前頁目次次頁

 

其の九    鎖国

 

 一五八一年、イスパニアの支配下にあったネーデルランドの新教徒が独立を宣言し、オランダを建国した(以下、世界史における表記は「和蘭」ではなく「オランダ」とする)。当時イスパニアと対立していたイギリスはオランダを支援し、一五八八年にはイスパニアの無敵艦隊に壊滅的な打撃を与え、それによってオランダは事実上の独立を達成した。

 生まれたばかりの国家を軌道に乗せようという熱意にあふれていたオランダ人は、自然環境に恵まれない自国から海外に目を向け、貿易に活路を見出そうとする。だが、ヨーロッパ最大の貿易港アントワープはイスパニアに占領されており、東方貿易の拠点であるリスボンもイスパニアに封鎖されていたため、彼らは当時「東インド」と呼ばれていた、喜望峰からマゼラン海峡に至る海域へ直接進出する道を選ばざるを得なくなる。

 数多くの冒険的な航海を経た末、彼らはついに東インドまでの安定した航路を発見する。当初は複数の弱小な会社によって経営されていた東インド貿易も、国策的な統合を繰り返した結果、一六〇二年に「連合オランダ東インド会社」という強大かつ先進的な組織の誕生となって開花する。すなわち彼らは東インド会社を、複式簿記を採用し、期間計算によって利益を算出し、有限責任の出資者に配当を行う世界ではじめての「株式会社」としたのであった。しかもこの会社は東インドにおける貿易独占権のみならず、司法権、立法権、徴税権、通貨発行権、さらには条約締結権や戦争遂行権までオランダ連邦議会から付与されており、それは一つの国家とさえ呼べるものであった。

 オランダが東インドに求めたのは、言うまでもなくヨーロッパにおいて高値で取引される香辛料であった。東方貿易最大の商品である胡椒をはじめ、モルッカ諸島のグローブ、バンダ諸島のナツメグといった香料諸島の特産物を独占的に手に入れるため、東インド会社は設立以来精力的に活動した。一六〇五年、武力によってポルトガルを香料諸島から追い出し、一六〇九年には香辛料の集散地バンタム(現在のジャワ)に商館を建設して東インド政庁を置き、そして一六一九年に東インドの中心都市ジャカタラを占領して(のちにバタヴィアに改称)その地に東インド政庁を移した。

 「東インド政庁」とは東インド会社におけるアジア全域の統括機関のことで、船舶の運行はそこで一元的に管理された。同時に政庁は各地に分布する商館に会計帳簿の提出を義務づけ、その販売実績を取りまとめてオランダ本国に報告した。本国の重役会はその報告をもとに東インドへ輸送する銀の総量を決定した。当時香辛料を手に入れるには、香料諸島で最も需要のあるインド産の木綿と交換するのが一番確実な方法であったが、そのインド綿を買い付けるために、政庁は本国から大量の銀を調達しなければならなかったのであった。

 日本は最初からオランダに注目されていた訳ではなかった。一六〇九年、平戸に商館が設立されたとはいえ、それは貿易拠点というより東シナ海上での強奪品を保管するための貯蔵施設といった位置づけであった。だが、やがて彼らは日本が保有する銀の実力に目を向けることになる。海難事故や海賊などの危険を極力回避するには、同じ海域内で銀を調達できた方が都合が良かったし、何より本国から銀の流出を抑えるよう迫られていた東インド会社にとって、世界の三分の一の銀を保有する日本は貿易相手国として他に代えがたい潜在力を備えていたからであった。

 一六二二年九月、時の平戸商館長レナルト・カンプスは、日本市場の調査報告書に日本との貿易の重要性を訴える意見書を添えて本国に提出する。それは正確な分析に基づくすぐれた報告であった。以来本国も日本への関心を急激に高めていく。

 とはいえ、日本と継続的な取引をするためには、オランダとしても解決しなければならない課題が存在していた。それはオランダが、日本の銀と交換できるだけの商品を安定的に供給できるかという問題であった。端的に言えば、日本最大の輸入品である明の絹をいかにして手に入れるかということであった。当時明は海禁政策を採用しており、日本は明から直接絹を入手することができず、やむを得ず明と通商があったポルトガル(南蛮)船や明の私貿易船から絹を購入していた。中でもポルトガル船が運んでくる絹は質量ともにきわめて充実しており、日本が切支丹の宣教師を疎ましく思いながらもポルトガルと手を切れない最大の要因となっていた。言い換えればオランダは、何らかの方法でポルトガルに取って代われるだけの絹の貿易拠点を手に入れる必要があった。

 既にオランダはこの年の四月に、休戦協定の切れたポルトガルを相手にその拠点であるマカオへの攻略を試みていた。が、この時はポルトガル人による必死の防戦により作戦は完全な失敗に終わっていた。続いて七月、彼らは次なる拠点を求めて澎湖島へ進出し、そこで要塞の建設をはじめた。ところがこれも明の官憲にさえぎられてしまった。オランダはやむなく台湾へと移り、一六二四年九月になってようやくそこで明との出合貿易の拠点を確保することに成功した。

 明の絹を手に入れたことで、オランダにとって日本の銀、インドの綿、香料諸島の香辛料を結ぶ一本の太い線が描けるようになった。彼らはついに日本市場への本格的な参入に踏み切った。

 日本に対するオランダの接近は、このような当時の世界情勢の中で戦略的に行われたものであった。もちろんそのことを信綱は知らない。当時の日本人ですべての事情に通じている者は一人もいなかった。だが好むと好まざるとに関わらず、日本は海外および国内の動向に激しく揺さぶられながら行動を決せざるを得なくなる。信綱はその真っ只中に身を置いていた。

 

 寛永一五(一六三八)年三月一六日、信綱は後事を託して原城を後にした。行く先は長崎、そこで長崎代官の末次平蔵に会うためである。平蔵が単なる幕府の役人ではなく、自ら大型船を仕立てて台湾で絹を買い付けるほどの豪商であることはよく知られていた。そしてその実力が、平蔵の類いまれなる政治力に依っていることも誰もが認めるところであった。上役である長崎奉行の動きを巧みに牽制したり、南蛮人や和蘭人に彼らのとるべき行動を示唆したりすることにかけて、彼の右に出る者はいなかった。幕府の和蘭に対する心証を良くするため、商館長クーケバッケルをして和蘭艦を原城の攻撃に参加させたのも、ほかならぬ平蔵であった。切支丹の攻城戦を制したばかりで心身ともに疲れ切っていた信綱が、それを押して平蔵を訪れたのにはこうした背景があった。

 平蔵は商人らしく、恰幅の良い体格に抜け目のない眼光で信綱を丁重にもてなした。平蔵の屋敷で一揆鎮圧を祝した宴席も設けられた。とはいえ、事実をありのままに話すことが自分にとって必ずしも得策ではないと心得ている平蔵は、慎重に言葉を選び自分からはなかなか口を開かなかった。

 対する信綱は単刀直入に平蔵に語りかけた。今さら訪問の意図を隠すつもりはなかった。ならば遠慮や駆け引きのない真っ向からの対話が最善の策になるであろう、と信綱は直感したのであった。宴もそこそこに、信綱は話の本題に切り込んだ。

