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其の十    飢饉

 

 寛永一九(一六四二)年の江戸城は、年明けから凶作の話で持ちきりであった。前の年に全国へ派遣した国廻り上使の報告や、諸大名から寄せられた注進により、各地の惨状が次々と明らかになっていた。しかもその内容は日を追って厳しさを増し、楽観できる材料は何一つなかった。幕閣たちは寄ると触ると、避けて通ることのできない飢饉の到来について話し合った。

 そもそも飢饉の兆候は二、三年前から現われはじめていた。九州ではこの時期牛疫病が流行し、大量の牛が病死する事態が発生していた。西日本において牛は農耕に欠かせない存在であり、そのため米の収穫にかなりの悪影響が出ていた。牛疫病はその後、四国、中国、畿内にまで広がり、薬はあっても飲ませる牛がいないというほど被害を拡大させていた。

 同じ頃東北方面では、蝦夷駒ヶ岳の降灰の影響であろうか、津軽で餓死者を出すほどの不作となっていた。また秋田からも台風の直撃による稲の被害が伝えられた。飢饉は足元から確実に忍び寄っていたのである。

 そして寛永一八年に入ると、凶作は一気に全国的な広がりを見せるようになった。

 まず東北では全域が深刻な冷害に見舞われ、氷雨、早霜、大雪と相次ぐ異常気象に悩まされた。津軽は前年に続く不作で死者が多数発生し、会津では雹による作物の被害、秋田は八月に霜が降るといった具合で、まさに総崩れの状態であった。山形では年貢の収納が三年前の半分以下になった。

 九州、四国、中国はその逆に、六月から七月にかけて猛烈な干ばつに襲われた。八月には一転してそれが長雨に変わり、豊後臼杵をはじめ至るところで洪水が起きた。刈り入れの時期ともなると今度は虫が大発生し、作物にさらなる被害を及ぼした。

 畿内もほぼ同じような状況で、しかも秋の収穫に続いて麦、里芋などの畑作物も不作となり、事態を一段と悪化させていた。北陸も長雨と冷風にたたられ、かなりの餓死者が出ると予想された。

 忠勝のしかめ面は今にはじまったことではなかったが、今回はそれが当然に思えるほどひどいありさまであった。だが信綱を含め、幕閣たちはまだ飢饉の本当の恐ろしさを知らなかった。

「今年が全国的な飢饉の年となることは間違いない。領国において有効な手立てを打ち出せない大名家は、武家諸法度に基づき転封、改易とする。領民を疲弊させることはそれだけの処罰に値するということだ。これから我々は各国の動向を注意深く観察し、いつでも適切な対応ができるように備えておくことが大切だ」

「多くの者が死ぬのは痛ましいことだが、長い目で見れば日本のためには良いともいえる。それによって仕置の良し悪しをはっきりと見定めることができるというものだ」

 幕閣たちの間では、飢饉は既に折り込み済みといった空気があった。少なくとも忠勝が一通の書状を受け取るまではそうであった。

 

 二月に入り、忠勝が国許の年寄から届いた書状に目を通した瞬間に事態は一変した。そこには驚くべきことが記されていた。

「領内はこのところの大雪で、菜や大根はもとより葛やわらびまで雪の下に埋もれ、各村で一〇人、二〇人と百姓が飢えに瀕しております。備後様(忠勝の長男忠朝)の了解を得て代官から事情を聞き、とりあえず飢人に食糧だけは与えているような状況ですが、今後についてはいかがいたしましょうか」

読み終えた忠勝は絶句した。頭に血が上っていくのが自分でもわかった。とにかく急いで領国に返事を送った。

「どうして百姓がそれほどになるまで放っておいたのか。代官から事情を聞くのに手間取ったというのであれば、ますますもって処罰ものだ。百姓を一人でも餓死させたら、それはお前たちの責任である。

 このようなことはめったにないことであるから、前例にとらわれず年寄三人のうち一人が現地へ行って食糧を手配するとか、郡奉行を派遣すべきところを、やれ備後様の了解を得てからだの、代官を呼んで話を聞いてからだの、いったい何をしているのだ。

 金銀や米を蓄えているのはこういう時のためではないか。他領のことならともかく、我々の領地から餓死者を出すことは絶対に許さない。もっとも、救済を悪用して私腹を肥やす輩がいれば、それは五〇人でも一〇〇人でも死罪に処すればよい。それとこれとは裏表である。

 雪のため熊川の蔵から馬で米を運べないのなら、少しずつ人足に背負わせて運び出せばよいではないか。それもだめなら、大津の蔵にある米を取り寄せれば五〇日や一〇〇日は生き永らえるはずであろう。

 百姓が餓死するということは、私に恥をかかせるということである。三人とも何でもって高い禄をもらっているのだ。お前たち年寄に領国の仕置を任せているのは、このような時のためではないか。米の三〇〇〇石や五〇〇〇石は、お前たち三人の領地を没収してでも何とでもなるのだぞ」

 忠勝にとって、自分の領国から餓死者が出るなど思ってもみなかったことであった。飢饉の度合いは領国経営の優劣によって決まるもので、いやしくも将軍に近侍する自分とは無縁のことと考えていたからである。それは忠勝に限ったことではなく、ほかのすべての幕閣にも当てはまることであった。幕閣たちの間に戦慄が走った。

 当初は憤懣やる方なかった忠勝も、怒ってばかりいたところでどうにもならないことを悟り、気を取り直して国許に対し具体的な指示を下しはじめた。

「村によっては種もみまで食べてしまって、作付けができないところもあるであろうから念入りに調査するように。少しでも田畑を荒らす不届き者がいれば懲らしめるように。夏になれば米の相場が上がり、敦賀などへも米が入って来なくなるはずであるから、大津にある蔵米の売り払いは慎重に行うように。麦作もだめとなれば秋までに百姓は行き詰まるであろうから、領内の米はそのまま残しておくように」

 とにかく領国の民衆が飢えに苦しんでいることが評判にでもなれば自らの進退にも関わってくるので、忠勝も必死であった。忠勝としては武家諸法度に抵触するといった、自分が仕掛けたわなにかかるようなまねだけは避けねばならなかった。本当はすぐにも領国へ行って直接指揮をとりたい忠勝であったが、家光の手前そのような勝手な行動が許されるはずもなく、国許からの報告をやきもきしながら待つ以外に方法はなかった。

