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其の六    島原の乱

 

 寛永一四(一六三七)年の春頃から、家光の健康状態が再びにわかに悪化しはじめた。頭痛、目まい、手足の冷えといった症状を頻繁に繰り返すようになり、床に伏せていることが多くなった。周りの勧めで鷹狩りをしてみたところ、逆に気分が悪くなってしばらく寝込むというようなこともあった。

 老中たちは家光の気晴らしのため代わる替わる能や狂言を催した。それで病状が良くなるようなことはなかったが、何もしないよりはということでそのまま続けられていた。そしてついに信綱と忠秋の番が回ってきた。五月一六日に共同で狂言を催すことになったのである。

「伊豆殿、そろそろ用意は整いましたでしょうか」

 五月に入ったある日、廊下ですれ違った忠秋が何食わぬ顔で信綱に話しかけてきた。

「やあ豊後殿、申し訳ない。このところ銅禁輸の案件に追われて、狂言の方まで思うように手が回らなくてな」

 まずい相手に見つかったとばかりに、信綱はそわそわと落ち着きのないそぶりを見せた。

「そうですか。私の方は既に狂言師の手配を済ませ、準備はすべて整っております。伊豆殿の方でも用意ができましたらすぐに音合わせをさせますので、いつなりとお声がけください」

 忠秋はそう言うと、信綱に背を向けて飄々と去っていった。廊下に一人残された信綱は、しばらくその場にたたずんでいた。

 信綱にももちろん不得手なことはあった。殊に風流と呼ばれる芸事はどんな種類のものも大の苦手としていた。何も信綱自身が狂言を演じる訳ではなかったのであるが、話が風流のことになると苦手意識がついつい頭を持ちあげてきて、いつまでたっても準備に本腰が入らないのであった。忠秋の方は心得たもので早いうちから最高の狂言師を手配していたのに対し、信綱はいつもの智恵伊豆ぶりはどこへやら、焦る気持ちはあってもいったい何をどうやって手を着けたらよいのか見当もつけられないまま動きを止めてしまっていた。

 この前年から老中たちは「寛永通宝」と名づけた新貨の発行に携わっており、その原料確保のため最終的には銅の輸出禁止にまで踏み込むという、日本の政治経済にきわめて大きな影響を与える案件にかかりきりになっていた。その意味では信綱が忙しいのはまぎれもない事実だったのであるが、それは忠秋も同じであり、狂言の用意ができないのは信綱の言い訳にしか聞こえなかった。

 そうして音合わせや舞いの稽古に必要な日々は無為に過ぎていき、あろうことか信綱が何の手も打たないまま、本番の前日を迎えることになってしまった。

「豊後殿、面目ない話なのだが、実は今日になっても狂言師の手配がつかないのだよ。どこかよい狂言師に心当たりはないであろうか…」

信綱はひとり忠秋の家を訪れ、途方に暮れた面持ちで忠秋に尋ねた。前日になってこんなことを言い出すのはいかにも非常識であったし、忠秋に頼める筋合いの話でないことも重々承知していた。が、家光の手前まさか多忙を理由に狂言を中止にすることもできず、藁にもすがる思いで忠秋に救いを求めたのであった。

「ないこともありません。たしか讃岐の生駒家にお抱えの狂言師がいたはずです。それを貸してもらうよう頼んでみてはいかがですか」

 忠秋は落ち着きはらって答えた。本番を明日に控えてまだ準備ができていないことなど、少しも意に介していないかのようであった。

「生駒家の壱岐殿のところか…」

 信綱は生返事をした。本当のことを言えば忠秋にすべてを任せてしまいたい信綱であったが、今さらそこまで忠秋に頼むこともできず、ひょっとして悩んだふりをしていれば忠秋が気を利かせて全部取り仕切ってくれるのではという甘い期待を抱いて、子供のようにぐずぐずとしているのであった。

 信綱が返事をためらったのには、実はもう一つ理由があった。遊び人で名の通った生駒壱岐守高俊に、信綱は以前からなじめないものを感じていた。高俊の方も信綱を堅物とみなして距離を置いていた。そんな高俊に狂言師を拝借しなければならないことは、信綱にとって気の進むことではなかったのである。

 とはいえ、忠秋は一向に動いてくれそうに見えず、さりとてほかに良い解決策も思い浮かばなかったので、信綱は忠秋のことを内心うらめしく思いながら、覚悟を決めて高俊に頭を下げに行った。高俊は口の端に薄ら笑いを浮かべ、何も言わずに信綱の求めに応じた。

 狂言師は何とか用意できたものの、それですべてが解決したことにはならなかった。信綱はこれで準備が済んだものと早合点し、そこから先のことを考えるのをやめてしまっていたが、実は信綱の想像以上に事前の音合わせというものが大事なのであった。狂言に限らず、芸事は他人との間合いを取ることが一番難しい。気心の知れた者同士であっても、音合わせには一苦労するものである。いかにすぐれた狂言師でも、にわかづくりの組み合わせですぐに呼吸を合わせられるようなものではないのであった。