「平蔵よ、私がなぜお前を訪れたのか、お前にはもうわかっているであろう」

「いえ、恐れながらまったく存じ上げません」

「そのようなことはあるまい。ひとつお前の考えを述べてみよ」

「本当に想像がつきません。あえて申せば、和蘭のことでございましょうか…」

「そのとおりだ。そしてお前は、私がお前に何を求めているかもわかっているな」

「いえ、それも私には思い当たる節がありません」

「私はお前を、平戸の和蘭商館に同行させるつもりでいるのだ」

「……」

「公儀は早晩、南蛮国と手を切り和蘭国と手を結ぶことになる。少なくとも南蛮人が今までどおりの待遇を受けられなくなることは間違いない。だが、片や和蘭も江戸城内において手放しで迎え入れられるまでには至っていない。果たして和蘭に我々が期待するだけの能力があるのか、私を含め半信半疑でいるのが現状だ。

 そこでまず老中である私が直接商館の内部を視察し、江戸城内でその結果を報告すれば、和蘭理解の一助にはなるであろうと考えたのだ。

 お前には商館の案内役を勤めてもらう。私が和蘭に関して抱いた疑問をその都度お前に投げかけ、和蘭の事情に詳しいお前の口からその答えを聞き出そうという算段だ」

「そういうことでしたら、私ごときではなく長崎奉行とご一緒された方がよろしいかと存じますが…」

「この役目はお前以外にはあり得ない。たしかに職制上は奉行の方がお前より上であるし、商館を案内するだけであれば他の者でも用は足りるであろう。だが、私がお前に望むのはそれだけではない。お前を見込んで演じてもらいたい役回りがあるのだ」

「……」

「長崎における最有力者のお前が、老中の私と連れ立って和蘭の商館に出向いたとなれば、周りに与える影響は計り知れないものがある。『南蛮の時代はもう終わりだ。これからは和蘭の時代がやってくる』ということを、何にも増して内外に知らしめる効果があるというものだ」

「とはいえ、ご奉行を差し置いて代官の私が参るというのも…」

「老中である私が決めることに、奉行が口をはさむことはあるまい。それともお前は何か都合が悪いことでもあるのか」

「いえいえ、そのようなことはございませぬが…」

「まさか南蛮に気兼ねして、そう申しているのではなかろうな」

「どうしてそのようなことがありましょうか」

平蔵は気色ばんだ。額にはうっすらと脂汗がにじんでいた。信綱は平蔵の顔をじっと見つめ、抑揚のない低い声で平蔵に告げた。

「平蔵よ、お前が公儀の禁制を破って南蛮船への投銀(投資)を行っていることは、遠く江戸にまで鳴り響いているのだ。お前を和蘭商館に行かせようとするのも、お前を南蛮から引き離す狙いがあるからだ」

平蔵ははっとして信綱の目を見た。信綱は厳しい視線で平蔵を見返した。が、すぐに表情を和らげ、静かに話を続けた。

「まあ、投銀の禁止自体は、南蛮に対する禁制というよりは商人たちへの警告の意味合いが強い。損失覚悟の自己勘定というのであれば、あえてお前の投銀を止めるつもりはない。ただし、そのことが公儀の方針に背いていることは忘れてならない。そしていま挙げた理由から、お前は平戸行きの話を拒むことはできない。よいな」

 平蔵は観念したようにがっくりとうなだれた。三年前に日本船が海外へ渡航する道を閉ざされてからというもの、平蔵は禁じられていることを承知で南蛮船への直接投資を行っていたのであった。

 

 三月二五日、信綱は平蔵をはじめとする長崎奉行所の役人多数を率いて平戸に到着した。商館の前は立錐の余地がないほどの来訪者で埋めつくされた。

 商館長クーケバッケルが江戸に参府中のため、別の商館員が信綱を商館へと迎え入れた。ものものしい調査団の到来に、和蘭人全員が信綱来訪の意気込みをひしひしと感じていた。もっとも、幕府の高官である信綱に自分たちの実力を見せつけておくことはあながち無意味なことではないと彼ら自身も考えており、商館員たちは進んで自分たちの持つ最高のものを披露しようと努めた。

 入館早々、信綱は大砲の試射を商館員に要請した。原城攻略時に和蘭艦が用意できなかった臼砲の威力を、実際この目で確かめてみたかったからである。商館員は快く申し出に応じた。

 試射は二か所で行われることになった。商館の目の前に配備された臼砲は海中の岩場を狙い、もう一つの臼砲は海峡を隔てた対岸を標的とした。発射の準備が整い、商館員の合図に従って実弾による射撃訓練が開始された。

 二つの臼砲から交互に砲弾が発射され、弧を描いた弾丸ははるか彼方の標的に突き刺さった。大音響とともに砲弾が炸裂し、着弾地点の付近を跡形もなく粉砕した。爆発と同時にすさまじい爆風も巻き起こり、その余波は信綱たちのいるところにまで届いた。

 信綱はその破壊力に肝をつぶした。やはり直射砲を見ていただけでは和蘭の実力を見誤るところであったと痛感した。日本にはこのような兵器は存在すらしなかった。

 この臼砲には砲弾の内部に火薬を仕込んだ、いわゆる「榴弾」が搭載されていた。直射砲の弾丸が単なる鉄のかたまりであるのに対し、その破壊力の差はけたはずれであった。そのことは和蘭人が、直射砲に数段勝る武器を製造する技術力を有し、なおかつ計算どおりに火薬を制御できる理論をも兼ね備えていることを示していた。

 試射を見学した後、商館員たちは信綱と平蔵を商館長室に誘い、珍しい酒や砂糖漬けの果実などでもてなした。臼砲の威力が想像以上であったために、信綱は十分に満足した様子を見せた。その後は互いの生活習慣の違いなど、たわいのないことで会話を弾ませた。

 信綱たちがくつろいでいる間にも、同行した奉行所の役人たちは商館の中を隅なく調査した。彼らは執務室から倉庫、さらには個人の居宅に至るまであらゆるところを見て回った。商館員たちは誇らしげに各施設を案内した。特に彼らの自慢は新築して間もない耐火倉庫であった。長さ一〇三フート(約三一・二メートル)、幅三九フート(約一一・八メートル)、高さ二四フート(約七・三メートル)の堂々たる石造りで、破風に取り付けた巻き上げ機で積荷を二階まで吊り上げる仕掛けが施されていた。役人たちはしばらくの間、その頑丈な倉庫を呆然と見上げていた。

 耐火倉庫については信綱も商館員から直接説明を受けていた。昨年末に完成したばかりのこの倉庫はあらゆる天候、放火、強奪にも耐えられるように設計されており、東インド会社の中でも屈指の規模と設備を誇るとのことであった。商館員はさらにもう一棟、倉庫を新設する計画があることを明らかにした。それは現在の倉庫より一回り大きく、巻き上げ機も二か所に設置される予定とのことであった。

 信綱は商館員の説明にうなずきながらも、固く身体をこわばらせていた。信綱の目に映るこの倉庫はまるで要塞であった。その堅牢な構造に加え、強力な火砲に守られ、港からは無尽蔵の補給を得られ、しかも海上から艦隊の援護を受けられることを考え合わせると、この建造物はいつでも難攻不落の城塞に転用できる代物といえた。攻城戦の難しさを経験したばかりの信綱は、この倉庫が持つ潜在力を一目で見抜いたのであった。

 ただでさえ日本をしのぐ武器を有する上に強固な防衛施設まで持つ、信綱は和蘭に対し底知れぬ恐怖を感じた。いつの日か和蘭が幕府の敵とみなされる時が来るかもしれない。その時に備え、できるだけ早くこの倉庫を和蘭人から引き離しておいた方がよい。商館員の説明を聞いている間にも、信綱はそのための口実を見つけ出そうと倉庫全体を鋭く観察した。その視線は倉庫の破風に刻印された文字のようなものをとらえた。