 もっとも、諸国の惨状については当の家光のところにもいろいろと情報が上がってきており、忠勝のことも含めて何らかの対策が必要なことは家光も認識していた。ただ、四月に日光東照社へ参拝することが前々から計画されていたので、本格的な活動は日光より帰参してから行うことになった。

 

 四月二二日、日光から江戸城に戻った家光は自ら先頭に立って飢饉の対策に乗り出した。今回の凶作はどうやらいつもと様子が違うらしい。家光は飢饉を各領内の問題として放置するのではなく、中央政権である幕府が総力を挙げて取り組むべき案件として対処することを決意した。

 家光は手はじめに、江戸に参勤中の諸大名に順次帰国を許し、国許で凶作にあえぐ百姓の救済を図るよう指示した。外様大名に対する拘束を一時的にも解除する大胆な施策であったが、大名たちに反旗を翻す余裕はないであろうと見越した上での決断であった。帰国の許可は外様大名にとどまらず、江戸に常駐している譜代大名にまで及んだ。忠勝も七月に暇を与えられることが決まった。

 続いて五月八日、家光は信綱ら老中三人を黒書院へ呼び出し、地方の事情に詳しい重臣たちと協力して飢饉対策の立案に当たるよう命じた。家光が選んだ七人の重臣には養父正綱も含まれており、この時の人選がその後の「飢饉奉行」とでも呼ぶべき実働部隊の核となった。

 一三日、信綱たちは家光の面前で飢饉奉行と初会合を開き、当面何から着手すべきかを話し合うことにした。議事の進行には老中筆頭の信綱が当たった。信綱にとって、これが幕閣を取り仕切る最初の案件となった。飢饉奉行を中心に活発な議論が交わされた。

「さしあたり、飢饉の実情を把握することから手を着けるべきであろう。全国各地の代官を集め、早急に昨年の作柄を聴取することにしよう」

「代官を待っている間にも飢饉は進行している。今まさに飢餓に直面している百姓を救うには、彼らの生存に最低限必要な米の手配を優先すべきではないか」

「この秋の収穫のため、種もみの確保も行っておいた方がよい。加えて今後とも同様の事態が起こらぬよう、今のうちから農家の体質改善を進めておかなければすべてが後手に回る恐れがある」

「なるほど、いずれももっともな話である。では、我々は実際に何から行うべきであろうか?」

信綱は自分に問いかけるように飢饉奉行に尋ねた。心の中では、寄合をうまくさばき切れないことにもどかしさを感じていた。老中筆頭でありながら、自分は百姓のことをあまりにも知らなすぎる。信綱自身、六万石を統治する領主であったが、国政の忙しさにかまけて領国経営は国許の家老に任せきりにしていた。そのため飢饉奉行の意見を集約することができず、また何が足りないのかを特定することもできない。信綱は今さらながら、自分の未熟さ加減を思い知らされた。

 そこへ、それまでほとんど発言がなかった正綱が議論に加わってきた。物静かな口調であったが、それだけに周りを沈黙させる迫力があった。

「各々方の言っていることはすべて正しい。我々はその全部に対処していく必要がある。

 とはいえ、我々が一度にできることは限られている。準備にかなりの時間を要するものもあろう。我々はそれらを、順を追って実施していかなければならない。

 我々が取り組むべき内容を整理すると、およそ次の二つに分けられる。緊急対策と中長期対策である。

 中長期対策の方は、一朝一夕に結論を出せるようなものではない。それをまとめ上げるだけの時間的余裕もない。勢い緊急対策が当面の議論の対象となろう。

 その中心課題は、言うまでもなく逼迫する食糧需給の緩和である。米の調達の問題と言い換えてもよい。百姓救済のための夫食(食糧)や種もみに要する米、都市に流入する大量の飢人に備える米、諸物価の高騰を沈静化するため市場に投入する米、必要なのはすべて『米』である。

 我々に課せられた任務は、単に蔵から米を引き出すことではなく、必要とされる米の量を極力減らし、供給可能な米の量を増やすことである。たとえば私個人としては、米の流通過程を根本から見直す必要があるのではないかと感じている。いくら飢饉とはいえ、町なかに出回っている米の量が少なすぎるのである。米の流れのどこかに大きなよどみがあると見て間違いないと思う。

 そうした問題を一つ一つつぶしていくことで、結果として飢饉の影響を最小限に食い止めることができるようになると考える」

 家光をはじめ、周りの者は感心して大きくうなずいた。信綱は助け舟を出してもらったありがたさと自分に対する不甲斐なさから、黙って下を向いていた。

 その横で、重次が身を乗り出して正綱の話を継いだ。

「さすがは右衛門大夫(正綱)殿、我々がなすべきことを実に的確に表現していただいた。我々はその意見に従おうではないか。

 私からもそのための具体策を提案させてもらいたい。私は何よりも先に、百姓を意識づける触れ書きを出すことからはじめるべきではないかと考えている。飢饉対策とは一に田畑を荒らさないことであり、それには百姓に飢饉の実情を知らせ、耕作に一層精を入れて取り組ませることから着手するのが筋というものであろう。

 そうしたうえで、百姓たちが安心して耕作に専念できるよう作物の掠奪には厳罰をもって当たり、凶作を口実にした年貢未納もきつく取り締まることを明確にすれば、必ずや米の増産となって跳ね返ってくると思う」

 重次の発言に、家光は即座に同調した。

「対馬守(重次)もなかなかよいことを言う。よし、これからすぐに触れ書きを作成し、天領はもとより諸国の大名領にも手分けして配るようにせよ。配布に際しては飢饉に関する各国の最新情報を入手することも忘れるな」

 家光のこの一言がその場の議論を決した。結局信綱は最後まで主導権を握ることができなかった。信綱は内心、この決定に疑問を抱いていた。百姓たちが飢饉の現状を理解していないとは思えなかったし、苦しんでいる当の百姓に問題の解決を押しつけているようにも聞こえたからである。

