川越祭りについて

川越氷川祭の山車行事(国指定重要無形民俗文化財)


 

川越祭の変遷

 

 

 

 

  古い時代からまつりはあったが、統一したまつりではなく春秋とあり湯花神楽、田楽、相撲、獅子舞、狂言などが行われていた。

 慶安元年(1648)、川越城主松平信綱が総鎮守の氷川神社に祭り道具を寄進し城下に祭礼を奨励した。慶安4年(1651)9月25日に初めて神幸祭が行われたのが一般に現在の川越まつりの起源とされている。翌年より9月15日の開催となるが、これが、本来の秋祭りの日であって神社の創建日でもある。神幸祭は城下十カ町・四門前・郷分をまわり、南大手門前で斎場祭を行った。やがて、各町方も神幸祭に供奉して多くの人が町内ごとに『ダシ物』を作って供するようになり、この付け祭りが現在の山車に発展して行く。『武蔵三芳野名勝図会』における元禄11年(1698)の記録によると高澤町から初めて踊り屋台が曳き出された。

 神幸祭に供する付まつりは各町とも派手になり、この中でも山車、屋台は江戸も川越も別物として発展し屋台は大きくなり入城しないが、山車は小さく神体をつけただけで、でさげたり、人が担いだり、横にしたりたおしたりして城門をくぐった。江戸では、屋台は禁止となったが、川越では大きく立派になっていった。18世紀はじめには楽屋付きの物に統一された。享保3年(1718)に描かれた『氷川祭礼絵巻』(ニューヨーク ハ゜フ゛リック ライフ゛ラリー所蔵)によると神幸祭の行列を先頭になんとも風流な行列がつづいている。山車は長い棒の上に神体がつき2人でさげている。その後ろに屋台がつづいている。

二重鉾の山車になってからは江戸城、川越城とも枡形城門が多く山車が通行できなかった。

(奥の渡櫓門は大きいが枡形の外の高麗門は小さく山車が通行出来なかった。北郭門、清水門も地形上入城出来なかった。)

寛延2年(1749)頃に書かれた地誌『川越索麺』によると南大手門に桟敷を特設して城代家老が上覧したとあるのは興味深い。(土塁上に特設された桟敷と推測される)この頃、屋台は更に大きく楽屋付きの立派な物になっている。

 更に時代はくだり文化11年(1814)の文書『祭礼諸色控』によると、屋台同士がすれ違う際に神楽囃子の儀礼として太鼓の叩きあいをすることを指導している。これが、当祭名物の『曳っかわせ』の最初の記述である。元来標山として、神の依り代であった山車を他町内へ曳き廻して山車同士が出会えば、それは神同士の対面と考えられた。山車の正面を曳き合わせ、それぞれの囃子流儀で相手町を称えると同時に人形同士を挨拶させたのである。後に明治期になると、これを円滑にするため土台部分を360度まわせる回転台『回り舞台』が考案・浸透。これは川越独自の発明品である。

 尚、文政年間(1820年代)頃になると山車と屋台の統合が進み、以降は山車以外のダシ物は衰退していく。

 維新後、明治26年(1893)の川越大火で川越の町の3分の1を焼失する災禍に見舞われ、同時に本町、多賀町の山車がこの火事で失われた。しかしながら、町は『時の鐘』の再建に促されるように大いに復興、防火建築『蔵造り』が最盛期200件並ぶまでとなる。

 明治34年(1901)のまつりでは翌年発行の『風俗画報』に詳しく、明治期で一番と評判がたつ程の賑わいをみせた。尚、この年参加した明治21年製作の六軒町の山車が装飾を施し完成。これが旧十カ町以外で初めての山車である。以降戦中戦後の一時の中断はあったが、まつりは大きく発展し、平成20年現在旧市街重点地区曳き入れ登録の、その数は29基を数えるまでになった。戦後の中断(不定期開催)が“あだ”となり登録が見送られてきた国指定重要無形民俗文化財登録を果たしたのは平成17年になってのことである。