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其の十六    大火

 

 明暦三(一六五七)年正月一八日、昼過ぎに本郷丸山の本妙寺で起きた火災は、激しい北西風にあおられてまたたく間に湯島方面へと広がった。江戸はこの日まで八〇日も雨の降らない日が続き、いつ大火事になってもおかしくない環境にあった。炎は湯島天神を焼き払うと神田明神へ燃え移り、筋違橋およびその両岸の町屋を次々と飲み込んだ。

 燃え盛る火は吹き荒れる風に乗って、広い堀をもやすやすと飛び越えた。この日の風は小型の台風並みで、一、二畳はある屋根を宙に飛ばすほどの力があった。そのため大小さまざまな燃えかけの破片が対岸へ降り注ぐことになり、駿河台の武家屋敷はそれらを浴びてみるみるうちに炎に包まれた。火炎はその後も勢いを強めながら南下を続け、鎌倉河岸に至る町並みをしらみつぶしに燃やしていった。

 人々はあまりの猛火になすすべもなく、風下に向かって一目散に逃げ出した。通りは人と荷車で埋め尽くされ、そのうえ家の外に運び出された家財道具に行く手をはばまれて、思うように前に進むことができなかった。その人群れを追いかけるように、吹雪のごとく火の粉が空から舞い降りた。

 地獄絵さながらの光景であった。着物に火が着いて転げまわる者、倒れた老人を踏み越えていく者、親と離れ離れになって泣き叫ぶ子供、そこは死のにおいで満ち満ちていた。

 夕刻になると風向きが西に変わり、鎌倉河岸の火災は南の神田橋には移らずに、六、七町隔てた一石橋近くまで飛び火した。炎はそこから東に進み、群集を海ぎわにある霊巌寺へと追い込んだ。そこには広い境内があり、人々は火が来ても類焼は免れるであろうと考えたのであった。ところが炎は容赦なく霊巌寺を襲い、本堂や諸院をあっという間に覆い尽くした。堂塔はもうもうたる黒煙を上げ、こぶしほどの火のかたまりを飛び散らせて人々の頭や袂にまとわりついた。至るところで悲鳴が聞かれ、ばたばたと人が倒れていった。

 あわてた群集はわれ先に海へ飛び込んだ。ところが一月の海は氷のように冷たく、加えて人々は半日以上も食糧を口にしていなかったので、寒さと疲れで精根尽き果て多くの者が死んだ。火の粉はさらに鉄砲洲に係留してある舟へ燃え移り、はるか海を隔てた佃島まで達した。

 一方駿河台を灰にした火は、東の須田町へも盛んに燃え出し、収まりかけていた筋違橋南岸の火を再び燃え上がらせた。炎はそこから二手に分かれ、一筋は町屋が建ち並ぶ南へと進み、もう一筋は東の武家地へと回り込んだ。小さい家が建て込む南側の方が火の回りが速く、烈火はたちまちのうちに伝馬町まで及んだ。

 伝馬町には牢屋がある。牢屋奉行の石出帯刀は囚人たちが焼け死ぬのを不憫に思い、牢を開いて囚人たちを表へ出した。そして、「しばらくは放免にする。どこなりと逃げて、火が鎮まったら浅草の善慶寺へ集合せよ」と号令した。囚人たちは手を合わせ、涙を流して喜んだ。が、この温情あふれる措置があだになった。

 火炎に追い立てられた人の群れは浅草橋を目指していた。この橋を越えれば命は助かるかもしれない、そう考えて人々はここへ殺到したのであった。あふれかえる群集がそこで見たものは、閉ざされてかんぬきがかけられた橋の門であった。

 人の波は後から後から押し寄せてくる。門を開けようにも、人と荷物でつかえて少しも動かない。片や二筋に分かれていた火は一つに合わさり、三方から激しく迫ってくる。そこへ「伝馬町の囚人が牢を破って逃げ出した」という流言が伝わってきた。群集は恐怖のあまり大混乱に陥り、塀をよじ登って反対側の堀に飛び降りた。塀の下は石垣で、堀まで高さが二丈ほどある。落ちた者たちは堀へ届く前に石垣で頭を砕かれるか、あるいは腰を打って立ち上がれないところを後から降ってきた人に押しつぶされたりした。堀は折り重なる死体でうずまり、まるで平地のようになった。

 そうこうしているうちに門の櫓にも火が燃え移り、大きな音を立てて崩れ落ちた。塀の内側に取り残されていた者たちはその下敷きになり、さらに前後から炎に攻め立てられ、身動きが取れないまま次々と死んでいった。経を唱える声と悲痛な叫び声が混じり合い、この世のものとは思えなかった。