 とはいえ、家光の決定を覆せるだけの対案がすぐに思い浮かぶものでもなく、正綱もそれ以上は何も言わなかったので、信綱は「あくまでこれは対策の第一歩であるから」と自分に言い聞かせて触れ書きの作成に取りかかることにした。

 

 だが、幕府の動きは遅きに失した観があった。城内が日光社参の準備に追われていた二月から四月にかけて、全国各地で飢饉が猛烈に進行していたのである。

 既に正月のうちから、百姓の手元には食糧が欠乏しはじめていた。人々は食べられる物を探しに野山をさまよい、食い詰めた者たちは仕事や食糧を求めて都市になだれ込んだ。三都を中心に町は飢人であふれ、それでも食物にありつける者はまれで、米ばかりかあらゆる物の値上がりによって飢人たちはますます窮乏に陥り、町中至るところで不穏な空気が醸成されていった。

 殊に京都は治安が極度に悪化し、辻斬りや強盗のため夜中に町を歩けないようなありさまとなった。五月二五日には白昼堂々町なかで放火騒ぎが起こり、犯人たちは銃を乱射しながら火を着けて廻ったため、町人たちは火を消すことも家財を持ち出すこともできず、三日三晩燃え続けた火によって沿道の建物はことごとく灰と化した。

 信綱たち老中は五月二三日に九か国の代官を招集し、実態把握のための聞き取り調査を行った。そこで得た情報は予想をはるかに上回る惨澹たるものであった。年貢が完全に納められているところなどどこにもなく、食糧が尽きて辛うじて生きているだけの百姓や、種もみが不足して荒れるに任せている耕地ばかりが目立つとのことであった。

 それ以上に信綱たちを驚かせたのは、代官たちの強い非難の声であった。彼らは怒りを抑え切れない様子で幕政への不満を口々に述べ立てた。

「今ごろ百姓に夫食を貸し付けても遅いのです。食糧がなくなれば、百姓たちは生きるために農作業を放棄してでも食物を探し回ります。それは数か月も前からはじまっておりました」

「種もみにしてもしかりです。百姓たちは代掻きどころか、ほとんどがもう田植えまで済ませてしまっております。種もみを用意できなかった荒地は今さらどうすることもできません。何ごとも臨機に対策を講じなければ意味をなさないのです」

「もはや一本の高札で荒廃を止められるような状況ではありません。それでも触れ書きを出すというのであれば、やり過ぎと思えるくらい徹底した内容にしなければ実際上の効果は期待できません」

「百姓の意識とか、そういう現場を無視した議論はお止めいただきたい。地方がどういう状況にあるのか、一度その目でお確かめになられた方がよろしいのではないでしょうか」

 代官たちの勢いに飲まれ、老中たちは返す言葉を失った。信綱でさえ正直言ってそこまでの認識はなかった。さまざまな情報を耳にしながら正しい判断ができなかったことを、信綱は大いに悔やんだ。

 とはいえ、幕府の老中としては代官に言われたままで済ます訳にはいかなかった。一通り代官の発言が済んだところで、信綱よりも先に忠秋が口を開いた。

「お前たちの言いたいことはよくわかった。今後の参考にさせてもらおう。

 ところでそういうお前たちは、これまでいかなる飢饉対策をとってきたのか、ぜひともこの場で披露してもらいたい」

代官たちはにわかに押し黙った。

「どうした、まさか実情を把握しながら手をこまねいていた訳ではあるまいな」

お互い顔を見合わせた代官たちは、恐る恐る忠秋に返答した。

「それは…私どももかねてから何らかの対策が必要であるとは感じておりましたが、それを実行に移すとなると、ご奉行や老中様方のご了解を得てからでないと先に進むこともできず…」

「そのような理屈は通るまい。現に目の前で飢えに苦しんでいる者がいるというのに、それを放っておいてよいという道理はなかろう。よしんばお前たちが応急処置のため独断で夫食を放出したとして、それをとがめだてする者があったとも思えない。ましてや事前に奉行と話し合う機会はいくらでもあったはずである。昨年のうちに何らかの手を打っておけば、この期に及んで騒がねばならぬことはなかったのではないか」

代官たちは恐縮してうなだれた。

「百姓からの陳情は必ずお前たちのところを通過する。昨秋の時点でこのような事態になることは、お前たちにはわかっていたはずである。しかるにお前たちは、自ら行動に出ることも奉行と相談して問題を提起することもせず、今になって公儀の仕置を批判するという態度に出た。そのことは不届き千万、到底認められるものではない」

予想外の反撃に、代官たちは縮み上がった。忠秋はそれを見て幾分表情を和らげ、代官たちに告げた。

「まあ、今年は一生に一度あるかなきかの飢饉の年だ。誰にとってもはじめての経験である。これほどの事態になると予想できなかったとしても、それを責めることはできまい。だが、こういう状況であるからこそ、百姓に最も近いお前たちの存在は一段と重みを増すことになるのだ。

 我々老中は飢饉のことを情報としてはとらえても、実際にどのようにすればよいか適宜判断して実行することは難しい。そこのところはすべてお前たちにかかっている。お前たちの働き如何で、仕置は良くも悪くもなるのだ。お前たちの責任は限りなく重い。そのことを肝に銘じておくのだ」

最前とはうって変わり、代官たちはかしこまってひれ伏した。

 

 もっとも、代官たちの言っていることに偽りはなかった。彼らの激しい発言も、百姓のことを思えばこそであると誰もが理解していた。信綱たちはそのことを真摯に受け止め、飢えに苦しむ百姓たちを少しでも救おうと、それから寄合に継ぐ寄合に明け暮れるようになった。六月いっぱいまで絶え間なくそれは続けられ、その間いくつもの触れ書きが作成されていった。

 全国各所の高札に掲げられた触れ書きは、実際常識では考えられないほど厳しい内容となった。限られた食糧をこれ以上減らすことがないよう、思いつくことはすべてその中に盛り込んだ。いわく、田畑へのたばこ・木綿・菜種の作付け禁止、うどん・切麦・そうめん・まんじゅうや豆腐など加工品の製造禁止、酒造販売は大都市や主要な道筋では半減、それ以外は禁止、百姓の食物は雑穀を主体とし、むやみに米を食べることは禁止、などなど…。