 案の定、その日の晩は大もめにもめる展開となった。はじめて顔を合わせた狂言師たちはあいさつもそこそこに音合わせに取りかかったものの、いつまでたっても演奏が噛み合わず、そのうち我慢しきれなくなって互いの技量を批判しはじめた。大体において大名お抱えの狂言師などというのは態度が尊大で、相手が自分に合わせるのが当然くらいに構えていた。音合わせの場はやがてなじり合いの場に変わり、収拾がつかないうちに時間切れとなってしまった。

 翌日、そんなことを知る由もない信綱は、本番開始早々自らの準備不足を思い知らされることになった。狂言師たちが演奏をはじめるや、それが聴くに耐えない代物であることをすぐさま露呈してしまったからである。音合わせがまるでなっていないことは明らかであった。そして狂言師たちが必死になればなるほど、焦りと緊張のため調子は狂っていく一方なのであった。信綱の背中は冷や汗でびっしょりになった。

 その混乱に拍車をかけるように、狂言師の演奏に合わせて稚児たちが舞いを踊りはじめた。信綱と忠秋の家中の子弟から選ばれたこの稚児たちは、多少の練習を積んだとはいえずぶの素人であった。その稚児たちがすました顔をして、調子はずれの鼓の音をさらにはずして、じたばたと飛んだり跳ねたりしだしたのである。信綱は目の前が真っ暗になった。

 信綱は忠秋に何度も目で合図を送り、直ちに演奏を中止すべきではないかと促した。が、隣に正座している忠秋は涼しい顔をして稚児たちの舞いを眺めていた。信綱は今度は家光の方を盗み見た。その顔色に生気はなく、怒りをこらえているようにすら見えた。信綱はますます肩をすぼめて小さくなった。

 狂言は何事もないように続けられ、とうとう予定されていた五番まで演じきってしまった。信綱がほっとする間もなく、信綱は忠秋とともに家光に呼びつけられた。忠秋は平気な顔をして家光の前に正座したが、信綱は家光にひどく叱られるものと思い、忠秋の陰に隠れるように座った。

「どうもお見苦しいものをお目にかけまして…」

 信綱は先回りをしたつもりで家光に深々と頭を下げた。家光は意外なほどさばさばとしていた。逆に信綱の言葉を聞いて、不思議そうな顔で尋ねた。

「何を言っておるのだ。お前にはわからなかったのか?正調を絶妙にくずした、すばらしい間合いの狂言だったぞ。稚児たちの生き生きとした眼差しもまたよいものであった。格式張った熟練者の舞いより、稚児たちの舞いの方がはつらつとしておもしろいものだ。

 久しぶりに狂言を堪能させてもらった。もう一番続けて見たいと思う。狂言師にそう伝えよ」

「はぁ」

 予想もしていなかった家光の答えに一瞬気抜けした信綱であったが、家光の仰せに即座に対応すべく狂言師たちのところへ飛んでいった。逃げるように帰り支度をはじめていた狂言師たちは、信綱の指示に大慌てでまた演奏の準備をはじめた。

 相変わらず鼓の音は噛み合わなかったが、家光はたしかに満足しているように見えた。それが見かけだけでない証拠に、家光はさらにもう一番狂言を申し付け、演奏が終わった後には改めて信綱と忠秋を呼んで褒美の盃まで授けたのであった。

 結局何がよかったのか、信綱は最後までさっぱりわからないまま、家光からうやうやしく盃を受け取った。

 

 もちろん、この狂言がきっかけで回復するような家光の病ではなかった。それどころか、この時期の家光は急激に病状を悪化させていた。それは身体的なものではなく、当時で言うところの「乱心」、つまり重度の神経症であった。もともと両親に疎まれ精神的に不安定であった家光は神経症に陥る素地が十分にあった。その不安を払い除けようと独裁政治に没頭してきた家光であったが、結局は自らその緊張感に耐え切れなくなってしまったのである。

 はじめのうちはちょっとした物音に怯えたり、突然さめざめと泣き崩れたりして周りから違和感を持たれていた家光は、やがてほんのささいなことですぐに癇癪を起こす本格的な病へと発展していった。家光は他人のやることなすこと気に入らなくなった。お灸が効かないといっては医師たちを叱り、仕置が手ぬるいといっては老中たちを罵倒した。城内は抑制のきかない猛獣を放し飼いにしているような重苦しい雰囲気に包まれ、老中たちは病に障ることのないよう必要なことでも固く口を閉ざすようになった。当然の結果として、政務の停滞は目を覆わんばかりとなった。