「平蔵よ、あの破風に記されているのは何か?」

「あれは数字でございます。倉庫が竣工した年を、彼らの暦で『一六三七』と刻んであります」

「そうか。ならばその暦は、いかなるできごとを起算にしているのだ?」

「は?」

「暦の元年に当たる年に、彼らにとって記念すべき何かがあったということであろう。それを申せと言っておるのだ」

平蔵は身体に似合わずもじもじと下を向きながら、小さな声で答えた。

「暦は、切支丹の救世主が生まれた年を元年としております」

(そういうことか…)

信綱の背筋に悪寒が走った。

 

 五月一一日、信綱はようやく江戸に帰着した。一揆鎮圧のため江戸を出発してから既に五か月以上がたっていた。信綱は圧倒的な歓声で江戸城に迎えられた。何といっても凱旋の総大将である。しかももし幕軍が敗れでもしたら幕府が危機的状況に陥りかねない局面での大勝利である。城内挙げて歓迎一色であり、中でも井伊直孝は、

「伊豆殿がもし五〇万石の外様大名であったならば、公儀は伊豆殿を警戒するあまり夜も眠れなかったであろう」

と最大級の賛辞を贈るほどであった。意外と感激しやすい性格なのである。

 だが信綱にしてみれば祝勝気分に浮かれているどころではなかった。幕府の重臣として、いち早く対外政策の見直しに取りかからなければならなかったからである。

 九州で切支丹一揆が起きた時から、家光がいつ南蛮国に対し懲罰的措置を命じたとしてもおかしくはなかった。信綱たち老中は、それまでに南蛮不在の交易のあり方を描いておく必要があった。

 しかもそれにはさまざまな利害がからみ合い、具体化に向けた調整ははじめから難航することが予想された。たとえば絹を取り引きする商人の存在である。幕府はこれまで南蛮との取引を、堺、京都、長崎、江戸、大坂の五都市の商人(五箇所商人)に委ねてきた。絹の品質を見定め、相当の対価で大量に仕入れ、商品として全国に流通させるためには商人たちの協力が必要だったからであるが、その結果彼らは自分たちにとっても利益となる政策を幕府に要望するようになっていた。南蛮に代えて和蘭と取引ができるよう、和蘭に圧力をかけることを求めるほどになっていたのである。

 幕府としても、和蘭との取引を五箇所商人に任せた方が好都合といえた。南蛮の場合と同じように絹の取引を管理できるのであれば、それに越したことはなかったのである。ところが、話はそう簡単には進まなかった。和蘭は和蘭で独自の取引先を抱え、利益を生む体制をしっかりと固めていたからである。幕府はこれまで新参者である和蘭をさほど重視してこなかった。そのため和蘭に対する統制は後手後手に回り、平蔵を筆頭とする投機的商人の跳梁跋扈するのを許していた。彼らは数こそ少ないもののいずれ劣らぬ凄腕の実業家で、五箇所商人とは一線を画し自らの才覚と決断で和蘭との関係を築いていた。彼らにとって外部の者が割り込んでくることは何の利益にもつながらず、したがって彼らが自発的に五箇所商人の参入を認めることはあり得なかった。ましてや巨大な利権と化しつつある和蘭との取引ともなればなおさらであった。

 さらに平戸領主の存在が話を一層難しくしていた。亡父の跡を継いだばかりの領主松浦鎮信は、若干一六才とは思えないほど用心深く立ち回ることによって家光の信任を取り付け、「和蘭との交易地は今までどおり平戸のみとする」というお墨付きをもらうことに成功していた。鎮信は商館から多額の金銭を借り入れる一方で、和蘭との取引に自国の商人を関与させたり、商館の身の回り品を領民から調達させるなどして領国全体に恩恵が及ぶよう気を配った。鎮信にとって、和蘭は手放すことができない存在となっていたのである。

 これらの諸問題を克服し、和蘭を幕府の完全な支配下に置いたとしても、まだ別の問題が残っていた。言うまでもなく、それは和蘭人が切支丹であるという事実であった。信綱は当初、そのことを口実に和蘭人を商館の倉庫から引き離すことができるのではないかと考えた。が、現実問題としてそれは危険が大きすぎた。切支丹であることが家光に知れた瞬間に、絹取引の問題など吹き飛んでしまう恐れがあったからである。都合が悪いことに、商館を調査した結果、倉庫に刻まれた西暦以外にも和蘭人が切支丹であるという証拠が続々と挙がっていた。会話一つ取っても、言葉の端々から彼らが切支丹であることははっきりと読み取れた。外から見れば和蘭人も南蛮人と選ぶところがなかったのである。信綱がそのことを報告しないこと自体、切支丹に荷担しているのではと疑われかねない可能性を秘めていた。信綱にとって、和蘭を後押しすることは諸刃の剣となっていたのである。

 もっとも、それらのことをすべて考慮に入れても、和蘭がなお南蛮の後継として最有力であることに変わりはなく、その成否は詰まるところ和蘭が南蛮に取って代われるだけの実力を有しているかどうかにかかっており、そのことを証明できない限り南蛮の追放を安易に口にすることはできなかった。

 

 江戸に帰着した次の日の夜、信綱は家光に呼び出された。信綱から戦の結果報告を聞くつもりであろうと思われたが、切支丹の抑制策、わけても南蛮の処置に話が及ぶことは十分に予想された。信綱はこれが一つの節目となることを肝に銘じつつ、襟を正して家光のもとへと向かった。

 しばらくぶりに対面した家光はまだ病気が完治しておらず、会談にも青白い顔で臨んでいた。とはいえ、一揆を撃ち破ったことは幕府にとって久々の朗報であり、家光の肩にのしかかっていた重石もそのおかげで随分と取り除かれ、以前よりは顔に生気が感じられるようになっていた。当然家光の信綱に対する信頼も大いに高まり、家光はたいていのことであれば信綱の言うことに耳を傾けようという気になっていた。

 信綱は家光から乞われるままに九州で起きた出来事を詳しく説明した。家光はうなずきながらそれを聞いた。途中和蘭艦による砲撃の話になると、家光は満足そうに一段と大きくうなずいた。原城から送られてきた信綱の報告には毎回のように和蘭のことについて触れられており、平戸の商館に立ち寄った際の報告と相俟って、家光自身が和蘭によい印象を持つようになっていたのである。

 信綱が話を終えると、家光はすべてに納得がいったというような顔をして信綱に語った。

「これだから切支丹は根絶やしにしなければならないと、前々から言っておったのだ。それができない最大の原因はやはり南蛮人にあろう。南蛮の伴天連が余計なことを吹き込むから、切支丹になろうとする者が後を絶たないのだ。

 お前の話からすると、和蘭は公儀にたいそう協力的なようではないか。奴らなら放っておいても日本に絹をもたらすであろう。南蛮人など今すぐ国内から追い払って、和蘭とのみ交易をしたらどうなのだ」

 信綱は努めて自分を落ち着かせながら、家光の問いに答えた。

「上様もそう思われますか。私も同じ考えです。特に九州の切支丹どもを目の当たりにしますと、なおさら強くそう感じます。

 とはいえ、和蘭との単独交易に踏み切るとなると、現状ではなおも難しい問題があるように思われます。対外的な緊張が一気に高まり、絹の供給が極度に落ち込む事態が生じた時、我々がそれに対処しきれるかどうか不安が残るからです」