 その一方で信綱たちは、江戸における米価の高騰を抑えるため上方の蔵米を江戸に回漕させたり、大坂や京で普請事業を起こし、その扶持米で飢人の救済を図ったりした。不眠不休の飢饉奉行たちは誰もがげっそりとやせ細り、体調がまともな者は誰一人いなくなった。飢饉奉行の一人、元江戸町奉行の島田利正などは過労に倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

 だが七月ともなると、このようなことをいくら続けていても何の解決にもならないことを、飢饉奉行たちは気づきはじめた。飢饉の根本的な原因がどこにあるのか、それを解決しないことにはいつまでたっても状況が変わらないことに思い至るようになった。正綱の言っていた「中長期対策」に、いよいよ足を踏み入れる時が来たということであった。実際一月以上もの長きにわたって飢饉のことにかかりきりになっていると、否が応でも農家の現状は見えてくる。信綱たちは百姓のありかたそのものに関心を向けるようになった。

「昔の百姓家といえば、隠居した親に次男、三男などの兄弟夫婦、さらには下男や下女まで含む大所帯であった。それが今では夫婦二人だけの所帯や、独身所帯の小百姓が殊のほか多いことに気づく。そういった者たちは明らかに労働力が不足している。ささいなことで耕作がままならなくなってしまう。彼らをいかに救済するかが、飢饉を乗り切る鍵となるように思われる」

「米を作るのに最も重要なのは水だ。水さえあれば日照りであっても稲を育てることはできる。しかるに現実の水田において、用水の配分は必ずしも公平に行われてはいない。村内の力関係によって水がうまく供給されない田はいくらでもある。従来の水利権にとらわれず、すべての田にまんべんなく水を行き渡らせることが何より大切なのではないか」

「今の農家に必要なことは、これまでの既成概念にとらわれず、新たな秩序を一から構築することではないか。それが真の飢饉対策ではないか」

飢饉奉行は自分たちが飢饉の核心に近づいていることを意識するようになった。百姓が何に苦しんでいるのかがわかるようになってきた。信綱たちの目の前に、生身の百姓がだんだんとその姿を現わしてきたのである。

 七月二九日、このまったく新しい視点から考案された高札が全国に掲げられた。「水が足りているところは足りないところに分け与えよ、人手が少ないため耕作できない小百姓は村全体で扶助せよ」それはかつてない画期的な規定であった。信綱はこの触れ書きに少なからぬ期待を寄せた。

 

 だが、そうした信綱たちの努力をあざ笑うかのように、この年も大凶作となっていった。

 東北では仙台、米沢などほとんどの地域で前年以上に作物がとれず、会津では二〇〇〇人規模の百姓が「大水流」のごとく領内から四方へ逃げ出していると報告された。西国は大雨のため河川が氾濫し、堤防が片っ端から決壊し洪水の被害に見舞われた。北陸も八月まではよさそうであったが、その後の長雨によりやはり作物が実らなくなった。

 関東周辺も、七月の干ばつ、八月の長雨による洪水、それに加えて虫の発生、九月にはしばしば霜が降るといった具合で、手の施しようのない状況が続いた。

 異常気象だけでなく、領主の政策も農家に深刻な影響を与えていた。百姓から極限まで収奪を繰り返した結果、村人たちは意欲を失い田畑は何年もの間荒れ放題になっていた。飢饉は起こるべくして起こったともいえた。

 堀田正盛の領地であった信州南小谷村からは、百姓が幕府に直訴するという騒動まで持ち上がった。南小谷村の百姓たちは領主交代の隙を衝いて、領主を飛び越え幕府に訴える行動に出たのであった。

「我々の村はもとは二九七石余の村高でありましたが、領主の交代ごとに村高を改められ、加賀守(正盛)様の時に四八一石余まで増やされました。我々はその年貢を貨幣で納めるよう申し付けられ、そのうえ他村が納めた一二〇〇俵の米を相場の二倍で買い取ることを強いられました。

 塩・麻・木綿などの現物の代わりに納めた米は、質物として差し出していた鍋・釜・鍬の代価に振り替えられました。当春に拝借した夫食や種もみは年貢の未納分と相殺され、我々はまったく受け取っておりません。そのため田畑はほとんど仕付けができず、わずかに耕作した畑も虫にやられてしまいました。

 餓死者一四七人、身売り九二人、逃走三八軒、死馬八二頭、死牛八三頭。村人の三分の一は逃げ出し、残る百姓はくたびれ果てております。これには庄屋・百姓とも堪忍なりがたく、はばかりながら直訴に及びました」

 正盛は天下に醜態をさらけ出す格好となった。もっとも、それは正盛の領国だけの話ではなかった。程度の差こそあれ、年貢の未納を夫食や種もみの貸し付けによって粉飾せざるを得ないことは信綱や忠秋の所領でも同じだったのである。しかもそれは飢饉発生以前から常態化しており、このたびの凶作は貸し付けた米の量を返済不能になるまで膨れ上がらせたに過ぎなかった。そのことは領主たちにとって頭の痛い問題となっていたが、解決の糸口は一向につかめなかった。

 将軍のお膝元である江戸の状況も、当然のことながら非常に厳しいものがあった。米の値段は平年の三倍まで跳ね上がり、町なかからは蔵米の廉売を求める悲鳴に近い声が挙がっていた。にもかかわらず、信綱たちは米の放出に踏み切れないでいた。上方からは既に米が到着し、いつでも蔵米を売りに出す準備は整っていたものの、今年の作柄が絶望的となった今となっては蔵米をぎりぎりまで温存しておくよりほかに手の打ちようがなかったからである。江戸の町は幕府に対する怨嗟の声が渦巻き、あからさまに幕政を批判する落書まで現われた。

 

 もっとも、幕府のとった政策がどれも失敗ばかりというのでもなかった。中でも目覚しい成果を上げたのは蔵役人の粛正であった。それによって、正綱が指摘していた米の流通に大なたが振られることになったのである。