 夜に入っても火勢は衰えを見せず、ついには浅草にある幕府の米蔵にも火が入り、米俵の焼ける煙で蔵の後ろに隠れていた多くの者が窒息死した。

 幕閣たちはこの未曾有の災害に何の手出しもできなかった。玉川上水の完成を受けて防火用水の整備を急がせてはいたが、如何せんまだ緒に就いたばかりで、しかもその上水すらまったく役に立たなかった。ほとんどの屋根は板ぶきか茅ぶきのため引火しやすく、そのうえ道の両側に長いひさしが張り出していたので、恐ろしい速さで延焼が進み消火が追いつかなかったのである。信綱はそれを見越して前の年から町の再開発に着手していたのであるが、今やそれも無意味となった。家綱の隣で二の丸の櫓に立ちながら、信綱は赤々と空を染める大火を呆然と眺めるしかなかった。

 

 昼夜を徹して荒れ狂った猛火は、翌一九日の未明になってようやく収まった。海岸べりまで焼き尽くし、燃えるものがなくなったからである。

 逃げおおせた者たちは日の出とともに焼け跡へ戻り、生き別れた家族の名を何度も呼んだ。が、再会できることはまれであった。死別した者の遺体を探そうにも、どれも焼け焦げていて男女の見分けさえつかなかった。この日も前日以上に強い風が吹き、砂塵を空高く巻き上げ視界を著しくさえぎっていた。

 信綱たち幕閣は早速協議をはじめ、災害の処理に取りかかった。やるべきことは数限りなくある。出火原因の特定、被害状況の確認、被災者の救援、復興計画の策定…体がいくつあっても足りなかった。しかもこの混乱に乗じて謀反を企てる者が現れるかもしれない。万に一つの手抜かりも許されなかった。

 そんな中、昼前になって小石川の大番与力の宿所から再び出火した。多くの者はしばらくそのことに気づかず、おおかた土煙であろうとか、昨日の消え残りの煙であろうと考えていた。人々がはっきり火事と認めたのは、炎が水戸家の屋敷を全焼させ、その魔の手を吉祥寺に伸ばしてからであった。

 既に火炎は消し止められない規模にまで拡大していた。無数の火の粉を一〇町、二〇町先へ飛散させ、二〇余りの場所を同時に燃え上がらせた。外濠から内濠にかけて大名屋敷は軒並み炎に包まれ、一面火の海となりその劫火は城の目と鼻の先に迫った。

 協議どころの話ではない。このままでは本丸がやられる。そう思っているうちに、真っ先に天守閣に火が入った。固く閉ざしていたはずの二層目の銅窓が、あろうことか内側から開いたためである。高さ二八間五尺、鯱だけで一丈はある国内最大級の五層の楼閣が、見ている目の前で巨大な火柱と化した。

 そのうち櫓に備蓄してあった鉄砲の火薬にも引火し、激しい爆音とともに櫓が崩れ落ちた。二の丸、三の丸も相次いで火を噴き、城内は黒煙で覆われ提灯をつけなければ歩けないほどになった。

 延焼のあまりの速さに、信綱たちは対応がすべて後手に回った。とにかく本丸を出る必要がある。火の粉が燃えかかり、非常に危険な状態が続いている。一刻も早く避難しなければならない。ところが避難先をどこにするかで幕閣たちの意見が合わなかった。

 忠勝はしきりに謀反の心配をした。

「これはただごとではない。火事だとばかり思って油断していると、いきなり敵が攻めてくる恐れがある。上様には密かに牛込にある私の下屋敷へお移りいただくのがよろしかろう」

直孝が反論した。

「いや、田安門外はいまだに火がくすぶっている。赤坂にある私の屋敷の方が安全だ」

「なんの、火はこれから南へ進むから、赤坂の方がよほど危ない」

結論が出ない二人の会話に、信綱が割って入った。

「それなら寛永寺に移ればよいのでは。江戸城を奪われた場合、城と対峙できる位置にあり、戦略上の拠点となる」

そのやりとりを聞いていた正之が、めずらしく声を荒げた。

「城を出るなどもってのほかである。直ちに西の丸へ移動するのだ」

正之の剣幕に圧倒され、幕閣たちはようやく西の丸に動くことでまとまった。

 城門の外では異変を知って駆けつけた大名家の鉄砲隊数百人が、ずらりと並んで警固に当たっていた。濠端は譜代大名の家臣がすきまなく固め、単なる火事騒ぎにはとても見えない。その警備を担う大名家に、信綱は指示を出した。

「状況によっては上様は城外へ移る。今のうちに人員を各所へ配置し、不穏な動きが起こらぬよう厳重に警戒せよ」

指令はたちどころに伝わり、同時にさまざまな憶測が飛び交った。上様は讃岐守様の屋敷へ行くらしい。いや、寛永寺のようだ。伊豆守様の領地川越と聞いている。家臣たちの間でさえ家綱の所在がわからなくなった。味方を欺いて敵に標的を絞らせまいとする信綱の思惑どおりとなった。