「それはどういう意味だ?」

家光は鼻白んで信綱に問いただした。ここで家光を怒らせては元も子もないと知っている信綱は、家光の目を見ながらゆっくりと話を続けた。

「申し訳ございません。万全を期すあまり不穏当なものの言い方をしてしまいました。南蛮を追放した場合、日本は誰も経験したことのない状況に突入します。上様にご心配をおかけしないためにも、考えられる不安材料はすべて取り除いておきたいというのが偽らざる心境なのでございます。

 私にとって目下最大の心配事は、南蛮人の追放によって引き起こされる彼らからの報復です。公儀はいまだかつて、国外からの攻撃を想定した布陣というものを敷いたことがありません。それは今後、一から構築していかなければなりません。

 しかも南蛮の攻撃は直接日本に向けられるだけでなく、日本向けの絹を積んだ和蘭船にも向けられる可能性があります。果たして和蘭が南蛮の攻撃に耐えられるだけの防衛力を備えているのか、実際のところ私にもわかりません。ただ、絹を満載した和蘭船が相手となれば南蛮船の方が有利であろうとは想像がつきます。最悪の場合、日本に絹が届かなくなることも十分に予想されます。

 さらには和蘭の絹の入手経路そのものにも不安があります。明から直接絹を仕入れている南蛮とは異なり、和蘭は海賊まがいの強奪行為によって絹を手に入れていると言われております。南蛮と和蘭の双方から絹を買い入れる今のやり方であれば問題ありませんが、和蘭との単独交易となると絹の質と量ががた落ちする恐れが多分にあります」

「…で、お前はどうすればよいと考えておるのだ?」

信綱は深く息を吸い込み、腹に力を込めて家光に答えた。

「まずは沿岸防備を万全にし、いつでも南蛮の攻撃を迎え撃てるようにすることです。これが最優先課題となります。切支丹の禁制は今まで以上に強化し、南蛮の動きに同調する者が出ないようにします。武家諸法度についても、切支丹一揆が起きた場合には近隣諸国からの速やかな援軍を認めるという条文に改めるのが望ましいと考えます。

 次に、絹の取引市場が混乱しないよう、需要と供給の両面にわたり前もって対策を講じるべきと存じます。縮小する市場規模に合わせた取引の形態を、今のうちから整えておく必要があります。

 並行して、和蘭に対する徹底的な調査を行います。彼らから直接事情を聴取するとともに、彼らの実力が本物であるか、その発言が事実と食い違っていないかを実際に目で見て確かめることが大切と存じます」

「伊豆守よ」

「はっ」

「お前はおかしな奴だな。切支丹のことをかばったかと思えば和蘭に切支丹を攻撃させたり、和蘭の肩を持つのかと思えば疑ってみたり…。いったいお前の真意はどこにあるのだ?」

「上様」

信綱は姿勢を正して家光と向き合った。

「私は切支丹にも和蘭にも肩入れをするつもりはありません。私が目指すのは公儀の安泰と、それによってもたらされる太平の世の中です。太平の世を確たるものにする相手であれば積極的に手を組み、支障を来すような相手あれば、たとえいま手を組んでいたとしても切り捨てる、そのような心構えで万事取り組んでおります」

 家光は目を閉じて考え込んでいたが、やがて少しだけ目を開いて信綱に告げた。

「私は絹のことには関心がない。所詮は一部の者にとっての奢侈品だ。なくなったからといって生きていけなくなるような物ではない。

 だが、お前がそれほどまで絹にこだわるのも、それなりに理由があってのことであろう。わかった。南蛮の追放については当面の間様子を見ることにしよう」

「ありがとうございます」

「沿岸防備や切支丹禁制の強化だけでも、おそらく一年くらいはかかるであろう。お前たちはこれから一年かけて、和蘭との単独交易ができる体制を作り上げるようにせよ」

「はっ、心得ました」

「なお、和蘭との直接交渉まではお前に任せるつもりはない。大目付の井上筑後守政重に当たらせることにする。筑後守は実直な人間だ。金に踊らされるようなことはない。それに和蘭の事情にも詳しい。交渉役として最適であろう」

「承知いたしました」

信綱は、「これからが本当の勝負だ」と自分に言い聞かせながら額の汗をぬぐった。

 

 その後の江戸城内の動きは目を見張るものがあった。家光と会談したその日のうちに武家諸法度は改定され、切支丹の禁制に関する法令も矢継ぎ早に発布された。信綱の反対により一度はうやむやになっていた切支丹通報者への賞金制度も、今回は迷わず採用されることになった(信綱にとっても、それを制止する理由はもはやなくなっていた)。ほかにも年貢徴収の手段である五人組の制度や、身元証明のための寺請制など、あらゆることが切支丹禁制のために利用されていった。

 沿岸防備もぬかりなく進められた。老中たちの申し合わせにより、九州の諸大名に沿岸を監視させること、外国船に備え沖に向けて大砲を配備することなどが取り決められた。それらは家光の了解が得られればいつでも実施できる状態にまで準備が進められた。

 その間家光は大がかりな人事刷新を行った。一一月七日、土井利勝と酒井忠勝に月二回の登城日以外の出仕を免じ、代わりに阿部重次を老中に登用した。家光はまだ利勝と忠勝の力を必要としていたが、二人とも年齢的に激務をこなすのが難しくなってきたことに対する措置であった。もう一人の老中であった堀田正盛が領国川越で起きた大火の責任をとる形で老中の任を解かれていたため、老中は信綱を筆頭に忠秋、重次を擁する三人態勢となった。

 続いて年が明けた正月五日、信綱は三万石加増されて六万石を拝領することになった。領地についても、正盛の移封後領主不在となっていた川越への転封が決まった。川越は江戸から最も近い城下町であり、江戸の北を守る要衝であった。忠勝や正盛など老中級の直臣が歴代の領主を務め、要するに信綱は名実ともに家光から最上級の待遇を受けることになったのであった。

 ここに及んで、信綱たちはいよいよ次の段階へと駒を進めることにした。すなわち和蘭に対する本格的な調査である。

 

 寛永一六(一六三九)年四月二〇日、クーケバッケルの後任として江戸に参府していた和蘭商館長フランソア・カロンが評定所への呼び出しを受けた。絹のことについて聴取されるであろうことは明らかであった。それまでもカロンは絹にまつわる海外の情勢を井上政重からたびたび質問されており、前日にも和蘭から日本までの航路を描いた世界地図を幕府に提出したばかりであった。

 評定所への召喚に対し、カロンは顔色一つ変えることなく登城の支度をはじめた。完璧な日本語をあやつるカロンは、日本の国情に通じていることにかけても和蘭一であった。知力、判断力、自己抑制力のすべてにわたり、歴代商館長の中でも最高の水準にあるこの男を中心に、これからの日蘭関係は展開していくことになる。

 カロンが到着した評定所では、既に幕閣全員が集まって大寄合を開いていた。半ば隠居の身であった忠勝も、絹の問題だけは格別とばかりに先頭に立って寄合を仕切っていた。彼らの前にはさまざまな世界地図が置かれ、カロンの地図もその中にあった。記憶だけを頼りに描かれたその地図はほかの地図と比べても遜色がないほど精密に描かれており、しかも違いが見つからないくらい正確であった。幕閣たちはその出来栄えにいたく感心した。それと同時に、彼らは日本が世界の中でいかに小さな存在か、和蘭人や南蛮人がどれほど遠く離れた土地から日本にやって来ているかを知り、驚きを禁じ得なかった。彼らの中で、和蘭は南蛮に匹敵するくらい大きな存在となっていた。