 蔵役人を粛正した最大の理由は蔵米の横流しにあったが、その手口はこうであった。まず蔵役人は商人と結託し、旗本や御家人に支給する蔵米の手形を商人に買い取らせる。米は商人のものとなるが、その際蔵役人は蔵にある米を引き渡す代わりに、手形をまだ米が蔵に納入されていない「御蔵不詰米」に書き換えて商人に渡す。それによって商人は誰にも悟られることなく米を買い占めることができ、米の相場を容易に釣り上げることが可能になる。そうして稼いだ利ざやを蔵役人と商人とで山分けする。これはまぎれもない背任行為であった。

 さらに蔵役人は、手形の買い取り価格を幕府の公定価格に据え置いたり、百姓が米を蔵に納入する際になじみの商人を仲介に立たせたりと、商人との間に完全な癒着の構造を作り上げていた。

 この悪質なやり口に家光はかんかんになって怒り、蔵奉行から代官、手代およびその子らに至るまで六五人もの関係者を死罪に処した。飢饉奉行が最初に寄合を開いた時から二月足らずの早さであり、さらには蔵役人の摘発から一〇日もたたない間の、まさに電光石火というべきあざやかな処置であった。これほどまでの早業は勘定方の事情に精通した者でなければできることではなく、しかも奉行級の役人たちの密室の悪事をあばけるだけの実力がなければかなわないことであった。それが可能となったのは、正綱の存在あってのことであった。正綱は寄合の直後から蔵米に関する情報収集に乗り出し、いち早く蔵役人の不正をつかんだのである。この処分によって、幕府はかなりの程度威信を回復することができた。

 

 もっとも、それによって飢饉の趨勢が変わるまでには至らなかった。年の瀬が近づくにつれ、飢饉は再び牙をむいて人々に襲いかかってきた。一一月に領国から戻った忠勝は、早速国許に夫食、種もみの貸し付けを命じ、都市に流入する飢人の救済を指示した。

「正月から二月、三月にかけて、飢人がことさら多く出るであろう。年寄たちの間でよくよく相談をし、飢人には粥を施すなどして餓死する者が出ないように心がけよ。

 粥の作り方は次のとおり。稗一斗六升を粉にして六升四合、麦八升を粉にして四升八合、荒め・干菜・きょうぶなどを刻んで一斗四升、塩四升、これを水一石四斗で煮て五〇〇杯、一日二食として二二〇人分の食糧とせよ。

 たとえ二〇〇〇人に一五〇日間粥を食わせたとしても、銀に換算すれば三〇貫か四〇貫程度のわずかなことである。それよりも領国から餓死者が出たり、飢人が他国へ出たりすることの方がよほど重大な問題になりかねない。領内の飢人は必ず内々で養い、他国の飢人は決して領内に入れないよう心して対処せよ」

 忠勝をもってしても、自国の領民の救済で手一杯という状態であった。いわんや凡庸な領主のもとでは大量の百姓が逃げ出すのを抑え切れるはずがなく、信綱たちは天井知らずに増えるであろう飢人の江戸流入に備えなければならなかった。

 それも単に米の準備をするだけでなく、米を配給するのであればいつどこで行うのか、飢人の身柄を拘束し、身元を確認して本国の大名家に引き渡すまでの手続きはどのように行うのか、身元がわからないままの飢人はどうするのか、そういった諸々のことを、短期間のうちに細部まで詰めておかなければならないのであった。

 信綱たちはそれに加えて、全国の天領および旗本領にも目を光らせなければならなくなった。旗本や代官に対し百姓への種もみの貸与を命じ、余裕がない旗本には幕府が支援をすると約束したからである。信綱たちは多忙の中、散在する旗本領の状況にも注意を傾け、支援のための米を手配せざるを得なくなった。米の備蓄自体は、不正を働いた蔵役人から没収した分と、上方から回漕した分を合わせて多少の余裕を生じていたが、それだけで足りるという保証はなく、しかも上方の蔵米を引き揚げたことにより大坂や京では一段と米不足が進行するという悪循環に陥っていた。

 天領からの年貢納入は当然のことながらはかばかしくなく、むしろ百姓たちによる年貢の減免闘争が全国各地で多発していた。信綱たちは一瞬たりとも心休まる暇がなかった。

 一一月八日、信綱と忠秋は家光から呼び出された。

「お前たち二人はいかにも体調が悪そうに見える。今ここでどちらかが病に倒れるようなことがあればそれこそ一大事だ。あまり根を詰めることはせず、少しは身体をいたわって養生に努めよ。当面の間、仕置は二人交代で行うように」

 はた目にも信綱たちは疲れ果てていた。飢饉がこれから最大の山場を迎えるその時に、信綱たちは家光の言うとおり一時的にせよ第一線から離脱せざるを得ないほど身体がぼろぼろになっていた。

 

 年が明けた寛永二〇(一六四三)年、飢饉はいよいよその本性をむきだしにしてきた。

 食物がついに底をついた全国の百姓が、一万人規模の飢人となって江戸に押し寄せてきた。それらの者はおしなべて商業の中心である日本橋に殺到した。そこでは何人かの富裕な町人が粥の施行をしており、飢人たちはそのわずかな食糧を求めて日本橋を目指したのであった。日本橋は今や飢人に占拠された観さえあった。とはいえ、富商たちも飢人すべての腹を満たすほどの粥を用意できるものではなく、結局何人もの飢人が毎日そこで力尽き息絶えることになった。引き取り手のない遺体はそのまま川へ投げ捨てられ、日本橋川は際限なく死体が浮かび目も当てられないありさまとなった。

 幕府は町奉行の主導のもと、ここ日本橋で飢人の囲い込みを行い、本国に送還させることにした。逃げ隠れする者も多かったが初日だけで八〇〇人を捕らえ、そのうち身元が明らかになった三〇〇人を領国の大名家に引き渡した。その中には正盛の領地である下総佐倉の百姓三六人も含まれており、正盛はまたもや世間に恥をさらすことになった。身元がわからない飢人は日本橋近くの馬喰町に建てた小屋に収容し、そこで一日三合の米を支給した。

 同じ頃京都でも、数回にわたり飢人の身元調査が行われた。初回、二回目と多くの飢人を引き渡された井伊直孝は、苦り切った口調で愚痴をこぼした。

「毎度毎度のこの不始末だ。これで我々の無仕置のほどが天下に知られることになった。まったくもって困り果てたものだ」

 三都の中では京都が最もすさまじい飢饉となっており、洛中洛外の寺院は夜露をしのぐ数え切れないほどの飢人で埋めつくされた。家の軒下には赤子が捨てられ、幼児は道端に放たれた。その多くは養われることなく餓死し、死んだその肉を野犬が食らった。

