前頁目次

 

其の十七    終焉

 

 万治三(一六六〇)年までに、江戸の面目は一新した。大火からたった三年で、広くなった町には家屋が整然と建ち並び、上水道や橋などの都市基盤も着々と整備された。江戸城本丸の再建は、大火のあった年に早くも着手され、翌年の八月には完成し家綱を迎え入れていた(当年の着工を見合わせるという信綱の発言は、木材価格を下げるための方便に過ぎなかった)。

 ただ天守閣の普請だけはいつまでも手が着けられなかった。天守台の方は二年前に加賀の前田家によって造り替えられていたが、信綱は天守閣の再建には強い疑問を抱いていたのである。

(所詮は観望台か貯蔵庫程度の使い道しかない天守閣だ。人々が大火からまだ完全に立ち直っていないというのに、普請を強行するのはいかがなものか)

客観的に見ればまさにそのとおりであった。が、信綱がそれを口にするのははばかれた。天守閣を築造するしないを決められるのは将軍だけであり、一介の家臣でしかない信綱は意見を述べられる立場になかったのである。信綱は将軍の後見人である正之に、それとなくこの話を持ちかけた。

「肥後殿、天守閣のことでござるが…」

「うむ、そのことなのだが、実は私は天守閣などなくてもよいと思っているのだ」

「肥後殿も同じ考えでござったか。それならば話は早い」

「なんの、大方みな同じことを考えておるものだよ。上様には私から話をしておく。天守閣は作らないことにしよう」

かくして天守閣の建設はあっさり取り止めになった。

 

 六五歳になった信綱はさすがに体の衰えが目立ってきた。年齢的なものもさることながら、先の大火の処理で無理に無理を重ねた結果、一気に老いが進んでしまったのである。近頃は尿の出は悪くなり、ひざはがたがた、かすみ目に薬をさしたら涙が止まらなくなるといった始末であった。

 家綱もできるだけ信綱に負担をかけまいとしていたが、どうしても智恵伊豆でなければ解決できないことが出てくる。六月二三日、大坂から危急の事態を告げる注進が江戸城にもたらされた。

 注進は耳を疑うような内容であった。去る一八日、梅雨明け間近のどしゃ降りの中、大坂城内の煙硝蔵へ雷が落ち、そこに備蓄してあった火薬に火が着いて大爆発を起こし、大きな石を天守閣の二層目まで跳ね飛ばしたとのことである。石は屋根にめり込んだまま動かせないでいるという。むやみに力を加えれば階下に落ち、被害を拡大させる恐れがある。どうにも手が着けられない状態にあった。

 注進はその後も二、三日に一度は江戸に到着し、大坂ののっぴきならぬ状況を伝えた。七月五日、家綱は幕閣たちを集め、一日も早く大坂城の修理に取りかかれるよう信綱に現地の監督を命じた。

 「さあて…」と信綱はため息をつき、とりあえず屋敷に戻って旅の支度をはじめた。そこへ忠秋が真面目くさった顔をして訪ねてきた。

「伊豆殿、大坂へ行く準備をしておられるのか」

「そういうことだ。何もわざわざ江戸から出向くこともないとは思うが、上様の命令とあれば仕方がない。数日中に江戸を発つことにするよ」

信綱も神妙な顔で答えた。

「どうにも気に入りませんな。私とて老中の一員です。私が大坂へ行ってもよいはずではありませんか」

(…この男は何を言おうとしているのだ?)