 そんな中、老中たち自身もまたおかしくなっていった。六月下旬、利勝が下屋敷に引きこもり、必要な時以外は登城しなくなってしまった。秀忠政権で第一人者の地位を誇っていた利勝も、最近では家光付きの家臣であった忠勝に後れをとることが多くなっていた。もともと調整型の利勝と論理型の家光とでは肌合いが違いすぎた。利勝は同じ調整型の秀忠のもとではじめてその才能を発揮することができたのであり、何でも理詰めで押し通そうとする家光の下ではほとんど出る幕がなくなっていた。反対に論理型の忠勝は同じ型の家光とはうまが合い、何かにつけ家光の相談を受けるようになっていた。利勝にとってそのことも面白かろうはずがなく、利勝は忠勝との仲まで悪くなり、お互いに顔を見るのも嫌になってしまったのである。

 江戸幕府はじまって以来最大の危機であった。病がつのる家光は、大名の拝謁さえ受けられる状態になかった。家光と老中の間、さらには老中同士の間にも深い溝ができ、求心力を失った幕府は少しのことで分解してしまいかねない不安定な状況に置かれていた。家光自身そのことを十分自覚しており、自分はもうだめなのではないかとしきりに嘆くありさまであった。

 城内の誰もが身の毛のよだつ悪い予感を感じていた折、九州で一揆が勃発したという知らせが飛び込んできた。

 

 一〇月二五日に肥前島原の領民が蜂起したという第一報は、当地の領主松倉家から豊後目付に伝えられた。時を隔てずして、島原に隣接する熊本の細川家からも豊後目付に一揆の情報がもたらされた。このところ急速に宗門への立ち帰りを見せていた切支丹たちが松倉家の代官を殺害し、その余勢を駆って神社仏閣を破壊し城下に火を放ち、五〇〇〇人規模に勢力を拡大させて島原城に接近しているとのことであった。

 豊後目付とは九州全域を監視する幕府の出先機関のことである。九州の諸大名は有事の際に豊後目付と連絡を取り合いながら、その指示に従うよう申し付けられていた。細川家からの報告も、豊後目付に島原への援軍の出動を願い出るためになされたものであった。

 とはいえ、豊後目付も独自の裁量で大名に指示を出せるほどの権限が与えられていた訳ではなく、基本的な対応策については逐一幕府の命令を仰がねばならない立場にあった。そのため一揆の情報はそのまま江戸に転送され、折り返し命令が下されるまで大名への指示は留保されることになった。その間豊後目付は一揆が拡大するに任せていた。島原城が包囲されそうな勢いに恐れをなした松倉家が、細川家や佐賀の鍋島家などに救援を要請しても、「豊後目付の許可が降りるまで待機する」という答えしか返って来なかった。

 切支丹の一揆を知らせる早飛脚は、一一月九日になってようやく江戸に到着した。老中たちは動揺した。援軍を必要としているということは、一揆が一国で収まりそうにないということを意味していたし、はるか遠い九州から急報が届くこと自体、それだけ一揆が大規模であることを物語っていた。この非常事態にすぐさま寄合が招集され、老中挙げて対応策が協議された結果、とりあえず切支丹の仕業であることを伏せて家光の指示を仰ごうということになった。家光はすぐに気づくかもしれないが、知らずに済ませられればそれに越したことはないということで話がまとまった。

 一揆の報を聞いた家光は即座に切支丹の存在を見破り、烈火のごとく激怒した。徹底的な禁制によって切支丹の息の根は止まっていたはずである。いまだに切支丹の勢力が残っていること自体、家光の気に入らなかった。だが、家光にとって切支丹のこと以上に、島原に隣接する大名家の動向の方が気にかかった。強大な外様大名が切支丹鎮圧に名を借りて兵を動かし、さらに近隣の大名を糾合して反幕ののろしを挙げないとも限らなかったからである。

 九州の諸大名が今のところ平静を保っていると聞くに及び、家光はやや落ち着きを取り戻した。さらにその理由が、大名たちが武家諸法度の規定を忠実に守っているためであると知り、家光は一転して満足した表情を見せるようになった。とりあえず諸大名が幕府に反抗する姿勢さえ見せなければ、一揆自体は容易に鎮圧できるであろう、と家光は老中たちに見通しを告げた。

 家光の満ち足りた様子は、逆に信綱を暗然とさせた。たしかに武家諸法度は幕府の許可を得ない出動の禁止を規定していたし、ほかならぬ信綱たち自身がその条文を起草したのであった。が、あくまでそれは幕府の想定外の事件に対する出動に関してであり、切支丹一揆の鎮圧のように幕府の方針と明らかに合致するものまで禁止したものではなかった。出動を許可すべきか否かは豊後目付にも容易に判断がつくはずであったし、またそうすべきであった。一刻の猶予もない状況にありながら手をこまねいている豊後目付の対応は、信綱からすれば無責任のそしりを免れ得なかった。

