川越市旭町三丁目 信綱會

 
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信綱公略歴

 和暦

(西暦)

略歴

慶長元年

1596

 現在の埼玉県伊奈町に生誕 

慶長6年

1601

 叔父・松平右衛門大夫正綱の養子となる(慶長8年(1603年)説あり)

 

 

 信綱(当時、三十郎)自ら正綱に願い出たと言う説話もある

 慶長9年

1604

 家光付の小姓に任じられる

慶長16年

1611

 元服

元和9年

1623

 御小姓組番頭に任命 従五位下伊豆守に叙位・任官される

寛永5年

1628

 所領1万石となり、大名に列する

寛永9年

1632

 <大御所 秀忠死去>  老中格となり、御小姓組番頭を兼務

寛永10年

1633

 6人衆(後年の若年寄に相当)に任命される

 

 

 忍藩3万石

寛永11年

1634

 「老中職務定則」と「若年寄職務定則」を制定  従四位下に昇叙される

寛永12年

1635

 兼務していた小姓組番頭を罷免 寺社奉行や勘定頭、留守居などの職制、月番制を定め、将軍直轄の体制を固めてる

寛永14年

1637

 <島原の乱>

寛永15年

1638

 総大将戦死に伴い、幕府軍総大将に就任する  老中首座  <川越大火>

寛永16年

1639

 川越藩6万石に転封

寛永19年

1642

 <寛永の大飢饉>

寛永20年

1643

 侍従を兼任

寛永21年

1647

 7万5千石に加増 <川越舟運開始>

慶安元年

1648

 川越氷川神社に神輿2基、獅子頭、太鼓など寄進

慶安4年

1651

 <徳川家光死去>  <慶安の変>

 

 

 「川越氷川祭礼(神幸祭)」が創始される

承応元年

1652

 <承応事件>

承応2年

1653

 老中首座から老中次座となる

 

 

 玉川庄右衛門、清右衛門 により玉川上水が開かれる 工期1年から1年半

承応4年

1655

 安松金右衛門吉実に野火止上水を開かせる 工期40日 ただし通水に3年かかっている

明暦3年

1657

 <明暦の大火(振袖火事)>

寛文2年

1662

 病没(岩槻の平林寺に葬られる

寛文3年

1663

 遺言により、現在の新座に平林寺移建

 

 

 以後、信綱の子孫である大河内氏の霊廟となる