 直孝同様、京都から飢人を引き渡された忠勝は神経をぴりぴりと尖らせ、国許へ送る書状も日を追ってとげとげしさを増していった。

「こうなることは去年のうちからわかっていた。だからこそその対策についてもきちんと申し付けておいたのに、お前たち年寄は今までいったい何をしていたというのだ。

 百姓に貸し与える夫食にしても、既に十分に行き渡ったとか、三分の二に貸したところで足りなくなったとか、これほどまでは必要なく余っているとか、何の報告もよこさないではないか。

 いつもより五〇〇〇俵多く用意した種もみについても、これでは足りぬとも何とも言って来ない。たとえ今はまだ全体を把握できなくとも、心がけ次第で推量することは可能であろう。それに、年貢を皆済した村には正月からでも種もみを渡してよいと言っておいたのに、どこそこの村は皆済したので種もみを貸し与えたとも言って来ない。

 別に渡した一万五〇〇〇俵の米は何のためにあると思っているのか。このような事態を見越して、貧民層を救済するために用意したものであるぞ。この米を利用して、田畑を持たない者にこれだけ分け与えたとか、乞食となっている者を救うためにこれだけ使ったとか、今日に至るまで何の説明もない。

 領国でも餓死したり赤子を捨てたりする者が数多くいると聞く。この米を使ってそうした者を救うことはいくらでもできたはずである。

 敦賀で起きた火災についても、形ばかりの報告をよこすだけで注進の一つもない。その報告にしても、詳細は追って説明するとだけあってさっぱり要領を得ない。

 私は病気がちの身であるが、これではわざと世話を焼かせて病死させるつもりなのかと、邪推せざるを得ない」

 忠勝が口やかましくなるのも無理はなかった。が、それは仕方のないことでもあった。日本全土が異様なまでの閉塞感に覆われていた。領国経営が計画どおりにいっているところなど、日本中どこを探してもなかったのである。

 厄介なことに、このような状況にありながら富める者は困窮した小百姓の農地を次々と買い上げ、目に見えないところでますます力を着けていた。これは幕府にとって最も警戒すべき兆候であった。領主以外の者が力を持つということは、いずれは領主や幕府に匹敵する勢力となり得ることを意味する。それは戦国の世を思わせる、力と力の衝突に発展する危険性を多分にはらんでいた。

 二月末、信綱たちは百姓に田畑の売買を禁止することでこの動きを封じ込めようとした。「田畑永代売買禁令」である。信綱たちはそれによって、足取りの不確かな小百姓の経営を何とかして持ちこたえさせようとした。土地の寡占所有だけは阻止せねばならないとの思いから、なりふり構わず小百姓を維持しようと考えたのである。信綱としては、悪夢のように次々と襲いかかる災厄を振り払うことで頭がいっぱいとなっていた。

 

 だが、たとえ悪夢といえども夢はいつかは覚める時が来る。三月に入り百姓に夫食が行き渡ると、飢饉奉行たちにもようやく一服感が訪れるようになった。稲の作付けはこれからというものの、とりあえず麦はよく育ち、百姓が餓死する恐れは遠のいた。一年近くにわたる緊張の連続でくたくたになっていた信綱も、ほっと一息つくことができるようになった。やっと現実の世界に戻ってきたという、奇妙な安堵感さえこみ上げてきた。

 もちろん信綱にとって、毎日が多忙であることに変わりはなかった。この頃になると種もみの貸与が本格的にはじまり、荒地解消に向けた農業指導にも本腰が入れられるようになっていた。飢饉に痛めつけられた村を立て直す作業は、今まさに緒に着いたばかりであった。

 信綱はそのかたわら、日光山奥院に建立される相輪塔の下検分のため、三月末に日光へ出向くことを命じられた。国家安寧を祈念して家光が発願し、天海が具現化した平和の塔である。万に一つの過ちも許されない難しい工事といえた。現地入りした信綱は手落ちのないよう、細かいところまで注意して廻った。

 幸い塔の普請は順調に進んでおり、ひとまず安心した信綱は江戸に帰る途中川越に立ち寄ることにした。領国の飢饉の状況については国許から定期的な報告を受けてはいたものの、代官たちから言われたように自分の眼でそれを確かめなければ本当のことはわからないと考えたからである。一抹の不安を抱きつつ、信綱は領国に足を踏み入れた。

 信綱が目にした川越は意外なほど落ち着いていた。むしろ活気に満ちている様子ですらあった。村人の表情は明るく、みな嬉々として耕作にいそしんでいた。五年前の大火の傷痕が残る町なかも復興に意欲的に取り組んでおり、暗い印象はどこにも感じられなかった。筆頭家老和田理兵衛の説明を受けながら、信綱は「よくぞここまで難局を切り抜けてくれた」と感謝した。川越も飢饉と無縁ではなかったはずであるが、理兵衛を中心に領内はよくまとまり、飢饉による混乱を最小限に食い止めていた。信綱にとってそれは実にありがたいことで、自分が心おきなく国政に専念できるのも家老たちがしっかりしているおかげであるとしみじみ感じることができた。

 信綱が川越を訪れたのには、実はもう一つ理由があった。五年前に公職を退いた実父久綱が、川越で余生を送っていたからである。相次ぐ難問の処理に忙殺されていた信綱は、何年もの間久綱と会話らしい会話を交わしたことがなかった。久綱の引退に際してもねぎらいの言葉ひとつかけることができず、久しぶりに久綱と会うこと自体が信綱にとって喜ばしいこととなっていた。

 六九歳で退任した時の久綱は、関東四八万石を統括する地方奉行にまでなっていた。在任中はあまり表に出ることはなかったものの、あやふやな言動は一切なく最後まで職務を全うした。その久綱にとって、川越はかつて父秀綱とともに代官を勤めた思い出の地であり、領民たちは久綱のことを今でも「代官様」と呼んで慕っていた。久綱の住む町も「代官町」と名づけられ、そんな川越を久綱は気に入り、終の棲家として深く腰を据えていた。