 ところが家光は豊後目付を非難するどころか、豊後目付が決定を留保しているのを肯定するような態度すら見せていた。信綱にとってそのような振る舞いはうかつなことに思われたし、そもそも信綱がかつて切支丹の反乱を予想していたにもかかわらず家光が切支丹を挑発し続けたことについてもいきどおりを感じていた。ともすれば頭を持ち上げてくる家光への不信感を、信綱は打ち消す気力すら失いがちであった。

 とにかく今は起こってしまった事態を全力で鎮静化するしかない。こうしている間にも一揆は勢いを増し、多くの血が流れているはずである。一刻も早く対応策を打ち出さなければならない。信綱ははやる気持ちを抑えながら考えた。

 そんな信綱の思惑とはまったく別の次元で、家光は対応策に思いを巡らせていた。一揆を殲滅するという方針に異論のあるはずはなかった。隣国の大名にも、もちろん援軍を出動させるつもりでいた。ただその方法だけが家光にとって問題といえた。表面上は武家諸法度に従っている外様大名だが、幕府の出方次第ではいつ何時態度を豹変させるかわからない。甘いところを見せるのは禁物である。出動の許可にしても、一定限度にとどめておくに越したことはないと、家光は考えていた。そのためには豊後目付にすべての判断を委ねるのではなく、将軍の意を体した上使を派遣することが重要である、と家光は思い至ったのであった。

 「上使を島原に派遣する」といううわさはすぐに城内に知れ渡り、人々は色めきたった。戦国の時代はとうに過ぎ去り、幕府の中にも戦の未経験者が多くなっていた。武将としての実力を天下に知らしめるおそらくこれは最後の機会であり、当然家光の信任の度合いを測る尺度としても上使の人選は皆から注目されることになった。

 もっとも、中には大久保彦左衛門のように放言をまき散らす者もいた。

「上使には、ばばあか坊主のどちらかを選ぶべきであろう。普段から城内で一番偉そうにしているのだから」

 「ばばあ」とは春日局のことであり、「坊主」とは天海のことである。城内で実質的な影響力を持つこの二人に、彦左衛門は痛烈な皮肉を見舞ったのであった。

 ただ常識的に見れば、上使としてふさわしいのは全軍を指揮できるだけの実力を備えた者であり、それには将軍に準じる格式の御三家から選ぶのが順当といえた。だが、将軍への発言力を増すことにつながる上使の役を、疑り深い家光が御三家に任せることなどあり得なかった。となると、ほかに候補として挙げられるのは老中くらいしかいなかった。それも年齢や体調、資質等を考慮すれば、必然的に信綱か忠秋のどちらかに絞られるはずであった。実際、家光の考えもそこにたどり着いていた。

 そしてこの二人を比べた場合、家光の頭の中には信綱の方がはっきりと上位にあった。駿府城における騎馬の演習のことを、家光は鮮明に覚えていたからである。戦の指揮は信綱に任せておけば安心であると、家光はその時以来密かに考えていたのであった。

 だが、今回に限り家光は信綱を起用することにためらいを感じていた。切支丹の禁制に対し信綱が以前噛みついてきたことを、家光は忘れていなかったのである。信綱を上使にした場合、切支丹に手心を加えるのではないかと家光は疑っていたのであった。とはいえ、信綱の当て馬のように忠秋を起用することはさすがの家光にもはばかれた。家光の悩みはまさにそこにあった。そして、最終的に家光はどちらも上使に選ばない決断をした。

「上使として、板倉内膳正重昌を派遣する」

 家光の口から飛び出した名前は、周囲の者を驚かせるのに十分であった。信綱や忠秋を予想していなかった者にとっても、この人選は意外に感じられた。一万五〇〇〇石の重昌は、将軍の上使としていかにも貧弱に見えたからである。城内で重昌より適任と思われる者は、ほかに五、六人はいた。重昌が上使に選ばれる理由はないに等しかった。重昌自身は喜んで出陣の準備に取りかかっていたが、それ以外の者にとっては一様に首をかしげる決定となった。忠勝からこのことを聞かされた家臣は、納得がいかず忠勝に問いただした。

「幕府の上使として、内膳正様はいかにも小身であるように見受けられます。しかも内膳正様はずっと前から腫れ物をわずらっていると聞いております。おそらく今回の出陣にすら耐えられないのではないでしょうか」

 忠勝はいつもよりさらに苦々しい顔をして答えた。

「そんなことはわかっておる。だが、今さら病気を理由に上使の任を解かれでもしたら、内膳殿は自滅してしまうに決まっている。だからたとえそうだとしてもそのまま行かせてしまう方がよいのだ。途中で死んでしまったならば、それなりのことだ」