 もっとも、そのことと絹の問題はあくまで別物であった。既に南蛮の追放は幕閣全体の共通認識となってはいたが、大多数の者にとって和蘭は依然としてただの「海賊」であった。和蘭には南蛮と対抗できるだけのしっかりとした組織はなく、あっても南蛮と同じようには絹を日本にもたらすことはできないであろうと考えられていたのである。

 評定所の中央に着座したカロンは、うやうやしく頭を下げた。信綱をはじめとする幕閣たちは、落ち着いたこの外国人を周囲から注意深く見守った。忠勝は鋭い視線をカロンに向け、おもむろに質問をはじめた。

「商館長、貴殿は南蛮人が日本から追放された場合、彼らが貴殿らの船を日本に来させないよう妨害することができると思うか」

カロンは至極当然のことのように答えた。

「世界中のいかなる国も、我々の船を妨害することはできません。我々は南蛮人を恐れてはおらず、むしろ彼らの方が我々を恐れております。彼らは海上で我々の船に遭遇すると、総じて一戦も交えることなく逃げ出しております。我々を日本から遠ざけることは彼らにとって不可能であり、もしそれができるのであればとっくの昔にそうしているはずです」

幕閣たちの間から安堵のためいきがもれた。忠勝は立て続けに質問をした。

「南蛮人を日本から追放した場合、貴殿ら和蘭人は南蛮人と同じだけの絹を日本にもたらすことができるか」

カロンは即座に、「もちろんできます」と答えた。

「南蛮人は和蘭人が通商していない国と交易を行っている訳ではありませんので、彼らが日本にもたらした品々は我々もすべて手に入れることができます。

 たとえば広東産の最高級の絹織物は、南蛮船が日本に運び込めなくなればその土地の者にとって無用の長物となります。日本以外にそのような高価な物を買い求める国はないからです。彼らは自分たちの商品を、今度は我々和蘭人に売り込むために、あらゆる手段を講じることになるでしょう」

 カロンの説明は幕閣たちにとって予想だにしないものであった。彼らは今まで、生産者の側に立って物事を考えるという発想がなかったからである。忠勝はなおも質問を続けた。

「我々は何か足りない物があれば、我々自身の船を仕立てて必要な物を手に入れることもできる。それについて貴殿はどう考えるか」

カロンは地図を指差しながら、淡々と質問に答えた。

「かつて日本の船が明と直接交易ができた時代、日本船は台湾より南下する必要がなく、南蛮船もこのあたりを航行することがほとんどありませんでした。ところがこれから日本が貿易を再開するとなると、当時とはまるで違った展開になることは疑いありません。明は日本に敵意を抱いており、沿岸への上陸を許しはしないでしょう。日本船はトンキン、交趾、カンボジア、シャムなどまで航海しなければならなくなります。そこでは南蛮人が日本船を油断なく見張ることができ、しかもそれは意図的に行われることになるでしょう。南蛮人を日本から追放した場合、彼らにとって日本人への復讐をためらう理由は何も残りません。彼らは必ずや日本船に攻撃を仕掛け、燃え盛る怒りを晴らそうとするでしょう」

 幕閣たちは静まりかえった。カロンの答えはいずれも説得力のあるものであった。実際それらはすべて本当のことであろうと思われた。それはとりもなおさず、日本が世界の中心ではないということを意味しており、幕閣たちはカロンからそのことを思い知らされる結果となった。評定所はだんだんと沈鬱な空気に覆われていった。

 突然重次がカロンに食ってかかった。重次はカロンの言っていることを認めつつも、日本が軽く見られていることに不快の念を抑え切れなくなったのである。

「我々は、明が南蛮以外との直接貿易を認めようとしないことを知っている。そのため日本に来航している明の私貿易船は、自国に知れぬようこっそりと日本を訪れていることも知っている。和蘭人が運んでくる絹も、当然明の官憲の知らないところで密かに取引されたものに違いない。それは日本に対する親愛の情からではなく、すべて金のために行われていることである。

 明に行くことが許されない点では和蘭も日本と同じはずである。日本人だけが絹を手に入れられない理由があるだろうか。我々も内密に、そのような貿易を行うことができるのではないか」

重次の挑発的な問いかけに対し、カロンは冷静さを失うことなく丁重に答えた。

「どうやら我々の活動に対する根本的な誤解があるようです。ただ、これだけはご理解いただきたい。台湾における我々の貿易は、一〇年以上前から明の政府より公認を受けております。そして台湾を訪れる明の貿易船には、明の官憲から進んで渡航許可証が与えられております。この関係は我々が巨額な費用をかけて作り上げたもので、我々はこの結びつきをより強固なものとするためにこれからも努力を惜しまないつもりです」

幕閣たちはカロンに対し何の反論もできなかった。

 信綱はカロンから深い感銘を受けていた。カロンの弁舌の巧みさを余すところなく理解したからである。世界中から情報を集め、さまざまな切り口で多面的に分析し、誰もがわかる言葉でよどみなく解説できるその力量は、外国人ながらずば抜けたものがあると信綱は感じていた。加えて彼の醸す抗し難い雰囲気が、その場にいるすべての者を惹きつけずにはおかないことも感心せずにはいられなかった。これで話の決着はついたも同然であった。公儀は和蘭との単独交易に踏み切るであろう、信綱はそう確信した。

 信綱が心を動かされたのはそのことばかりではなかった。質問に答えている間、カロンは奢る気配をまったく見せず、最高の自制心を発揮して幕閣たちと向き合っていた。日本をはるかにしのぐ軍事力を有し、その気になれば高圧的な態度で臨むこともできたであろうにもかかわらずそれをしないことは、たとえ損得を計算したうえでの振る舞いにしても、カロンの人間的な厚みを感じさせるのに十分であった。今後の交渉において、この自制心は何にも増して強力な武器となるであろう。信綱はカロンの持つ才能を正確に見抜き、そのことに期待を寄せ、かつ恐れた。

 評定所には再び沈黙が訪れていた。忠勝は幕閣一人ひとりを見渡した後、カロンに「まだ何か言い残したことはあるか」と尋ねた。カロンは首を横に振り、和蘭人が意見を述べる機会を与えてくれたことに感謝した。忠勝はうなずいて会議をしめくくった。

「外国船がある限り、日本の船を国外に渡航させる必要性は認めない。私は良い機会に、この件について上様に進言するつもりだ」

ここに絹の供給の問題は、和蘭との単独交易という形でほぼ固まった。

 

 南蛮人に対する処罰は、最終的に八月五日に下された。六人衆の一人太田資宗が長崎を訪れ、切支丹禁制に背いたことを理由に南蛮人の日本からの追放と再来航の禁止を告げたのである。資宗から奉書を渡された南蛮人たちは、

「日本と貿易ができなくなると、我々は非常にみじめな立場になる。禁制を犯した者は死刑に処されるにしても、罪のない商人たちの来航は認めてもらえないか」

と涙ながらに嘆願したが、聞き入れられるはずもなかった。

 資宗はその翌日、今度は和蘭にも南蛮と同じ切支丹追放の奉書を渡した。長崎に来ていたカロンは奉書を受け取ると、

「我々は日本と四〇年来の友好を保ち、伴天連の摘発にも貢献してきたつもりです。それなのにまだ信用されていないとは悲しいことです」

と怨みごとを言った。資宗は、

「南蛮人はこの国から追放され、貴殿らは貿易を続けられるのであるから、これほど名誉なことはないではないか」

とにべもなかった。

 かくして南蛮人は日本から追放された。もちろん、一片の奉書でこのように重大なことが徹底されるものでないことは明らかであった。八月九日、幕府はかねてより準備されていた沿岸防備の実施を九州の諸大名に命じた。大名たちは速やかに、あらかじめ決められた監視体制に入った。さらに幕府は和蘭商館に、南蛮を攻撃してその動きを封じ込めるよう要請した。南蛮を宿敵とする和蘭にとって、そのことに異存のあるはずはなかった。