 その川越を訪れた信綱を、久綱はいつものようににこにこと出迎えた。幼少の頃にはこのような父の物腰に物足りなさを感じていた信綱であったが、今となってはそれさえ頼もしく思えるようになっていた。父の人徳を素直に認められるほど、信綱自身が成長したということでもあった。

「父上、お元気そうでなによりです。その様子ならまだまだ現役が務まりそうですな」

「いやいや、あのような激務ではもはや一日たりとも身体が持ちはせぬ。とてもではないが伊豆殿のように務まるものではない。ましてや昨今の大飢饉ときては、体がいくつあっても足りぬであろうよ」

「まことに飢饉というのは恐ろしいものだと、身をもって知りました。なにしろ自分たちが起こしたものでないだけに、収め方がまったくわからないのですから弱りました。それも讃岐殿が口癖のように『五〇年か一〇〇年に一度』と言うほどの飢饉でしたから、誰もがお手上げといった状態でした。私たちなりに努力はしたつもりですが、それが良い結果を生まなかったことは返す返すも残念です」

「その伊豆殿の見立てでは、飢饉が起こった最大の要因は何であったと思われるか?」

「はい、これは私も含めた幕閣たちの共通意見なのですが、百姓に対する従来からの行き過ぎた搾取にここ二年間の悪天候が重なり、そこへ村内に存在していた諸矛盾が修復の障害となって立ちはだかったことが、これほどの惨事を招いた原因であろうととらえております。いわば複合的な要因によって事態が深刻化し、解決が困難になったものと考えております」

「なるほど、たしかにそのとおりであろう。だが、それですべてのことを説明したことにはなるまい。たとえば百姓からの搾取というが、領主たちには領民を極度に疲弊させることは避けようという意識が働いていたはずである。悪天候のことにしても、もともと百姓たちはそれに対処できるくらいの智恵は備えているものである。村内の諸矛盾といっても、その一方で矛盾を調整するさまざまなしくみも村内には存在している。つまり問題にすべきは、なぜそういった本来の機能が低下もしくは麻痺してしまったのかということではないかと思う」

「父上は、それが何であるかをご存知なのでしょうか」

「うむ、私も引退して庶民の生活を間近でじっくり見られるようになり、はじめてわかったことがある。それについては伊豆殿にも知っておいてもらった方がよいと考えていたので、この機会にそれを伝えておきたいと思う。だがその前に、近年における村内の大変革のことを話さねばならぬであろう」

久綱はきちんと座り直し、つられて信綱も居住まいを正した。

「伊豆殿も既に気づいていると思う。今の村内に大勢の小百姓がいることを。そして彼らが零細な田畑を耕し、ぎりぎりの生活で暮らしていることを。それら小百姓は自然と今日のように増えたのではない。太閤秀吉殿が過去に例を見ない革新的な『検地』を実施して以来、爆発的に増えるようになったのだ。

 太閤殿が戦巧者であったことは論を待たないが、同時に仕置巧者であることもまた揺るぎない事実であった。太閤殿は農村にはびこる土豪の勢力を抑えなければ乱世を正すことはできないと見抜き、彼らを農村から引き離すことを考えた。土豪たちは百姓から年貢を搾取するだけでなく、百姓たちを全人格的に支配し酷使していたからな。

 太閤殿は土豪を強制的に城下に住まわせるとともに、現実に田畑を耕作している百姓たちに土地を分け与える検地を断行した。そうすることによって百姓に直接年貢を納めさせ、土豪たちが好き勝手に収奪を繰り返すことができないようにしたのだ。徳川家もその方針は受け継ぎ、百姓を名請け人とする検地を続行した。

 時あたかも日本国中で新田の開発が盛んに行われていた。社会が安定するにつれて領主たちは内政に力を入れるようになり、百姓たちの間でも米の増産に対する意欲が高まっていた。大規模な新田の開発に取り組む条件が揃っていたのだ。それは同時に、百姓たちにとって自らの耕地を手に入れる機会が格段に増えたことを意味していた。百姓の子弟たちは主家から分家し、自分のものとなった新田を耕作するようになった。下人たちも主人との粘り強い交渉の末、あるいは最後の手段として他国へ逃走するなどして、次々と新田を手に入れていった。結果として、少なくとも外見上はかなりの数の百姓が独立した存在となった。それが今見る小百姓の大膨張なのだ」

 話の展開がいまだに読めない信綱を見つめながら、久綱は「さて」と一息ついて話を続けた。

「独立はしたものの、小百姓の生活は苦しいものであった。開発したばかりの新田は決して条件の良い土地ではなく、まともに収穫ができるようになるまでは石ころや木の根がごろごろしている荒地を地道に整地する必要があった。それでも百姓たちは、ようやく手に入れた自分の田畑に必死にしがみつき、喜んで耕作に励んでいた。私が代官を勤めていた頃の農村がまさにそうであった。みな生き生きとした顔で作物ができるのを楽しみにしていたものだ。

 そんな小百姓たちに、自らの意に反して田畑を離れざるを得ない事態がたびたび襲ってきた。領主による夫役の徴発がそれだ。実際に夫役を申し付けられたのは負担能力のある大百姓であったが、その大百姓たちはかつての一族郎等である小百姓に負担の一部を押しつけた。新田にまだまだ手を加えなければならない大切な時期に、土地から引き離されることは小百姓にとって致命的なことであった。だが、それを拒むことは不可能であった。独立したとはいえ、小百姓たちはまだまだ多くのことを主家に依存していたからだ。彼らは泣く泣く夫役に徴発されていった。

 領主たちもそれがどういう結末をもたらすか、わからなかったはずはない。できることならそれを避けようとしたであろう。避けることのできない事情があったということなのだ」

 信綱は「あっ」と小さな声を挙げ、苦痛にゆがんだ表情で喉の奥から声を絞り出した。

「天下普請、ですな…」

久綱はじっと信綱を見据え、そして静かに信綱に告げた。

「そうだ。飢饉の本当の原因は、実は天下普請だったのだ。領主が無理を承知で百姓から過酷な年貢をを取り立てたのも、新田を放置させまでして百姓を夫役に駆り出したのも、公儀から課された天下普請という名の『軍役』を完璧にこなさなければ、自らの存続が危ういとわかっていたからだ。