けげんな顔をしながら信綱は答えた。

「それはそうだ。豊後殿に行ってもらっても一向に差し支えない。ただそれをどう上様に説明するかだ。ある意味上様の命令に背くことになるからな」

「それほど大仰なものではないでしょう。むしろ公正な人選をした方が上様もお喜びになるのではないですか。伊豆殿にしろ私にしろ、大石を取り除きさえすればよいのですから」

(ははあ。さては豊後殿、私の身体を気遣って自分が代わりに大坂へ行くつもりだな)

信綱はそしらぬふりをして忠秋に聞き返した。

「それなら豊後殿、どうやって公正な人選を行うつもりか」

「私によい考えがあります」

忠秋がふところからさっと何かを取り出した。見るとそれは二本のこよりであった。

「これは?」

信綱がいぶかしげに尋ねると、忠秋は大真面目に答えた。

「大昔から公正な解決方法はくじ引きと決まっております。二本あるこよりのうち、一本は先を墨で黒く塗ってあります。私がその部分を隠しますから、伊豆殿に一本引いてもらい、墨の塗ってある方を引き当てたら伊豆殿の勝ちとしましょう」

子供のたわむれのような提案に、信綱はあやうく噴き出しそうになったが、いかにも乗り気であるかのように前のめりになって答えた。

「そういうことなら、この伊豆守も引き下がってはいられない。もともと大坂へは私が行くように言われているのだから」

「なんの、智恵比べならともかく、くじ引きであれば私も伊豆殿には負けませんぞ」

「やあっ!」

「はっ」

信綱が引いたこよりの先には、黒く墨が塗られていた。

「ふふっ」

「ふふふっ」

「はっはっはっはっ…」

二人はいつまでも笑い合った。

 

 八月一日、大坂城に到着した信綱は、城代の内藤帯刀忠興に迎えられ城の中へ案内された。

「非常に深刻な状況です」

信綱が着座するなり、忠興は鼻息荒く話を切り出した。たしかに聞きしに勝る被害であった。落雷によって、火薬ばかりか弾丸までも四方八方に飛び散り、城の石垣、櫓、門などが大破し死傷者が数多く出たとのことである。雷の被害は町屋にも及び、千軒を超す家屋が損壊し死者も何人か出ている模様である。屋根に乗った石は驚くほど巨大で、二〇人でも持ち上げられないほどの重さであるという。町なかからは「太閤様のたたり」とささやく声がしきりに聞かれるとのことであった。忠興は眉根にしわを寄せながら、懸命に信綱に説明をした。

 ところが信綱は忠興のせっぱ詰まった様子などどこ吹く風で、のんびりと茶を飲み、ゆるゆると昔話をはじめた。

「私が小姓の頃のことを思い出すのお。大猷院様から庭の大石をどかせと言われ、考えた挙げ句土の中へ埋めてしまったのだ。大猷院様の驚いた顔が今でも目に浮かぶよ。

 またこんなこともあった。あまりにも天守閣の白壁がぼろぼろはがれてしまうので、下塗りから白い土を使ってみるよう勧めたのだ。おかげで随分と修繕費の節約になったようだ」

(やれやれ、年寄の自慢話がはじまった)

周囲の者たちは無表情で下を向いた。

帯刀殿、今回のような場合はどうすればよいと思うか?土の中へ埋めることはできない。また壁に塗り込める訳にもいくまい」

「さあ、皆目見当がつきませぬな」

(わかっていればとっくに解決しているよ)

という顔をして忠興が答えた。

「ところで帯刀殿、大火の折は粥の施行をご苦労であったな」

突然信綱が話題を切り変えた。忠興は大火直後に粥の施行を命ぜられた大名の一人だったのである。

「はあ、とにかく被災者がものすごく多くて驚きました。浅草の蔵から毎日千俵の米を受け取り、来る日も来る日も施行をしたのですが、それでも間に合わないほどでした」

「一時に千俵も受け取ったとなれば、さぞかし難儀であったろう」

「いえ、私どものほかにも三つの大名家が合計六か所で施行しておりましたし、浅草までそれほど離れていなかったため小分けして運んでこられましたので、その点は問題ありませんした」

「ほお、それならここの石も同じようにして運んだらよいのではないかな?」

「は?」

「大石を運べないと思うのは一つのかたまりと見ているからで、少しずつ崩して運べばそれほど難しいこともあるまい」

「あっ」

忠興はひざを叩き、大急ぎで作事方を呼んだ。信綱は何事もなかったかのように、再びゆっくりと茶を口にした。

 