 信綱たちが最も気を遣ったのは、言うまでもなく絹の確保の問題であった。幕府は和蘭商館に、とにかくできる限り多くの絹を日本に運び込むよう指示した。それでも絹が不足する事態を考慮して、琉球や朝鮮を経由して明の絹を入手することにも力を注いだ。さらには絹の需要自体を抑えるため、身分の低い者が絹を着用するのを禁止する奢侈禁令の発布にも踏み切った。

 このように、考えられるすべての対策をやり尽くした信綱たちであったが、まさかそのことがことごとく裏目に出る結果になろうとは思ってもみなかった。

 

 寛永一六年の暮れ頃から、大坂を中心に商人たちが相次いで破産しているとの知らせが幕府にもたらされるようになった。それも古くからの豪商と呼ばれるような人が、妻子を捨てて夜逃げをしたり、自殺をしたり、自宅に火を着けたりと、まさに大恐慌の様相を呈しているとのことであった。

 原因は絹の価格の大暴落であった。皮肉なことに、それは信綱たちの予想とは正反対の経過をたどって進行することになった。南蛮の追放後、和蘭は絹の供給能力で南蛮に劣ることがないことを示そうと、借金までして明の絹をかき集めていた。その結果日本に大量の絹が集中し、消費量をはるかに超えた絹余りの現象が生じることになり、そこへもってきて絹の着用が制限されたため、市況が一気に冷え込み景気の急降下を招いてしまったのである。

 南蛮に対する投資を焦げつかせていた商人たちは、絹の高騰が予想されるこの機会に少しでも損失を取り返そうと、自分たちの実力以上に絹を買い付けていた。つまり暴落への抵抗力を失っていた矢先に不況の波が直撃した形となり、多くの商人はひとたまりもなくつぶれることを余儀なくされた。暴落に端を発して連鎖的な貸し倒れも起こり、景気の悪化は否が応でも社会不安を増長し、将軍のお膝元である江戸においてさえ盗賊がはびこる事態にまで発展した。

 信綱たちは決して手をこまねいていた訳ではなかった。暴落の原因は明らかだったので、何とかそれに歯止めをかけようとした。それが目に見える成果となって現れなかったのは、和蘭商館が平戸にあることに大きな原因があった。商館を直接管理しない限り、絹の供給量を調整して価格を維持することができなかったからである。信綱は改めて、商館を長崎に移転することでしかこの問題は解決できないと痛感した。

 実のところ、信綱は商館の長崎移転の構想をかなり以前から抱いていた。そうすることで和蘭の絹を幕府の管理下に置き、要塞のような平戸商館の倉庫を和蘭人から引き離し、強大化する恐れのある平戸領主の資金源を断つ、といった複合的な効果を見込んでいたのである。ちょうど南蛮の追放によって築島(出島)が空地となったので、そこに商館を建てれば切支丹を封じ込めるのに都合がよいという思惑もあった。信綱の中で、商館を長崎に移すことが対外政策の最終目標となっていた。

 先の家光との会談にも、信綱はもちろんそこまでの筋書きを念頭に置いて臨んでいた。商館の移転を家光に直接具申しないまでも、絹の市場統制に名を借りて家光から流通機構再編の権限さえ与えられれば、ゆくゆくは商館の移転にまでこぎつけられるであろうと考えていたのである。

 会談の途中までは、実際に信綱の目論見どおり話がまとまるかに見えた。だが、最後の最後に井上政重が和蘭との交渉窓口に就いたことは誤算であった。政重以外の者が和蘭のことに口出しづらい状況になったからである。政重自身は公明正大な性格の持ち主で、必ずしも和蘭一辺倒の人間ではなかったが、政重の片腕である牧野内匠頭信成が平戸の領主松浦鎮信と姻戚関係にあり、そのため和蘭に関する幕府の情報は信成を通じて和蘭商館に筒抜けとなっていた。和蘭からすれば、常に幕府の動向に即した行動をとれる環境が整っていたのである。

 信綱としても、投機的商人だけが相手であれば奉書一枚でどうにでもできるという目算があった。だが鎮信をはじめとする「親和蘭勢力」が相手となると、信綱といえどもうかつに動くことはできなかった。家光の信頼を得ている鎮信をないがしろにして、商館の移転を実現することは至難の業に思えたからである。後年善政を讃えられる鎮信はまぎれもない賢君であり、それだけに対応を一歩誤れば手痛い仕打ちが待ち受けていることを覚悟せねばならなかった。商館移転の問題は、慎重に慎重を重ねて解決の道を探る以外に方法がなかったのである。

 だが信綱が考える間もなく、状況はどんどん新しい局面へと進んでいった。

 

 寛永一七(一六四〇)年四月三日、牧野内匠頭信成が幕閣を緊急に招集した。五箇所商人の要望について、幕府としていかに対処すべきかを協議したいとのことであった。悪い予感を胸に抱きつつ、信綱は他の幕閣たちとともに評定所へと向かった。

 幕閣たちが揃ったのを確認すると、信成は紅潮した顔で説明をはじめた。

「皆様にお集まりいただいたのはほかでもありません。五箇所商人がこれから公儀に要望しようとしていることを前もってお知らせし、その対応策を検討していただきたいと考えたからです。

 彼らの主張は次のとおりです。すなわち、和蘭人は彼らと関係の深い二〇人の商人と結託し、それ以外の商人を絹の取引から排除して破滅に追いやろうとしている、と。そこですべての商人が和蘭と取引ができるように、和蘭商館の長崎移転を公儀に要望する、と」

 和蘭寄りの信成ならずとも眉をひそめたくなるような話であった。彼らの主張はあまりにも一方的であった。このたびの恐慌が過去に例を見ない深刻なものであることは間違いなかったが、それが和蘭人の仕組んだものでないことは誰にでもわかることであった。幕府に対するこの突然の要望は、自らの生き残りさえままならなくなった商人たちがなりふり構わず利益誘導を画策しているようにしか聞こえなかった。これではかえって和蘭を利することになりかねない、信綱は内心密かに危惧した。

 案の定、信成は続けて和蘭を擁護する論説を展開した。

「彼らの主張は著しく事実に反しております。和蘭人は実際には六〇〇人の商人に絹を売り渡しており、その署名も商館に残されております。

 五箇所商人が窮乏したのは、彼ら自身が絹の思惑買いに失敗したからで、和蘭人のせいでないことはもちろんです。

 そもそも和蘭人は将軍家から代々通航を許可する朱印状を賜っており、商人ごときがそれを否定するなどということはもってのほかのことです。我々公儀の人間ですら、将軍家の意向に反した行動をとることは許されないのですから。

 ここに商館に保管されている台徳院(秀忠)様の朱印状の写しがあります。平戸における交易の自由が、ここには明記されております。大権現(家康)様の朱印状はさらに広範囲な自由を保証していたことを、ここにいる皆様は覚えておられると思います。その大権現様の書状は、現在和蘭商館には残されておりません。商館長は、台徳院様のものと引き換えに江戸城に返却したと申しております」

 見事な信成の論法であった。むしろ鮮やかすぎると言うべきであった。とても信成一人が考え出せるような代物ではなかった。信綱は信成の背後に、カロンの存在をはっきりと認めた。実際信成はカロンを密かに江戸へ呼び寄せ、綿密な対策を協議していたのである。周到に練られたカロンの論法を、その場で突き崩すことは信綱をもってしても不可能であった。