「今回の決定によって諸大名の士気が落ち、その結果一揆が勢いづき、ますます一揆に加担する者が増えることも予想されますが」

家臣がさらに食い下がると、忠勝は投げやりな態度で答えた。

「それならばむしろ好都合だ。この際切支丹をひとまとめに潰してしまうまでのことだ」

 誰もが家光の決定を不審に思いながら、家光に異を唱えられないでいた。信綱も今までのいきさつから切支丹に関して意見を述べにくい立場にあった。ただ一人、家光の剣道指南役の柳生但馬守だけは家光に直言をした。上使が決定されたとき城内にいなかった但馬守は、少したってから重昌が選ばれたことを知り、家光に目通りを願い出て捨て身の諫言をしたのであった。

「上様、幕府の上使たる者、上様の使いというだけの存在ではありませんぞ。ひとたび現地に参じれば、諸大名を束ねる総大将とならねばならぬ大役です。内膳殿はとても総大将の器とは申せません。

 片や敵は百姓ばかりではあっても、宗門の一揆というのは命がけでかかってくるものです。侮ってかかるとひどい目に遭います。今からでも遅くありません。御三家または老中のうち、しかるべき方に上使を代えるべきです」

 もちろん、但馬守の話を素直に聞くような家光ではなかった。逆に額に青筋を立てて但馬守を一喝した。

「黙れ、但馬守。お前ごときに説教される私ではない」

 

 九州からの戦況報告は、その日以来時々刻々と江戸に入って来るようになった。そのどれもが芳しい内容ではなかった。島原の一揆勢は周辺の村々に加勢を呼びかけ、それに呼応した村の勢力とともに島原城を取り囲み、城門をはさんで松倉家の兵士たちと激しい攻防を繰り広げているとのことであった。一揆勢は角材で城門を打ち破ろうとし、城門を守る兵士たちは破れた門のすきまからひたすら鑓を突いて応戦した。傷つき倒れる者は後を絶たなかったが、一揆勢はそれにひるむことなく雪崩をうって城門へ攻め寄せた。

 家光は重昌の上使派遣とともに、江戸に参勤していた松倉家の当主勝家に帰国を許し、肥前佐賀の鍋島家や唐津の寺沢家にも援軍を出すよう命じた。それでも収拾がつかない場合にのみ、上使の命令次第で熊本の細川家などにも加勢させることを認めた。外様大名を一度に出動させる危険性を回避するためにとった措置であったが、兵力の逐次投入が裏目に出る可能性を多分にはらんだ用兵術であった。

 さらに一一月一二日になって、今度は海を隔てた天草でも切支丹が蜂起したという情報が入ってきた。島原の蜂起からわずか二日後の出来事であった。唐津の寺沢家の飛地である天草は富岡城代の三宅藤兵衛によって統治されていたが、押し寄せる一揆の波にやはり苦戦が報じられた。

 家光は内心穏やかではいられなかった。九州の情勢は家光の予想をはるかに超えて悪化していた。とりあえず唐津の寺沢堅高など数名の当主に帰国を命じ、熊本の細川家、佐賀の鍋島家、福岡の黒田家、柳川の立花家など周辺の諸大名にもその子弟に限り帰国を許すことにしたが、もはや一揆が重昌の手に負える規模でないことは明らかであった。家光の中で、但馬守の諫言は日に日に大きさを増していった。それは信綱を選ばなかったことへの後悔の念と重なって、家光に重くのしかかっていた。かといって、今さら上使を交代させることもできず、家光にとって居心地の悪い日々が続いた。

 そして一一月二七日、ついに最悪の知らせが江戸にもたらされた。一四日に三宅藤兵衛が戦死したことが伝えられたのである。島原城の占拠を断念した島原の一揆勢が天草の勢力と合流し、一万人を超える大群となって藤兵衛の軍勢に襲いかかった結果であった。唐津からの援軍もむなしく後退した藤兵衛方は、頼りの地元百姓にも寝返られ、総崩れとなって惨敗した挙句に藤兵衛本人まで討ち取られてしまったのであった。一揆勢はそのまま西に向かい、まっすぐに富岡城を目指しているとのことであった。

 知らせを受けた家光は不安にわしづかみにされた。切支丹に対し手のひらを返したように臆病になった。もう自分の下した決定にこだわっている余裕などなかった。小心者であればあるほど、なりふり構わず安全な方へ逃げ込もうとするものである。この時の家光がまさにそれであった。ましてや家光は病の真っ只中にあった。一揆の行方がどうなるかわからず、重昌がまだ現地に到着すらしていないというのに、家光は信綱を上使として送り込むことを決意した。