 寛文二(一六六二)年に入るとまもなく、信綱は病の床についた。六七歳とかなりの高齢のため、信綱の容体を気遣って家綱が毎日のように見舞いの使者を差し向けた。だが信綱はこれらの使者と会うことはなかった。信綱は死ぬ前にぜひとも会わなければならない人物がほかにいたからである。その人物と話をしないうちに体力を使い果たす訳にはいかない。信綱が待っていた人物とはただ一人、ほかならぬ忠秋であった。三月のうららかな春の日、忠秋はひとり信綱の屋敷を訪れた。

「豊後守様がお見えです」

忠秋の名前を聞くと、信綱は「うむ」と応え、両脇を抱えられて病床から起き上がった。そして肩衣を肩にかけ、畳の上に正座して忠秋を招き入れた。

 部屋に入ってきた忠秋は一言もしゃべらず、信綱が話を切り出すのを待った。口には出さずとも、これが信綱との最後の別れになるであろうとうすうす感じていたからである。信綱の方もしばらくの間じっと忠秋の目を見つめていたが、やがておもむろに忠秋に語りかけた。

「豊後殿、貴殿と私は幼少の頃から大猷院様に仕え、力を合わせてさまざまな難局を乗り越えてきた。時には互いの意見を譲らず、大声で口論することもあったが、心の底では常に気持ちが通じ合っていると感じていた。

 私はもう長くはない。しかし豊後殿がいる限りこの国のことは何ら心配をしていない。私が心配なのは息子の輝綱のことだ。私が死んだあと、輝綱のことをぜひとも豊後殿にお願いしたい。豊後殿のご子息と同じように思われ、何ごとによらず指南していただきたいのだ」

忠秋の頬を一筋の涙が伝った。

「伊豆殿とはかれこれもう五〇年以上のおつきあいになります。たとえ頼まれなくても輝綱殿のことは粗略に思わなかったでしょう。ましてや今頼まれたからには、なおさら実の息子のように接しましょう。そのことは間違いなくお約束します」

信綱は笑みを浮かべ、庭を眺めながら何度もうなずいた。桜の花びらが一枚、春風に乗ってひらひらと舞い落ちた。

 

 忠秋との面会の後、信綱は起き上がっていることすらできなくなった。死期が近いことを悟った信綱は枕元に輝綱を呼び寄せ、箱に入れた将軍直筆の感状を運んでこさせた。そうして目の前でそれを広げるよう輝綱に指示した。

「これらの感状は私にとって何ものにも代え難い大切な品である。だが末代に及び、これを粗略に扱い、あるいは悪用する者が現われないとも限らない。それは思うだに耐えられないことである。

 そこで、私が死んだらこれらをことごとく焼き払い、その灰を私の襟にかけてもらいたいのだ」

輝綱は無言でうなずいた。涙で目がかすみ、父親の顔をまともに見られなかった。気になることがすべてなくなった信綱は、心安らかにまぶたを閉じてつぶやいた。

「お静よ、待たせたな。これから私もお前のもとへ行く。そして、争いも、災いもない世の中で、昔のように二人仲良く暮らそう」

 

 三月一六日、信綱は永眠した。波乱に満ちた生涯とは裏腹の、安らかな死であった。多くの者が信綱の死を悼み、江戸中の鳴り物が三日間停止された。遺体は平林寺に葬られ、「松林院殿前豆州四品拾遺乾徳全梁大居士」という法名が贈られた。

 信綱が生きた時代は、幕藩体制がその秩序を完成させる過渡期に当たっていた。それゆえ戦国武将や幕末の志士のように華々しく取り上げられることがなく、その業績が脚光を浴びることは少ない。

 だが、その人物像に迫れば迫るほど、信綱が古今東西の政治家の中でも卓越した超一流の存在であったことに気づく。そして、苦悩の中にも常に正しい道を選ぼうとしたことを知る。信綱の真髄は、非凡なことを当たり前のようにこなしたことにある。名にし負う英傑たちと比べてもなお、信綱の行跡がことのほかすがすがしく見えるのはそのためである。

 

前頁目次