 とはいえ、信綱の周辺も依然ばたばたとしていた。

「富士見櫓に火が移りそうだ。蓮池門が通れるうちに、急いで上様の駕籠をこちらへ回せ」

「困った。上様は本丸に残ると仰せられている。この火事が天命ならばむしろ潔く死のうというお考えらしい」

「上様を説得している余裕はない。無理にでも駕籠に乗せて西の丸へお連れしろ」

「大奥には女中たちが大勢いる。女どもは自分たちだけで逃げることができない」

「女中はこの伊豆守が連れていく。各々方は上様のお供を」

 言うが早いか、信綱は六、七人を引き連れて煙の中へ飛び込んだ。数日前から体調を崩し咳が止まらない信綱であったが、大奥へ入ると低く身をかがめ、連れてきた者たちに畳を一枚ずつ裏返させた。一列に並んだ青い畳が目印となり、女中たちはそれをたどって大奥を脱け出すことができた。女中たちを見届けた信綱は、追っ手を絶つため西の丸にかかる橋を焼き落とした。

 同じ頃、常盤橋にある信綱の屋敷に火が入った。城にいる信綱になすすべはなかったが、屋敷にいたとしても消し止められないことに変わりはなかった。ここから数寄屋橋にかけて大名屋敷が建ち並んでいる。金彩銀彩を施し、善美を尽くした屋敷の数々は江戸の威容をいやがうえにも高めていた。鍛冶橋の忠勝の屋敷もその中にあった。鎮まることのない炎は、絢爛豪華なこれらの屋敷を容赦なく灰にしていった。瓦や棟木が焼け落ちるすさまじい音が鳴り響き、火災が巻き起こすつむじ風が灼熱の空気をかきまわした。

 家綱は無事西の丸へ逃れた。が、安心はできなかった。黒煙がそこまでやって来て、絶え間なく火の粉を運んできたからである。再び忠勝と直孝の間で口論がはじまった。

「今度こそ城の外に出るべきだ。半蔵門からなら火炎を避けて牛込の下屋敷へ行ける」

「それなら赤坂の方が近いし、危険も少ない」

忠勝がうんざりして言った。

「こんな言い争いをしていてもしょうがない。いっそのこと、野火留に移ってはどうか?こういう時のために伊豆殿が用意した場所であろう」

「いや、それは…」

信綱が言いよどんでいると、横から忠秋が口をはさんだ。

「私は智恵こそないが、何も言わないのは不忠に当たるので申し上げる。

 まず、もし火難を避けるために城を出るというのであれば、その必要はござらん。西の丸が焼失しても、紅葉山に装束の間がある。そこで御膳の支度くらいは整えられよう。

 またもし謀反を恐れてのことならば、なおのこと城を出るには及ばない。謀反を企てる輩がいれば諸大名に命じて誅伐させればよいし、万一大名が命令に背くようなら、旗本、譜代、一門の者が相手を務めよう。

 そもそもこんな不確かな状況下で城の外へ出ること自体がおかしい。西の丸が危ないといっても城外に比べればはるかにましであるし、仮に西の丸が焼けずに済み、おめおめと城へ戻るようなことになれば、上様は軽はずみな振る舞いをしたと嘲笑され、大恥をかくことになる。

 それでも城を出るというのなら反対はしない。私一人城内に残り、先君の遺命に従って最後まで城を守るつもりだ」

こうなった時の忠秋は誰にも抑えられない。幕閣たちはそのことをよく知っていたので、みな行動をためらった。そこへ風向きが西に変わったという情報が入ってきた。このままいけば西の丸は焼失を避けられそうである。避難の話はうやむやになり、信綱はほっと胸をなでおろした。

 日はだいぶ西へ傾いてきた。が、町は真昼のように明るかった。進路を東に変えた炎が八代洲河岸を通り抜け、日本橋界隈を傍若無人に荒らしまわったからである。人々は押し合いへし合いしながら北へ南へと逃げ惑った。炎は行く手をどんどん先回りし、京橋から中橋に至るまでの橋を一度にどっと焼き落とした。群衆は逃げ場を失い、四方からは火に囲まれ、さらに火炎の熱で気を失った人に押されて将棋倒しとなり、そこへ火の粉が降りかかり、煙に巻かれ、みな折り重なるようにして死んでいった。

 一方、難を免れた西の丸も、麹町から新たに出火したことでまたもや危険にさらされた。火元は半蔵門のほぼ真西に当たり、風に乗って火炎が門の方へ押し寄せてきた。城内にいるすべての者が固唾を飲んだ。