 もっとも、信綱を上使にするにはそれなりの理由が必要なことは家光にもわかっていた。家光は急遽利勝と忠勝を呼び、相談する風を装って二人に話しかけた。

「遅かれ早かれ一揆は撲滅する。内膳正はよくやってくれるであろう。私の関心事は、はじめから一揆終結後の九州における新体制の構築にある。

 とはいえ、天草にまで一揆が飛び火したとなると、さしもの内膳正も荷が重かろう。もともと内膳正には戦後処理の方を期待していただけに、なおさらだ。

 そこで、逆徒の征討を主目的とした第二次上使を天草に送り込みたいと思う。私は伊豆守か豊後守のどちらかがよいと考えている。片や知略に富み、片や肝の据わった良い武将だ。人選はお前たちに任せよう。最適と思われる方を推薦してもらいたい」

 利勝と忠勝はひれ伏したまま互いに目を合わせた。口では何と言おうと、重昌に代えて信綱を派遣したい家光の本心は丸見えであった。わずかな沈黙に続き、利勝が注意深く口を開いた。

「伊豆守と豊後守、二人とも甲乙つけがたい器量の持ち主と存じます。どちらを派遣しても上様の名に恥じない戦果をあげられるでしょう。あえて申し上げれば、智恵伊豆とあだ名される伊豆守の方が、時間をかけても味方の損害を最小限に抑えて勝利に導くことができるように思われます。すなわち、長期戦を覚悟するなら伊豆守、短期戦であれば豊後守ということになりましょう」

 このような選択肢を前に、「味方の損害は問わない」とは言わないものである。家光は利勝の説明に満足し、この瞬間第二次上使として信綱の派遣が決まった。

 信綱の上使就任はたちどころに城内全員の知るところとなった。重昌との連携に疑問を投げかける向きもあったが、今回はそれなりに納得できる人選であったため、多くの者はこの決定を肯定的に受けとめた。ただ彦左衛門だけは相変わらず毒舌を吐いていた。

「内膳正の次は伊豆守か。幕府の上使たる者、戦功を基準に選ばれるものと思っていたが、世も末になったものだ。若輩者が総大将の何のといっても、どれほどの手柄をたてることができるものか」

そう言って高笑いをした。かたわらでそれを聞いていた酒井忠朝が、さすがにとがめだてをした。

「あなたは言いたい放題のことを言う人だ。若い者には戦功などたてられないと言うが、あなたが一六歳の初陣で一番乗りの手柄をたてた自慢話はたびたび聞かされるところだ。それとこれとは話が別ということか」

 忠勝の長男である忠朝は、父親譲りの一徹さで彦左衛門に詰め寄った。この反撃にさしもの彦左衛門も首をすくめ、おとなしく引き下がった。

 一方、当の信綱本人はひどく憂鬱であった。自分の考えと正反対のことを、自らの手で実行しなければならなくなったからである。第二次上使の派遣など、信綱からすればもってのほかのことであった。矢継ぎ早に上使を送り込むということは、幕府が自らの決定に自信がないことをさらけ出すようなものであったし、重昌からすればはしごを外されたようなものだからである。

 この決定に、重昌をはじめ参戦する大名たちは浮き足立ち、前線は深刻な影響を受けるであろう。上使に選ばれたにもかかわらず、信綱は気持ちがどんどん沈んでいった。一歩間違えれば、信綱自身も三宅藤兵衛の二の舞いになりかねない。信綱は最悪の事態を覚悟した。九州への支度を整えるため自宅に帰った信綱は、血の気の失せた顔で息子の輝綱に語りかけた。

「輝綱よ、おそらく天草は私の死に場所となるであろう。お前は私の供をせよ。そして最期まで私のそばにいて、私の死にざまを見届けるのだ」

 信綱の決死の形相を前に、輝綱は声もなくごくりとつばを飲み込んだ。

 

 一二月二日、信綱は暇乞いのため家光のもとへ出向いた。どちらの顔にも笑顔はなかった。家光はうわずった声で信綱に告げた。

「伊豆守よ、相手が切支丹だからといって、遠慮することはないぞ」

言わずもがなの家光の言葉に、信綱は努めて冷静に応じた。

「はい、承知しております。公儀に対して弓を引く者は、誰であろうと公儀の敵です。完膚なきまでに成敗してまいります」

 家光は小さくうなずいて立ち上がった。そして自分の着ている羽織を脱ぎ、ぎこちなく信綱の肩にかけた。

「お前は上使として全軍の指揮をとれ。内膳正のことは気にかけずともよい。お前自身が私の代わりとなるのだ。私の愛馬も授けよう。当地で人馬を徴発しやすいように、白紙の朱印状も用意した。私の代わりに、天草で存分に戦ってこい」

 「私の代わり」というところに力を込め、押しつけがましいはなむけの言葉を家光は信綱に贈った。

「はっ」

 情けない気持ちを抑えつつ、信綱は家光の前を退いた。

 翌日、領国忍の士卒一五〇〇人余りを率いた信綱が江戸を出発した。そこには幕府の勘定組頭である能勢四郎右衛門頼安も加わっていた。扶持米の手配や人馬の徴発のためというのが表向きの理由であったが、実のところ頼安は家光から信綱の目付役としての内命を受けていたのである。そのことを裏付けるように、白紙朱印状は頼安が持参した。家光が信綱のことを完全には信用していないことの表れであった。