 天下普請を務めた小百姓たちは、自国へ返るや自分たちの田畑が元の荒地に戻っているのを目にする。そんな彼らに、領主は容赦なく年貢の納入を迫る。やむなく百姓たちは我が子を身売りし、年貢の支払いに当てる。自分の子を売りに出さねばならない親の辛さは、同じく人の親である伊豆殿にもよくわかるであろう。それでも年貢を皆済できればまだましで、納め切れなかった百姓はせっかく手に入れた田畑を売りに出さねばならなくなる。公儀がいくら田畑売買の禁止を決めたところで、従えないものは従えない。触れ書きを横目で見ながら、なけなしの田畑を売りに出す。

 さらに困窮した百姓は、今度は妻を売り、ついには自分自身をも身売りする。そうして元の従属身分に戻っていくのである。百姓たちは生きる誇りも希望も失い、働く意欲を急激に失っていく。これが飢饉が起きた当時の村の姿であったのだ」

 信綱は頭を殴られたような衝撃を受けた。ほかならぬ自分が家光に進言し、導入のきっかけを作った天下普請である。公儀のためによかれと思って提案したその天下普請が、日本全土を奈落の底に突き落とし、多くの小百姓に立ち直ることができないほどの苦しみを与えていたのである。仕置を誤ることの恐ろしさに、信綱は吐き気を催すほどの罪悪感を覚えた。うつろな瞳は空をさまよい、何物もとらえることができなかった。

 久綱は大きく息を吐き、それからぽつりとつぶやいた。

「伊豆殿よ、百姓は物ではない。痛みも苦しみも感じる人間なのだ。国を活かすということは、彼ら一人ひとりを活かすことにほかならない。私は伊豆殿に、せめて彼らを一個の人間として扱ってもらいたい。彼らから喜びや生きがいを奪うことがないようにしてほしい。それが伊豆殿に望むすべてだ」

信綱は声も出ず、ただ呆然とうなずいた。

 

 五月になった。種もみが行き渡った水田には見事に稲の苗が並んだ。五月晴れの村にはさわやかな風が吹き渡り、町にも以前のような平穏が戻ってきた。

 ようやく飢饉の山場を乗り越えたと判断した信綱は、飢饉奉行たちからの報告をまとめて家光に伝えることにした。家光の方でも最悪期を脱したという感触をつかんでおり、信綱の報告を心待ちにしていた。家光の前に正座した信綱は、抑揚のない口調で説明をはじめた。

「ただ今のところ、農村も都市も落ち着きを見せております。麦の出来はここ数年で最も良好のようです。種もみは各農家に行き渡り、荒地の進行に一定の歯止めをかけております」

「そうか、ご苦労であったな」

満足そうな家光に対し、信綱はなお一層無表情な顔をして話を続けた。

「外様大名は飢饉に乗じた不穏な動きを見せておりません。察するところ、これには参勤交代が大きく寄与しているものと思われます。公儀に対抗できるだけの余力は、外様大名にはもはや残されていないように見受けられます」

「うん?」

「信頼すべき筋からの情報によりますと、参勤交代に伴って諸大名が支出する経費、すなわち江戸と国許の往復にかかる旅費や江戸滞在期間中の生活費、江戸屋敷の建設費や維持費、その他饗応費や贈答費など諸々を合算すると、一国の総支出の半分にも達するとのことです。大名たちにとって江戸での暮らしは国許と比べものにならないくらい贅沢なもので、領国の年貢の収納だけでは支出をまかない切れず、足りない分を商人からの借財でまかなっているとのことです。またその利息も莫大な金額に上っている模様です。外様大名の力を抑えるのに、参勤交代ほど適した方策はほかに見当たらないのではないかと思えるほどです」

「伊豆守よ」

「はっ」

「お前は何か私に言いたいことがあるのであろう」

「は?」

「顔にそう書いてある。お前は思い詰めるとまばたきもせずに相手を見つめる癖がある。今のお前がまさにそれだ。そしてお前が言いたいのは、おそらく天下普請のことであろう」

信綱はのどから心臓が飛び出さんばかりに驚いた。額からは冷や汗が吹き出し、手のひらはじっとりと汗ばんだ。あまりにも心の奥底を見透かされた気がして、さしもの智恵伊豆もどのように返答したらよいかしどろもどろになった。それを見た家光は笑みを浮かべ、柔らかく信綱に語りかけた。

「驚くことはない。また案ずることもない。天下普請のことはもうかれこれ以前に右衛門大夫(正綱)から聞かされていたのだ。右衛門大夫も今のお前とまったく同じ顔をして、この私に天下普請を中止するよう迫ったものだ。お前の今の様子を見ていて、私はすぐに右衛門大夫のことを思い出したよ。

 右衛門大夫が忠義者であることは私もよく知っている。故なくして私に物申すようなことはしない。現にその時も天下普請が百姓をいかに苦しめているかという右衛門大夫の説明は私にもよく理解できた。それ以来私は天下普請を取りやめにしている。結果として飢饉を回避することはできなかったものの、これからも本当に必要な場合を除いて天下普請は封じ手にしておくつもりである。国の基本である百姓をむやみに苦しめることは、私にとっても本意ではないからである。お前の言うとおり、外様大名の統制は参勤交代だけで事足りるであろう。

 加えて現在、右衛門大夫を中心に勘定方の抜本的な構造改革が進められている。代官によって管理されている年貢の収納は、今後は勘定頭を頂点とする管理体系に一元化されることになる。そうすることで代官による恣意的な搾取をかなりの程度抑えられると期待している。飢饉の再発を防止するのに、この改革は必ず役に立つはずである。

 私は右衛門大夫の先見性と行動力を高く評価している。そのことに感謝こそすれ、否定するつもりはまったくない。これによって飢饉を未然に防ぐことができるのであれば、誠に結構なことではないかと思う」

「上様…」

 信綱は胸がつまり、それ以上声が出なくなった。両目からは大粒の涙がぽろぽろとあふれ出した。それを見た家光は温かい眼差で、苦笑混じりに言った。

「まったく大河内家の出の者は、揃いも揃って一途な者ばかりだな」

 

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