 幸い火は緩やかに南へそれ、西の丸に及ぶことはなかったが、代わりに山王権現が直撃を受けるはめになった。華やかな天下祭の舞台に何度もなった江戸城鎮守の杜が、舞い上る煙の中に沈んでいった。

 炎はそこから濠に沿って進み、直孝邸をはじめとする諸侯の屋敷をことごとく焼き払った。西丸下も猛火に包まれ、忠秋ら譜代大名の屋敷を灰燼に帰した。この時大名家で飼われていた馬が綱を切って群衆の中へ飛び込み、ひしめきあう人の群れを蹴散らし踏み倒して暴れまわった。そのうち人も馬も行き場を失い、どちらも火に巻かれて死んでしまった。

 大火はその後新橋から芝口の海岸へ抜け、翌二〇日の朝になってようやく収まった。

 

 生き残った人々は変わり果てた町の姿に目を見張った。見渡す限り焼け野原で、ところどころまだ煙が立ち上っていた。橋はみな焼け落ち、川には数え切れないほどの死体が浮かんでいた。住む家はなく、金もなく、頼るべき身内もいない、人々は絶望のどん底に叩き落とされた。

 城内も同様であった。石垣は崩れ、櫓は濠の中へ倒れ、あたり一面燃えかけの木片が散乱していた。そこはまるで廃墟であった。

 人形町にあった遊郭の吉原も焼け失せた。既に吉原は郊外への移転が決まっていたが、それもこうした惨事が起こらぬよう信綱が考え抜いた末の措置であった。吉原の移転を皮切りに、信綱は江戸の町全体の再構築に着手するはずだったのである。何もかもが手遅れだったことになる。無力感が信綱を襲った。

 だが、感傷に浸っている暇はなかった。この状況が長引けば長引くほど民衆は疲弊し、治安の悪化につけ込んで幕府の転覆をもくろむ者が必ず出てくる。なにしろ本丸、二の丸、三の丸から天守閣まで焼け落ちたのである。倒幕には絶好の機会といえた。

 まずは人心を安定させ、敵につけ入る隙を与えないようにしなければならない。信綱たち幕閣は全国各地に飛脚を飛ばし、家綱の無事を伝えさせた。また関東一円に触れ書きを出し、「城は焼失したが別状はない。今までどおり耕作に励むように」と告げた。

 同時に放火犯の洗い出しも行われた。この二日間に起こった火事は、火元がすべて城の北から西の間に集中している。城を狙って執拗な放火がなされたように見える。信綱たちは城下の見回りを強化するとともに、日本橋をはじめとする町の各所に高札を掲げ、放火犯を訴え出るよう呼びかけた。

 だが、犯人探しは中途半端にならざるを得なかった。大火後の混乱で捜査が難航したこともあるが、被害の実態が明らかになるにつれ、何より救援活動を優先しなければならないことがはっきりしてきたからである。対応が一日遅れれば、それだけ死者の数が増えることになる。待ったなしの状況にあった。信綱たちはとりあえず四人の大名に至急粥の施行をするよう命じた。

 皮肉なことに、あれほど雨の降らなかった江戸の町に二〇日の夜から雪がちらつきだした。やがてそれは大雪となり、家を焼け出された難民の上に降り積もった。食べるものも着るものもない被災者たちは何人も凍え死んだ。

 粥の施行は翌二一日から開始された。雪はいつしか雨に変わっていた。幕府が用意した米は一日千俵、それでも足りないと思われるくらい行列ができた。粥を容れる器がないため、人々は割れた茶碗や瓦のかけら、あるいは直接手のひらで受け取った。みな身体のどこかにやけどを負っており、ぼろぼろになった着物をまとい寒さに震えながら粥をすすった。

 信綱たちは焼失した橋に代わる仮橋の架設に取りかかった。川や堀が網の目のように通る江戸の町では、物資の輸送や情報の伝達に橋の存在が欠かせない。寸断された交通の回復は急務だったので、信綱は舟を並べてその上に板を敷き、当面の橋の代用とした。

 一方、浅草の米蔵は依然としてくすぶり続けていた。放置しておくことは危険であり、また被災者に施行している粥は焼け残ったここの米でまかなわれていたので、忠勝は町人から人足を徴集し、消火に当たらせることを提案した。そのやり方に正之が異を唱えた。

「町人たちが疲弊している今、彼らにとって人足を出すことは容易ではない。むしろ焼けた米は勝手次第彼らに与え、その代わり火は自分たちで消すよう申し付けた方がよい」

反対された忠勝まで大きくうなずいて正之に賛同した。実際正之の言ったとおりとなった。町人たちは先を争って米を拾い、米蔵はたちどころに火が消えた。万事控えめな正之がこれほどの自己主張をするとは驚きで、またその判断の的確さには誰もが舌を巻いた。