 信成の説明は、五箇所商人を牽制する以上の働きをした。将軍家の朱印状の話を持ち出すことで、商館移転の問題を議論の対象とならない聖域とすることに成功したのである。特に家康の朱印状の話は、実物がない分かえってその存在を絶対視する効果を生み、しかもそれを江戸城に返したということは、誰かがその存在を隠そうとしているようにも聞こえ、そのため幕閣たちはこの件に深く立ち入ることができないまま議論を終結せざるを得なくなった。

 家康の朱印状は、後年バタヴィアの東インド政庁で発見される。カロンの説明はまったくの出まかせだったことになるが、結果として幕閣たちの動きを封じ込めるのに一役買うことになった。商館移転の問題は、信綱たちの手を遠く離れてしまったのである。

 忠勝は苦々しい顔で、この問題に終止符を打った。

「内匠殿の意見はもっともである。商人たちの不当な要求は却下されねばならない」

それは幕府の対外政策の大幅な後退を意味した。が、幕閣たちはほかにどうすることもできなかった。信綱はうつむきながら奥歯をぐっと噛み締めた。信綱にとってこのことは、「親和蘭勢力」に対する敗北以外の何物でもなかったのである。このまま事を済ます訳にはいかない、信綱は心の中で失地挽回を固く決意した。

 だが事態は、信綱の想像をはるかに超えて昏迷の度合いを深めることになる。

 

 五月一七日、日本との貿易再開を請願する南蛮商船が突如長崎沖に現れた。あらかじめ想定されていたこととはいえ、それが現実のものとなった衝撃は大きかった。直ちに家光により大目付の加々爪忠澄が現地に派遣され、南蛮人たちと対面することになった。

 幕府のすばやい対応に、南蛮人は大いなる期待を寄せた。が、期待はすぐさま絶望へと変わった。忠澄は氷のような冷たさで南蛮人に告げた。

「お前たち南蛮人は再来航を禁じられているにもかかわらず、その禁令を犯して日本を訪れた。お前たちには最もみじめな死がふさわしい。だが、お前たちが商品を持たず、ただ請願のみにやって来たことを考慮して、安楽な死を与えることにしよう」

 宣告が終わるや否や、南蛮人たちは手と足を縛られて牢屋に運ばれた。その翌日、黒人の水夫を除く全員が庭に並べられ、最期の望みも聞き届けられずに首をはねられた。

 南蛮人たちが渡航してきた船は、水夫たちの目の前で跡形もなく焼き払われた。茫然自失の水夫たちは、自分たちが見たことを本国に帰って伝えるよう忠澄から申し付けられた。

 南蛮船の処分を終えた忠澄は、江戸に帰らずそのまま平戸商館へと向かった。家光の指示により、一層厳しい切支丹改めを行うことになったからである。商館に到着するや否や、忠澄は建物の内外をつぶさに調べ上げた。信綱以来幕府の高官を迎え入れることに慣れていた商館員たちは、忠澄を商館のあらゆるところへ案内した。カロンをはじめ商館員たちは、それまで同様隠し立てすることなくすべてを開示すれば上使に理解してもらえると考えていたのであった。ただ一つ、忠澄が他の幕閣のようには対外関係の処理に慣れていないことにまでは考えが及ばなかった。

 八月一一日、江戸城に戻った忠澄は九州での出来事を家光に報告した。忠澄はいささか興奮気味に、前のめりになって家光に訴えた。

「平戸の和蘭商館を調べましたところ、和蘭人がまぎれもない切支丹であることがわかりました」

 家光はさして動じる気配を見せず、むしろ忠澄を諭すように軽くいなした。

「そのことならば私も聞いている。お前は知らないだろうが、切支丹にもいくつかの宗派があって、和蘭人は南蛮人のようには切支丹宗門の教えに縛られていないとのことである。また宗門を広める意思もないとのことなので、彼らの渡航だけは認めているのだ」

「ところが現実はそうではないのでございます。彼らの生活はまさに切支丹そのものなのでございます。彼らは神の奇跡について書かれた書物を読み、食事のたびごとに切支丹の救世主に祈りを捧げております。

 最大の問題は、商館の外から見える倉庫の刻印でございます。倉庫の竣工年を刻んだその年号は、彼らの暦で切支丹の救世主が生まれた年を元年としております。彼らが南蛮人と何ら変わりがないことを、これ以上明白に物語る証拠はないものと思われます」

 家光の顔色は青ざめ、それから怒りでみるみる赤くなった。家光は大声で小姓を呼びつけた。

「井上筑後守を呼べっ」

 

 八月二七日、カロンは牧野信成からの手紙を受け取った。「筑後守様がそちらに向かうが、商館のことはよく頼んでおいたので安心してよい」と書かれてあった。信成ですら、政重が九州に赴く真の理由を聞かされていなかったのであった。

 政重は家光から密命を受けていた。商館長カロンに対し、商館の倉庫を破壊するよう命じることがその内容であった。それがどのような結末を招くのかは政重といえどもおおよその見当はついた。

 商館にとって、二棟の石造倉庫は取引上なくてはならないものであった。どちらもまだ新築同然で、古い建物で三年、新しい方に至っては完成したばかりのものであった。美しいアーチ形の開口部と空にそびえる破風は彼らの誇りであり、それを破壊するということは彼ら自身を否定することにほかならなかった。穏便に事が済んだとしても和蘭人の日本からの撤退は避けられず、一歩間違えれば和蘭との全面戦争にすら発展しかねないと思われた。常識的には決して実行に移すべきことではなかった。

 だが政重に下命した時の家光はひどく取り乱しており、とても冷静に得失を論じられるような精神状態ではなかった。家光は皆に欺かれたという思いを強く抱いており、話が切支丹に関わる問題なだけに一層疑り深くもなっていた。そんな家光の命令を覆すことは、政重をもってしてもできることではなかったのである。政重はひとり密かに苦悩した。

 九月二六日、政重は多くの役人を引き連れて商館を訪れた。旧知のカロンには言葉一つかけず、厳しい表情で商館の倉庫をしらみつぶしに調べ上げた。政重としては、商館に何らかの落ち度があればそれを理由に倉庫破壊の話を持ち出そうという思惑があった。が、結局何も見つけられなかった。かくなる上は自分が知っている事実だけを頼りに倉庫の破壊を命じるしかない。政重は商館を引き揚げ、改めてカロンを松浦家の屋敷へ呼びつけた。そこで命令を下すつもりであった。

 政重にとって、これはカロンへの最後通告であった。和蘭人がどう思おうとも、家光の命令は命令として伝えなければならなかった。当然カロンの抵抗は予想されたので、屈強な男二〇人を別室に待機させ、カロンが不服を申し立てた途端に殺害する手はずを整えた。加えて隣国の兵士たちに、合図とともに港に停泊している和蘭の全兵力を破壊するよう準備させた。

 松浦邸を訪れたカロンはいつもと変わらぬ表情で政重の前に座り、礼儀正しく頭を下げた。カロンは政重のよそよそしい態度に気づいていたが、あえて気づかないふりをしていた。政重は目の前にいるカロンをしみじみと見つめ、最悪の情景を思い描きながらカロンに宣告した。

「将軍は、お前たち和蘭人が南蛮人同様の切支丹であるとの確かな証拠を得ている。お前たちは安息日を守り、洗礼、聖餐その他の切支丹の儀式を行っている。さらには日本人から見える倉庫の破風に、救世主の生誕を元年とする年号を掲げている。将軍はこれらのことを重大な問題と考えている。

