉄道東田本線の東田坂上駅から歩いて5分ほどだってぇことですんで、そちらを利用した方がよろしいかと思います。

 そんな小さな神社ではありますが、吉田藩の公式記録類である、覚書留、御書付留、公儀留、御使者幷御書留、法事留記、御法事綴帳、日記、席留、如鏡堂日記といったものが保管されており、豊橋市の指定文化財となっております。

 もとは吉田城にあったと申しましたが、その跡には帝国陸軍が神社を建てまして、弥健神社として神武天皇の銅像が経っております。この神武天皇像は軍人記念碑の上にあったものだそうで、亡くなった兵隊たちを追悼するためのものだったとのことでございます。

 幕府の重鎮である信綱さんを祀った神社の後に、幕府を倒した明治政府、しかも帝国陸軍の神社が建立され、初代天皇である神武天皇の像が建てられているというのも、歴史の綾が現れているようで、実に感慨深いものですな。

信綱人形の不思議

 私どもの町の山車は、信綱さんの山車人形を頂いております。この山車人形ですがね、「やっぱり信綱さんが降りてきているんじゃぁないか」と感じられるような不思議な出来事が体験されておるんです。

川越城の涙雨

 山車人形が信綱さんになったことで、失礼があっちゃぁいけないと思いましてね、信綱會では毎年お墓参りに行っております。また、信綱さんの家紋を使わせてもらっておるんですが、信綱さんの末裔、現在の大河内家当主とも交流を持ちましてね、正式に許可をもらっておるんです。現在の当主さんも何度か川越祭りに足を運んでいただきまして、山車行列に加わってもらったこともございます。

 こんな風にしておりますから、私なんぞは信綱さんへの思い入れが一入でございますもんで、何気ないことでも信綱さんにつなげて考えてしまうというのが癖なんですがね、こんなことがございました。

 平成28年(2016)の川越祭りの時でございます。この年は信綱さん生誕420年ということもございましたんで、祭りのときに本丸まで行こうじゃぁないかという話になったんでございます。

 信綱さんは、町づくりや川越街道、新河岸川の整備、水に困っていた地域に野火止用水を開削と、川越藩の繁栄に尽力してくれました。これが基盤となったことで、川越商人は、江戸の商人に負けないほどの力を持つようになったそうでございます。

 さらには、自分の死後、菩提寺を野火止用水のほとりに移させておるんですが、当時の決まり事では非常に難しいことだったんですな。信綱さん自身も充分わかっていたと思うんですが、それでも自分が堀を開削させ、農耕が順調になった野火止の地に移りたかった。墓の下から川越を見守っていこうってぇ思いだったわけでございましょうね。

 そんな信綱さんを川越城の本丸まで連れて行こうというわけでございます。

 その年の川越祭りは実にいい天気でしてね、この時期晴れますってぇと暑いほどなんでございますが、そんな陽気でございました。

 本丸に着いたころはちょいと雲が出てきたかなとは思いましたが、黒雲ではございませんで、日が隠れてよかったという程度でございます。

 みんなで記念写真を撮りまして、さぁまた出発するぞぉということになります。隊列を組みまして、本丸を後にするわけですが、突き当たり、市立博物館や美術館のあるT字路に差し掛かった時です。パラパラと雨が降ってまいりました。濡れるほどの量ではなく、むしろ気持ちいいというような小雨。川越の山車は、それ自体では方向転換できませんので、職方が山車の下に潜り込みまして、キリンと呼ばれるジャッキで山車を浮かせることで方向を変えます。雨は、山車が方向を変えて進み始めるまでの間、つまりは本丸を後にするときだけ降りまして、すぐに止んだんでございます。

 後で他の町の方に確認しましたら、雨が降ったのはどうやら我々のところだけということでございました。

 ですからね、きっとこれは信綱さんのうれし涙じゃぁないだろうかと、語り合ったという次第でございます。

 考えすぎですかねぇ。でも、そう考えるとなんだか信綱さんが身近に感じられるですね。えぇ、あくまでも個人的な感覚なんですが、皆さんはどうお感じになられますかな。

いくら直しても隠れる左手

 信綱さんの山車人形は右手で笏を持ち、左手を自然に下した立像でございます。当初は当然左手も手首から先がしっかり見えるようになっていたんですが、いつのころからか左手がすっかり隠れるようになってしまいました。

 しっかり着付けましてね、安全ピンで袖が落ちないようにいたしましても隠れちゃうんでございます。 もうこうなったら信綱さんの意志じゃぁないかと思うほど。

 これで思い出される話がございます。

 承応3年(1654)、信綱さんが59歳の時でございます。1月5日にオランダ商館長に随行していた医師ヤン・スチーペルと通詞 が信綱さんのお宅に訪ねてまいりました。この時、信綱さんが「30年前に左腕の上に倒れ、傷つけてしまった。以来、痛みはそれほどでもないが、充分には役に立たなくなってしまった」と語ったというんですな。そこで、6日、7日、9日と塗り薬やら膏油やらを塗ったり、包帯を巻いたなんてぇことがオランダ商館長日記というものに書かれておるそうです。30年前といいますと、信綱さんが29歳の時。大河内家譜には「この年(寛永元年)から翌年(寛永2年)の夏まで御病気」とありまして、信綱公御一生之覚書というのには「寅夏中御本復 (寛永3年に回復した)」と書かれておるそうです。どちらも詳しい病状については書かれていないんですが、時期的にはぴたりとあっておりまして、回復までに時間がかかったというんですからかなりひどいものだったと思われます。

 しかし、他の文献資料には信綱さんの左手が思うようにならないというようなことはどこにも書かれていませんでね、信綱さん自身が必死に隠していたようなんですな。

 そんな風に考えてみると思い当たる節もございます。

 信綱さんは将軍上洛の際や島原進軍など、たびたび箱根の山を越えているんですが、そん時に決まって下馬いたしまして、歩いているんですな。箱根の山は天下の嶮なんて言いましてね、大変険しい道でございますから普通なら馬に乗っている方が楽でございます。一般の人のための馬子なんてぇのもおったくらいですから。「箱根八里は馬でも越すが」ってぇのがそれでございますね。にもかかわらず、歩いているんです。理由はいろいろと書かれておりまして、何かで家光に怒られ、歩くよう言われただの、進軍を鼓舞するために先頭を歩いたなんぞとあります。

 ですがねぇ、家光に怒られたからってぇのも、箱根を越えますとすぐ許されておりますしねぇ、進軍を鼓舞したってぇのも、戦う場所は島原ですよ、鼓舞するにゃぁ早すぎませんかねぇ。

 これね、険しい山道のために、両手でしっかりつかまっていなけりゃ落馬の恐れがあると考えて、下馬したんじゃぁないかと思うんでございますよ。いろんな理由がつけられたのは、信綱さんが本当の理由を必死に隠していたために、信綱さんの行動の意味が分からず、無理矢理に付けたこじつけのようでございます。

 こんな風に左手のことを必死に隠していた信綱さんですからね、人形に降りてきても自然と左手を隠そうとしてしまうんじゃぁないか、そんな風に思えるんですがね。

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川越市旭町三丁目 信綱會