 同じ日、大火による被害の速報がまとめられた。文字通り壊滅状態であった。被災した大名屋敷の数は一六〇、旗本屋敷八〇〇、町屋四〇〇町、焼け残った橋は一石橋と浅草橋のわずかに二つ、焼死者三万七〇〇〇、それ以上は遺体の損傷や流出のため数えることができない。想像を絶する災害の規模に信綱は全身が凍りついた。

(生半可な対策ではだめだ。徹底的な対策を、それも今すぐはじめなければならない)

信綱は腹を決めた。

 二二日、信綱は諸国の大名に、しばらくは江戸を訪れないようにと伝えた。その翌日には江戸にいる大名たちに近々帰国を許すと内示した。どちらも信綱の一存による指示であった。大名家は大勢の家臣を抱えている。彼らを江戸から遠ざければその分米の消費を抑えられると信綱は考えたのであった。

 とにかく米が不足している。江戸中の米蔵が焼失し、残った米も異常に高騰している。米を入手すること自体が困難なありさまで、大火後幕府が米価の統制に乗り出した途端に町なかの米は姿を消し、闇で取り引きされるようになっている。建前だけで人は動かない。いかなる政策も、受け入れられなければその効力を失う。市場原理という手痛いしっぺ返しに、信綱は仕置の難しさを思い知らされた。

 とはいえ、何とかして米を庶民の手に届けなければ、飢え死にする者が後を絶たなくなる。十数年前の飢饉の惨状を繰り返してはならない。二四日、信綱は紀州家から提供された米千俵を、一両につき八斗という低価格で放出することにした。これは幕府の定めた米価よりさらに安く、米が買えなかった人々はそれに飛びついた。加えて信綱は旗本・御家人に禄米の前借りを許した。米がないため金で支給し、その金で自由に米を買えるようにしたのであった。米の流通を促すため、信綱は打てる手はすべて打とうと考えた。

 この日、家綱の代わりに増上寺へ赴いていた正之が、帰城するなり見聞きしたことを幕閣たちに語った。

「今日はとても痛ましい光景を見た。京橋あたりはあちらこちらで死体が山積みにされていた。家臣に調べさせたところ、浅草橋まで同じような状況であるらしい。

 聞くところによると、川や堀にも死体がずいぶんと浮かんでいるそうである。このままにしておいたら死体は烏や野犬に食われるか、外海に流されてしまうであろう。不憫なことこの上ない。願わくば遺体を一か所に集め、ねんごろに葬りたいものだが…」

「肥後殿、それは良いお考えだ。すぐ墓所の選定に取りかかりましょう」

信綱は即決した。このところの正之の活躍はすばらしい。将軍の後見人という責任感がそうさせるのか、随所で積極的な発言が目立つ。そんな正之を信綱は頼りにし、支えようともした。信綱の意見につられる形で、他の幕閣も正之に賛成した。

 もっとも、信綱とて気ままに仕置をしている訳ではなかった。川越を復興させた経験を買われて自然と江戸の復興を任されるようになってはいたが、最終的には家綱と幕閣たちの了承を取り付けなければならなかったからである。家綱はたいていのことは「さようせい」と認めてくれたものの、保守的な忠勝や直孝は奇抜な解決策を好まなかったし、忠秋は筋の通らないことは絶対に認めなかったので、政策の決定は針の穴を通すような作業となった。さらに厄介なことに、忠勝たちよりはるかに手強い相手がその後に控えていた。紀州家の当主頼宣である。

 二六日、信綱は大名家の家老を集め、四月の参勤を延期すると申し渡した。次回参勤の時期は七月ごろ改めて伝えるので、それまでは出府しないようにとも言い添えた。頼宣はこれに猛然と噛みついてきた。信綱を自分の屋敷に呼びつけ、頭ごなしに叱りつけた。

「今は国を挙げて復興に当たる時であろう。それなのに大名の参勤を延期したり、期日を待たずして帰国させるとはどういうことか。

 そもそもこうした重大な話は皆で協議して進めるべきものなのに、すべて伊豆守の独断で決めているとのことではないか。とても正気の沙汰とは思えぬ。物事をわきまえない輩はおとなしく引き下がって、皆の意見を黙って聞いておればよいのだ」

 正雪の事件以来江戸に留め置かれている頼宣にとって、大名たちへのこのような措置は自分に対する不信感の表れと映った。三日前にも紀州家の上屋敷を城外へ移転するよう通告され、ただでさえ邪魔物扱いされていると感じていた矢先のこの決定に、頼宣は激しい反感を覚えたのであった。

 将軍のためを思って提供した米も、いらないと言われたり、やはり受け取ると言われたり、ちぐはぐな対応が目立つ。こういう時こそ幕府がしっかりしなければならないのに、場当たり的な仕置ばかり見せられてはこの先とても任せる気にはなれない。この際信綱を老中の座から引きずり降ろし、ほかの誰かと交替させてしまおうと、頼宣は心に決めたのであった。