 信綱はそれには気づかないふりをして行軍を急がせた。九州にはどんなに急いでも一〇日はかかる。ましてや武器を携えた行軍であれば、優に一月くらいはかかるものである。既に一揆の発生から一月半近くが経過しており、信綱が到着する頃にはさらに戦況が悪化している恐れもある。

 重昌のことも気がかりである。参戦している諸大名が信綱の上使就任を知り、全軍の士気が低下したとしても重昌はうまく采配を振ることができるのか。重昌自身、焦りのため冷静な判断ができなくなるようなことはないのか。信綱は覚束なかった。この際急ぎ九州へ向かい、一刻も早く自分と重昌の役割の違いを明確にして前線の不安を取り除く必要があると、信綱は強く感じていた。

 そもそも信綱からして今回が初陣である。それも実戦の経験がないまま、いきなり総大将となるのである。指揮下に置かれる武将たちはいずれも九州を代表する外様大名であり、信綱の力量などたちどころに見抜いてしまうはずである。大名たちは幕府に協力はしても、総大将と共倒れになるような愚は絶対に犯さない。

 対する相手は、手の内がまったくと言っていいほど読めない切支丹である。しかも一揆そのものからして、単なる暴動なのか、計画的なものなのか、計画的であるなら首謀者は誰であり目的は何なのかといったことがいまだにわかっていないのである。不安がないという方がおかしかった。家光の本心を探る余裕は信綱にはなかった。ただ、何をきっかけに切支丹が勢力を盛り返し、一揆を起こすに至ったのかは、信綱も知りたかった。

 

 ここで一旦信綱を離れて、島原・天草の切支丹がなぜ一揆を起こしたのか、その原因を探ってみたい。

 島原、天草ともに、もとは切支丹大名が支配する全国屈指の切支丹国であった。島原は関ヶ原の合戦で功績があった有馬晴信の領地であり、天草は豊臣秀吉の近臣小西行長の領地であった。どちらの領主も時の権力者の信任を得て、領内で意のままに領民支配を行っていた。当然切支丹に対しては最大限の優遇策をとり、逆に切支丹以外の者には異教徒として厳しい迫害を加えるとともに切支丹への改宗を強いていた。そして領民の多くもそれにならった。

 それが家康の行った改易・転封により、島原は松倉家、天草は寺沢家という切支丹でない領主に取って代わられ、加えて江戸幕府による切支丹禁制の強化、それも主として家光が行った切支丹根絶政策により、切支丹の取り締まりが格段に強化されることになった。切支丹に対し比較的寛容な態度をとっていた松倉家も、家光の徹底した弾圧を目の当たりにしてからは容赦ない迫害を行うようになった。あまりの迫害の激しさに、内心の信仰を捨て切れない切支丹もそのほとんどが棄教を余儀なくされるか、あるいは殺され、一揆が勃発する前にはこの地においても切支丹がいない状態が現出していた。

 その切支丹が再び「立ち帰った」のにはいくつかの原因があった。

 まず第一に領主の苛政である。家光による外様大名の統制策は、天下普請や参勤交代という「際限のない軍役」となって外様大名の上に重くのしかかっていた。実力以上の負担をこなさねばならなくなった諸大名は、領民に過酷な年貢や夫役を課すことによってそれをまかなおうとした。松倉家や寺沢家もその例外ではなく、特に松倉家は実力をはるかに超えた軍役の負担を申し出て家光の関心を惹こうとし、それを可能にするため過大な石高を打ち出して領民から無理な年貢を取り立てていた。勢い年貢の未納には厳罰をもって当たり、見せしめのために庄屋などの指導者層を拷問にかけた。見せしめであるが故に拷問は残虐非道を極め、かつては切支丹宗門の推進者であり自らも熱心な切支丹であった庄屋たちにとって、この世の地獄が現実のものとなって我が身に襲いかかってきた。

 次に、九州を中心に発生した飢饉が立ち帰りの原因として挙げられる。一揆の二年前に襲ったまれに見る規模の台風は、九州の広い範囲で作物および家屋に壊滅的被害を与え、そこに三年来の日照りによる稲の立ち枯れが重なって大量の飢人を生じさせていた。人々は草木の根を食むような激しい飢餓に悩まされ、さらに厳しさを増した年貢の取り立てと二重に苦しめられるようになった。殊に土地の生産力が弱く、そのため飢饉も一段と厳しかった島原・天草では、領民たちが生死の瀬戸ぎわをさまよう崖っぷちの状況にまで追い込まれた。折しもこの世の終わりを告げるかのように赤く染まった太陽が、朝な夕なに現われて人々の恐怖心を煽った。