 そこで将軍は、お前たち和蘭人に次のことを命じた。第一に、年号の刻まれた倉庫をすべて破壊すること。第二に、安息日であっても休んではならないこと。第三に、商館長は一年以上日本に滞在してはならず、毎年必ず交替させること。以上だ」

 政重は命令を伝え終わると、息を止めてカロンを観察した。不条理きわまりない命令であるがゆえに、かつてない騒動が巻き起こって当然の場面だったからである。だが、その時奇跡は起こった。それは奇跡と呼ぶにふさわしい、信じ難い光景であった。カロンは深々と頭を下げ、政重にこう答えたのであった。

「将軍から命じられたとおりにいたします」

それは政重に感動すら呼び起こす出来事であった。政重は張りつめていた気持ちが一気に緩み、心の中でこの外国人に何度も頭を下げた。カロンのこの冷静な対応により、間一髪で両国間の衝突は回避されたのである。それは同時に、商館が平戸に留まり続けることを意味していた。カロンの理性が、家光の感情に勝利した瞬間でもあった。

 

 寛永一八(一六四一)年三月一〇日、政重の宣告から既に半年以上がたっていた。カロンが政重に答えたとおり、商館の倉庫は前年のうちに破壊されてなくなっていた。カロン自身も家光の命令どおり日本を去り、今では後任のマキシミリアン・ルメールが商館長を勤めていた。

 だが、以前と変わったのはそこまでであった。商館は依然として平戸に残り、移転のことは幕閣の間で話題に上らなくなっていた。それが家光の意思だからであった。この状況は今後とも長く続くように思われた。

 家光は上機嫌であった。日本国内外においてもはや家光を脅かす存在はなく、健康の方も日常生活にほとんど支障がないくらい回復するに至っていた。この日行った狩りで、家光は一三頭の猪を仕留めた。

 翌一一日、家光は五〇人余りの者に猪の肉を分け与えた。忠勝や信綱もその分け前に預かった。度量の大きいところを示した家光は、前日にも増してご満悦であった。

 信綱は他の幕閣とともに、猪の礼を述べるため家光のところへ出向いた。家光は気分良く、盛んに軽口をたたいた。

「伊豆守よ、さしもの猪も私の手にかかればたわいのないものであろう。和蘭であれ南蛮であれ、私の力をもってすればこのように八つ裂きにしてしまうのだ」

 信綱も軽々しいまでに家光と調子を合わせた。

「まことに上様のお力はたとえようがございません。和蘭商館の倉庫破壊も、上様でなければかくもうまくはいかなかったでしょう。今や和蘭の絹は、猪肉と同様平戸の城下に散り散りになっているのですから」

「…伊豆守よ、いま何と申した?」

「はい。和蘭の絹は行き場を失い、まるで猪肉のように平戸の城下でばらばらに保管されていると…」

家光の顔から血の気が失せた。

「ということは、和蘭人は平戸の城下を自由に出入りしているということか?」

「それはそういうことになりましょう。商館にあったような大規模な倉庫は、国中どこを探しても見当たりませんから。とはいえ、私はそれが上様の大英断であったと信じております。商館の倉庫はいつでも要塞になり得る危険な存在でしたから」

家光は滑稽なくらい、急におろおろしだした。

「伊豆守よ、お前はわかっておるのか、和蘭人が平戸の城下に出入りすることがどれほど危険かということを。奴等は民衆を幻惑する切支丹だぞ。いくら自発的に宗門を広めないといっても、高度な知識と技術を持った奴等の周りには自ずと人が集まり、知らず知らずのうちに相手を切支丹に取り込んでしまうのだ。

 …まてよ。ひょっとして、最初からそれが和蘭人の狙いだったのかもしれぬ。倉庫の目立つところにわざと切支丹の刻印を掲げ、それを破壊させて絹を国内に分散させ、日本人への浸透を図ろうという魂胆だったのではないか。そうだ、そうに違いない」

家光の頬がひきつった。信綱は家光とは正反対に、おっとりと家光に話しかけた。

「そういうことでしたら、商館内に再び簡易な倉庫を建てることをお認めになられてはいかがでしょうか」

「伊豆守、和蘭人を侮ってはならぬ。奴等は狡猾な切支丹だぞ。常に我々の裏をかこうとしているのだ。その程度のことは奴等の考えに折り込み済みに決まっている。奴等に対抗するには、こちらも奴等の裏をかくようなことをしなければだめだ。

 讃岐守、奴等が日本人に対して影響力を行使できないようにするにはどうしたらよいか?」

 急に話を振られた忠勝は、面食らいながらもしばし考えている様子を見せていたが、やがて重々しく口を開いた。

「そうですな。それでしたら商館そのものを長崎に移転してはいかがでしょうか?長崎は幕府の天領ですし、ちょうど南蛮人が去った後の築島も空いております。あそこであれば確実に和蘭人を隔離することが可能と思われます」

「うむ、それだ。早急に和蘭商館の築島移転を商館長に命じるのだ。事前に奴等には感づかれないようにな」

「はっ、直ちに」

 忠勝は神妙に答えた。思いのほか早く名案にたどり着いた家光は、再びどっしりと腰を落ち着かせて信綱の方へと振り返った。

「伊豆守よ、物事の判断は讃岐守くらい緻密でなければならぬぞ」

「はっ、申し訳ございません。軽率でした」

 信綱は深く頭を下げながら、心の中で小躍りした。直接家光の口から商館移転の命令を取り付けたのである。あらかじめ作戦を組み立てていたとしても、こうまでうまくいくとは限らなかった。

 実際信綱は、和蘭の絹がどこに保管されているか調べたことなどなかった。ただ絹を猪肉に喩えて、わかりやすい芝居を打っただけのことであった。切支丹が再び勢いを伸ばしそうだということになれば、家光は忠勝に助言を求めるに違いない。そうなれば忠勝は商館の長崎移転を提案するはずである。なぜならこの問題は、かつて信綱が忠勝と何度も話し合ったことだからであった。忠勝は十二分にその役割を果たした。

 

 四月二日、家光への献上品を持参したルメールは、政重から江戸城の大広間に通された。そこには既に幕閣たちが列座しており、ルメールはそこで商館の長崎への移転を伝えられた。カロンから事前に、「将軍の命令には一切逆らってはならない」と引き継ぎされていたルメールは、一言も異議を申し立てずかしこまって命令に服した。もっともこの頃には、東インド会社としても日本との交易の継続を重視し、商館の所在地にはこだわらないという方針で固まっていた。

 かくして和蘭商館は、彼らが後年「国立の監獄」と呼ぶことになる出島へと移り、幕末まで続く「鎖国」体制はようやくここに完成を見ることになった。それは当時の限られた選択肢の中では最良の判断であった。和蘭との交易継続はある意味では歴史の必然であった。しかし歴史は必然にのみ帰結するとは限らない。むしろ必然を離れて偶然に大きく左右される。この時も二つの偶然が重なった結果、たまたま必然と思われる結果に到達したに過ぎなかった。

 一つ目の偶然はカロンである。日蘭関係が最も微妙な時期に、カロンが商館長であったことがどれだけ貿易の継続に寄与したかは計り知れない。亡命フランス人新教徒の息子、コックの見習いからたたき上げで商館の最高位にまで上り詰めたこの男がいなければ、「鎖国」の形もよほど違ったものになっていたであろう。

 そしてもう一つの偶然は、間違いなく信綱であった。

 

前頁目次次頁