 居丈高に詰め寄る頼宣に向かって、信綱は深々と頭を下げ、毅然とした態度で返答した。

「お言葉を返すようですが、かようなことを長談義しておりますと時間がかかるばかりで無益と存じます。このたびのことは私一人が責任を取るつもりで、すべてが片付いたらこの腹を切っておわびをする所存でおります。

 大名家に復興を支援させよとの思し召しですが、もちろん彼らにも協力はさせます。ただし、それは彼らの実力に見合った内容にすべきと考えます。粥の施行くらいで手伝った気にはさせません。これから彼らに何を命じるか、公儀の中でじっくり検討いたします。

 いずれにせよ、いま全国の大名家を呼び寄せることはいたしません。江戸の町には諸大名とその家臣に食べさせるだけの米がないからです。国許から取り寄せさせるにしても、それを運び込むのに道がふさがれてしまっては復旧の妨げにしかなりません。そもそも大名家には米を収納する蔵がありません。今回の大火では諸大名も多く罹災しておりますので、彼らは自分たちが寝泊まりする場所にさえ困っているありさまです。

 当分の間、大名家は国許に留め置くことにします。そうすれば公儀は彼らに屋敷を下賜したも同然となり、米の問題もなくなります。万一彼らが国許で謀反を起こしたとしても、上様お膝元の江戸で騒がれるよりはましでございます。そうした諸々の事情をご理解いただき、なにとぞこのやり方で通させていただきたく存じます」

頼宣は目を丸くした。

(こいつは本気だ、はじめから死ぬ気でやっている。うかつに口を挟めば巻き添えを食いかねない。ここはしばらく様子を見ることにしよう)

頼宣は口を真一文字に閉じ、手を振って信綱を帰らせた。

 頼宣を退けることはできたものの、相変わらず状況は厳しいままであった。二七日には再び雪が降り、またも多くの凍死者が出た。それでも被災者の数は一向に減らなかった。粥の施行は当初二九日までを予定していたが、とりあえず二月二日まで延長することにし、結局その後も一日おきに二月一二日まで続けることになった。

 信綱にとって不眠不休の日が続いた。重圧は言葉では表せなかった。やるべきことはあまりにも多く、行動の遅れはすぐさま事態の悪化につながった。もとより六〇歳を超える信綱が一人でさばききれる業務量ではなかったのであるが、信綱は歯を食いしばってこの激務に耐えた。

 二月に入ると、今度は早くも都市計画の問題が浮上してきた。大火直後の放心状態から抜け出した人々が、思い思いに掘立て小屋を建てはじめたからである。これは非常に難しい問題であった。このまま放置しておいたら、江戸はあっという間に元の雑然とした町並みに戻ってしまう。大火の惨劇を二度と繰り返さないためには、町を徹底的に改造し、防災都市として生まれ変わらせなければならない。かといって、一日も早く普通の生活を送りたい町人たちに住む家を建てるなとは言えない。解決の道はただ一つ、江戸全体を一度にまるごと造り替えるしかなかった。

 まずは町域の拡張である。もともと手狭となっていた江戸の町を、この際大々的に広げる必要がある。拡張には郊外の築地(埋立地)を利用する。木挽町の海岸や赤坂・牛込の田畑、小石川の沼地など、造成できるところは残らず宅地化する。既に数年前から埋め立てに着手されてはいたが、信綱は大火で発生したがれきを積極的に投入し、より大規模な造成を図ることにした。木挽町などは二〇万坪を超える海面が埋め立てられた。

 町の拡張範囲が決まったら、その外縁に寺院を配して守りを固める。今や町場と化した神田や八丁堀にある寺は浅草へ移し、焼失した御茶の水・本郷・湯島の諸寺も浅草・小石川・駒込などに移転させる。同時に武家地の整理を行う。江戸城の北側は防災用の空地とし、そのため御三家の屋敷であっても城の外へ動かす。前月二三日に紀州家へ屋敷の移転を通告したのはこの準備作業であった。また竹橋・常盤橋・雉子橋の内側に密集していた大名屋敷も、その多くはできたばかりの築地や寺の跡地へ移転させる。こうして空間が生じた町の中に、今度は延焼を防止する土手や幅広い道路を設ける。

 火災時の避難路を確保するには、道に張り出した町屋のひさしも禁止とせねばならない。さらには家々の屋根に土を塗って家屋の耐火性能を高め、旗本や町方に火消しの組織を作らせ平時から消火の備えをさせる。信綱はこれらの計画を、それこそ息つく間もなく作り上げた。そしてこれから数年の間に、ほとんどすべて計画どおりに実行させるのである。その手腕にはすごみすら感じられた。この頃の信綱はまさに鬼気迫る勢いだったのである。