 そこに一人の少年が現れた。そしてこの少年が切支丹立ち帰りの決め手となった。

 一揆の少し前から、天草を中心に切支丹宗門のある教えが人々に思い起こされていた。

「宗門への信仰が行われなくなり、この世に終わりが近づいた時、全知全能の神が現われて切支丹を救い、異教徒を地獄に落とす」

という「最後の審判」の教えであった。この世の終末において神に救われるためには、切支丹となって神の使いの導きに従わなければならない。「神の使い」つまり救世主として天草四郎という奇跡を起こす少年の存在が人々の間に浮かびあがった時、立ち帰りのためのすべての条件が揃った。

「切支丹であることをやめたことがこの世の終末を招いた。『最後の審判』のために、神は救世主である天草四郎を派遣した」

と人々が思い至った時、自分たちが「最後の審判」を受ける恐怖とともに、棄教したことに対する猛烈な改悛の情が湧きあがったのであった。

 人々は切支丹に立ち帰り、かつてそうしていたように再び異教徒への迫害を開始した。それは一度棄教を強制された経験によりかえって強化されることになった信念に基づいていた。その狂信的ともいえる切支丹への回帰運動が、一揆を起こす原動力となったのであった。

 一揆の主役は「立ち帰り切支丹」である。そのことは、この一揆が苛政に反対する農民一揆ではなく、切支丹への立ち帰りを目指す「切支丹一揆」であることを意味していた。それは同時に、一揆の最大の原因が家光の打ち出した諸政策にあることをはっきりと物語っていた。切支丹の禁制も、軍役の強化も、家光の時代になってけた違いにその厳しさを増した政策であった。加えて妥協を許さない家光の性格が、外様大名を追い詰めてもいた。松倉家の苛政は、強力な家光の政策に対し力のない小領主が生き残りをかけてやむを得ずとった行動という意味合いが強い。家光そのものが一揆を産み出した真の主役と言っても過言ではなかった。

 

 再び目を天草に転じ、信綱が上使となる直前の一揆の動向を追うことにする。

 富岡城代三宅藤兵衛を敗死させた一揆勢は、島原・天草の勢力に近隣の村の加勢を交え、二万人にも及ぶ群集となって富岡城を目指していた。対する城側は藤兵衛に代わって唐津の大将原田伊予が指揮に当たった。

 伊予は自らが直面している情勢を冷静に分析し、味方に一〇倍する敵の勢力に対抗すべく城兵たちに決死の覚悟を固めさせた。すなわち後背の港に係留されている船という船を残らず撤収させ、兵士たちの退路を絶った。さらに戦闘に備えて城下に火を放ち、城の守りを入念に固めさせた。文字どおり背水の陣を敷いたのである。

 一一月一九日未明、一揆勢は富岡城を取り巻き、正面から大挙して攻め寄せた。待ち構えていた城兵たちは一揆勢を十分に引き付けてから、一斉に鉄砲を発射した。ひるんだ一揆勢に追い討ちをかけるように、兵士たちは城門を開いて突撃した。一揆勢が反撃に及ぶや兵士たちは城内に後戻りし、再び城から砲火を浴びせかけた。

 一揆方の攻撃はその日一日中続いたが、城側はねばり強くこれに対抗し、数の上では圧倒的に勝る一揆の第一波を退けた。

 二二日、一揆勢は再び富岡城を攻撃した。鉄砲を防御するため竹束で武装をし、必勝を期して臨んだ攻撃であった。城兵たちははじめのうちこそこの簡易な防備に手を焼いていたが、そのうちに火矢を放って竹束を焼き払い、再度鉄砲の集中砲火を見舞った。伊予はさらに城の二の丸に火をかけ、兵力を本丸に集中させた。城を占拠したものと勘違いした一揆勢が雪崩をうって本丸に押し寄せたところを、城兵たちはまたもや鉄砲で迎え撃ち、一揆側に徹底的な打撃を与えた。

 味方の多くを損ない、最終的には手持ちの弾薬も使い果たした一揆勢は、ほうほうの態で富岡城を後にした。城が一揆の手に落ちれば天草全体が切支丹に占領されるという危機的状況を、伊予は間一髪で切り抜けることに成功したのであった。

 対する一揆方は、二度にわたる攻城戦の失敗を受け方針の転換を迫られることになった。時あたかも松倉家の当主勝家が江戸から帰参するという情報が一揆方に流れた。松倉家の背後には九州の巨人細川家が控えており、さらには幕府の上使までもがこちらに向かっているとうわさされた。

 追う立場から追われる立場に逆転した一揆勢は、取るものもとりあえず天草を逃れた。彼らが目指した先は、松倉家によって破却されていた原城であった。

 

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