 こうして基本計画が固まれば、いよいよ次の段階へと進む。すなわち町の復興である。しばらくは家屋の新築や都市基盤の整備などで、江戸中が大いに活気づくであろう。安全で住みやすい町になれば、今まで以上に多くの人が住みつくはずである。ただし、そのことは必然的に新たな問題を生む。木材価格の高騰である。大火直後から、材木商たちは全国の山林を押さえ、木材の売り値を天井知らずで吊り上げていた。庶民にとって家を作りたくとも作れない事態となっていたのである。早急な対策が必要であった。とはいえ、木材価格の統制に走れば米の二の舞になりかねない。

 二月九日、信綱は当年の江戸城普請を見合わせると発表した。場合によっては三年間は何も行わず、行うにしても天領の山林から木材を調達するので民間からは一本も買い上げないと公言した。諸大名にもそれぞれの知行地から木材を取り寄せるよう働きかけ、暴利をむさぼる材木商からは一切買い付けないよう釘を刺した。

 さらに信綱は、被災した大名や旗本に作事料を援助することを決定した。町人たちにも銀一万貫下賜することにし、被災者たちが速やかに家を建てられるようにした。

 もっとも、江戸城内には既に救済金を全額支給できるだけの貯えがない。天守閣に備蓄してあった金銀は、火災の熱で溶けて流れてしまった。別の場所にある銀を持って来させなければならない。かくして史上空前の銀貨輸送が行われることになった。

 銀は大坂と駿府から一万貫ずつ取り寄せることにした。十貫目入りの箱に小分けして、三〇頭の馬で江戸との間を何度も往復させた。足りなくなればなったで一万貫ずつ追加し、最終的に数万貫にのぼる銀を江戸まで運び込ませた。あまりにも巨額な出費に国庫が空になるのではないかと心配する声も挙がったが、正之は一言のもとにそれを退けた。

「公儀が貯えた金銀はこういう時に使うものである。もし今使わないのなら、貯えない方がましである。ここで出し渋りをして、そのためかえって暴動が起こり金銀を取られてしまったら元も子もないではないか」

以後反対意見はどこからも聞こえてこなくなった。

 二月半ば、被災者二万人余りを埋葬した回向院無縁寺ができあがった。隅田川向こうの本所に建てられたこの寺は、信綱が正之の提案にすばやく反応した結果、大火後一月もたたないうちに竣工の運びとなったのである。埋葬地には塚が築かれ、その横に念仏堂が建てられた。二月二六日、幕府は増上寺から百人の僧を招いて盛大な法要を行った。大勢の人が回向院を訪れ、大火で命を奪われた親族らを弔った。以後本所は参詣の人でにぎわう場所となる。

 この頃になるとようやく町なかに米が出回るようになり、米価もだんだんと落ち着いてきた。幕府による禄米の前貸しや作事料の援助により、「旗本はいくらでも米を買うらしい」と評判になり、利益を狙った商人たちが諸国の米を大量に持ち込んだからである。

 木材の価格も急降下した。いつのまにか、「伊豆守様は川越から取り寄せた杉材で自分の屋敷を建てはじめた」といううわさまで流れ、さすがの材木商も木材を高値に維持しきれなくなったのである。市場原理を逆手にとり、需要と供給を巧みに操作した智恵伊豆の作戦勝ちであった。

 

 四月二〇日、寛永寺にある家光の霊廟に、信綱は一人正座した。この日は家光の命日に当たり、信綱はひざの前に短刀を置いて亡き家光に語りかけた。

「大猷院様、ご安心くださいませ。江戸は活気ある町に戻りつつあります。上様もご無事でございます。西の丸での不自由な生活は続いておりますが、町がこのまま順調に回復すれば、遠からず城の再建もかなうと思われます。大猷院様のご加護により、私はどうにか自分の役目を果たせたようです。あとは皆の力で何とでもできるでしょう」

 日の暮れかけた薄暗い霊廟の中、信綱は短刀に手を伸ばした。すべてを成し遂げたすがすがしい顔がそこにはあった。実際、信綱にとってやり残したことは何一つなかった。

 突然、背後から人の声が飛んできた。

「伊豆殿、少々うかがいたいことがござる」

びっくりした信綱は手に取った刀を落とした。忠秋であった。忠秋は障子に手をかけて、こちらの様子をじっと見ていた。信綱はすぐに声が出せなかった。見られてはいけないものを見られた気がして、とっさに言葉が浮かばなかったのである。忠秋はそんな信綱に少しも構わず、つかつかと信綱の前に歩み寄った。

「伊豆殿、大名家は総じて築地への移転をためらっているようです。上水がほとんど通わず、往来も不便な土地柄ゆえ無理もないことですが、伊豆殿はその辺の対策をどう考えておられるのですか」

「そのことなら…」

信綱はほっと一息ついて答えた。

「玉川上水を最大限に利用すればよいと思っている。日本橋の南まで上水を延ばせば、木挽町の築地に水を送ることができる。また四谷あたりから水を分ければ、赤坂・青山・麻布などの高台への給水も可能となる」

「往来の問題は?」

「そちらの方が少し厄介だが、私は小石川の濠を牛込まで拡幅し、舟でさかのぼれるようにすれば利便性を大いに高められると思っている。この拡幅には、少なくともほかに二つの効果がある。第一に江戸城の外濠としての機能を強化することができる。第二に流域で発生する水害を抑えることができる。麻布方面にも新たに舟濠を開削すれば、同様の効果が得られよう。そしてこういった大規模な普請こそが、大名家の動員にふさわしいと思う」

「なるほど、すばらしい智恵でござるな。だがそれだけで十分とは言えますまい。新規の開発がすべてうまくいったとしても、旗本屋敷全部をまかなうだけの土地は得られないからです。ましてやこれから町人が大挙して流入すれば、すぐさま土地に余裕がなくなるのではないでしょうか」

「豊後殿、まことによい着眼点だ。さよう、このままでは再び元の過密状態に陥ってしまう。今のうちから別の土地を用意しておかねばならない。問題はそれをどこにするかだ。豊後殿ならどこがよいと思われるか」

「さようでござるな…。浅草あたりはいかがでござろう」

「うってつけである。浅草は間違いなく人の集まる場所となる。

 豊後殿、多くの寺院を浅草へ移転させたのには理由がある。浅草の将来性を見越してのことなのだ。先頃吉原の浅草移転が決まり、浅草は江戸の歓楽街という位置づけとなった。そこへ浅草寺以外にも寺院を多数転入させれば、それだけ門前町が発展し、浅草は多くの参詣人が訪れ、茶屋や料亭などが建ち並ぶ町となる。人がいるところに人は集まる。浅草は江戸に来る人々の受け口となるのだ」

「なるほど、よくわかり申した」

「そしてもう一つ、新たな受け口となり得る場所がある。それが本所だ」

「本所?隅田川対岸の、あの不便な土地がでござるか」

「いかにも。豊後殿、本所が不便に見えるのは隅田川に隔てられているからで、距離でいえば意外なほど中心街に近いのだ。このたび本所に回向院を建てたのも、かの地を重点的に繁栄させる意図があるからだ。

 今の本所は田畑が広がるただの低地で、それゆえ開発にはむしろ向いている。この地へ縦横に水路を廻らして舟を通れるようにすれば、物資の荷揚げや貯蔵に最適の地となる。大名家の下屋敷として、いざという時の補給基地に使えるということだ。

 もっとも、それもこれも本所が橋でつながればの話だが、実は讃岐殿からは本所へ橋をかける内諾を得ている」

「それはまた手回しのよい」

「今まで橋がなかったのは、主として軍事上の要請による。江戸城を外敵から守るには、多少の不便は忍ばねばならないという発想からだ。それゆえ橋については総合的な見地に立って判断をする必要があると考え、讃岐殿の見解をうかがってみた。讃岐殿はこう言われた。『川がなければ守れないような仕置では、城は一日ともたない。諸人に迷惑をかけぬようにしてこそ、人は塀にも石垣にもなる。すなわちそれが善政というものだ』と。さすがは讃岐殿、大人物である。

 橋さえかかれば、本所は中心街と陸続きになり、人や物資の往来が自由になる。また火災が起きた時の避難路として使うこともできる」

「話を聞けば聞くほどよく練られた考えだ。とはいえ、誰もがそれを実現できるものではない。伊豆殿の働きがあってこそ、あたかも前々から決まっていたかのごとく物事がうまく運ぶのです。そのことを知っているからこそ、讃岐殿も肥後殿も、そして上様も、災害の復興を伊豆殿に託しているのです。もちろん私もです。それはこの先もずっと変わりません。伊豆殿、そのことをよくよくご承知おきくだされ。切腹をしている暇などありはしませぬぞ」

そう言い残すと、忠秋は暗くなった霊廟を去っていった。

(やはりすべてお見通しであったか)

信綱は口をきゅっと結び、それからふっと微笑んだ。

 忠秋の言うとおり、信綱は独断で仕置を行った責任を取って自害するつもりだったのである。忠秋はそれを察知して、信綱が切腹する道を封じたのであった。そこには信綱に対する確かな理解と信頼があった。ここまで自分を信じてくれる忠秋を裏切ることはできない。切腹は思いとどまるしかなかった。またもや豊後殿にしてやられたと思いながらも、信綱はえもいわれぬ心の安らぎを感じていた。口に出さなくとも、二人の心は通じ合っていた。

 

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